魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第二章「染み出した雪は、もう白には戻れない」 六日目

 

 目が覚めて、最初に思ったのは、天井が遠いということだった。

 見慣れた自分の部屋よりも高い、木目の浮かぶ天井。

 その下で身体を包んでいる布団も、いつもより重く、柔らかい。

 ……ああ、そうだった。

 マミさんの家だ。

 昨夜、公園から運ばれて、そのまま治療を受けたのだった。

 そこまで思い出し、時刻を確かめようと身体を起こす。

 

「っ、い……ってぇ……」

 

 太腿から腰にかけて、鈍い痛みが一気に走った。

 動きを止めても、すぐには引かない。

 仕方なく枕へ頭を戻し、しばらく天井を睨む。

 傷は、塞がっている。

 昨夜、マミさんがそう言っていたし、僕も自分の目で確かめた。

 けれど、治したのだから何をしてもいい、という話ではないらしい。

 傷のあった場所にはまだ熱が残っているし、走り続けた脚も、転がった肩も、動かすたびにそれぞれ不満を訴えてくる。

 身体中が痛い。

 雑にまとめるなら、それに尽きる。

 

「……何をしているの、シヲリ」

 

 横から声がした。

 顔を向けると、ベッドのそばに置かれた椅子から、ルシャが立ち上がるところだった。

 長い銀髪が肩からこぼれ、こちらへ伸ばされた手が、掛け布団の端を押さえる。

 

「起きようとしてる」

「今日は休んでいなさいって、マミに言われたでしょう」

「聞いてたけど、起きるくらいは――」

 

 言いながら上体をひねり、また痛みに負けた。

 情けない声を漏らして枕へ戻ると、ルシャが眉を寄せる。

 

「ほら」

「……はい」

 

 反論の余地がなかった。

 布団を直す彼女の手つきは、いつになく慎重だった。

 僕の脚に触れないよう布を持ち上げ、肩口まで引き上げる。

 けれど、そのまま手を離さず、布団の端を見つめていた。

 

「ルシャ?」

「……ごめんなさい」

 

 小さな声だった。

 こちらを見ないまま、彼女の指が布団の上で止まる。

 昨夜から、ずっとこうだった。

 マミさんに治療をしてもらっている間も、その後、潰れたサンドイッチを二人で食べた時も。

 いつもなら食ってかかってきそうなところで黙り込み、僕が少し顔をしかめるだけで、同じように眉を寄せる。

 やりづらい。

 ここまでしおらしくされると、何を言えばいいのか分からなくなる。

 

「昨日も言っただろ。助けてくれて、ありがとうって」

「でも、シヲリが襲われたのは、私がいたからよ」

「襲ったのは、あいつだろ」

 

 ルシャは答えなかった。

 それで納得できるなら、昨夜のうちにいつもの調子へ戻っていたのだろう。

 僕は後頭部を枕へ押しつけ、小さく息を吐く。

 

「それに、何もかもお前のせいにされたら、僕の運動不足まで責任取ってもらうことになるぞ」

「……何よ、それ」

「脚。傷のところ以外も、普通に痛いんだよ」

 

 少しだけ膝を動かしてみる。

 やめておけばよかった。

 顔をしかめると、ルシャがまた手を伸ばしてきたので、慌てて首を振る。

 

「大丈夫だから。とりあえず、手を貸してくれ」

「何をするの?」

「トイレ」

「私が運んであげるわ」

「それだけは自分で行かせてくれ」

 

 真剣に頼むと、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 どうしてそこを嫌がるのか、まるで分かっていない顔だった。

 それでも僕が譲らずにいると、最後には渋々、腕を貸してくれた。

 ベッドの端へ腰を移し、両足を床へ下ろす。

 立ち上がるだけで、随分と時間がかかった。

 

「……ほら。立てた」

「全然、大丈夫そうに見えないわ」

「立っただけで褒められる年でもないけど、そこは少しくらい認めてくれてもいいだろ」

 

 返事の代わりに、支えている腕へ力がこもる。

 僕はそれ以上言わず、その手を借りて歩き始めた。

 

 ◆

 

 部屋へ戻ってきたところで、小さな音がした。

 足を止めると、ルシャが片手でお腹を押さえていた。

 目が合う。

 彼女は何も言わず、すっと視線を逸らした。

 

「……朝ごはん、まだなのか?」

「シヲリが起きていなかったから」

「先に食べててよかったのに」

「別に、お腹が空いていたわけじゃないわ」

 

 言い終わるのを待っていたように、もう一度鳴った。

 ルシャの口が閉じる。

 僕も、できるだけ真面目な顔をしようとはした。

 

「……何よ」

「いや。なかなか正直だなって」

「私じゃなくて、お腹が勝手に鳴っているのよ」

「それはそうだろうな」

 

 とうとう笑いが漏れる。

 ルシャがこちらを睨んだけれど、昨日の公園で見たものとは、まるで違っていた。

 それだけで、少しだけほっとする。

 

「それなら、朝ごはんにするか」

「作るのは駄目よ」

「まだ何も言ってないだろ」

「シヲリは、そう言いながら台所に立つじゃない」

 

 数日で、随分と分かったようなことを言う。

 もっとも、半分くらいはそのつもりだったので、強く否定もできなかった。

 

「買ってくるわ。何がいい?」

「お前、一人で?」

「買い物くらいできるわよ。昨日だって、見ていたでしょう」

「見てるのと、やるのは違うだろ」

 

 言ってから、水族館での会話を思い出す。

 本で知ることと、実際に見ることは違う。

 そう言った時のルシャの顔が浮かび、僕は少し考えた。

 

「……じゃあ、作ってみるか」

「駄目って言ってるじゃない」

「僕じゃない。お前が」

「私?」

 

 ルシャが目を丸くする。

 僕は頷き、廊下の先へ目を向けた。

 

「僕は座って、やり方を教える。それならいいだろ」

「でも、私、料理なんてしたことないわよ」

「だから教えるんだよ。難しいものは作らないし」

 

 彼女はすぐには答えなかった。

 一度僕の脚へ目を落とし、それから台所の方を見る。

 視線がそちらへ留まる時間の方が、ほんの少し長かった。

 

「……本当に、座っているだけ?」

「できるだけな」

「できるだけ、じゃ駄目よ」

「分かった。座ってる」

 ようやく、ルシャが小さく頷く。

「仕方ないわね。シヲリがそこまで言うなら、私が作ってあげる」

 

 さっきまでとは、少し違う声だった。

 僕は笑いそうになるのを堪え、彼女の腕を借りて台所へ向かった。

 

 ◆

 

 マミさんは、既に起きていた。

 台所の隣で書類へ目を落としていた彼女は、僕たちを見ると、まず僕の脚を確かめる。

 

「歩けるのかい?」

「ゆっくりなら」

「結構。ただし、今日は外出も運動もなしだ。治療した場所を、すぐに傷め直されても困るからね」

「……はい」

 

 先に釘を刺された。

 マミさんはルシャへも目を向けると、近くの椅子を引いてくれる。

 

「料理の監督くらいなら構わないよ。立ち仕事は、そちらの彼女に任せなさい」

「そのつもりです」

「ならいい。食材は使ってくれて構わない。私も後で何か食べるから」

 

 礼を言って、椅子へ腰を下ろす。

 ルシャは手を洗うと台所の真ん中に立ち、何から始めればいいのか分からない顔で僕を見た。

 

「それで、何を作るの?」

「フレンチトースト」

「甘いの?」

「甘くできる」

「それにしましょう」

 

 決断が早かった。

 まず、必要なものを集めてもらう。

 卵と牛乳、砂糖にバター。

 食パンを見つけたルシャが、袋ごと持ち上げてこちらへ見せた。

 

「これでいい?」

「ああ。次は、卵をそこのボウルに割って」

「割るだけ?」

「割るだけ。ただし、中身まで握り潰すなよ」

「そんなことしないわよ」

 

 軽く睨まれる。

 けれど、卵を持った手つきは妙に慎重だった。

 縁へ当てても割れず、もう一度。今度は少し強く叩く。

 殻にひびが入り、そこへ両親指を添えるところまではよかった。

 

「あ」

 中身と一緒に、小さな殻が落ちた。

「……今の、取ればいいのよね」

「そうそう。大丈夫。よくある」

「分かっているわよ」

 

 そう言いながら、彼女は真剣にボウルを覗き込んでいる。

 欠片を取り出すと、何事もなかったように次の卵へ手を伸ばした。

 二つ目は、さっきよりもうまく割れた。

 

「できた」

「うん。次、混ぜて」

 

 泡立て器がボウルの縁に当たり、小さな音を立てる。

 最初は遠慮がちだった手つきも、少しずつ慣れてきたらしい。

 牛乳と砂糖を加える頃には、僕が言う前に計量用の器を探す余裕まで出てきていた。

 卵液にパンを浸すと、白かった表面がゆっくりと淡い黄色に染まっていく。

 ルシャはしゃがみ込み、皿と同じ高さからそれを眺めた。

 

「まだ?」

「もう少し。中まで吸わせたいから」

「ふうん」

 

 指先が伸びかけ、途中で止まる。

 触っても早くならないことくらいは、どうやら分かっているらしい。

 しばらくして、フライパンへバターを入れてもらう。

 溶けたバターが底へ広がり、甘い香りが立ち上った。

 そこへパンを置くと、じゅ、と音がする。

 ルシャの肩が、わずかに跳ねた。

 

「……びっくりした」

「水気があるからな。火は強くしすぎなくていい」

「分かってるわ」

 

 フライ返しを握り、彼女はパンをじっと見つめていた。

 早く裏返してみたいのか、端へ何度も差し込みかける。

 そのたびに目が合うので、僕は首を振った。

 

「まだ」

「何も言ってないでしょう」

「顔に書いてあるんだよ」

 

 口を尖らせながらも、ルシャは待った。

 ようやく合図をすると、パンの下へ慎重にフライ返しを差し入れる。

 一枚目は、少し斜めになった。

 それでも、表へ返った面には綺麗な焼き色がついている。

 

「……できてるわ」

「できてるな」

 

 僕の方を向いた彼女が、嬉しそうに目を細める。

 次の一枚を返す手には、さっきよりも少しだけ迷いがなかった。

 

 ◆

 

 食卓には、焼き上がったフレンチトーストが並んでいた。

 表面には薄くバターの艶が残り、切れ目から、卵液を吸った柔らかな中身が覗いている。

 ルシャは自分の皿よりも、僕の手元を見ていた。

 ナイフを入れて一口分を切り分けると、その動きに合わせて視線までついてくる。

 

「……そんなに見られると、食べづらいんだけど」

「いいから、早く食べなさいよ」

 

 急かされるまま、口へ運ぶ。

 外側は香ばしく、中は柔らかい。

 甘さは控えめで、バターの塩気が少しだけ残っている。

 

「うん。美味しい」

「本当?」

「ああ。ちゃんと焼けてるし、焦げてもない」

「……そう」

 

 そっけなく返す割に、口元は緩んでいた。

 ルシャも自分の分を切り、たっぷりと蜂蜜をかけてから口へ運ぶ。

 銀灰色の瞳が、ぱっと開いた。

 

「美味しい」

「だから、そう言っただろ」

「私が作ったのよね、これ」

「僕は座ってただけだからな」

 

 得意げに胸を張る。

 さっきまで沈んでいた肩が、ようやくいつもの位置へ戻っていた。

 

「明日もこれにしましょう」

「気に入るのが早いな」

「美味しいんだから、いいじゃない」

 

 また一切れ、彼女の口へ消えていく。

 僕もコーヒーへ手を伸ばし、食べかけの皿を見下ろした。

 たった一度、一緒に朝食を作っただけだ。

 それでも、向かいからいつもの口調が返ってくることに、随分と救われる気がした。

 今日は、これでいい。

 痛む脚を椅子の下で少し伸ばしながら、そう思う。

 けれど、カップを持ち上げた時、二の腕が鈍く痛んだ。

 思わず動きを止めると、ルシャの目がすぐにそちらへ向く。

 

「痛い?」

「少しだけ。大丈夫」

 

 答えてから、カップを戻した。

 大丈夫。

 昨日から、何度も口にしている。

 そう言えば済むことと、済まないことがあるのは、僕にだって分かっていた。

 

「……なぁ、ルシャ。一つ、聞いてもいいか」

「昨日のこと?」

 

 返事は、すぐだった。

 彼女はフォークを皿へ置き、こちらを見る。

 僕は少し迷ってから、頷いた。

 

「ハインツって、どういう奴なんだ」

「私の世話係の一人だった男よ」

「世話係?」

 

 思わず聞き返す。

 あの男の顔と、その言葉が、どうしても結びつかなかった。

 

「アイツが、お前の?」

「ええ。もっとも、身の回りのことを何でもしてくれていたわけじゃないけれど」

 

 ルシャは紅茶へ手を伸ばした。

 カップを口元まで持ち上げ、けれど飲まずに、そのまま戻す。

『よぉ、モルモット』

 昨夜の声が、耳の奥へ蘇った。

 世話係。

 そういう意味なら、確かに、あの言葉ともつながるのかもしれない。

 そこまで考えたところで、僕は思考を止めた。

 

「……お前って、随分と大事にされてたんだな」

 別の言葉を選ぶと、ルシャがわずかに笑う。

「そうね。大切にはされていたと思うわ」

 笑っているのに、何故か、そうは聞こえなかった。

「逃げ出してきたから、連れ戻しに来たってことか」

「多分ね。ただ、昨日のあれは本人が言っていた通りでしょう。私がいなくなって、腹が立っていたんじゃない」

「それで、僕を?」

「……ええ」

 

 また、声が小さくなる。

 僕は慌てて首を振った。

 

「責めてるんじゃない。ただ、あんなのがまた来るのかと思って」

「昨日みたいなことには、もうさせないわ」

 

 返事だけは、はっきりしていた。

 ルシャが僕を見る。

 料理の出来を気にしていた時とは違う、静かな目だった。

 

「それに、ずっと帰らないつもりではないもの。ちゃんと、儀式までには戻るわ」

 手が止まった。

「……儀式?」

 

 彼女の指が、カップの取っ手へ触れる。

 それを持ち上げることはせず、こちらを見たまま、少しだけ間を置いた。

 

「そこから先は、聞かない方がいいわ」

「でも」

「私が帰ったら、シヲリは普通の生活に戻るのでしょう?」

 

 返す言葉が、喉の奥で止まる。

 そのつもりだった。

 契約を終わらせて、魔術とも魔術士とも縁を切る。

 元の部屋で、元の生活へ戻る。

 ずっと、それが一番いいと思っていた。

 今だって、そのはずだ。

 けれど、彼女の方からそう言われると、すぐには頷けなかった。

 聞いてしまえば、もっと知ることになる。

 知れば、今までと同じようには見られなくなるかもしれない。

 昨夜、公園で起きたことだけでも、十分すぎるくらいだった。

 僕は結局、儀式が何なのかを聞かなかった。

 

「……帰るんだな」

 

 代わりに、そんな言葉が出た。

 ルシャが首を傾げる。

 

「そりゃあ、帰るわよ」

「そうだよな」

 

 当たり前の話だった。

 彼女には彼女のいた場所があって、そこから抜け出してきたのだ。

 僕の家に住むために、この街へ来たわけではない。

 ベッドに置かれた、変な鳥のぬいぐるみ。

 昨日買った、青い魚のマグカップ。

 いつの間にか増えていたものを思い浮かべ、僕はコーヒーへ視線を落とす。

 

「いつなんだ。その、儀式って」

「一月五日よ。その前には戻るつもり」

 

 今日が、十二月三十日。

 あと六日。

 頭の中で数えてみると、思っていたよりもずっと短かった。

 

「……もうすぐじゃないか」

「そうね」

 

 ルシャは、それ以上何も言わなかった。

 僕がカップを持ち上げると、少し遅れて、彼女の口元に笑みが浮かぶ。

 

「なぁに、シヲリ。もしかして、寂しいの?」

 危うく、コーヒーを吹き出すところだった。

「違う。契約の心配をしてるんだよ」

「まだ何も言ってないでしょう」

「言っただろ、今」

 

 ルシャが、少し身を乗り出す。

 さっきまでの静かな顔は、もうどこにもなかった。

 

「少しくらい、寂しいって言ってもいいのよ」

「要求するものなのか、それ」

「言うだけなら、お金もかからないでしょう」

「心のこもってない感想でいいなら、いくらでも言うぞ」

「それは嫌よ!」

 

 即答だった。

 僕はカップを置き、笑いそうになるのを堪えた。

 

「面倒くさいな、お前」

「シヲリが素直じゃないだけでしょう」

「お前に言われたくないんだけど」

 

 睨み合ったところで、ルシャの口元が先に動いた。

 堪えようとするように唇を結び、それを見た僕までおかしくなる。

 ついさっきまで、何を聞いていいのかも分からなかったのに。

 結局、またこんな言い合いをしている。

 

「……何よ。笑わないで」

「お前も笑ってるだろ」

「シヲリが変なことを言うからよ」

 

 そう言って、彼女もとうとう吹き出した。

 僕は腹に響かないように笑おうとして、かえって変な息を漏らす。

 それを見たルシャがまた笑い、収まるまでに少し時間がかかった。

 最後に一つ息を吐いて、僕は椅子へ背中を預ける。

 

「でも、帰ったらそれっきりってわけでもないだろ」

「……え?」

 ルシャの笑みが、わずかに止まった。

「お前なら、そのうちまた、ひょっこり来そうだなって」

「また、抜け出してこいって言ってるの?」

「今度は、できれば普通に来てくれ。追手もなしで」

 

 彼女は困ったように笑った。

 さっきまでならすぐに返ってきたはずの言葉が、今度は少し遅れる。

 

「……どうかしらね」

「そんなに厳しいところなのか」

「そういうわけでも、ないけれど」

 紅茶へ視線を落としたまま、ルシャはカップの縁を指でなぞった。

「でも、そうね。また会えたら、いいわね」

 

 その言い方が、少し引っかかった。

 会おう、ではなく。

 会えたら。

 何となく遠い言葉だった。

 僕は理由を尋ねる代わりに、肩をすくめる。

 

「会えるだろ。今回だって、来られたんだから」

 

 ずいぶん無責任なことを言ったと思う。

 彼女のいた場所も、帰る理由も、何も知らないくせに。

 それでもルシャは、否定しなかった。

 ただ、顔を上げて僕を見ていた。

 

 ◆

 

 食器はルシャが片づけた。

 僕も立とうとしたけれど、座っていなさい、と今度こそ取り合ってもらえなかった。

 台所から聞こえる水音を聞きながら、壁のカレンダーへ目を向ける。

 十二月三十日。

 明日は、大晦日だった。

 この数日があまりにも慌ただしくて、年が変わることまで忘れかけていた。

 義母さんへも、連絡をしなければいけない。

 もちろん、怪我をした経緯まで正直に話せるわけではないけれど。

 

「何を見ているの?」

 手を拭きながら戻ってきたルシャが、僕の視線を追った。

「カレンダー。もう明日で、今年も終わりなんだなって」

「そうね」

「何か、やってみたいことはあるか?」

 

 彼女が、僕を見る。

 問いの意味を確かめるような顔だった。

 

「年越しとか。こういうふうに過ごすのは、初めてだろ」

「……いいの?」

 思いがけず、小さな声が返ってきた。

「何が」

「昨日、あんなことがあったのに」

 

 僕は膝の上へ手を置く。

 まだ、少し動かすだけで脚は痛む。

 目を閉じれば、あの男の手に集まった色を簡単に思い出せる。

 怖くないわけではない。

 もう一度同じことがあっても大丈夫だなんて、とても言えなかった。

 

「……ああいうのは、もう嫌だよ」

 そう答えると、ルシャが目を伏せる。

「だから、出かけるならマミさんに相談する。一人でどこかへ行くのも、しばらくはやめる」

 彼女が、もう一度顔を上げた。

「でも、何もできないってわけじゃないだろ。家の中でも、できることはあるし」

「……例えば?」

「今朝みたいに、何か作るとか。本を読むとか。テレビを見るとか」

「それ、シヲリがいつもしていることじゃない」

 呆れたように言われて、僕は頷いた。

「そうだよ」

「もっと、特別なことはないの?」

「特別なのがよければ、自分でも考えてくれ。僕一人に任せるな」

 

 ルシャが、少しだけ目を細めた。

 不満そうにも、笑っているようにも見える顔だった。

 

「私を楽しませる契約なのに?」

「僕が寝込んでいる間くらい、協力してくれてもいいだろ」

「……仕方ないわね」

 

 そう言って、彼女は隣の椅子へ座った。

 さっきよりも近いところへ、銀髪が落ちる。

 

「じゃあ、年越しらしいことがしたいわ」

「随分と大きく出たな」

「分からないんだから、仕方ないでしょう。何をするの?」

「普通なら、まず大掃除とか」

「掃除?」

 

 ルシャが、ゆっくりと部屋を見回した。

 僕も、その視線につられて壁際を見る。

 棚の上には、薄く埃が積もっていた。

 目が合う。

 言いたいことは、何となく分かった。

 

「……明日の僕の脚と、マミさんの許可次第だな」

「私は、今からでもできるわよ」

「今日はいいよ。僕も休みたいし」

「だから、シヲリは座っていればいいのよ」

「人が掃除してる横で一人だけ座っていられるほど、神経太くないんだよ」

 

 ルシャが小さく首を傾げた。

 たぶん、よく分かっていない。

 

「とにかく、明日」

「……仕方ないわね」

 

 少し前までなら、そんな言葉が彼女から出るとは思わなかった。

 僕が黙っていると、ルシャが気まずそうに視線を外す。

 

「何よ」

「いや。助かるなって」

「……当たり前でしょう」

 

 その声は、いつもより少し小さかった。

 午後は、二人で居間にいた。

 僕は借りた本を読み、ルシャは時々その横から覗き込んでは、内容について尋ねてくる。

 しばらくすると飽きたのか、今度は年越しに何を食べるのかという話になった。

 義母さんの家では、鍋を食べていたこと。

 残った出汁で、うどんを煮るのが美味しかったこと。

 何でもない話をすると、彼女は妙に真剣に聞いていた。

 

「じゃあ、それがいいわ」

「まだ、何も買ってないぞ」

「明日買えばいいじゃない」

「お前は簡単に言うなぁ」

 

 そう返しながら、僕は必要な食材を頭の中で数えていた。

 帰る日がある。

 それは、もう聞いた。

 いつまでも、こうしていられるわけではない。

 けれど、その日まで何をして過ごすのかは、まだ決まっていなかった。

 

「シヲリ。聞いてる?」

「聞いてるよ」

「あと、朝のもまた作るわ。今度は一人でできると思うから」

 

 僕は本から顔を上げた。

 ルシャは、できると言ったことを疑われたと思ったのか、少し顎を上げる。

 

「何よ」

「じゃあ、次も頼む」

「ええ。任せなさい」

 

 得意げな返事に、僕は笑った。

 儀式が何なのかも、彼女がどんな場所へ帰るのかも、結局、聞かないままだった。

 それでも、明日の話をすると、ルシャは楽しそうに答えてくれる。

 その顔を見ている間は、まだ少し先の別れよりも、次の朝食のことを考えていたかった。

 僕は読んでいた頁へ栞を挟み、本を閉じた。

 

 

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