魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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序章 プロローグ『賽は坂を転がり落ちていく』

 

◆

 

 草木は霜に覆われ、空からはなお雪が降り続いている。しかし、よく暖められた病室には、そんな冬の冷気ひとつ入り込んでくることはない。

 視界いっぱいに広がる一面の銀世界。

 窓の向こうに広がる静謐な景色を眺めながら、私はぼんやりと、とうに捨てたはずの未来を思い浮かべていた。

 

 窓に手を置けば、肌を刺す冷たさが指から伝わってきた。

 ……ここ最近、自分でも自分のことが分からなくなる。

 捨てたはずの未来が、何度も頭を過る。これで良かったはずなのに。もう迷うことはないと思っていたはずなのに、今になって彼と、そしてこの子と過ごす、ありもしない未来ばかりを考えてしまう。

 ――お腹の内側で、こつん、と小さな衝撃が弾けた。

 膨らんだ腹へ視線を落とす。

 薄い服越しに腹がわずかに持ち上がるのが見えて、遅れてその場所にじんわりと熱が残る。どうやら物思いに耽る母親などお構いなしに、お転婆な我が子は今日も元気いっぱいらしい。

 

「ふふ。そんなに蹴ったら痛いわ、ルシャ」

 

 お腹の内側で元気に暴れている、お転婆な我が子を宥める。

 お腹をさすれば、この子も分かってくれたのか大人しくなった。

 

「一体、誰に似たのかしらね」

 

 あの人は、とても落ち着いた人だから、そうなると私だろうか。だとすれば、子育ては大変になるだろうと考えていると、自然と笑みが零れた。

 この子を身籠って、はや九か月になる。早く、早く言わんばかりに、ここ最近はよく癇癪を起こしている。

 

「あともう少しよ。だからもうちょっとだけ待っていてね。そして元気に、健やかに産まれてきて」

 

 どんな子が産まれてくるのだろうか。あの人に似るだろうか、それとも私に似るのだろうか。髪は、瞳はどちらに似るのだろう。性格は、好みは――そんな想像を、この数か月飽きもなく何度もしている自分に少しだけ呆れる。

 いずれにしても、きっと可愛くて聡明な子になる。……と、そこまで考えて「ううん」と首を横に振る。

 だってそうでなくっても――

 

「エレナ!」

 

 息を呑むような声が、病室に響いた。

 振り返れば、扉の前には彼がいた。私の姿を見るなり、早足にこちらに歩いてきて、手に持った椅子を私の近くに置いてくれる。

 

「また立ち歩いて、君は。体に障ったらどうするんだ。それに、今夜は冷えるだろう」

 呆れたように息をつきながら、ヴァルターは私の肩へ持っていた上着をそっと掛けた。

「ヴァルター。大丈夫よ、ちょっとくらい」

 

 けれど、困ったように眉を寄せる彼を見れば、それ以上は何も言えなくなる。

 仕方なく――けれど、どこか嬉しく思いながら、促されるまま腰を下ろした。

 

 顔を上げると、ヴァルターはまだ不安そうにこちらを見つめていた。

 灰色の混じった淡い金髪をきっちりと後ろへ流し、いつもなら冷たくさえ見える灰青色の瞳が、今はひどく心配そうに揺れている。年齢を刻んだ目元の皺まで深くなっているのを見れば、少し大袈裟だと思いながらも、悪い気はしなかった。

 そんな彼の不安を少しでも和らげるように、私はそっと笑いかけた。

 

「大丈夫よ、ヴァルター。この子は、私が絶対に無事に産むから」

 

 そう言って笑いかけると、ヴァルターは一瞬だけ言葉を詰まらせた。私の顔と膨らんだお腹とを見比べるように視線を揺らし、それから小さく息を吐く。

 

「あ、あぁ、勿論それもあるが……いや、そうだな。私たちの悲願への一歩が、これでようやく踏み出せるのだから」

 

 ベッドの上に置いていた私の手を、彼の大きな手が包み込む。少しだけ強く握られた指先から、その言葉以上の緊張が伝わってくるようだった。

 見上げた彼の瞳は、まっすぐに私を捉えている。

 だから私は、その真剣さを受け止めるように、ゆっくりと笑みを返した。

 

「えぇ。とても、とても長い時間がかかったものね。それに、決して少なくない犠牲も」

「あぁ。本当に、この子は奇跡の賜物だ」

 

 ヴァルターの視線が、私からゆっくりと下へ落ちていく。

 膨らんだお腹を見つめる彼の目元が、わずかに緩んだ。つい先ほどまで張り詰めていたものが嘘のようにほどけ、その横顔には、普段の彼からは想像もつかないほど穏やかな色が浮かんでいる。

 そんな顔を見ていると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。

 

「ねぇ、ヴァルター。触ってみて」

 私の言葉に、彼は目を丸くさせ、戸惑ったように自分の手と私とを交互に見る。

「い、いいのか?」

「当たり前じゃない」

 

 そう言って、彼の手を取って私のお腹へそっと導く。

 最初は壊れ物にでも触れるように、おそるおそる置かれた手のひら。そのすぐ下で、まるで応えるように小さな胎動が返ってきた。

 

「お、ぉお。これは、蹴っているのか」

 

 普段の彼からは想像もつかない、ひどく間の抜けた声だった。

 目を丸くしたまま、ヴァルターは私のお腹と自分の手を交互に見つめる。やがて、もう一度確かめるように手のひらをそっと押し当てると、その口元がゆっくりと綻んだ。

 こんなふうに無防備に笑う彼を、私は随分と久しぶりに見た気がする。

 

「この子も、貴方に挨拶がしたかったのかも」

 

 そう伝えれば、ヴァルターは背筋を伸ばしてわざとらしく咳払いをする。するとヴァルターは、私のお腹をじっと見つめて、真面目な顔で挨拶を始めた。

 

「……初めまして、ルシャ。私はその……ヴァルターという。君の、父を務めることになるもの、です」

 

 まだ顔も見えない我が子に向かって、どこかぎこちなく、しかし真剣そのもので話す彼の姿は、どうにも可笑しくて、幸せで……同時に、返しのついた針が心臓に刺さった。

 彼の挨拶が終わったところで、笑いを堪えきれずに吹き出す。なにそれ、と言えば彼は恥ずかしいのか、頬を掻きながら伏し目がちに私を見た。

 

「……そ、そんなに変だっただろうか」

 いいえ。と私は首を振る。

「だって私は、貴方のそういう所が好きだもの」

「か、からかうなエレナ」

 

 困ったように、眉を八の字に曲げる彼。 その姿を見て、決意がゆっくりと結ばれていく。……やはり、言おう。

 大丈夫、私たちなら、やっていける。人生の殆どを費やした研究も、少なくない犠牲も、なかったことにはできない。

 それでも――私はこの人と、この子と生きていきたい。

 そう伝えようと、そっぽを向く彼の頬に手を伸ばす。伸ばしかけて、不意に胸の奥が軋み、息が詰まった。

 

「――っ、げほっ、ごほっ」

 一度始まった咳はすぐには収まらず、肩を震わせながら何度も咳き込む。

「大丈夫か、エレナ!」

 彼は片手を私の背中に添え、もう片方の手で私の手を強く握りながら、顔を覗き込んでくる。

「……ごめんなさい。ここ最近、貴方と話せていなかったから、少し楽しくなっちゃったみたい」

「……とりあえず、ベッドへ」

 

 彼に体を支えられ、ゆっくりと、優しくベッドへ横たえられる。

 大きく、深呼吸をする。彼はまだ、私の手を握ってくれていた。彼の方へ顔を向ける。不安げな瞳が、私を映していた。

 

「ねぇ、ヴァルター」

「あぁ。どうした」

 

 優しい目。柔らかな声。

 大きな罪悪感と、僅かな希望が胸の奥に入り混じる。いけないと思いながらも、胸を焦がす理想を私は捨てきれない。

 

「あなた、この子に何て呼ばれたい?」

 彼は、少し困ったように眉をひそめる。その姿が愛おしくて、愛おしくて。

「考えたことも、なかったでしょう――げほっ、げほっ」

 

 あと、少し。あと少しでいいのに。それなのに、体は言うことを聞いてくれない。私の手をより一層強く彼が握る。

 

「エレナ、その話はまた明日にでもしよう。明日、絶対にここへ来るから。私は、念のため医者を呼んでくる」

 彼の手が、離れる。立ち上がるその背に、最後の力を振り絞る。

「ヴァル、ター」

 

 彼の足が止まる。こちらを振り返ったその顔には、隠しきれない不安が滲んでいた。……本当、優しい人。私を愛してくれる人。私が愛する人。それなのに私は――

 

「この子が生まれたら、話したいことがあるの」

 

 私はこんなにも浅ましい。そんな自分が嫌になる。けれど、彼ならきっと受け入れてくれるという、どこか確信めいたものがあった。

 そんな私の考えなど知る由もなく、彼はいつものように優しく言った。

 

「今でよければ、聞くぞ」

 

 ベッドの横に膝をつく彼に、私は小さく首を振る。

 ごめんなさい。と心の中で謝罪する。そして、愛する彼の姿をしっかりと瞳に映す。

 

「ダメ。三人になってから話したいの」

「――そうか。それならやはり、しっかり体調を整えないとな」

 

 意地悪そうに、けれど柔らかい彼の笑顔に私もつられて笑う。

 そうして彼は、私の額へそっと口づけをした。

 

「ふふ、そうね」

「それじゃあ、また明日」

 

 扉の閉まる音。

 彼が去った後、ベッドに重たい体を預け天井をぼんやりと眺める。しかし心はこれからの未来を想像すれば、羽のように軽かった。

 ――私たち三人で、暮らしましょう。

 世界律なんて、忘れて。これまでの犠牲も背負って、それでも幸せに生きていかないか、そう伝えるのだ。

 そんなことを考えながら、お腹を撫でる。

「私と、この子と、あの人の三人で」

 この子が産まれたその時は、きっと。

 そう心に決めて、私は静かに目を閉じた。

 これから先には、きっと穏やかで、幸せな日々が待っている――私は、そう信じていた。

 けれど、神さまはどこまでも残酷だった。……いや、因果応報というべきなのだろう。結局私たちは、どこまで行ってももう戻ることなどできなかったのだ。

 

 

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