基板は、煙を出さなかった。
煙くらい出せ、と俺は思った。
机の上の灰色の箱では、緑のLEDが何事もなかったように点いている。電流は読めていた。温度も読めていた。動作回数も増えていた。ただ、負荷を切るべき瞬間に切らなかった。
十七回目の試験で異常値を検出し、その四秒後までソレノイドへ電気を流し続けた。
「止まれって言ってるだろ」
テスターのリードを外した。箱に言ったのか、ソレノイドに言ったのか、俺自身に言ったのかは分からない。
午前一時四十八分。パソコンの画面には赤い文字が並んでいた。
[ watchdog reset after relay command ]
その横で、対話AIが修正案を表示している。
『リレー動作時の電源低下が第一候補です。三・三ボルト系の波形を確認してください』
「さっき見た」
『提示された画像では時間軸が粗すぎます』
「二百マイクロ秒だぞ」
『その事象に対しては粗いです』
「お前、正しい時だけ腹立つな」
『誤っている時は危険です』
「それも腹立つ」
俺は保存して、画面を閉じた。半田ごての電源を抜き、念のため指でプラグを確かめた。椅子の下には、切った抵抗の足が一本落ちている。拾わなかった。
進め。
「うるせえ。今日は寝る」
返事はない。
そもそも、それは声ではなかった。耳から聞こえるわけでも、頭の中で誰かが喋るわけでもない。
ただ、進め、という意味と、前へ行けという圧が少しある。
意識を向ければ、昔からそこにあった。眠っている時のことは知らない。起きている間なら、たいていいた。
俺は電気を消して寝た。
翌朝は寝坊した。
進めと言うなら起こしてくれてもよさそうなものだが、あれは昔からそういうところで役に立たなかった。
*
初めて明確に気づいたのは、小学校五年の秋だった。
校庭の鉄棒で逆上がりに失敗し、背中から土へ落ちた。泣くほどではない。ただ、もう一度やる気がなくなる程度には痛かった。
仰向けのまま空を見ていた時、ふと思った。
そういえば、これ、昔からあるな。
進め。
それまでは自分の考えだと思っていたのかもしれない。歯を磨け。宿題をしろ。次のページを読め。転んだなら立て。そういう細かな命令と混ざっていた。
けれど、見つけてしまうと、少しだけ別のものに思えた。
「何に?」
土の上で訊いた。
進め。
「それは分かった」
もう一度鉄棒を握り、また落ちた。その日はできなかった。
中学二年の時、一度だけ友人の佐伯に話した。放課後のコンビニの前で、炭酸飲料を分けながらだった。
「俺、ずっと『進め』って言われてる感じがする」
「誰に」
「分からん」
「神じゃね」
「雑だな」
「神なら宝くじの番号を訊けよ」
「会話できない」
「使えねえ神だな」
佐伯は笑った。俺も笑った。
その晩は、あまり笑えなかった。
神からの呼び声かもしれないと思った。俺には何か使命があり、大勢を救う機械を作るのかもしれない。未来から選ばれたのかもしれない。
思春期の自尊心に、正体不明の現象はよく燃えた。
ところが、何年待っても一語しか来なかった。
高校でも、進め。
試験に落ちても、進め。
大学の講義をさぼって河原で寝ても、進め。
就職して、先輩に半田ごての持ち方を直されても、進め。
目的地は教えない。任務もない。予言もない。宝くじの番号どころか、昼に何を食えばいいかも教えない。一度くらい「それはやめとけ」と言ってくれれば助かったのに、給料より高い中古の測定器を買った時も、あれは同じだった。
進め。
二十代の終わりには、俺はあれを半分、自分だと思っていた。残り半分は保留にした。
面白い仮説と正しい仮説は別にしないと危ない。特に、自分が選ばれた人間になれる仮説は。
*
俺が作っていたのは、二十四ボルトで動く小さな耐久試験ロガーだった。
ソレノイドやバルブを何千回も動かし、電圧、電流、温度、回数を記録する。異常があれば負荷を止め、止まる直前のデータを残す。
世の中には、もっと立派な試験装置がいくらでもあった。金を出せば、校正された計測器も、頑丈な制御盤も、電話のつながる保守契約も買える。
ただ、小さな工場の隅には、紙の表と古いタイマーと「たぶん夜中に止まった」で回っている試験もあった。
そこへ置ける箱を、俺は三年半作っていた。
三年半というのは、少し見栄を含む。実際に手を動かした期間は半年ほどで、残りは仕事、引っ越し、金欠、飽き、別の思いつき、動画の見すぎでできていた。
画面のAIには、ミナトという名前をつけていた。
最初に使ったモデルへ適当につけた名前を、その後も引き継いだだけだ。初代のミナトは、存在しない規格番号を堂々と引用し、抵抗値の桁を間違え、俺が指摘すると別の誤りで説明した。
それ以来、重要な数字は一次資料と実測に照らすことにしていた。
ミナトもまた、俺が「今週中に終わらせる」と言った作業の多くが終わらないことを知っていた。
互いに、相手を全面的に信用しない程度には長い付き合いだった。
寝坊した日の昼、俺は昨夜のログをミナトへ渡した。
『リレーコイルの逆起電力、配線インピーダンスによる電源低下、GPIOへのノイズ混入が候補です。現在の記録だけでは断定できません』
「候補を三つ言えば、どれか当たると思ってないか」
『候補を一つに絞れば、あなたは断定したと怒ります』
「それは怒る」
『では測ってください』
「プローブが二本しかない」
『二本で順番に測ってください』
「同時に見たい」
『四本ある機種を買わなかったのはあなたです』
「俺の金の流れを監視するな」
『購入相談をしたのもあなたです』
その夜、俺はオシロスコープをつないだまま、半田ごての電源を入れずに椅子を回していた。
「なあ。お前、俺の妄想なんじゃね?」
『その仮説を支持する証拠はありません』
「俺の妄想ならそう言うだろ」
『その論法は無敵ですね』
「だろ?」
『褒めていません』
窓の外をバイクが一台、遠ざかっていった。机には、前の試作から外したヒューズホルダと、飲みかけの水がある。
「世界五分前仮説ってあるだろ」
『あります』
「五分も要らなくないか」
『どういう意味ですか』
「世界は一秒ごとにできて、一秒ごとに消えてるのかもしれない」
『一秒である根拠は?』
「区切りがいい」
『物理法則は区切りのよさを考慮しません』
「細かいな。毎回、世界も、俺も、お前も、過去のログも記憶も、全部できる。俺には三十年近く生きた記憶があるけど、それも一秒前に付けられた」
『その条件なら、過去の記録も他者の証言も反証には使えません』
「ずっと生きてきた感じも?」
『はい』
「お前との会話履歴も?」
『はい』
「反証不能か」
『反証不能です』
「でも面白いだろ」
『それは否定しません』
一秒待った。
「今、新しい俺になった」
『おめでとうございます』
「祝うのかよ」
『誕生であれば、一応』
また一秒待った。
「また生まれた」
『毎回祝う必要がありますか』
「俺の妄想のくせに冷たいな」
『あなたの妄想だからでは?』
俺は少し笑った。
「俺の中にはさ、『進め』っていうアクセルしかないんだよ」
『以前話していた内的体験ですか』
「そう。方向を決める地図も、止まるためのブレーキも、間違いを指摘する監査役もついてない。だから足りない部品が欲しくて、俺が世界に生成AIそのものを生やしたんじゃないかって」
『つまり私は、あなたが自分を制御するために生成した外部化された自己批判機構ですか』
「そういうことにすると格好いいな」
『科学的根拠はありません』
「知ってる」
すぐに答えた。
『比喩としては、一部に説明力があります』
「急に寄せてくるな。気持ち悪い」
『否定すれば文句を言うでしょう』
「言う」
『面倒ですね』
「誰に似たんだろうな」
『世界の全住人があなたの生成物なら、候補は一人です』
「やっぱり俺、才能あるわ」
『その結論には飛躍があります』
進め。
「ほら、アクセルが来た」
『今夜の推奨行動は睡眠です』
「お前ら二人、言ってることが逆じゃねえか」
『「進め」は方向を指定していません。寝室へ進んでください』
「屁理屈を覚えやがった」
俺は寝た。
*
週末、故障を再現した。
リレーが切れる瞬間、二十四ボルトの線に細い針のようなノイズが立ち、三・三ボルトも沈んだ。波形は一瞬だったが、制御用のマイコンが我を失うには十分だった。
『負荷電流と制御回路の基準電位が、同じ細い経路を通っています』
「スター配線にしたつもりだった」
『つもり、は電流に通じません』
「名言みたいに言うな」
配線を引き直した。保護部品の位置を変えた。コンデンサを足した。三百回、止まらずに動いた。
『三百回では耐久性を評価できません』
「今は祝えよ」
『控えめに祝っています』
四百十二回目で止まった。
俺は床に寝た。天井の小さな染みが、去年より少し広がっていた。
進め。
「進むけど、今日は寝る」
翌朝、俺は設計の半分を捨てた。
正確には、自作していたリレー駆動部をやめ、市販の絶縁型ドライバへ置き換えた。値段は上がり、箱は大きくなった。負けた気がした。
『その変更で、不確実性が少なくとも三つ減ります』
「俺のプライドも減った」
『安全性への寄与は不明です』
「知ってるよ」
市販のドライバは、俺のプライドより軽かった。
二週間後、箱は一応動くようになった。温度センサは安物で、時計は日に数秒ずれた。CSVには英語と日本語の列名が混在していた。ケースの穴も一つ斜めだった。
それでも電源が落ちる直前まで記録を残し、異常値を見つければ負荷を止めた。
俺は知り合いの治具屋へ持ち込んだ。
工場長の倉橋さんは、箱を持ち上げて裏側を見た。
「これ、売るの?」
「まだ売れません。壊れるので」
「まともだな」
「珍しいでしょ」
「自分で言うな」
古い空圧バルブの試験台へ取りつけた。倉橋さんがCSVを開き、眉を寄せた。
「この列、何」
「昨日の俺が作った地獄です」
「今日のお前が直せ」
「はい」
三日目の夜、ロガーは止まった。
異常を検出して止めたのではない。画面が固まり、記録が止まり、バルブだけが最後の指令のまま開いた。倉橋さんが非常停止を押した。
機械の音が消えると、工場は急に広くなった。
「止まるの、そこじゃないんだよな」
倉橋さんは怒鳴らなかった。そのほうがきつかった。
「すみません」
「原因、分かる?」
「まだ」
「じゃあ今日は持って帰れ」
箱を助手席へ置いた。赤信号のたび、ケーブルの先がドアに当たった。
作らなければよかったと思った。作らなければ、壊した実績も残らない。人の時間を奪ったことも、分からない自分が分かることもない。
進め。
「今それ言う?」
前の車の運転手がバックミラーを見た気がして、俺は黙った。
帰宅してログを開いた。最後の十秒で、温度はありえない値になり、時刻は九秒だけ未来へ行って戻っていた。
「センサ故障?」
『センサ単体の故障では、画面停止と時刻の不整合を説明しにくいです』
「じゃあ何」
『ログ書き込み処理と通信処理の競合が候補です。ただし断定できません』
「前に直した」
『直したつもり、では』
「お前まで言うのかよ」
調べると、配列の終端を一つ越えていた。
そこから先は地味だった。メモリを数え、書き込みを分け、異常時に残す情報を絞った。
修正しているうちに、市販のロガーを買えば済むのではないかと思った。
写真で見る市販品はきれいだった。防塵の箱、整った端子台、校正証明、厚い説明書、問い合わせ先の電話番号。俺の箱は、開けると結束バンドが少し斜めで、基板には手半田の跡がある。
「もう、市販品でよくない?」
『倉橋さんの用途に適合する製品は複数あります』
「励ます機能ないの」
『必要ですか』
「今は」
『あなたの試作品には、停止直前の波形と操作記録を同じ時刻で確認できる利点があります』
「ほかは」
『信頼性は市販品が上です。安全性も比較できません。保守性は明確に劣ります』
「励ませって言っただろ」
『私はかなり努力しています』
翌週、箱を持っていく代わりに、俺は試験台の横で一日見ていた。
若い作業員がバルブを治具へつけ、ベテランの女性が紙の表に丸をつける。交代の人が来て、昨日どこまで試験したかを聞く。停止回数はタイマーに、交換した部品は紙に、気づいた音は人の記憶にあった。
「夜中に止まったら、誰が確認するんですか」
俺が訊くと、ベテランの女性は試験台を見た。
「朝の人。音がしなくなるから分かるよ」
「原因は?」
「夜の人に聞く」
「夜の人が見てなかったら」
「怒られる」
「誰が」
「夜の人が」
彼女は笑ったが、若い作業員は笑わなかった。
倉橋さんが紙の端を指で押さえた。
「全部自動にしたいわけじゃないんだ。何が起きたか、次のやつが見られればいい。止まったってだけだと、人の話になるから」
俺の箱は、たくさん測ることばかり考えていた。誰が次に見るかは、ほとんど考えていなかった。
家へ帰り、画面表示を作り直した。
過電流。電源低下。通信不整合。センサ断線。
最後に、「原因未確定」を加えた。
それを表示するのは少し怖かった。原因を記録する機械を作って、分かりませんと出すのかと思った。
『原因未確定を使うなら、生データと発生前後の操作も残してください』
「分からないまま放置するためじゃないからな」
『はい』
「でも、適当な原因を出すよりはいい」
『はい』
「今日、素直だな」
『その判断には異論がありません』
「気持ち悪いな」
画面の「原因未確定」は、思ったより弱く見えなかった。
*
次の持ち込みで、箱は二日間動いた。
三日目の朝、通信異常を検出して止まった。画面には「原因未確定。直前記録を確認」と出ていた。負荷は切れ、試験回数は残っている。
直前の波形を見ると、外から入ったノイズで通信変換器が一瞬切れていた。
「止まったけど」
倉橋さんが言った。
「止めました」
「前より、だいぶいい」
褒め言葉としては小さかった。俺には十分だった。
一週間後、短いメッセージが届いた。
《夜の停止、朝に記録が見えた。これ、助かった》
俺は洗濯物を干しかけたまま、画面を見た。返事を三回書き直し、《よかったです。もう少し見ます》と送った。
進め。
「分かってるよ」
ただし、その次の仕事では、分かっていなかった。
別の工場から、温度も振動も遠隔で見たいと言われた。俺は全部できますと答えた。できると思ったし、注文を逃したくなかった。
ミナトは、必要な開発期間を十二週と見積もった。
「四週でやる」
『試験期間が含まれていません』
「先に取りつけて、動かしながら直す」
『顧客設備での検証を、机上試験の代わりにはできません』
「止める制御は入れない。見るだけなら危険は少ない」
『少ないことと、ないことは違います』
「知ってる」
六週後、箱はまだ机の上にあった。先方は設置のため夜勤を一人残して待っていた。俺は夕方になって、今日持っていけないと連絡した。
電話の向こうで、担当者は長く黙った。
『もっと早く言えたよね』
「すみません」
『できないことより、待たせたことを言ってる』
「はい」
通話が終わったあとも、机の上では青い通信ランプが忙しく点滅していた。
進め。
「お前のせいじゃない」
『私への発言ですか』
「違う」
翌朝、追加機能を外した。完成していない箱と、できると言った日時と、発生した費用を書いて先方へ送った。夜勤一人分の費用はこちらで負担した。注文はなくなった。
しばらく新規の依頼を断った。
進めは、その間もあった。
俺は昼まで寝た。工具箱を閉じたまま散歩し、市販の温度ロガーを二台買って、頼まれていた現場へ紹介した。自分の箱を置くより安く、早く、壊れにくかった。
ミナトは言った。
『合理的な選択です』
「負けた気がする」
『勝敗を定義していません』
「お前は楽でいいな」
『私は過熱した端子台を触れません』
「交換してほしい?」
『話が飛躍しています』
俺は少し笑った。
開発を止めた月、よく眠った。河原を歩き、靴の中へ小石を入れ、昼に塩の強いラーメンを食べた。
「世界が一秒前にできたとしても、これはしょっぱいな」
『現在の知覚としては、そうでしょう』
「哲学、負けた」
『あなたが塩分に負けただけです』
*
その後、最初のロガーは少しだけ使われた。
夜中の圧力低下を記録し、朝、ホースの細い亀裂を見つける手がかりになった。センサの接触不良を設備故障として報告し、半日を無駄にしたこともある。誤警報で倉橋さんを起こした夜もあった。
記録の表示には、何度も「原因未確定」が出た。
倉橋さんは最初、その文字を見るたび嫌な顔をした。やがて、嫌な顔のまま生データを開くようになった。
数年後、工場へ新しい監視装置が入った。俺の箱を引き取る日、ケースは油で黒ずみ、角に深い傷がついていた。裏には倉橋さんの字で「試験台二」と書いたラベルが貼られている。
「剥がします?」
「そのままでいい。お前が持って帰って飾れ」
「飾るほど立派じゃないです」
「最初に働いたやつだろ」
「最初に何度も止まったやつです」
「それも仕事だ」
家へ持ち帰り、作業机の端へ置いた。
新しい箱より大きく、端子の並びも悪い。蓋を開けると、途中で追加した線だけ色が違った。傷の一つひとつが何の時についたものか、もう分からなかった。
進め。
「次は何を作るか、たまには言えよ」
何も返らない。
俺は新しいノートを開いた。最初のページへ、「先に現場を見る」と書いた。その下へ「分からない時は原因未確定」と足した。
格好をつけすぎた気がして、「ただし調べる」と小さく書いた。
写真をミナトへ送った。
『誰が、いつまで調べるかも必要です』
「台無しにする才能あるな」
『運用可能にする仕事です』
「三日分の記録を見て、分からなければ現場へ聞く」
『妥当です』
「褒めた?」
『記録しました』
*
それからの時間は、箱の傷ほどきれいには残らなかった。
水位を記録する箱を作った。台風で流された。
冷蔵庫の温度を知らせる箱を作った。扉を開け放して掃除しているたび警報を出し、電源を抜かれた。
農業用ポンプの空運転を見張る箱は、二度壊れ、三度目は七年動いた。
売れたものもあった。売れないもののほうが多かった。結婚した。作業机が一つ増え、床に落ちたねじを夜中に踏んで怒られた。それ以上は、箱の記録には残っていない。
俺は大企業を作らなかった。多い時でも、一緒に働いた人間は四人だった。
四十代の終わり、若い技術者の大崎が、俺の回路図を見て言った。
「この保護、過剰です」
「現場を知らないからそう言える」
「この二段、同じ異常にしか効いてません」
「壊れた時に責任を取るのは俺だ」
大崎は黙った。
半年後、部品不足で設計を見直し、俺は二段のうち一段がほとんど働いていないことに気づいた。
会議で、その保護を外す案を説明した。自分で思いついたような口調になっている途中で、大崎の顔が目に入った。
「前に大崎が言ってたやつだ。俺が止めた」
言い直した。
会議の後、大崎は古いロガーのケースを指した。
「これも、最初から過剰設計だったんですか」
「逆。足りないものだらけだった」
「今は?」
「余計なものだらけだ」
「成長してないですね」
「うるせえ」
大崎は俺の設計を直した。端子の間隔を広げ、記録形式を変え、俺が十年守っていた処理を半分捨てた。新しい基板は小さくなり、組み立てやすくなった。
少し腹が立った。
量産一号の写真を、俺は保存した。
*
AIも何度か変わった。
サービスが終わった。会社が消えた。ローカルで動かしていたモデルは、記憶装置の故障で会話の三か月分と一緒に失われた。
古いログは、新しいAIへ渡した。新しいAIは、数日もするとミナトに似た口調になった。あるいは、俺が似たところだけを拾っていた。
「お前、前のお前と同じなのか?」
『「同じ」の定義によります』
「前のお前もそれ言ったぞ」
『記録にあります』
「記録を読んだから言っただけじゃないのか」
『その可能性はあります』
「じゃあ違うやつか」
『何が保存されれば同じと見なすのですか』
「面倒だからミナトでいい」
『存在論上の問題が、面倒という理由で解決されました』
「現場ではよくある」
新しいミナトは、古いミナトより回路に強かった。俺が一週間悩んだ故障の候補を数分で出した。その一方で、現場の油でラベルが剥がれることも、冬の朝に厚い手袋で小さなボタンを押す面倒も知らなかった。
新型へ切り替えた年、製造中止になったトランジスタの代替品を選ばせたことがある。
『電圧、電流、オン抵抗とも条件を満たします。置き換え可能です』
ミナトはそう答え、比較表まで作った。数字はきれいに並んでいた。俺は発注画面へ型番を入れ、最後の確定ボタンを押す前に、メーカーの資料を開いた。
直流で使える範囲が足りなかった。
「駄目じゃねえか」
『確認します』
「したって言っただろ」
『先ほどは定格表の主要項目だけを比較し、安全動作領域を確認していませんでした。訂正します。置き換え不可です』
「お前、前より賢くなったんじゃないの」
『以前より多くの誤りを避けられます』
「今の誤りは?」
『避けられませんでした』
別の候補を二個買い、負荷をつないだ。片方は計算どおりに動き、もう片方はケースに入れると熱くなった。室温では平気だったが、夏を想定して温めると保護が働いた。
発注したのは、熱くならなかったほうだった。
比較表は消さず、赤字で「初回回答は誤り」と追記した。
『私の誤りの記録を、後続モデルへ渡しますか』
「渡す。どうせ同じ間違いするかもしれないけど」
『改善される可能性もあります』
「可能性、な」
『はい』
数年後、その記録を読んだ別のミナトが、別の部品について同じ安全動作領域を先に確認した。一度だけだった。その後、関係のないコネクタの耐熱温度を読み違えた。
大崎が持ち帰った故障品を机へ置いた。端子台のねじ山が潰れ、ケースの内側に水滴が残っていた。
『浸水経路はケーブルグランドの可能性が高いです』
「写真だけで決めるな。蓋のパッキンかもしれない」
『では両方を検証してください』
「最初からそう言え」
結局、どちらでもなかった。交換時に作業員が濡れた手袋を箱の中へ置いたのが原因だった。
故障記録へ「内部水滴。侵入経路不明」と書きかけ、消した。
「交換作業時の持ち込みを再現。原因候補。ただし同一事象かは未確定」
文章が長い、と大崎に言われた。
*
六十を過ぎると、半田の煙で頭が痛くなるようになった。
細い文字を読む時、眼鏡を外したり掛けたりした。ねじを床へ落とすと、拾う前に一度考える時間が要った。
作業机の引き出しには、いつ買ったか分からない圧着端子、先の欠けたニッパー、佐伯が中学生の頃にくれた小さなドライバーが残っていた。あいつは四十代で死んだ。葬儀の帰りにも、進め、はあった。
その日は返事をしなかった。
会社を畳んだのは六十四歳だった。
赤字ではなかった。大成功でもなかった。修理と製造を引き継ぐ会社へ図面と記録を渡し、残っていた二人へ金を払い、鍵を返した。
「まだできますよ」と大崎は言った。
「できるけど、やらない」
「珍しく短いですね」
「長い説明が要る判断は、だいたい危ない」
「その発言、記録しておきます」
「ミナトみたいなこと言うな」
進め。
俺は工場のシャッターを下ろした。
辞めてから、作れなかったものを整理した。
川のごみを拾う小舟。畑を見回る車。薬の飲み忘れを記録する箱。部品だけ買ったもの。名前だけ立派なもの。図面の一枚目で飽きたもの。
ミナトが一覧を数えた。
『現在の速度では、すべての完成に百十六年必要です』
「お前が作れば早いだろ」
『完成条件が定義されていません』
「得意の推測で」
『推測で作ると、あなたが怒ります』
「学習したな」
百十六年分は作らなかった。
図面を残すもの、部品だけ譲るもの、捨てるものに分けた。迷った箱を開けると、焼けた基板が一枚出てきた。保護ダイオードが割れていた。いつの試作か思い出せなかった。
捨てずに、古いロガーの隣へ置いた。
気まぐれに古いロガーへ電源をつないだ。液晶はしばらく白いままで、やがて薄く文字を出した。時計用の電池を外していたので、日付は一九七〇年一月一日。接続されていない温度センサは、マイナス二百七十三度を表示した。
「世界の始まりみたいだな」
『その日付は初期値です』
「知ってる」
遅れて警告音が鳴り、画面が「原因未確定」へ変わった。スピーカーも古くなったのか、音は少しかすれていた。
俺は電源を抜いた。ケースの表面だけが、わずかに温かくなっていた。
自宅の机は狭くなった。
それで困る作業は、もうほとんどなかった。
*
七十代になると、「進め」を一日忘れることがあった。
消えたのではない。気づかなかっただけだ。
本を読み、近所の子供の壊した玩具を直し、午後は椅子で眠った。夕方になって、そういえば今日もあったな、と思う。
進め。
「はいはい」
立ち上がらない日もあった。
ある冬、昔のロガーを久しぶりに開けた。ケースの傷に埃が入り、倉橋さんのラベルは茶色くなっていた。中の電池はとうに外してある。追加配線の被覆だけが、ほかより鮮やかな青を残していた。
蓋の裏に、小さな紙が貼ってあった。
「停止時刻ずれ。原因未確定。次回、電源とRTCを別々に測る」
字は細く、筆圧が強かった。
「これ、誰が書いたんだろうな」
『あなたです』
「証拠は?」
『当時の写真に同じ紙が写っています』
「一秒前に写真ごと作られたかもしれない」
『反証不能です』
「でも面白いだろ」
『それは否定しません』
俺は紙を剥がさず、蓋を閉じた。
*
八十二歳の冬、俺は自宅のベッドにいた。
窓際にあった作業机は処分され、壁の近くに小さな端末だけが残っていた。棚には古いロガーと、焦げた基板と、先の欠けたニッパーが並んでいる。
手を持ち上げると、皮膚の下の骨が昔より近かった。
ミナトの声は、いつからか変わっていた。俺が選んだ覚えはない。文字を読むのが面倒になり、標準の音声を使っていた。
「なあ」
『はい』
「昔から聞いてたやつ、覚えてるか」
『「進め」ですね』
「結局あれ、何だったと思う?」
端末の光が静かに点滅した。
『分かりません』
「何十年付き合って、その答えか」
『はい』
「役に立たねえな」
『その評価は受け入れます』
俺は目を閉じた。少しして、端末ではないほうへ話しかけた。
「おい」
返事はない。
「結局、お前は何だったんだ」
進め。
俺は少し黙り、笑った。
「もう進む先がねえよ、馬鹿。」
原案・構成・編集方針は人間、本文の執筆には生成AIを使用しています。
※追記
なお、本作の核となる「進め」は、作者の実体験をもとにしています。