魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
土鍋の中で、出汁が静かに煮立っていた。
白い湯気の向こうには、ルシャ。
その隣には、彼女を迎えに来たという魔術士。
そして僕は、その二人と鍋を囲んでいた。
……何故だ。
「シヲリ。それ、もう食べられる?」
「どれ?」
「これ」
ルシャが指さしたのは、さっき追加したばかりの鶏肉だった。
「まだ。こっちならいい」
「じゃあ、そっちをちょうだい」
「自分で取れるだろ」
そう言いながらも、近くにあった取り箸で、火の通った肉を彼女の皿へ移す。
ルシャは満足そうに頷き、ごまだれへ沈めた。
向かいのイルゼさんは、背筋を伸ばしたまま白菜を口へ運んでいる。
箸の使い方まで、妙に綺麗だった。
何故こうなったのか。
理由は単純だった。
『話なら、中でしましょう。ちょうど鍋ができたところなのよ』
ルシャが、そう言って招き入れたからだ。
僕の家なのに、許可を出す順番が完全に逆だった。
ただ、ルシャはこの人なら大丈夫だと言ったし、玄関先でいつまでも押し問答を続けるわけにもいかない。
マミさんへ来訪を伝えたうえで、結局、僕は食器を一つ増やすことにしたのだった。
「黒上様」
「……はい」
「こちらの鱈、もうよろしいかと」
ぼんやりしていた僕の前へ、取り分けられた皿が差し出される。
「あ、ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、突然お邪魔したうえ、お食事まで頂戴してしまい」
丁寧に頭を下げられた。
何となく、こちらまで頭を下げる。
隣でルシャが、僕たちの間を見比べていた。
「何をそんなに気を遣っているのよ。冷めるわよ」
「お前は、もう少し気を遣え」
返すと、ルシャは聞こえなかったふりをして海老へ箸を伸ばした。
テレビからは、賑やかな笑い声が流れてくる。
窓の外には、細かな雪が舞い始めていた。
暖かな部屋で、三人で鍋を囲んでいる。
その光景だけなら、ごく普通の大晦日だった。
ルシャが、最後に残っていた鱈へ箸を伸ばす。
ほぼ同時に、イルゼさんの箸も同じ場所で止まった。
二人が顔を見合わせる。
「イルゼ」
「はい」
「私、それが食べたいわ」
「どうぞ」
イルゼさんは、あっさりと箸を引いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
今度は僕が言う前に、礼が出た。
ルシャが鱈を頬張るのを、イルゼさんが目を細めて見ている。
世話係。
昨日聞いた言葉を思い出す。
あの男には少しも似合わなかった呼び方が、この人には妙にしっくりきた。
「……何ですか、黒上様」
「いえ。何でもないです」
見ていたことに気づかれて、僕は自分の皿へ目を落とした。
◆
鍋の中身がだいぶ減ったところで、ルシャが湯呑みへ手を伸ばした。
一口飲み、ようやくイルゼさんへ向き直る。
「それで。どうして、こんなに早く来たのよ」
「先ほど申し上げた通り、お迎えです。儀式まで、もう日がございません」
「まだあるでしょう。ちゃんと、それまでには帰るわ」
「当日までにお戻りいただければよい、というものではございません。準備も確認も必要です」
イルゼさんの声は、穏やかなままだった。
それでも、その言い方から、簡単に引くつもりがないことだけは分かる。
「万全の状態で儀式を迎えていただかなければなりません。これは、クロイツ家の悲願でもあるのですから」
「分かっているわよ」
ルシャは箸を置いた。
食器の触れ合う音が、少しだけ強く響く。
「私にだって、まだ帰れない理由があるの」
「契約の件でしたら、承知しております」
「だったら、急かさないで」
僕は湯呑みを持ったまま、二人を見ていた。
儀式。
クロイツ家。
それに、契約。
昨日、聞かない方がいいと言われた話が、すぐ目の前で進んでいる。
僕だけが、その意味を知らない。
「お戻りいただけるのであれば、黒上シヲリ様の安全は、こちらで保証いたします」
不意に自分の名前が出て、顔を上げた。
安全。
そう言われて最初に思い出したのは、公園の砂利の感触だった。
膝の上に置いた手へ、知らず力が入る。
「イルゼ」
ルシャの声が、一段低くなった。
テレビから流れていた笑い声が、急に遠く聞こえる。
彼女は姿勢を変えていない。
ただ、イルゼさんを見る目だけが、さっきまでとは違っていた。
「それは、今すぐ帰らなければ、シヲリに危害を加えるという意味?」
「そのような意図ではございません」
「なら、どうしてシヲリの安全が、私の返事次第になるのかしら」
イルゼさんが、初めて言葉を止めた。
僕は湯呑みを置く。
口を挟もうとした、その時だった。
ルシャが身を乗り出す。
伸ばされた指が、イルゼさんの首元へ触れた。
「ルシャ」
呼んでも、こちらを見ない。
イルゼさんも避けようとはしなかった。
ただ僕へ視線を送り、動かないようにと、ほんのわずかに首を振る。
「もし、シヲリに何かしてみなさい」
淡々とした声だった。
怒鳴られるよりも、ずっと冷たかった。
「あなたたちを滅茶苦茶にして、私も死ぬわ。私がいなければ、あなたたちは降ろせないのでしょう?」
息が、喉で止まった。
今、何と言った?
イルゼさんの顔が、初めてはっきりと強張る。
首元へ触れた指には目も向けず、ただルシャを見つめていた。
「……お嬢様」
「私は、帰らないと言っているわけじゃないのよ。それまで、手を出さないでと言っているだけ」
土鍋の蓋が、かた、と微かに鳴った。
その音に押されるように、僕は口を開く。
「ルシャ。手を離せ」
彼女の目が、ようやくこちらへ向いた。
「……シヲリ」
「話をしに来たんだろ。この人は」
自分でも、少し声が硬いと思った。
けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。
今の言葉について、ここで問い詰めることもできない。
ルシャはしばらく僕を見ていたが、やがて唇を結び、ゆっくりと手を引いた。
イルゼさんは襟元を直そうともせず、しばらく目を閉じていた。
それから、小さく息を吐く。
「……分かりました」
ゆっくりと目を開き、ルシャを見る。
「お二人の身に危害が及ばないよう、こちらでも手を尽くします。そして、お嬢様がお戻りになることを、黒上様の安全の条件にはいたしません」
ルシャは黙っていた。
「ただし、一月三日」
「……三日?」
「その日に、お戻りください。こちらにも準備がございます。儀式を万全に迎えるためにも、どうか、そこはお譲りください」
思っていたよりも、ずっと近かった。
正月を迎えて。
一日、二日と過ごした、その次だ。
ルシャはしばらくイルゼさんを睨んでいた。
やがて力を抜くように、背もたれへ身体を預ける。
「……分かったわ」
「ありがとうございます」
「だから、それまでは放っておいて」
「承知いたしました」
深く下げられた頭を、僕は黙って見ていた。
これで、決まったらしい。
細かいことは、まだ何も分からない。
それでも、ルシャが帰る日だけは、はっきりした。
一月三日。
カレンダーの数字が一つだけ、急に重くなった気がした。
◆
それからしばらく、誰もあまり話さなかった。
火を弱めた鍋から、細い湯気が上がっている。
残った具を取り分けながら、僕はさっきの会話を頭の中で繰り返していた。
降ろせない。
あれは、何を指しているのだろう。
それに――私も死ぬ、と。
どうして、あんな言葉をあれほど簡単に口にできたのか。
「黒上様」
呼ばれて、顔を上げる。
イルゼさんが、静かにこちらを見ていた。
「お食事の席で、失礼いたしました」
「……いえ」
何に対して謝られているのか、すぐには分からなかった。
険悪な空気にしてしまったことか。
それとも、僕の安全を交渉へ持ち込んだことか。
イルゼさんは言い訳をすることなく、改めて頭を下げた。
「ごちそうさまでした。大変美味しかったです」
「まだ、うどんがありますけど」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からない。
ただ、鍋が終わった後には、うどんを入れるものだった。
義母さんの家では、ずっとそうしていたから。
イルゼさんが、少しだけ目を見開く。
「……お気持ちだけ、頂戴いたします。私も、そろそろ戻らなければなりませんので」
「そうですか」
立ち上がった彼女を、僕もゆっくりと追いかける。
玄関で靴を履く動作まで、最初に会った時と変わらず丁寧だった。
「お嬢様を、残りの時間、よろしくお願いいたします」
振り返ったイルゼさんが、僕へ頭を下げる。
「……はい」
残りの時間。
その言い方に、胸のどこかが引っかかった。
けれど、尋ねるより先に、部屋の方からルシャの声がした。
「イルゼ」
彼女は部屋の入口に立ち、こちらを見ていた。
さっきまでの怒りは、もう顔から消えている。
「ヴァルターに伝えて。心配しなくても、必ず帰るわ。だから、それまでは私たちに関わらないで」
「……承知いたしました」
また、知らない名前が一つ増えた。
イルゼさんはルシャへ向き直り、もう一度、深く頭を下げる。
顔を上げた時、その目がほんの少しだけ細められていた。
嬉しそうにも、寂しそうにも見える、不思議な表情だった。
「それでは、お二人とも。どうぞ、よいお年を」
扉が閉まる。
入り込んだ冷気だけが足元に残り、僕はしばらく、その場に立っていた。
◆
食卓へ戻ると、鍋はすっかり静かになっていた。
時計を見る。
二十三時を回っている。
テレビの中では、今年一年を振り返る映像が流れていた。
さっきまであれほど遠く感じていた声が、部屋に二人きりになると、妙にはっきり聞こえる。
「……うどん、食べるか」
「食べるわ」
返事は早かった。
そのことに少し安心して、僕は鍋の火をつけ直す。
出汁を足し、残っていた野菜を端へ寄せて、うどんを入れた。
白い麺が湯の中でゆっくりとほぐれていく。
ルシャは、それを黙って見ていた。
「イルゼって、いつもあんな感じなのか」
「どんな?」
「丁寧で、あんまり怒らない感じ」
「そうね。昔から、ああよ」
ルシャは空の取り皿を、指先で小さく動かした。
「少し、口うるさいけれど」
「お前相手なら、仕方ないだろ」
「何よ、それ」
いつもの返事だった。
けれど、そこから言い合いにはならなかった。
僕は取り箸で麺をほぐしながら、聞くべきかどうか迷っていた。
儀式のこと。
帰る日のこと。
さっき、イルゼさんへ言ったこと。
考えているうちに、ルシャが口を開いた。
「……さっきは、ごめんなさい」
「何が?」
「せっかく、シヲリが用意してくれたのに」
顔を上げる。
彼女は鍋を見たままだった。
僕が気にしていたことと、彼女が謝っていることは、少し違う。
それでも、今はその言葉を受け取ることにした。
「まだ終わってないだろ」
「え?」
「うどんまで食べて、年を越すんだから。今から続きだよ」
湯気の向こうから、ルシャが僕を見る。
僕は彼女の皿を取り、煮えたうどんを少しずつ移した。
「熱いから、気をつけろよ」
「……それくらい分かっているわ」
両手で受け取った皿から、白い湯気が上がる。
ルシャは麺を持ち上げ、何度か息を吹きかけてから口へ運んだ。
しばらくして、張っていた肩がわずかに緩む。
「美味しい」
「だろ」
「さっきの鍋と、味が違うわ」
「いろいろ煮たからな。いい出汁が出てるんだよ」
僕も自分の分を口へ運ぶ。
肉と魚と野菜の味を吸ったうどんは、よく知っているはずなのに、いつもとは少し違う味がした。
食材のせいなのか。
隣にいる相手のせいなのかは、分からない。
明日もある。
明後日も、一緒にいられる。
けれど、一月三日には迎えが来る。
残された時間を数えそうになって、僕はテレビへ目を向けた。
「初詣、行くんでしょう?」
隣から、ルシャが聞いた。
顔を戻すと、彼女は空になりかけた皿を手にしていた。
「……ああ。脚の様子を見ながらな」
「遠いの?」
「近くの神社なら、そんなに。走らなくても間に合う」
「じゃあ、早く食べないと」
「だから、急がなくてもいいって」
ルシャは聞いているのかいないのか、残ったうどんへ箸を伸ばす。
僕も止めるのをやめ、自分の皿を持ち直した。
さっきの言葉が、消えたわけではない。
聞けなかったことも、知らない名前も、そのまま胸の内に残っている。
それでも、今は隣に彼女がいた。
湯気の向こうで、明日の話をしている。
僕は鍋の火を止めた。
蓋を置く小さな音が、テレビの声に紛れる。
今年が終わるまで、もう一時間もなかった。
◆