魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
大掃除をしよう、と言ったのは僕だった。
だから、今さら文句を言うのもおかしい。
おかしいのだけれど。
「……にしても、広いな。この家」
廊下の端から端まで見渡して、思わず呟いた。
普段使っている部屋だけなら、そこまで気にならなかった。
けれど、改めて掃除をするつもりで眺めてみると、窓枠にも、棚の上にも、照明の傘にも、うっすらと埃が積もっている。
使われていない部屋に至っては、扉を開けただけで鼻の奥がむずむずした。
古い洋館、という言葉は聞こえがいい。
きちんと手入れされていれば、きっと雰囲気のある建物なのだろう。
ただ、現状はどちらかといえば、幽霊屋敷に近かった。
「シヲリ。これ、全部綺麗にするの?」
隣に立ったルシャが、廊下の先を見ている。
昨日、自分も掃除をすると言ったことを、少し後悔している顔だった。
「……全部は無理だな」
「そうよね」
「今日は、使ってる部屋と、この廊下だけにしよう」
その方針には、ルシャも素直に頷いた。
脚の痛みは、昨日よりはましになっている。
ゆっくり歩く分には問題ない。ただ、屈んだり、急に体重をかけたりすると、まだ太腿が嫌な痛み方をした。
マミさんにも、重いものを運ぶな、脚立には上るな、疲れたら座れ、と念を押されている。
ついでにルシャへ、見張っておいてくれとまで頼んでいたので、僕にはもう逃げ場がない。
「そこは私がやるわ」
「まだ何もしてないだろ」
「持とうとしていたでしょう」
棚の上に置かれた箱へ伸ばした手を、先回りして止められる。
ルシャは僕を押し退けるように前へ出ると、それを軽々と持ち上げ、廊下の端へ運んでいった。
助かる。
助かるのだけれど、家事をしているのに大物へ一切手を出させてもらえないというのも、どうにも落ち着かなかった。
仕方なく椅子に座り、棚から下ろしてもらった小物を拭くことにする。
ルシャには、窓と床を頼んだ。
やり方を教えると、最初のうちは真面目に雑巾を動かしていたのだが。
「……シヲリ」
「何?」
「これ、全部手でやる必要があるの?」
数枚目の窓を前にして、彼女が振り返った。
その先には、まだ同じような窓がずらりと並んでいる。
「残念ながらな。拭かないと綺麗にならないだろ」
「汚れが取れればいいんでしょう?」
「そりゃ、そうだけど」
答えると、ルシャは窓へ向き直った。
その指先へ、淡い蒼が集まっていく。
「……待て。何をする気だ」
「掃除よ」
あまりにも普通に返された。
蒼い靄が窓の表面を薄く覆い、端から端へ滑っていく。
ルシャが指を引くと、その流れに押されるように、窓についた汚れが一箇所へ集まっていった。
最後に雑巾を当てる。
白かった布に、黒ずんだ汚れがごっそりと移った。
窓の向こうが、さっきよりもずっと明るい。
「……できるのか、そんなこと」
「できたじゃない」
「いや、そうなんだけど」
確かに、できていた。
僕がさっきからちまちまと磨いている置物よりも、よほど綺麗に。
ルシャは何事もなかったように次の窓へ移り、再び指を伸ばす。
僕はその手元を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
魔術というのは、人を傷つけるものだと思っていた。
少なくとも、一昨日の夜からは、その印象が強く残っている。
それが今は、窓の汚れを落としていた。
「魔術って、便利なんだな」
「今さら?」
「僕が知ってる使われ方が、あんまりよくなかったからな」
ルシャの手が、一瞬止まった。
まずいことを言った気がして、僕は拭いていた置物を持ち上げる。
「……これも頼んでいいか?」
「自分でやりなさいよ。それくらいできるでしょう」
きっぱり断られた。
どうやら便利なものにも、使わせてもらえる範囲というものがあるらしい。
◆
昼を過ぎる頃には、普段使う部屋と廊下が、見違えるほど明るくなっていた。
窓から差し込む光が増え、床の木目もはっきりしている。
もちろん、使っていない部屋までは手が回らなかったけれど、年末の掃除としては十分だろう。
様子を見に来たマミさんは、廊下を一度見渡してから、軽く口笛を吹いた。
「これは、随分と綺麗になったね」
「大半はルシャですけど」
「当然でしょう」
即座に返事が飛んでくる。
ルシャは雑巾を片手に、得意げに胸を張っていた。
「助かったよ。二人とも、ありがとう」
そう言って、マミさんは僕の脚へ目を落とす。
「脚は?」
「大丈夫です」
答えると、彼女はわずかに眉を上げた。
「その言葉だけでは、もう信用できないんだがね」
「そんなに信用失ってます?」
「働きたがる怪我人というのは、案外扱いづらいものだよ」
否定しようとしたけれど、隣でルシャまで頷いていたので、やめた。
掃除道具を片づけ終えた後、マミさんから今夜の話をされた。
どうやら外せない用事があるらしく、その都合で、今夜は家を空けてもらいたいらしい。
そこで、僕たちは久しぶりに僕の部屋へ戻ることになった。
「移動は二人で。寄り道するなら、先に教えておいてくれ」
「近くのスーパーで、夕飯の買い物だけするつもりです」
「分かった。何かあれば、すぐに連絡を。いいね」
いつもの気怠げな声だったけれど、最後だけは念を押すようにはっきりしていた。
僕は頷き、携帯電話がポケットに入っていることを確かめる。
その後で着替えと荷物をまとめ、ルシャと一緒に家を出た。
◆
大晦日のスーパーは、思っていた以上に混んでいた。
通路には買い物かごを抱えた人が行き交い、売り場のあちこちで年越し用の商品が山になっている。
普段は静かな店なのに、今日ばかりは少し勝手が違った。
僕はカートを押しながら、青果売り場で足を止める。
「白菜は、半分でいいか」
「全部じゃなくて?」
「二人でどれだけ食うつもりだよ」
「足りなくなるよりいいじゃない」
ルシャは丸ごとの白菜と、半分に切られたものを見比べている。
僕は迷わず半分の方をかごへ入れ、長ねぎへ手を伸ばした。
「昨日言ってた鍋にするんでしょう?」
「ああ。最後にうどんを入れるから、その分も考えないと」
「年越しそばじゃないの?」
「うちは、うどんだったんだよ。鍋の出汁で煮ると美味しいから」
義母さんの家では、毎年そうしていた。
野菜も肉も食べ終えた鍋へ、最後にうどんを入れる。
大抵その頃にはお腹がいっぱいなのに、何故かそれだけは食べられてしまうのだ。
「じゃあ、私もそれがいいわ」
「昨日も言ってたな」
「忘れていないか、確認しただけよ」
そう言って、ルシャはきのこの袋を持ち上げた。
何を買うのか気になるらしく、僕が棚を見るたびに隣から覗き込んでくる。
豆腐と鶏肉、鱈の切り身。
海老は少し迷ったけれど、年末だし、という理由で入れることにした。
僕一人なら、もっと簡単なもので済ませていただろう。
そう思いながら振り返ると、かごの中に見覚えのない袋が増えていた。
「……ルシャ」
「何?」
「このお菓子は?」
「美味しそうだったから」
「そっちのプリンは?」
「そっちも美味しそうだったから」
悪びれもせずに答える。
その手には、次の候補らしいチョコレートまで握られていた。
「全部は買わないぞ」
「いいじゃない。別に減るものでもないし」
「減るんだよ、僕のお金が」
思ったより大きな声が出て、近くにいた人がこちらを向いた。
僕は口を閉じ、何でもない顔でカートを押し始める。
横からついてきたルシャが、チョコレートをかごの上へかざした。
「これは?」
「一つ選べ」
「……じゃあ、これと」
「一つって言ったよな?」
年の最後まで、僕の財布に平穏は訪れないらしかった。
◆
「……疲れたわ」
家へ戻るなり、ルシャはベッドへうつ伏せに倒れ込んだ。
枕を抱え、頬を押しつけたまま、足をぱたぱたと動かしている。
「だから言っただろ。大掃除なんて、そんなに楽しいものじゃないって」
「別に、楽しくなかったとは言ってないわよ」
布越しの声が返ってきた。
僕は買ってきた食材を台所へ並べ、上着を脱ぐ。
窓を拭き、床を綺麗にし、重いものを運び、帰りの荷物まで持ってもらった。
疲れているのも当然だろう。
僕の方は、今日は大半を座って過ごしていたので、少しくらいは働きたいところだった。
「少し休んでろ。ご飯は僕が用意するから」
「駄目よ。シヲリも座っていなさい」
顔を上げもしないまま言われる。
ずいぶんと徹底した見張りだった。
「野菜を切るだけ。椅子も使うから」
「……終わったら、呼んで」
「ああ」
ようやく許しが出たので、小さな椅子を台所へ寄せる。
白菜をざく切りにし、長ねぎを斜めに切る。
きのこをほぐして、豆腐を分け、肉と魚は別に用意した。
それぞれ皿へ移していくと、二人分にしては、少し立派な量になる。
鍋はいい。
食材さえ用意してしまえば、あとは火の通りを見ながら煮るだけだ。
食べる量も、入れる順番も、それぞれ好きに決められる。
もっとも、隣に底なしの胃袋を持つ女がいる場合は、その限りではないかもしれないけれど。
昆布の出汁を張った鍋を火にかけ、火の通りに時間がかかるものから入れていく。
やがて、蓋の隙間から白い湯気が立ち始めた。
鶏肉ときのこの香りが、狭い部屋の中へゆっくりと広がっていく。
背後で、布団が動く音がした。
「……いい匂い」
振り返ると、ルシャがベッドから起き上がっていた。
乱れた髪を手で整えながら台所まで来ると、鍋の中を覗き込む。
「もう食べられる?」
「もう少し。食器、並べてくれないか」
「ええ」
返事をした途端、動きが軽くなった。
どうやら疲れていても、食欲だけは別らしい。
取り皿と箸を並べ、ポン酢とごまだれを用意する。
テレビをつけると、賑やかな音楽と共に、年末の特番が映った。
普段より華やかな画面が、部屋の中を明るく照らす。
鍋を食卓へ移す頃には、ルシャはもう席について待ち構えていた。
「できたぞ」
「待ってたわ」
「見てたんだから、知ってるよ」
蓋を取る。
白い湯気の向こうで、白菜が柔らかく沈み、海老が鮮やかな赤に色づいていた。
ルシャが身を乗り出す。
その顔を見て、少しだけ奮発してよかったと思った。
口にすると調子に乗るので、言わないけれど。
「それじゃあ、いただきま――」
インターホンが鳴った。
手を合わせかけたところで、二人の動きが止まる。
時刻は、二十時を少し過ぎたところだった。
こんな時間に、それも大晦日に訪ねてくる相手には、心当たりがない。
マミさんだろうか。
そう思いながらモニターをつける。
映っていたのは、知らない女性だった。
肩口まで伸びた栗色の髪。黒いコートの襟元まで乱れなく整えられ、両手には黒い手袋を嵌めている。
その手を身体の前で重ね、女性は静かに扉の向こうへ立っていた。
「……どちら様ですか」
『夜分遅くに失礼いたします。イルゼと申します。ルシアーデ様に、お取り次ぎをお願いできますでしょうか』
胸の奥が、すっと冷えた。
ルシアーデ。
その名前を知っている人間が、ただの客であるはずがない。
僕は受話器を持ったまま、振り返る。
ルシャも箸を置き、こちらを見ていた。
「イルゼ?」
「知ってるのか?」
「ええ。……どうしてここに」
彼女が立ち上がる。
僕は携帯電話をポケットへ入れ、先に玄関へ向かった。
念のためチェーンを掛けたまま、扉をわずかに開ける。
冷たい冬の空気が、隙間から入り込んできた。
その向こうに立つ女性を、改めて見る。
淡い灰緑色の瞳。
磨かれた靴に、皺ひとつない襟元。
隙のない身なりとは裏腹に、その表情は穏やかだった。
「こんばんは。黒上シヲリ様ですね」
女性は、深く頭を下げた。
「まず、お伝えいたします。私は、お二人と争うために来たのではありません」
「……それを、僕に信じろと?」
「ご警戒は、ごもっともです」
女性――イルゼは姿勢を戻した。
その動きには、こちらを急かすところも、苛立った様子もない。
だからといって、すぐに信用できるわけではなかった。
「先日、ハインツがあなたへ危害を加えた件について、お詫び申し上げます。こちらの管理が行き届かず、申し訳ございませんでした」
もう一度、深く頭が下がる。
僕は扉の縁を掴んだまま、何も言わなかった。
僕の名前を知っている。
ハインツのことも、あの夜に何があったのかも知っている。
それだけで、この人がどちら側の人間なのかは十分だった。
イルゼは鞄を開き、厚手の封筒を取り出した。
封の部分には、見慣れない紋章が押されている。
「こちらは、治療費と、ご迷惑をおかけしたことへのお詫びです」
「……何ですか」
「小切手を入れております。お受け取りください」
「すみませんが、受け取れません」
差し出された封筒へ手を伸ばさず、首を振る。
受け取った途端、何かに了承したことになるのではないか。
そんなことまで考えてしまう自分がいた。
「今ここで、お金を受け取る気にはなれません」
イルゼは一度だけ目を伏せた。
無理に押しつけることはせず、静かに封筒を鞄へ戻す。
「承知いたしました。では、こちらについては改めてご相談させてください」
その返答に何を言えばいいのか迷ったところで、背後から声がした。
「イルゼ。何をしに来たの?」
ルシャが、僕の隣へ並ぶ。
彼女を見た瞬間、イルゼの表情がわずかに変わった。
それまで崩れなかった顔に、ほんの少しだけ安堵の色が差す。
「お久しぶりです、お嬢様」
深く、頭が下がった。
「お迎えに上がりました」
◆