魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
目が覚めて、最初に思ったのは、天井が遠いということだった。
見慣れた自分の部屋よりも高い、木目の浮かぶ天井。
その下で身体を包んでいる布団も、いつもより重く、柔らかい。
……ああ、そうだった。
マミさんの家だ。
昨夜、公園から運ばれて、そのまま治療を受けたのだった。
そこまで思い出し、時刻を確かめようと身体を起こす。
「っ、い……ってぇ……」
太腿から腰にかけて、鈍い痛みが一気に走った。
動きを止めても、すぐには引かない。
仕方なく枕へ頭を戻し、しばらく天井を睨む。
傷は、塞がっている。
昨夜、マミさんがそう言っていたし、僕も自分の目で確かめた。
けれど、治したのだから何をしてもいい、という話ではないらしい。
傷のあった場所にはまだ熱が残っているし、走り続けた脚も、転がった肩も、動かすたびにそれぞれ不満を訴えてくる。
身体中が痛い。
雑にまとめるなら、それに尽きる。
「……何をしているの、シヲリ」
横から声がした。
顔を向けると、ベッドのそばに置かれた椅子から、ルシャが立ち上がるところだった。
長い銀髪が肩からこぼれ、こちらへ伸ばされた手が、掛け布団の端を押さえる。
「起きようとしてる」
「今日は休んでいなさいって、マミに言われたでしょう」
「聞いてたけど、起きるくらいは――」
言いながら上体をひねり、また痛みに負けた。
情けない声を漏らして枕へ戻ると、ルシャが眉を寄せる。
「ほら」
「……はい」
反論の余地がなかった。
布団を直す彼女の手つきは、いつになく慎重だった。
僕の脚に触れないよう布を持ち上げ、肩口まで引き上げる。
けれど、そのまま手を離さず、布団の端を見つめていた。
「ルシャ?」
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
こちらを見ないまま、彼女の指が布団の上で止まる。
昨夜から、ずっとこうだった。
マミさんに治療をしてもらっている間も、その後、潰れたサンドイッチを二人で食べた時も。
いつもなら食ってかかってきそうなところで黙り込み、僕が少し顔をしかめるだけで、同じように眉を寄せる。
やりづらい。
ここまでしおらしくされると、何を言えばいいのか分からなくなる。
「昨日も言っただろ。助けてくれて、ありがとうって」
「でも、シヲリが襲われたのは、私がいたからよ」
「襲ったのは、あいつだろ」
ルシャは答えなかった。
それで納得できるなら、昨夜のうちにいつもの調子へ戻っていたのだろう。
僕は後頭部を枕へ押しつけ、小さく息を吐く。
「それに、何もかもお前のせいにされたら、僕の運動不足まで責任取ってもらうことになるぞ」
「……何よ、それ」
「脚。傷のところ以外も、普通に痛いんだよ」
少しだけ膝を動かしてみる。
やめておけばよかった。
顔をしかめると、ルシャがまた手を伸ばしてきたので、慌てて首を振る。
「大丈夫だから。とりあえず、手を貸してくれ」
「何をするの?」
「トイレ」
「私が運んであげるわ」
「それだけは自分で行かせてくれ」
真剣に頼むと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
どうしてそこを嫌がるのか、まるで分かっていない顔だった。
それでも僕が譲らずにいると、最後には渋々、腕を貸してくれた。
ベッドの端へ腰を移し、両足を床へ下ろす。
立ち上がるだけで、随分と時間がかかった。
「……ほら。立てた」
「全然、大丈夫そうに見えないわ」
「立っただけで褒められる年でもないけど、そこは少しくらい認めてくれてもいいだろ」
返事の代わりに、支えている腕へ力がこもる。
僕はそれ以上言わず、その手を借りて歩き始めた。
◆
部屋へ戻ってきたところで、小さな音がした。
足を止めると、ルシャが片手でお腹を押さえていた。
目が合う。
彼女は何も言わず、すっと視線を逸らした。
「……朝ごはん、まだなのか?」
「シヲリが起きていなかったから」
「先に食べててよかったのに」
「別に、お腹が空いていたわけじゃないわ」
言い終わるのを待っていたように、もう一度鳴った。
ルシャの口が閉じる。
僕も、できるだけ真面目な顔をしようとはした。
「……何よ」
「いや。なかなか正直だなって」
「私じゃなくて、お腹が勝手に鳴っているのよ」
「それはそうだろうな」
とうとう笑いが漏れる。
ルシャがこちらを睨んだけれど、昨日の公園で見たものとは、まるで違っていた。
それだけで、少しだけほっとする。
「それなら、朝ごはんにするか」
「作るのは駄目よ」
「まだ何も言ってないだろ」
「シヲリは、そう言いながら台所に立つじゃない」
数日で、随分と分かったようなことを言う。
もっとも、半分くらいはそのつもりだったので、強く否定もできなかった。
「買ってくるわ。何がいい?」
「お前、一人で?」
「買い物くらいできるわよ。昨日だって、見ていたでしょう」
「見てるのと、やるのは違うだろ」
言ってから、水族館での会話を思い出す。
本で知ることと、実際に見ることは違う。
そう言った時のルシャの顔が浮かび、僕は少し考えた。
「……じゃあ、作ってみるか」
「駄目って言ってるじゃない」
「僕じゃない。お前が」
「私?」
ルシャが目を丸くする。
僕は頷き、廊下の先へ目を向けた。
「僕は座って、やり方を教える。それならいいだろ」
「でも、私、料理なんてしたことないわよ」
「だから教えるんだよ。難しいものは作らないし」
彼女はすぐには答えなかった。
一度僕の脚へ目を落とし、それから台所の方を見る。
視線がそちらへ留まる時間の方が、ほんの少し長かった。
「……本当に、座っているだけ?」
「できるだけな」
「できるだけ、じゃ駄目よ」
「分かった。座ってる」
ようやく、ルシャが小さく頷く。
「仕方ないわね。シヲリがそこまで言うなら、私が作ってあげる」
さっきまでとは、少し違う声だった。
僕は笑いそうになるのを堪え、彼女の腕を借りて台所へ向かった。
◆
マミさんは、既に起きていた。
台所の隣で書類へ目を落としていた彼女は、僕たちを見ると、まず僕の脚を確かめる。
「歩けるのかい?」
「ゆっくりなら」
「結構。ただし、今日は外出も運動もなしだ。治療した場所を、すぐに傷め直されても困るからね」
「……はい」
先に釘を刺された。
マミさんはルシャへも目を向けると、近くの椅子を引いてくれる。
「料理の監督くらいなら構わないよ。立ち仕事は、そちらの彼女に任せなさい」
「そのつもりです」
「ならいい。食材は使ってくれて構わない。私も後で何か食べるから」
礼を言って、椅子へ腰を下ろす。
ルシャは手を洗うと台所の真ん中に立ち、何から始めればいいのか分からない顔で僕を見た。
「それで、何を作るの?」
「フレンチトースト」
「甘いの?」
「甘くできる」
「それにしましょう」
決断が早かった。
まず、必要なものを集めてもらう。
卵と牛乳、砂糖にバター。
食パンを見つけたルシャが、袋ごと持ち上げてこちらへ見せた。
「これでいい?」
「ああ。次は、卵をそこのボウルに割って」
「割るだけ?」
「割るだけ。ただし、中身まで握り潰すなよ」
「そんなことしないわよ」
軽く睨まれる。
けれど、卵を持った手つきは妙に慎重だった。
縁へ当てても割れず、もう一度。今度は少し強く叩く。
殻にひびが入り、そこへ両親指を添えるところまではよかった。
「あ」
中身と一緒に、小さな殻が落ちた。
「……今の、取ればいいのよね」
「そうそう。大丈夫。よくある」
「分かっているわよ」
そう言いながら、彼女は真剣にボウルを覗き込んでいる。
欠片を取り出すと、何事もなかったように次の卵へ手を伸ばした。
二つ目は、さっきよりもうまく割れた。
「できた」
「うん。次、混ぜて」
泡立て器がボウルの縁に当たり、小さな音を立てる。
最初は遠慮がちだった手つきも、少しずつ慣れてきたらしい。
牛乳と砂糖を加える頃には、僕が言う前に計量用の器を探す余裕まで出てきていた。
卵液にパンを浸すと、白かった表面がゆっくりと淡い黄色に染まっていく。
ルシャはしゃがみ込み、皿と同じ高さからそれを眺めた。
「まだ?」
「もう少し。中まで吸わせたいから」
「ふうん」
指先が伸びかけ、途中で止まる。
触っても早くならないことくらいは、どうやら分かっているらしい。
しばらくして、フライパンへバターを入れてもらう。
溶けたバターが底へ広がり、甘い香りが立ち上った。
そこへパンを置くと、じゅ、と音がする。
ルシャの肩が、わずかに跳ねた。
「……びっくりした」
「水気があるからな。火は強くしすぎなくていい」
「分かってるわ」
フライ返しを握り、彼女はパンをじっと見つめていた。
早く裏返してみたいのか、端へ何度も差し込みかける。
そのたびに目が合うので、僕は首を振った。
「まだ」
「何も言ってないでしょう」
「顔に書いてあるんだよ」
口を尖らせながらも、ルシャは待った。
ようやく合図をすると、パンの下へ慎重にフライ返しを差し入れる。
一枚目は、少し斜めになった。
それでも、表へ返った面には綺麗な焼き色がついている。
「……できてるわ」
「できてるな」
僕の方を向いた彼女が、嬉しそうに目を細める。
次の一枚を返す手には、さっきよりも少しだけ迷いがなかった。
◆
食卓には、焼き上がったフレンチトーストが並んでいた。
表面には薄くバターの艶が残り、切れ目から、卵液を吸った柔らかな中身が覗いている。
ルシャは自分の皿よりも、僕の手元を見ていた。
ナイフを入れて一口分を切り分けると、その動きに合わせて視線までついてくる。
「……そんなに見られると、食べづらいんだけど」
「いいから、早く食べなさいよ」
急かされるまま、口へ運ぶ。
外側は香ばしく、中は柔らかい。
甘さは控えめで、バターの塩気が少しだけ残っている。
「うん。美味しい」
「本当?」
「ああ。ちゃんと焼けてるし、焦げてもない」
「……そう」
そっけなく返す割に、口元は緩んでいた。
ルシャも自分の分を切り、たっぷりと蜂蜜をかけてから口へ運ぶ。
銀灰色の瞳が、ぱっと開いた。
「美味しい」
「だから、そう言っただろ」
「私が作ったのよね、これ」
「僕は座ってただけだからな」
得意げに胸を張る。
さっきまで沈んでいた肩が、ようやくいつもの位置へ戻っていた。
「明日もこれにしましょう」
「気に入るのが早いな」
「美味しいんだから、いいじゃない」
また一切れ、彼女の口へ消えていく。
僕もコーヒーへ手を伸ばし、食べかけの皿を見下ろした。
たった一度、一緒に朝食を作っただけだ。
それでも、向かいからいつもの口調が返ってくることに、随分と救われる気がした。
今日は、これでいい。
痛む脚を椅子の下で少し伸ばしながら、そう思う。
けれど、カップを持ち上げた時、二の腕が鈍く痛んだ。
思わず動きを止めると、ルシャの目がすぐにそちらへ向く。
「痛い?」
「少しだけ。大丈夫」
答えてから、カップを戻した。
大丈夫。
昨日から、何度も口にしている。
そう言えば済むことと、済まないことがあるのは、僕にだって分かっていた。
「……なぁ、ルシャ。一つ、聞いてもいいか」
「昨日のこと?」
返事は、すぐだった。
彼女はフォークを皿へ置き、こちらを見る。
僕は少し迷ってから、頷いた。
「ハインツって、どういう奴なんだ」
「私の世話係の一人だった男よ」
「世話係?」
思わず聞き返す。
あの男の顔と、その言葉が、どうしても結びつかなかった。
「アイツが、お前の?」
「ええ。もっとも、身の回りのことを何でもしてくれていたわけじゃないけれど」
ルシャは紅茶へ手を伸ばした。
カップを口元まで持ち上げ、けれど飲まずに、そのまま戻す。
『よぉ、モルモット』
昨夜の声が、耳の奥へ蘇った。
世話係。
そういう意味なら、確かに、あの言葉ともつながるのかもしれない。
そこまで考えたところで、僕は思考を止めた。
「……お前って、随分と大事にされてたんだな」
別の言葉を選ぶと、ルシャがわずかに笑う。
「そうね。大切にはされていたと思うわ」
笑っているのに、何故か、そうは聞こえなかった。
「逃げ出してきたから、連れ戻しに来たってことか」
「多分ね。ただ、昨日のあれは本人が言っていた通りでしょう。私がいなくなって、腹が立っていたんじゃない」
「それで、僕を?」
「……ええ」
また、声が小さくなる。
僕は慌てて首を振った。
「責めてるんじゃない。ただ、あんなのがまた来るのかと思って」
「昨日みたいなことには、もうさせないわ」
返事だけは、はっきりしていた。
ルシャが僕を見る。
料理の出来を気にしていた時とは違う、静かな目だった。
「それに、ずっと帰らないつもりではないもの。ちゃんと、儀式までには戻るわ」
手が止まった。
「……儀式?」
彼女の指が、カップの取っ手へ触れる。
それを持ち上げることはせず、こちらを見たまま、少しだけ間を置いた。
「そこから先は、聞かない方がいいわ」
「でも」
「私が帰ったら、シヲリは普通の生活に戻るのでしょう?」
返す言葉が、喉の奥で止まる。
そのつもりだった。
契約を終わらせて、魔術とも魔術士とも縁を切る。
元の部屋で、元の生活へ戻る。
ずっと、それが一番いいと思っていた。
今だって、そのはずだ。
けれど、彼女の方からそう言われると、すぐには頷けなかった。
聞いてしまえば、もっと知ることになる。
知れば、今までと同じようには見られなくなるかもしれない。
昨夜、公園で起きたことだけでも、十分すぎるくらいだった。
僕は結局、儀式が何なのかを聞かなかった。
「……帰るんだな」
代わりに、そんな言葉が出た。
ルシャが首を傾げる。
「そりゃあ、帰るわよ」
「そうだよな」
当たり前の話だった。
彼女には彼女のいた場所があって、そこから抜け出してきたのだ。
僕の家に住むために、この街へ来たわけではない。
ベッドに置かれた、変な鳥のぬいぐるみ。
昨日買った、青い魚のマグカップ。
いつの間にか増えていたものを思い浮かべ、僕はコーヒーへ視線を落とす。
「いつなんだ。その、儀式って」
「一月五日よ。その前には戻るつもり」
今日が、十二月三十日。
あと六日。
頭の中で数えてみると、思っていたよりもずっと短かった。
「……もうすぐじゃないか」
「そうね」
ルシャは、それ以上何も言わなかった。
僕がカップを持ち上げると、少し遅れて、彼女の口元に笑みが浮かぶ。
「なぁに、シヲリ。もしかして、寂しいの?」
危うく、コーヒーを吹き出すところだった。
「違う。契約の心配をしてるんだよ」
「まだ何も言ってないでしょう」
「言っただろ、今」
ルシャが、少し身を乗り出す。
さっきまでの静かな顔は、もうどこにもなかった。
「少しくらい、寂しいって言ってもいいのよ」
「要求するものなのか、それ」
「言うだけなら、お金もかからないでしょう」
「心のこもってない感想でいいなら、いくらでも言うぞ」
「それは嫌よ!」
即答だった。
僕はカップを置き、笑いそうになるのを堪えた。
「面倒くさいな、お前」
「シヲリが素直じゃないだけでしょう」
「お前に言われたくないんだけど」
睨み合ったところで、ルシャの口元が先に動いた。
堪えようとするように唇を結び、それを見た僕までおかしくなる。
ついさっきまで、何を聞いていいのかも分からなかったのに。
結局、またこんな言い合いをしている。
「……何よ。笑わないで」
「お前も笑ってるだろ」
「シヲリが変なことを言うからよ」
そう言って、彼女もとうとう吹き出した。
僕は腹に響かないように笑おうとして、かえって変な息を漏らす。
それを見たルシャがまた笑い、収まるまでに少し時間がかかった。
最後に一つ息を吐いて、僕は椅子へ背中を預ける。
「でも、帰ったらそれっきりってわけでもないだろ」
「……え?」
ルシャの笑みが、わずかに止まった。
「お前なら、そのうちまた、ひょっこり来そうだなって」
「また、抜け出してこいって言ってるの?」
「今度は、できれば普通に来てくれ。追手もなしで」
彼女は困ったように笑った。
さっきまでならすぐに返ってきたはずの言葉が、今度は少し遅れる。
「……どうかしらね」
「そんなに厳しいところなのか」
「そういうわけでも、ないけれど」
紅茶へ視線を落としたまま、ルシャはカップの縁を指でなぞった。
「でも、そうね。また会えたら、いいわね」
その言い方が、少し引っかかった。
会おう、ではなく。
会えたら。
何となく遠い言葉だった。
僕は理由を尋ねる代わりに、肩をすくめる。
「会えるだろ。今回だって、来られたんだから」
ずいぶん無責任なことを言ったと思う。
彼女のいた場所も、帰る理由も、何も知らないくせに。
それでもルシャは、否定しなかった。
ただ、顔を上げて僕を見ていた。
◆
食器はルシャが片づけた。
僕も立とうとしたけれど、座っていなさい、と今度こそ取り合ってもらえなかった。
台所から聞こえる水音を聞きながら、壁のカレンダーへ目を向ける。
十二月三十日。
明日は、大晦日だった。
この数日があまりにも慌ただしくて、年が変わることまで忘れかけていた。
義母さんへも、連絡をしなければいけない。
もちろん、怪我をした経緯まで正直に話せるわけではないけれど。
「何を見ているの?」
手を拭きながら戻ってきたルシャが、僕の視線を追った。
「カレンダー。もう明日で、今年も終わりなんだなって」
「そうね」
「何か、やってみたいことはあるか?」
彼女が、僕を見る。
問いの意味を確かめるような顔だった。
「年越しとか。こういうふうに過ごすのは、初めてだろ」
「……いいの?」
思いがけず、小さな声が返ってきた。
「何が」
「昨日、あんなことがあったのに」
僕は膝の上へ手を置く。
まだ、少し動かすだけで脚は痛む。
目を閉じれば、あの男の手に集まった色を簡単に思い出せる。
怖くないわけではない。
もう一度同じことがあっても大丈夫だなんて、とても言えなかった。
「……ああいうのは、もう嫌だよ」
そう答えると、ルシャが目を伏せる。
「だから、出かけるならマミさんに相談する。一人でどこかへ行くのも、しばらくはやめる」
彼女が、もう一度顔を上げた。
「でも、何もできないってわけじゃないだろ。家の中でも、できることはあるし」
「……例えば?」
「今朝みたいに、何か作るとか。本を読むとか。テレビを見るとか」
「それ、シヲリがいつもしていることじゃない」
呆れたように言われて、僕は頷いた。
「そうだよ」
「もっと、特別なことはないの?」
「特別なのがよければ、自分でも考えてくれ。僕一人に任せるな」
ルシャが、少しだけ目を細めた。
不満そうにも、笑っているようにも見える顔だった。
「私を楽しませる契約なのに?」
「僕が寝込んでいる間くらい、協力してくれてもいいだろ」
「……仕方ないわね」
そう言って、彼女は隣の椅子へ座った。
さっきよりも近いところへ、銀髪が落ちる。
「じゃあ、年越しらしいことがしたいわ」
「随分と大きく出たな」
「分からないんだから、仕方ないでしょう。何をするの?」
「普通なら、まず大掃除とか」
「掃除?」
ルシャが、ゆっくりと部屋を見回した。
僕も、その視線につられて壁際を見る。
棚の上には、薄く埃が積もっていた。
目が合う。
言いたいことは、何となく分かった。
「……明日の僕の脚と、マミさんの許可次第だな」
「私は、今からでもできるわよ」
「今日はいいよ。僕も休みたいし」
「だから、シヲリは座っていればいいのよ」
「人が掃除してる横で一人だけ座っていられるほど、神経太くないんだよ」
ルシャが小さく首を傾げた。
たぶん、よく分かっていない。
「とにかく、明日」
「……仕方ないわね」
少し前までなら、そんな言葉が彼女から出るとは思わなかった。
僕が黙っていると、ルシャが気まずそうに視線を外す。
「何よ」
「いや。助かるなって」
「……当たり前でしょう」
その声は、いつもより少し小さかった。
午後は、二人で居間にいた。
僕は借りた本を読み、ルシャは時々その横から覗き込んでは、内容について尋ねてくる。
しばらくすると飽きたのか、今度は年越しに何を食べるのかという話になった。
義母さんの家では、鍋を食べていたこと。
残った出汁で、うどんを煮るのが美味しかったこと。
何でもない話をすると、彼女は妙に真剣に聞いていた。
「じゃあ、それがいいわ」
「まだ、何も買ってないぞ」
「明日買えばいいじゃない」
「お前は簡単に言うなぁ」
そう返しながら、僕は必要な食材を頭の中で数えていた。
帰る日がある。
それは、もう聞いた。
いつまでも、こうしていられるわけではない。
けれど、その日まで何をして過ごすのかは、まだ決まっていなかった。
「シヲリ。聞いてる?」
「聞いてるよ」
「あと、朝のもまた作るわ。今度は一人でできると思うから」
僕は本から顔を上げた。
ルシャは、できると言ったことを疑われたと思ったのか、少し顎を上げる。
「何よ」
「じゃあ、次も頼む」
「ええ。任せなさい」
得意げな返事に、僕は笑った。
儀式が何なのかも、彼女がどんな場所へ帰るのかも、結局、聞かないままだった。
それでも、明日の話をすると、ルシャは楽しそうに答えてくれる。
その顔を見ている間は、まだ少し先の別れよりも、次の朝食のことを考えていたかった。
僕は読んでいた頁へ栞を挟み、本を閉じた。