魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第二章「染み出した雪は、もう白には戻れない」 七日目(下)

 

 ◆

 

 土鍋の中で、出汁が静かに煮立っていた。

 白い湯気の向こうには、ルシャ。

 その隣には、彼女を迎えに来たという魔術士。

 そして僕は、その二人と鍋を囲んでいた。

 ……何故だ。

 

「シヲリ。それ、もう食べられる?」

「どれ?」

「これ」

 ルシャが指さしたのは、さっき追加したばかりの鶏肉だった。

「まだ。こっちならいい」

「じゃあ、そっちをちょうだい」

「自分で取れるだろ」

 

 そう言いながらも、近くにあった取り箸で、火の通った肉を彼女の皿へ移す。

 ルシャは満足そうに頷き、ごまだれへ沈めた。

 向かいのイルゼさんは、背筋を伸ばしたまま白菜を口へ運んでいる。

 箸の使い方まで、妙に綺麗だった。

 何故こうなったのか。

 理由は単純だった。

 

『話なら、中でしましょう。ちょうど鍋ができたところなのよ』

 

 ルシャが、そう言って招き入れたからだ。

 僕の家なのに、許可を出す順番が完全に逆だった。

 ただ、ルシャはこの人なら大丈夫だと言ったし、玄関先でいつまでも押し問答を続けるわけにもいかない。

 マミさんへ来訪を伝えたうえで、結局、僕は食器を一つ増やすことにしたのだった。

 

「黒上様」

「……はい」

「こちらの鱈、もうよろしいかと」

 ぼんやりしていた僕の前へ、取り分けられた皿が差し出される。

「あ、ありがとうございます」

「いえ。こちらこそ、突然お邪魔したうえ、お食事まで頂戴してしまい」

 

 丁寧に頭を下げられた。

 何となく、こちらまで頭を下げる。

 隣でルシャが、僕たちの間を見比べていた。

 

「何をそんなに気を遣っているのよ。冷めるわよ」

「お前は、もう少し気を遣え」

 

 返すと、ルシャは聞こえなかったふりをして海老へ箸を伸ばした。

 テレビからは、賑やかな笑い声が流れてくる。

 窓の外には、細かな雪が舞い始めていた。

 暖かな部屋で、三人で鍋を囲んでいる。

 その光景だけなら、ごく普通の大晦日だった。

 ルシャが、最後に残っていた鱈へ箸を伸ばす。

 ほぼ同時に、イルゼさんの箸も同じ場所で止まった。

 二人が顔を見合わせる。

 

「イルゼ」

「はい」

「私、それが食べたいわ」

「どうぞ」

 イルゼさんは、あっさりと箸を引いた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 今度は僕が言う前に、礼が出た。

 ルシャが鱈を頬張るのを、イルゼさんが目を細めて見ている。

 世話係。

 昨日聞いた言葉を思い出す。

 あの男には少しも似合わなかった呼び方が、この人には妙にしっくりきた。

 

「……何ですか、黒上様」

「いえ。何でもないです」

 

 見ていたことに気づかれて、僕は自分の皿へ目を落とした。

 

 ◆

 

 鍋の中身がだいぶ減ったところで、ルシャが湯呑みへ手を伸ばした。

 一口飲み、ようやくイルゼさんへ向き直る。

 

「それで。どうして、こんなに早く来たのよ」

「先ほど申し上げた通り、お迎えです。儀式まで、もう日がございません」

「まだあるでしょう。ちゃんと、それまでには帰るわ」

「当日までにお戻りいただければよい、というものではございません。準備も確認も必要です」

 

 イルゼさんの声は、穏やかなままだった。

 それでも、その言い方から、簡単に引くつもりがないことだけは分かる。

 

「万全の状態で儀式を迎えていただかなければなりません。これは、クロイツ家の悲願でもあるのですから」

「分かっているわよ」

 

 ルシャは箸を置いた。

 食器の触れ合う音が、少しだけ強く響く。

 

「私にだって、まだ帰れない理由があるの」

「契約の件でしたら、承知しております」

「だったら、急かさないで」

 

 僕は湯呑みを持ったまま、二人を見ていた。

 儀式。

 クロイツ家。

 それに、契約。

 昨日、聞かない方がいいと言われた話が、すぐ目の前で進んでいる。

 僕だけが、その意味を知らない。

 

「お戻りいただけるのであれば、黒上シヲリ様の安全は、こちらで保証いたします」

 

 不意に自分の名前が出て、顔を上げた。

 安全。

 そう言われて最初に思い出したのは、公園の砂利の感触だった。

 膝の上に置いた手へ、知らず力が入る。

 

「イルゼ」

 

 ルシャの声が、一段低くなった。

 テレビから流れていた笑い声が、急に遠く聞こえる。

 彼女は姿勢を変えていない。

 ただ、イルゼさんを見る目だけが、さっきまでとは違っていた。

 

「それは、今すぐ帰らなければ、シヲリに危害を加えるという意味?」

「そのような意図ではございません」

「なら、どうしてシヲリの安全が、私の返事次第になるのかしら」

 

 イルゼさんが、初めて言葉を止めた。

 僕は湯呑みを置く。

 口を挟もうとした、その時だった。

 ルシャが身を乗り出す。

 伸ばされた指が、イルゼさんの首元へ触れた。

 

「ルシャ」

 

 呼んでも、こちらを見ない。

 イルゼさんも避けようとはしなかった。

 ただ僕へ視線を送り、動かないようにと、ほんのわずかに首を振る。

 

「もし、シヲリに何かしてみなさい」

 

 淡々とした声だった。

 怒鳴られるよりも、ずっと冷たかった。

 

「あなたたちを滅茶苦茶にして、私も死ぬわ。私がいなければ、あなたたちは降ろせないのでしょう?」

 

 息が、喉で止まった。

 今、何と言った?

 イルゼさんの顔が、初めてはっきりと強張る。

 首元へ触れた指には目も向けず、ただルシャを見つめていた。

 

「……お嬢様」

「私は、帰らないと言っているわけじゃないのよ。それまで、手を出さないでと言っているだけ」

 

 土鍋の蓋が、かた、と微かに鳴った。

 その音に押されるように、僕は口を開く。

 

「ルシャ。手を離せ」

 彼女の目が、ようやくこちらへ向いた。

「……シヲリ」

「話をしに来たんだろ。この人は」

 

 自分でも、少し声が硬いと思った。

 けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。

 今の言葉について、ここで問い詰めることもできない。

 ルシャはしばらく僕を見ていたが、やがて唇を結び、ゆっくりと手を引いた。

 イルゼさんは襟元を直そうともせず、しばらく目を閉じていた。

 それから、小さく息を吐く。

 

「……分かりました」

 ゆっくりと目を開き、ルシャを見る。

「お二人の身に危害が及ばないよう、こちらでも手を尽くします。そして、お嬢様がお戻りになることを、黒上様の安全の条件にはいたしません」

 ルシャは黙っていた。

「ただし、一月三日」

「……三日?」

「その日に、お戻りください。こちらにも準備がございます。儀式を万全に迎えるためにも、どうか、そこはお譲りください」

 

 思っていたよりも、ずっと近かった。

 正月を迎えて。

 一日、二日と過ごした、その次だ。

 ルシャはしばらくイルゼさんを睨んでいた。

 やがて力を抜くように、背もたれへ身体を預ける。

 

「……分かったわ」

「ありがとうございます」

「だから、それまでは放っておいて」

「承知いたしました」

 

 深く下げられた頭を、僕は黙って見ていた。

 これで、決まったらしい。

 細かいことは、まだ何も分からない。

 それでも、ルシャが帰る日だけは、はっきりした。

 一月三日。

 カレンダーの数字が一つだけ、急に重くなった気がした。

 

 ◆

 

 それからしばらく、誰もあまり話さなかった。

 火を弱めた鍋から、細い湯気が上がっている。

 残った具を取り分けながら、僕はさっきの会話を頭の中で繰り返していた。

 降ろせない。

 あれは、何を指しているのだろう。

 それに――私も死ぬ、と。

 どうして、あんな言葉をあれほど簡単に口にできたのか。

 

「黒上様」

 

 呼ばれて、顔を上げる。

 イルゼさんが、静かにこちらを見ていた。

 

「お食事の席で、失礼いたしました」

「……いえ」

 

 何に対して謝られているのか、すぐには分からなかった。

 険悪な空気にしてしまったことか。

 それとも、僕の安全を交渉へ持ち込んだことか。

 イルゼさんは言い訳をすることなく、改めて頭を下げた。

 

「ごちそうさまでした。大変美味しかったです」

「まだ、うどんがありますけど」

 

 自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からない。

 ただ、鍋が終わった後には、うどんを入れるものだった。

 義母さんの家では、ずっとそうしていたから。

 イルゼさんが、少しだけ目を見開く。

 

「……お気持ちだけ、頂戴いたします。私も、そろそろ戻らなければなりませんので」

「そうですか」

 

 立ち上がった彼女を、僕もゆっくりと追いかける。

 玄関で靴を履く動作まで、最初に会った時と変わらず丁寧だった。

 

「お嬢様を、残りの時間、よろしくお願いいたします」

 

 振り返ったイルゼさんが、僕へ頭を下げる。

「……はい」

 残りの時間。

 その言い方に、胸のどこかが引っかかった。

 けれど、尋ねるより先に、部屋の方からルシャの声がした。

 

「イルゼ」

 

 彼女は部屋の入口に立ち、こちらを見ていた。

 さっきまでの怒りは、もう顔から消えている。

 

「ヴァルターに伝えて。心配しなくても、必ず帰るわ。だから、それまでは私たちに関わらないで」

「……承知いたしました」

 

 また、知らない名前が一つ増えた。

 イルゼさんはルシャへ向き直り、もう一度、深く頭を下げる。

 顔を上げた時、その目がほんの少しだけ細められていた。

 嬉しそうにも、寂しそうにも見える、不思議な表情だった。

 

「それでは、お二人とも。どうぞ、よいお年を」

 

 扉が閉まる。

 入り込んだ冷気だけが足元に残り、僕はしばらく、その場に立っていた。

 

 ◆

 

 食卓へ戻ると、鍋はすっかり静かになっていた。

 時計を見る。

 二十三時を回っている。

 テレビの中では、今年一年を振り返る映像が流れていた。

 さっきまであれほど遠く感じていた声が、部屋に二人きりになると、妙にはっきり聞こえる。

 

「……うどん、食べるか」

「食べるわ」

 

 返事は早かった。

 そのことに少し安心して、僕は鍋の火をつけ直す。

 出汁を足し、残っていた野菜を端へ寄せて、うどんを入れた。

 白い麺が湯の中でゆっくりとほぐれていく。

 ルシャは、それを黙って見ていた。

 

「イルゼって、いつもあんな感じなのか」

「どんな?」

「丁寧で、あんまり怒らない感じ」

「そうね。昔から、ああよ」

 

 ルシャは空の取り皿を、指先で小さく動かした。

 

「少し、口うるさいけれど」

「お前相手なら、仕方ないだろ」

「何よ、それ」

 

 いつもの返事だった。

 けれど、そこから言い合いにはならなかった。

 僕は取り箸で麺をほぐしながら、聞くべきかどうか迷っていた。

 儀式のこと。

 帰る日のこと。

 さっき、イルゼさんへ言ったこと。

 考えているうちに、ルシャが口を開いた。

 

「……さっきは、ごめんなさい」

「何が?」

「せっかく、シヲリが用意してくれたのに」

 

 顔を上げる。

 彼女は鍋を見たままだった。

 僕が気にしていたことと、彼女が謝っていることは、少し違う。

 それでも、今はその言葉を受け取ることにした。

 

「まだ終わってないだろ」

「え?」

「うどんまで食べて、年を越すんだから。今から続きだよ」

 

 湯気の向こうから、ルシャが僕を見る。

 僕は彼女の皿を取り、煮えたうどんを少しずつ移した。

 

「熱いから、気をつけろよ」

「……それくらい分かっているわ」

 

 両手で受け取った皿から、白い湯気が上がる。

 ルシャは麺を持ち上げ、何度か息を吹きかけてから口へ運んだ。

 しばらくして、張っていた肩がわずかに緩む。

 

「美味しい」

「だろ」

「さっきの鍋と、味が違うわ」

「いろいろ煮たからな。いい出汁が出てるんだよ」

 

 僕も自分の分を口へ運ぶ。

 肉と魚と野菜の味を吸ったうどんは、よく知っているはずなのに、いつもとは少し違う味がした。

 食材のせいなのか。

 隣にいる相手のせいなのかは、分からない。

 明日もある。

 明後日も、一緒にいられる。

 けれど、一月三日には迎えが来る。

 残された時間を数えそうになって、僕はテレビへ目を向けた。

 

「初詣、行くんでしょう?」

 

 隣から、ルシャが聞いた。

 顔を戻すと、彼女は空になりかけた皿を手にしていた。

 

「……ああ。脚の様子を見ながらな」

「遠いの?」

「近くの神社なら、そんなに。走らなくても間に合う」

「じゃあ、早く食べないと」

「だから、急がなくてもいいって」

 

 ルシャは聞いているのかいないのか、残ったうどんへ箸を伸ばす。

 僕も止めるのをやめ、自分の皿を持ち直した。

 さっきの言葉が、消えたわけではない。

 聞けなかったことも、知らない名前も、そのまま胸の内に残っている。

 それでも、今は隣に彼女がいた。

 湯気の向こうで、明日の話をしている。

 僕は鍋の火を止めた。

 蓋を置く小さな音が、テレビの声に紛れる。

 今年が終わるまで、もう一時間もなかった。

 

 ◆

 

 

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