魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
今度は、男の指が動く前に見えた。
手首を伝った靄が指先で細く絞られ、その先に、傾いた線が生まれる。
何なのかを考えるより早く、僕は左へ身体をずらした。
首の横を、冷たいものが抜ける。
風。
そう思った時には、背後の草が斜めに切り払われていた。
「……あ?」
男の声が低くなる。
続けて、腕が振られた。
さっきよりも低い位置に色が集まり、僕は膝を折って地面を蹴る。
避けられた。
そう思った直後、二の腕が熱くなった。
「っ、つ……!」
コートの袖が裂けている。
手を当てると、温かいものが指の間へ滲んだ。
見えても、間に合うとは限らない。
その当たり前のことを、痛みと一緒に思い知る。
「お前、今の……」
男が言いかけ、途中で口を閉じた。
目つきが変わっていた。
先ほどまでの、暇潰しの相手を見るような顔ではない。
右手へ、もう一度色が集まり始める。
まずい。
後ろへ下がろうとして、足が止まった。
そちらへ逃げれば、今度は間に合わない。
理由なんて分からない。
ただ、男の腕を流れる色を見た瞬間、そう思った。
腕が振り抜かれるより先に、斜め前へ踏み込む。
肩をすぼめ、突き出された腕の外側を抜けた。
頬のすぐそばで風が鳴り、コートの裾が強く引かれる。
近い。
手を伸ばせば、男の腕へ届く。
けれど僕は何もせず、そのまま脇を走り抜けた。
「待て、てめぇ!」
後ろで怒声が上がる。
振り返らず、土手の斜面へ飛び込んだ。
靴底が滑り、膝をつきそうになりながらも、その勢いのまま駆け下りる。
逃げる。
それ以外、何も考えられなかった。
◆
「はっ、はぁ……っ、くそ……!」
息を吸うたびに、喉の奥が冷たく痛んだ。
河川敷を抜け、階段を駆け上がり、住宅街の角を曲がる。
何度振り返っても、男がどこにいるのか分からない。
なのに、止まっていいとは少しも思えなかった。
家へは帰れない。
あいつはルシャを探している。
このまま家へ向かえば、居場所を教えるのと同じだ。
携帯電話を取り出そうと、空いた手をポケットへ伸ばす。
直後。
背後で何かが砕けた。
僕は反射的に手を引っ込め、脇道へ飛び込む。
今まで頭があったあたりの塀が、深く削れていた。
破片が、足元へ転がってくる。
いる。
姿が見えなくても、すぐ後ろに。
「そんな必死になるなよ。女一人、差し出せば済む話だろうが」
遠くから、声が追いかけてきた。
そうだ。
あいつにルシャを引き渡せば、少なくとも今は、追われずに済むのかもしれない。
どうせ僕は魔術士でもなければ、彼女の身内でもない。
たまたま助けただけだ。
巻き込まれただけなのだ。
だというのに、居場所を教える言葉は浮かばなかった。
水槽を見上げていた横顔。
変なぬいぐるみを抱えていた腕。
今朝、マグカップを持ちながら僕を見送った、少し不満そうな目。
あいつの前へ、あの男を連れていく。
その光景だけは、どうしても考えたくなかった。
「……くそ」
角を曲がった先に、小さな公園が見えた。
向こう側にも出口がある。
そこを抜ければ、広い通りへ出られる。
低い柵の切れ目へ飛び込む。
砂利を蹴った足が、二歩目を踏み出そうとしたところで。
右の太腿を、熱いものが裂いた。
「――っ、あ!」
脚から力が抜けた。
視界が傾き、受け身も取れないまま地面へ投げ出される。
肩から砂利の上を転がり、肺の中の空気が一気に押し出された。
声が出ない。
息もできない。
口を開けたまま何度も空気を求め、少ししてようやく、ひゅっと喉が鳴った。
膝を動かそうとした瞬間、太腿に鋭い痛みが走る。
「……っ、くそ」
ズボンの布が濡れていた。
押さえた掌の下で、温かいものが広がっていく。
砂利を踏む音がした。
「追いかけっこは終わりか?」
男が、公園の入口から歩いてくる。
息一つ乱していない。
僕が必死に走っていた間、こいつはただ、面白がってついてきただけなのだろうか。
「墓場にしちゃあ、随分ちんけな場所だな」
地面へ手をつき、身体を起こす。
片膝を立てるだけで、目の奥が白くなった。
それでも顔を上げると、男は少し離れたところで足を止める。
「最後にもう一度だけ、聞いてやる」
差し出された右手に、青い光が集まっていった。
幾何学的な線が重なり、ひとつの形を作っていく。
眼鏡のない目には、その過程が嫌になるほど鮮明に見えた。
「女の居場所を教えろ。そうすりゃ、命だけは助けてやる」
公園の向こう側へ目を向ける。
出口までは、それほど遠くない。
けれど、この脚では走りきれない。
男の脇を抜けることも、もうできない。
立ち上がる間に、次が来る。
……逃げられない。
ようやく、その事実が頭の中へ収まった。
「聞いてんのか?」
男が苛立ったように顎を上げる。
僕はゆっくりと息を吐いた。
「……聞いてるよ」
「だったら、さっさと答えろ」
「断る」
声は、思ったより普通に出た。
「悪いけど。僕、あんたみたいな人間、嫌いなんだ」
男の顔から、笑みが消える。
「そうか。なら、もう死ねよ」
右手に集まった色が、密度を増していく。
あれが飛べば、僕は死ぬ。
さっきまでなら、その考えだけで身体がすくんでいたはずだった。
死にたくない。
今も、それは変わらない。
痛いのも嫌だ。
できることなら、今すぐここから逃げ出したい。
けれど。
逃げる場所がないのなら。
……戦うしか、ないじゃないか。
膝の上に残っていた左手を、ゆっくりと地面へ下ろす。
荒かった息が、少しずつ整っていく。
男を見る。
右手は、まだ開いている。
重心は後ろ。
僕が動かないと思っているから、踏み込む準備をしていない。
さっき、すれ違った時と同じだ。
あの手の向く先にいなければいい。
その後は。
近づいてから、考えればいい。
「……何だよ」
男が呟いた。
答えなかった。
返す言葉を考えることが、急にどうでもよくなっていた。
傷ついた脚の位置を、少しだけ変える。
痛みは消えない。
けれど、どこへ力をかければ身体を前へ運べるのかは分かった。
視線を、男の右肩へ落とす。
指先へ。
腰へ。
足へ。
次にどこが動くのか、それだけを見る。
男が、半歩下がった。
「……」
本人も、何故下がったのか分からなかったのだろう。
一度、自分の足元へ目を落とした。
そして、すぐに僕を見る。
眉間へ皺が寄った。
さっきまであれほど余裕のあった顔に、初めて別のものが混じっていた。
「……何だ、てめぇ」
声が、僅かに掠れていた。
僕にはその意味が分からない。
武器もない。
まともに走ることさえできない。
どう考えても、追い詰められているのは僕の方だ。
なのに男は、もう一歩踏み出してこなかった。
突き出された右腕が、僅かに揺れる。
青い紋様も、それに合わせて輪郭を乱した。
「……くそ」
男が左手を添える。
その指に、必要以上の力が入っているのが見えた。
どうして、そんな顔をするのだろう。
分からない。
今は、分からなくてよかった。
右足へ体重を移す。
男の指が強張る。
その先で、光の形が決まった。
――そこだ。
地面を蹴ろうとした瞬間。
蒼が、視界を塗り潰した。
◆
轟音が、胸の内側まで震わせた。
巻き上がった砂が頬を叩き、僕は反射的に顔を背ける。
何が起きたのか分からない。
前へ出るはずだった身体は、その場に残っている。
目の前にあった男の右手も、青い紋様も、今は砂塵に隠れて見えなかった。
代わりに、長い髪が揺れている。
「何を、しているのかしら」
低い声だった。
何度も聞いたはずなのに、一瞬、誰のものか分からなかった。
「……ルシャ?」
銀髪の向こうで、彼女の横顔が僅かに動く。
けれど、こちらは見なかった。
視線はただ、正面の男へ向けられている。
地面を這うように、蒼が溢れていた。
今まで見たことがない量だった。
彼女を中心に、色が幾重にも渦を巻いている。
空気そのものが重くなったようで、息をするだけで喉が乾いた。
助かった。
そう理解するより先に、背中が冷えていた。
「……か、かか。つくづく、俺はついてるな」
砂塵の向こうから、男の声がする。
笑っている。
けれど、その声は妙に上擦っていた。
「目的のものが、向こうから来てくれるとはよ」
ルシャは何も答えない。
男が口の端を吊り上げた。
「よぉ、モルモット。久しぶりだな。随分と元気そうじゃねぇか」
聞き慣れない呼び方が、耳に残った。
男はルシャを知っている。
ただ追ってきたというだけではない。
彼女の方にも、驚いた様子はなかった。
「ハインツ」
名前を呼ぶ声に、温度はなかった。
「あなたたちの目的は、私でしょう」
「ああ。だから、こいつに聞いてたんだよ。お前がどこにいるのかってな」
「どうして、シヲリを傷つけたの」
男の笑みが、一瞬止まった。
それから、誤魔化すように大きく口を開く。
「どうして? そんなもん、憂さ晴らしに決まってるだろうが。お前のせいで、こっちは随分と――」
ルシャが一歩進んだ。
男の言葉が途切れる。
次の瞬間、彼の周囲に青い紋様がいくつも浮かび上がった。
僕へ向けられたものより多い。
色が細く絞られ、彼女を囲むように形を変えていく。
何が来るのか分かって、僕は口を開いた。
「ルシャ、避け――」
間に合わなかった。
幾筋もの刃が、彼女へ殺到する。
銀髪が激しく揺れ、足元の砂が跳ねた。
その向こうで。
ルシャは、歩くのをやめていなかった。
「……は?」
男が、呆けた声を漏らす。
当たった。
見間違いではない。
僕の腕を裂き、脚を奪ったものが、確かに彼女の身体へ届いた。
けれど。
何も起きていない。
傷もない。
血も出ていない。
衣服すら、ほとんど乱れていなかった。
「何をした、てめぇ……!」
次の紋様が灯る。
今度は低いところから。
次は頭上から。
男が腕を振るたびに風が鳴り、そのすべてを正面から受けながら、ルシャは距離を詰めていく。
「何も」
「ふざけんな! 何で効かねぇんだよ!」
「だから、何もしていないって言っているでしょう」
嘘をついているようには見えなかった。
少なくとも、僕の目には何も見えない。
避けてもいない。
何かで弾いてもいない。
ただ、触れた。
そして、消えた。
それだけだった。
傷つけられないのだ。
僕をあれだけ必死に走らせたものが。
僕の身体を、簡単に切り裂いたものが。
「弱すぎるのよ、あなた」
ルシャが、男の前へ立った。
ハインツが後ずさる。
腕を引き、顔の前へ薄い膜のようなものを作った。
「待――」
ルシャの拳が、それを破った。
鈍い音とともに、男の身体が地面へ叩きつけられる。
跳ねた砂が落ちきると、公園は急に静かになった。
僕はその場で膝をついたまま、動けなかった。
昨日、マグカップを両手で持っていた指が、拳を作っている。
水槽の前で笑っていた顔が、倒れた男を見下ろしている。
同じ人間だ。
そのはずなのに。
声のかけ方が分からなかった。
ルシャが、もう一度腕を上げる。
「――死になさい、ハインツ」
考えるより先に、声が出た。
「やめろ、ルシャ!」
彼女の肩が、僅かに揺れた。
振り返った銀灰色の瞳が、僕を捉える。
「……シヲリ?」
知っている声だった。
それだけで、少し息ができた。
地面へ手をつき、立とうとする。
けれど脚へ力をかけた途端、膝が折れた。
倒れる前に、腕を支えられる。
ルシャが、すぐ隣にいた。
「動かないで。怪我をしているでしょう」
「……分かってる。だから、もういいんだ」
「何が?」
「そいつ、もう動けないんだろ」
彼女はハインツを見てから、僕へ視線を戻した。
「ハインツは、シヲリを殺そうとしたのよ」
本当に分からない、という顔だった。
怒っているわけでもない。
僕が止める理由を、ただ理解できずにいる。
そのことが、少し怖かった。
「それでも、だ」
支えてくれている腕へ、手を添える。
「僕は、お前が人を殺すところなんて、見たくない」
ルシャは黙った。
僕の顔を見て、それから、握ったままだった自分の拳へ目を落とす。
しばらくして。
ゆっくりと、指が開いた。
「……変なの」
「そうかもしれないな」
「自分が何をされかけたか、分かっているの?」
「ああ」
分かっている。
今も腕と脚が痛んでいる。
殺されると思ったことも。
逃げられないと悟った瞬間も。
忘れてはいない。
その後、自分が何をしようとしていたのかだけが、妙に曖昧だった。
ルシャは小さく息を吐き、僕の腕を自分の肩へ回す。
「……仕方ないわね。シヲリがそう言うなら、やめてあげる」
「ありがとう」
返事の代わりに、彼女は僕をベンチまで運んだ。
腰を下ろして、ようやく身体が震えていることに気づく。
歯が小さく鳴り、僕は口を閉じた。
寒い。
さっきまでは、気づきもしなかったのに。
指先まで、ひどく冷えていた。
◆
ルシャに支えてもらいながら携帯電話を取り出し、マミさんへ連絡した。
現在地と、襲われたことだけを途切れ途切れに伝える。
途中からルシャが電話を代わり、短いやり取りの後、すぐに治療を受けに向かうことになった。
倒れたハインツについても、マミさんが手を回してくれるらしい。
それを聞いて、ようやく少しだけ息がつけた。
「シヲリ。それ、何?」
携帯電話を返したルシャが、僕の右手を見ていた。
「……何が」
「ずっと持っている、それよ」
視線を落とす。
皺だらけになったビニール袋が、指からぶら下がっていた。
しばらく、何も言えなかった。
走って。
転んで。
殺されかけて。
その間も、僕はずっとこれを持っていたらしい。
「……サンドイッチ」
「サンドイッチ?」
「バイト先のマスターが、作ってくれたんだ。二人分」
握り込んでいた指を、少しずつ開く。
強く持ちすぎていたのか、すぐには離れなかった。
「僕と、お前の」
ルシャが目を丸くする。
「帰ったら、一緒に食べようと思ってたんだけど」
袋を少し持ち上げる。
中の包みは、すっかり形を変えていた。
丁寧に作ってもらったものをこんなにしてしまって、今になって申し訳なさがこみ上げる。
「……潰れたな」
「食べられないの?」
「中身は出てないと思うけど。見た目は、あんまり期待しないでくれ」
ルシャは袋の中を覗き込んだ。
それから、僕の手から持ち手を受け取る。
「別にいいわ」
「いいのか?」
「潰れていても、味は変わらないでしょう」
いつもの言い方だった。
そのことに、少しだけ肩の力が抜けた。
「……まぁ、そうだな」
「帰ったら食べるわよ。シヲリの分も、ちゃんと残しておいてあげる」
「そこは普通に、二人で食べるって言ってくれ」
小さく笑うと、頬の傷が引きつった。
ルシャの視線がそこへ向き、口元の笑みが薄くなる。
僕は、それに気づかないふりをした。
「来てくれて、助かった」
「……当然でしょう」
彼女は袋の持ち手を僕の手首へ通し、少し屈んだ。
「ほら。早くマミのところへ行くわよ」
「いや、少し待ってくれ。まだ立つのは――」
首の後ろと膝の下へ、腕が回った。
「よいしょ」
そんな軽い掛け声とともに、身体が浮いた。
状況を理解するまでに、少し時間がかかる。
「……ルシャさん」
「何よ」
「僕も一応、男の子でして」
「それが?」
「女の子にこうやって運ばれるのは、少し、その、恥ずかし――っ!」
身体が、下から一気に押し上げられた。
視界が跳ね上がる。
公園の柵を越え、街灯を追い越し、家々の屋根が目の下へ沈んでいく。
「と、飛んでる!?」
「馬鹿ね。跳んでいるだけよ」
人間は普通、家の屋根を越えるほど跳ばない。
そう言い返すつもりだった。
けれど喉から出たのは、引きつった息だけだった。
慌てて彼女の肩へ掴まる。
月明かりを受けた銀髪が、夜の中へ長く流れていた。
すぐ近くにある横顔は、静かだった。
昨日、水槽の青に照らされていたのと同じ顔。
それが今は、僕を抱えたまま、見慣れた街を軽々と越えていく。
綺麗だと、思ってしまった。
怖くないわけではない。
さっきの彼女を忘れたわけでもない。
それでも。
今、自分を支えている腕から離れたいとは思わなかった。
手首に掛かった袋が、風に小さく鳴る。
その音を聞きながら、僕はルシャの肩を掴み直した。
昨日までは、まだ帰れると思っていた。
魔術も契約も終わらせて、知らなかった頃の生活へ戻れるのだと。
けれど今夜。
向こう側から僕のところへやって来たものは、僕の都合など聞いてはくれなかった。
目を逸らしているだけでは、もう何もなかったことにはできない。
足元に広がる、いつもと同じ街の灯りを。
僕は、彼女の腕の中から見下ろしていた。