魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
「シヲリ、早く」
「これ以上は無理だって」
「あと少ししかないじゃない」
「新年になった途端、神社が閉まるわけじゃないんだから」
そう言っても、ルシャは前を向いたまま、僕の手を軽く引いた。
ただ、歩く速さそのものは、僕に合わせてくれている。
急かす言葉と、慎重な足取りが、妙にちぐはぐだった。
彼女のコートの下からは、鮮やかな振袖が覗いている。
昨日、マミさんの家を出る前に借りたものだ。
せっかく初詣へ行くのなら、と広げて見せられた途端、ルシャが気に入ってしまったのである。
問題は、着方まで気にしていなかったことだった。
結局、出かける前に携帯電話で手順を確かめながら、二人で悪戦苦闘することになった。
僕は主に説明を読み上げ、途中からは帯や紐を持たされる係だった。
それだけで、外へ出る前から随分と疲れた気がする。
「着方くらい、聞いておけばよかっただろ」
「シヲリが知っていると思ったのよ」
「僕を何だと思ってるんだ」
「だいたいのことは、何とかする人」
返事に詰まった。
褒められたのか、便利に扱われているだけなのか、判断がつかない。
鳥居の向こうには、既に大勢の人が集まっていた。
屋台の灯りに照らされた白い息が、あちこちで浮かんでは消えている。
焼けた醤油の匂いと、甘い菓子の香り。
普段は静かな神社の周りが、今夜だけは別の場所のようだった。
その賑わいの向こうから、低い鐘の音が届く。
近くの寺で鳴らしているのだろう。
長く尾を引く音が、冷たい夜気の中へ溶けていった。
やがて、どこかで誰かが年が明けたと声を上げる。
携帯電話を確かめる人が増え、すぐ近くでも新年の挨拶が交わされ始めた。
「……あ」
ルシャが足を止め、僕を見る。
僕も時刻を確かめてから、携帯電話をしまった。
「あけましておめでとう」
「ええ。あけましておめでとう、シヲリ」
繋いでいた手が、少しだけ緩んだ。
ルシャは周りの人を見て、それから僕へ向き直る。
「今年も、よろしくね」
何でもない挨拶のはずだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、一月三日という日付が頭をよぎる。
今年も。
そのうち、どれくらいを一緒に過ごせるのだろう。
「……こちらこそ」
余計なことは言わなかった。
ルシャも何も付け足さず、ただ小さく笑った。
その数秒後には、もう屋台へ顔を向けていたけれど。
「シヲリ、あれ」
「お前、さっきまでうどん食べてただろ」
「これは別よ」
「胃袋は一つだぞ」
「知っているわよ。それくらい」
知っていて、その発言なのだから困る。
ともかく、先にお参りだ。
そう言って参道へ向かおうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「あれ、黒上君?」
振り返る。
人の間から、見慣れたポニーテールが揺れていた。
「宮本さん」
彼女は僕を見つけて微笑み、それから隣へ視線を移した。
「……ルシャさんも」
「あら。あなたも来ていたのね」
ルシャの声が、少しだけ変わった。
僕の手を離すと、代わりに腕の近くへ寄ってくる。
宮本さんはその動きを一度見てから、こちらへ丁寧に頭を下げた。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「うん。あけましておめでとう」
「ルシャさんも」
「ええ。おめでとう」
挨拶だけ聞けば、実に穏やかなものだった。
なのに、何故か僕は、二人の間へ立っていた方がいいような気がしていた。
「今、いらしたところですか?」
「うん。これからお参りするところ」
「それなら、私もご一緒してもいいですか」
「もちろん。ルシャも――」
「今日は、私と来たんでしょう?」
言い終わる前に、袖を引かれる。
予想していた反応だったので、僕はできるだけ落ち着いて答えた。
「だから、一緒にお参りするんだよ。三人で」
「二人で来たのに」
「人数が増えたら駄目なのか?」
ルシャは唇を尖らせた。
その向こうで、宮本さんが穏やかに微笑んでいる。
「お邪魔はしませんから」
「もうしているじゃない」
「おい」
小さく名前を呼ぶ代わりに、僕はルシャを見る。
彼女は不満そうに鼻を鳴らし、拝殿へ続く列へ目を向けた。
……今年も、騒がしくなりそうだった。
◆
参拝の列は、ゆっくりとしか進まなかった。
前へ数歩進んでは止まり、また少し進む。
急いで歩かなくていいのは、今の僕にはありがたかった。
「黒上君。脚、どうかしたんですか?」
宮本さんの視線が、足元へ落ちた。
なるべく普通に歩いていたつもりだったけれど、気づかれたらしい。
「……ちょっと、痛めて」
「大丈夫なんですか?」
「歩く分には。もう診てもらってるから」
それは本当だった。
ただ、誰に、何の怪我を診てもらったのかまでは言えない。
宮本さんは一瞬だけルシャを見た。
ルシャも、その視線を受け止めている。
けれど、どちらも何も言わなかった。
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
そう答えたところで、列が動く。
僕が先へ進むと、後ろから小さな声が聞こえた。
「随分と、心配するのね」
「友達ですから」
「ふうん。本当に、それだけ?」
「ルシャさん」
振り返りかける。
けれど、宮本さんがこちらへ笑顔を向けたので、何となくそのまま前を向いた。
「何でもありません。どうぞ、進んでください」
「……うん」
何でもないようには聞こえなかったけれど。
少なくとも、今ここで僕が口を挟むよりは、二人で話してもらった方がいいのかもしれない。
歩みが止まったところで、僕は携帯電話を取り出した。
マミさんとのやり取りを開く。
そこには、イルゼさんが来たことを知らせた昨夜のメッセージが残っていた。
その下の入力欄には、途中まで書いて、そのままにしてある文章がある。
『ルシャの儀式について、知っていることがあれば』
指が止まる。
知っていることがあれば、教えてほしい。
そう続ければいいだけだった。
けれど、その短い一文が、どうしても最後まで書けない。
『そこから先は、聞かない方がいいわ』
ルシャの声を思い出す。
聞いたところで、僕に何ができる。
帰る日も決まっている。
その日まで契約を果たすことだけ考えていれば、それでいいはずだった。
画面の文字を消す。
何もなくなった入力欄を、もう一度見つめた。
「次の方、どうぞ」
声をかけられて、顔を上げる。
目の前が空いていた。
いつの間にか、列の先頭まで来ていたらしい。
「ルシャ、宮本さん――」
振り向く。
すぐ後ろにいたのは、知らない人だった。
慌てて横を見る。
並んで進む人の肩や、コートの襟。
その間に、銀髪もポニーテールも見えなかった。
「どうぞ、お進みください」
後ろからも人が来ている。
ここで立ち止まって探すわけにはいかず、僕は携帯電話をしまった。
先へ出てから、待っていよう。
そう決め、賽銭を入れて、鈴緒へ手を伸ばす。
澄んだ音が、頭上で鳴った。
周りに倣って礼をし、手を合わせる。
目を閉じると、願いは案外すぐに浮かんだ。
僕は少しだけ、その願いに驚いた。
それから、胸の内でも言葉にし直さず、もう一度頭を下げた。
◆
二人と合流できたのは、拝殿を離れてしばらくしてからだった。
柱のそばで待っていると、人の間からルシャが現れる。
「シヲリ!」
足早に近づいてきた彼女が、僕の袖を掴んだ。
「どこに行っていたのよ」
「こっちの台詞だよ。振り向いたら、二人ともいなくて」
「シヲリが先に行ったんでしょう。呼んでも気づかないし」
それを言われると、返す言葉がなかった。
携帯電話ばかり見ていたのは、確かに僕だ。
「……悪かった。ちょっと考え事をしてた」
「すみません。私たちも、少し話し込んでしまって」
後から来た宮本さんが、申し訳なさそうに頭を下げた。
ルシャと二人で、どんな話をしていたのだろう。
気にはなったけれど、今はそれより、合流できたことに安心した。
「二人とも、お参りはできた?」
「ええ。この人に教えてもらったわ」
「教えてもらったなら、ちゃんと礼を言えよ」
「さっき言ったわよ」
宮本さんを見ると、小さく頷いていた。
どうやら、僕のいないところでは、案外きちんと会話をしていたらしい。
「それで、どんなお願いをしたんだ?」
人の流れを避けながら尋ねると、ルシャは少しだけ目を丸くした。
それから、袖を掴んでいた手を離す。
「……叶ったら、教えてあげる」
「いつになるんだよ」
「さあ?」
口元に、笑みが浮かんだ。
「でも、きっと近いうちに叶うと思うわ」
その言い方が、妙に穏やかだった。
いつもの、自信に満ちた言い切り方とは少し違う。
僕は何となく続きを聞きそびれ、隣の宮本さんへ顔を向けた。
「宮本さんは?」
「私も、秘密です」
「二人ともか」
「願い事は、人に言わない方がいいって聞きますから」
口元を隠して笑われる。
そう言われると、それ以上は聞きにくかった。
けれど、僕の方へは、すぐに同じ質問が返ってきた。
「そういうシヲリは、何をお願いしたの?」
「確かに。黒上君は?」
左右から顔を覗き込まれる。
さっきまで互いを牽制していたくせに、こういう時だけ息が合うのはどうなのだろう。
「……無病息災、平穏無事。困難も辛いこともなく、生きていけますように」
「何それ。夢がないわね」
「切実なんだよ、こっちは」
「黒上君らしいですね」
宮本さんが笑った。
ルシャはつまらなさそうに唇を尖らせている。
嘘を言ったわけではない。
それも、僕の願いだった。
ずっと前から、望んでいたものだ。
ただ、目を閉じた瞬間に浮かんだのが、それだったかどうか。
そこまでは、話さなかった。
◆
「あ、おみくじがありますね」
宮本さんが足を止めた。
赤と白の幕が張られた授与所の前で、細長い紙を広げた人たちが一喜一憂している。
「おみくじ?」
ルシャが、すぐにそちらを向いた。
「今年の運勢を占うんだよ」
「運勢?」
「願い事が叶うかどうかも、書いてありますよ」
宮本さんの補足に、ルシャの目が分かりやすく輝いた。
「シヲリ。引くわよ」
「僕の意思は?」
「ないわ」
「だと思ったよ」
参拝の列ほどは混んでいなかった。
ほどなく順番が来て、僕は三人分のお金を盆へ置いた。
宮本さんが財布を出しかけたけれど、今回はいいから、と止める。
「三人分、お願いします」
「はい。お二人分ですね」
巫女さんが、にこやかに答えた。
「……いえ、三人です」
「三人?」
視線が、僕から宮本さんへ移る。
そして、そのすぐ隣に立つルシャを通り過ぎた。
何かが、胸の内へ引っかかった。
「私よ」
ルシャが一歩前へ出る。
その肩のあたりから、淡い蒼が滲んだ。
僕は反射的に、彼女を見る。
ほんの一瞬だけ、輪郭が鮮明になったような気がした。
水の底から、何かが浮かび上がってくるように。
「あ……失礼いたしました。三人分ですね」
巫女さんが慌てて頭を下げた。
今度は、確かにルシャを見ていた。
僕は返事をしそびれたまま、渡されたおみくじを受け取る。
宮本さんは何も言わず、自分の分を両手で持っていた。
ルシャだけが、何事もなかったように紙を見つめている。
列を離れ、人の少ない場所へ移る。
手の中には、折り畳まれた細長い紙がある。
けれど、意識はまだ、さっきのやり取りに残っていた。
見落とした。
それだけかもしれない。
そう思おうとして、服屋の店員を思い出す。
隣にいるルシャを示すまで、気づいていなかった人。
その前に、彼女自身が言っていた言葉。
『私のこと、ちゃんと分かる人なんて、そう多くないもの』
知り合いが少ない。
あの時は、そういう意味だと思った。
けれど、今のは。
「シヲリ」
「……ん?」
「これ、開けていいのよね?」
顔を上げると、ルシャが待ちきれない様子で紙の端へ指をかけていた。
僕は頷き、自分の分へ目を落とす。
「せっかくですし、一緒に開けませんか」
宮本さんの提案に、ルシャが頷いた。
三人で紙を持ち直す。
「せーの」
薄い紙が、ぱらりと開いた。
「――大吉!」
真っ先に声を上げたのは、ルシャだった。
僕の鼻先へ、おみくじが突き出される。
「見て、シヲリ。大吉よ!」
「見えてる。近い近い」
「ふふん」
何故か、勝ち誇ったように胸を張る。
別に勝負をしていたわけではないのだけれど。
「シヲリは?」
「僕は……末吉」
「弱いわね」
「おみくじに強い弱いを持ち込むな」
間髪入れずに笑われた。
僕は自分の紙を引っ込め、宮本さんへ顔を向ける。
「宮本さんは?」
「私は、吉でした」
「じゃあ、私が一番ね」
「だから、勝負じゃないって」
聞いていなかった。
ルシャは自分のおみくじへ向き直り、書かれた項目を上から追い始める。
「願望って、これ?」
「そう。お願い事のこと」
「……『時来れば叶う』」
一文字ずつ確かめるように、彼女が読み上げた。
それから、嬉しそうに目を細める。
「ほら」
「何が」
「やっぱり、叶うって」
先ほどの言葉を思い出した。
きっと近いうちに叶う。
そう言っていた時と、同じ顔だった。
「神様のお墨付きまで貰えて、よかったな」
「ええ」
短く答えて、彼女はもう一度、その一文を見る。
何かを確かめるように。
あるいは、そこに書かれた文字を覚えておこうとするように。
僕は自分のおみくじへ目を落とした。
願望。焦らず待て。
「……待て、だってさ」
「平穏無事を願って、何を待つのよ」
「僕が聞きたいよ」
ルシャが笑う。
僕も笑い返してから、宮本さんを見る。
「そっちは、何かいいこと書いてあった?」
「えっ」
肩が、わずかに跳ねた。
宮本さんは紙をこちらへ向けないまま、手早く折り畳む。
「いえ。普通です」
「普通?」
「はい。特に、面白いことは」
その声に、ルシャが顔を上げる。
「怪しいわね」
「怪しくありません」
「見せて」
「嫌です」
笑顔のまま、おみくじが両手で隠される。
ルシャは少し身を乗り出したけれど、宮本さんは一歩も引かなかった。
「私のは見たでしょう」
「ルシャさんが、ご自分で見せてくださったんです」
「ずるいわね」
「ずるくありません」
僕は、口を挟むのをやめた。
先ほど、宮本さんが見ていた場所に何と書いてあったかは、少しだけ見えてしまっていた。
恋愛。
そこをわざわざ話題にするほど、僕も野暮ではない。
「シヲリも、気になるでしょう?」
「本人が嫌だって言ってるんだから、やめておけ」
「また、そっちの味方?」
ルシャが不満そうに僕を見る。
宮本さんは、ほっとしたようにおみくじをバッグへしまった。
こんなやり取りをしていると、さっき感じた違和感まで、考えすぎだったような気がしてくる。
ルシャは、ここにいる。
目の前で笑って、怒って、僕の袖を引いている。
それなのに、あの巫女さんは。
彼女が自分から声をかけるまで、どうして気づかなかったのだろう。
◆
参拝を終えた後は、境内の屋台を見て回った。
といっても、歩き続けることはできなかったので、空いていた腰掛けを見つけ、そこで休む時間の方が長かった。
ルシャは最初こそ不満そうだったけれど、宮本さんと二人で屋台へ向かい、両手に食べ物を持って戻ってくる。
「ほら、シヲリ」
「……何だ、この量」
「三人分よ」
「本当に三人で分けるんだろうな」
膝の上へ置かれた袋から、甘い匂いがした。
宮本さんが、温かい飲み物の入った紙コップを渡してくれる。
「熱いので、気をつけてください」
「ありがとう。二人とも」
「いいのよ。さっき、おみくじを出してもらったもの」
ルシャが隣へ腰を下ろす。
その向こうへ宮本さんも座り、三人で小さな袋を覗き込んだ。
普段なら、とっくに眠っている時間だった。
それなのに、周囲はまだ人で賑わっている。
白い息が重なり、知らない人同士でも、どこか楽しそうに声を交わしていた。
ルシャは買ってきたものを一つ口へ入れ、頬を緩める。
その姿を見て、宮本さんが笑った。
「美味しいですか?」
「ええ。そっちのも、ちょうだい」
「交換なら」
「……意外としっかりしているのね」
「ルシャさん相手ですから」
笑顔で返され、ルシャが少し唇を尖らせる。
けれど、結局は互いの袋へ手を伸ばしていた。
やっぱり、案外うまくやれる二人なのではないだろうか。
そう思って口にすると、二人同時に、どこが、と返された。
その息の合い方については、黙っておくことにした。
帰ろうと決めたのは、それからしばらくしてからだった。
寒さで脚が強張り始めていたし、眠気も少しずつ増している。
「そろそろ、戻ろうか」
「えー。もう?」
「僕は眠いし、脚も休ませたい」
「……それなら、仕方ないわね」
ルシャは残っていた菓子を袋へ戻した。
すぐに立とうとした僕より先に立ち上がり、こちらへ手を差し出す。
「ほら」
「立つくらい、自分でできるって」
「いいから」
押し問答をするのも面倒で、僕はその手を借りた。
宮本さんが何か言いたそうにしていたけれど、結局、口にしたのは別れの挨拶だった。
鳥居を抜けたところで、帰る方向が分かれる。
彼女は僕を見て、少しだけ眉を下げた。
「無理せず、休んでくださいね」
「うん。宮本さんも、気をつけて」
「はい。……ルシャさん、お願いしますね」
「分かっているわよ」
短いやり取りだった。
何を、と聞く前に、宮本さんが頭を下げる。
僕も挨拶を返し、その背中が人の間へ紛れるまで見送った。
隣で、ルシャが小さく息を吐く。
「何?」
「別に」
「何か話したのか。さっき、二人で」
「女同士の話よ」
そう言って、彼女は先に歩き出す。
追いつこうとすると、すぐに速度が落ちた。
僕は何も言わず、その隣へ並ぶ。
◆
家へ戻る道は、境内とはまるで違って静かだった。
屋台の音も、人の声も遠ざかり、足音だけが冷たい夜に残っている。
ルシャは、お守りを眺めていた。
小さな袋を指先で挟み、街灯の下を通るたびに、織り込まれた模様を確かめている。
「気に入ったのか?」
「ええ。綺麗でしょう」
「……まぁ、そうだな」
お守りを見る感想としては、少し変わっている気もする。
けれど、今日が初めてなら、そういうものなのかもしれなかった。
しばらく、二人で黙って歩く。
聞こえるのは、靴底が地面を擦る音と、時折通り過ぎていく車の音だけだった。
「ねえ、シヲリ」
「ん?」
いつもより少しだけ静かな声だった。
顔を向ける。
ルシャは前を見たまま、歩いていた。
「明日、あなたに話したいことがあるの」
「話したいこと?」
「ええ」
それだけ言って、口を閉じる。
「今じゃ駄目なのか?」
「駄目」
即答だった。
「ちゃんと話したいから」
珍しく、からかうような調子もない。
僕は少しだけ気になったけれど、無理に聞き出すほどのことでもないと思った。
「……分かった」
「ええ」
ルシャは小さく頷いた。
何を話したいのか。
聞こうと思えば、聞けた。
けれど、明日話すと言っているのなら、明日聞けばいい。
その時は、そう思っていた。
しばらく歩くと、隣から声がしなくなる。
顔を向けた。
ルシャは前を見ていたけれど、瞬きが随分とゆっくりになっている。
「眠いのか?」
「眠くないわ」
「目、半分閉じてるぞ」
「休ませているだけよ」
「僕も昨日、似たようなことを言った気がするな」
返事はなかった。
家が見える頃には、彼女は僕の腕へ軽く寄りかかって歩いていた。
どちらがどちらを支えているのか、よく分からない。
僕は鍵を取り出しながら、小さく息を吐いた。
「ほら、着いたぞ」
「……分かってる」
玄関を上がると、ルシャは真っ直ぐベッドへ向かおうとした。
慌てて呼び止め、先にコートと振袖を脱ぐように言う。
返事だけはしたものの、動きはひどく緩慢だった。
着替えを渡し、僕は台所へ向き直る。
水を飲み、持ち帰った袋を置いている間に、背後でベッドが軋んだ。
振り返ると、ルシャはもう横になっていた。
掛け布団の外へ片腕が出ていて、その手にはお守りが握られている。
「なくすぞ、それ」
返事がない。
そっと手から外して、枕元へ置いた。
その横には、綺麗に折り畳まれた、大吉のおみくじがある。
「……シヲリは?」
目を閉じたまま、声だけがした。
「僕も休むよ」
「……そう」
それきり、返事はなかった。
布団を肩まで引き上げてやると、ほどなく、規則正しい寝息が聞こえ始める。
僕はベッドの脇へ椅子を寄せ、ゆっくり腰を下ろした。
脚を休めるつもりだった。
けれど、座ってしまうと、今度はそこから動く気になれなかった。
ルシャが小さく身じろぎする。
銀髪が頬へかかり、少し眉が寄った。
指先で髪を避けても、目を覚ます気配はない。
普通の女の子に見えた。
偉そうで、わがままで、すぐに怒る。
甘いものを見ると目を輝かせるし、褒められれば、隠しきれないくらい喜ぶ。
初めて作ったフレンチトーストがうまくできただけで、あんなに嬉しそうにしていた。
ここにいる。
僕のベッドで、僕の枕を使って、当たり前のように眠っている。
『お二人分ですね』
巫女さんの声が蘇った。
思い返せば、何度もあった。
ルシャがすぐ隣にいるのに、気づかれなかったこと。
僕が示すまで、視線が彼女へ向かなかったこと。
人が多かった。
疲れていた。
たまたま、見落としただけだった。
そう説明できないわけではない。
けれど、そう説明しなければならないことが、少しずつ増えていた。
最初に会った時の傷。
ハインツが口にした、モルモットという呼び方。
イルゼさんの、迎えに来たという言葉。
そして、儀式。
僕は何も知らない。
知らなくていいと思っていた。
聞かない方がいいと言われて、それを理由に、聞かずにいた。
彼女が帰れば、自分は元の生活へ戻るのだから。
一月三日。
迎えが来るまで、あと二日だった。
その後には、一月五日が来る。
ルシャが帰らなければならない理由になっている日が。
『私がいなければ、あなたたちは降ろせないのでしょう?』
あの時の声を思い出す。
何を。
彼女を使って、何をするのだろう。
僕は両手を組み、前へ屈んだ。
考えないようにしていた言葉が、一つずつ意味を持ち始めていた。
学校へ行って、バイトをして、本を読む。
元の生活へ戻る。
それは今も、僕の望みだった。
けれど、その後で。
何も知らずに見送った彼女がどうなったのかを、僕は考えずにいられるだろうか。
『明日、あなたに話したいことがあるの』
帰り道の言葉が、頭をよぎった。
明日まで待てば、ルシャ自身が何かを話してくれる。
だったら、それを待てばいい。
あと数時間だ。
何も、今すぐ知る必要なんてない。
ベッドの上で、ルシャの指が動いた。
お守りを探したのか、布団の端を軽く掴み、そのまま止まる。
僕はしばらく、その手を見ていた。
それでも。
今の僕が知りたいのは、ルシャが僕に話そうとしていることだけではなかった。
あの儀式が何なのか。
彼女がどこへ帰るのか。
帰った先で、何をされるのか。
それを、ルシャ自身が話してくれる保証はない。
僕は携帯電話を取り出した。
『ルシャのことを、教えてください』
今度は、消さなかった。
儀式についても聞きたいと続け、会って話せるかを尋ねる。
送信した画面を、しばらく見つめた。
返事を待つ間、ルシャは一度も目を覚まさなかった。
◆
窓の外が白み始めた頃、マミさんから連絡が来た。
話すなら、迎えに行く。
こちらに来られるなら、そうしてくれ、と。
僕は少し休んでから、出かける支度をした。
一人で勝手に歩き回るなと言われたことを、今さら忘れたふりはできなかったし、脚もまだ万全ではない。
ルシャは眠っている。
声をかけるべきか迷い、ベッドのそばへ立った。
ここで起こして、何と言えばいいのだろう。
お前が明日話すと言ったことを待てずに、マミさんへ聞きに行ってくる。
それとも。
お前が聞くなと言ったことを、聞きに行ってくる。
どちらにしても、きっといい顔はしないだろう。
僕はしばらく彼女を見つめた後、机の上へ書き置きを残した。
マミさんのところへ行くこと。
戻ってくること。
それだけを書いた。
玄関で靴を履き、扉へ手をかける。
知らないままでいられるなら、その方が楽だった。
今からでも、出かけるのをやめることはできる。
携帯電話をしまい、ソファへ戻って、目を閉じればいい。
そして朝になったら、ルシャが話そうとしていたことを聞けばいい。
けれど。
それだけでは、もう足りなかった。
僕は扉を開けた。
◆
マミさんの家へ着く頃には、雪がちらつき始めていた。
昨日綺麗にした窓が、薄い朝の光を受けている。
その景色を眺めながら玄関を上がると、前を歩いていたマミさんが振り返った。
「改めて。あけましておめでとう、シヲリ君」
「……おめでとうございます。朝から、すみません」
「構わないよ。私も、まだ起きていたからね」
白いワイシャツの袖を軽く直し、彼女は居間へ向かった。
僕も、その後をついていく。
昨日まで過ごしていた場所なのに、今日は妙に静かだった。
ルシャの声がしないだけで、廊下まで広く感じる。
「コーヒーでいいかい?」
「お願いします」
ソファへ座ると、温かい缶コーヒーが目の前へ置かれた。
マミさんは自分の分を手に、向かいへ腰を下ろす。
「店で飲むようなものは、期待しないでくれよ」
「……十分です」
缶を両手で包む。
冷えていた指先へ、少しずつ熱が移ってきた。
マミさんは急かさなかった。
僕が何を言うのか分かっているようで、それでも、こちらが口を開くまで待っている。
「ルシャが、一月三日に帰ることになりました」
「ああ。昨夜、君から聞いたね」
「それで、その……」
言葉が続かなかった。
知りたい。
確かにそう思って、ここまで来た。
なのに、何から聞けばいいのか分からなくなっていた。
儀式は何なのか。
あの人たちは何をするつもりなのか。
ルシャは、帰った後、どうなるのか。
膝の上で缶を握り直すと、マミさんが小さく息を吐いた。
「彼女に、何か聞いたのかい?」
「聞かない方がいいと、言われました」
「それでも、来たんだね」
僕は頷く。
一瞬だけ、帰り道の言葉が頭をよぎった。
明日、話したいことがある。
その内容が何なのかは分からない。
ただ、それを待たずにここへ来たことだけは確かだった。
マミさんの赤い瞳が、真っ直ぐにこちらへ向く。
「何も知らずに、帰せると思ってたんです」
口に出してみると、ひどく身勝手な言葉に聞こえた。
「契約が終われば、僕は元の生活に戻れるから。それでいいって」
マミさんは何も言わなかった。
僕は缶から手を離し、顔を上げる。
「でも、あいつが、どこへ帰るのかも知らないんです。そこで何をされるのかも」
モルモット。
奇跡の子。
同じ一人の女の子へ向けられた、あまりにも違う呼び方。
僕の知っているルシャが、そのどちらに当てはまるのか。
それとも、どちらでもないのか。
「教えてください、マミさん」
喉が、少しだけ渇いていた。
「ルシャは――何なんですか」
マミさんは、すぐには答えなかった。
手にした缶をテーブルへ置き、僕の顔を見る。
「……本当に、聞くのかい?」
聞けば、戻れなくなる。
そう言われたわけではないのに、同じ問いを、もう一度突きつけられた気がした。
普通の生活へ戻りたい。
面倒なことには関わりたくない。
痛いのも、怖いのも、もう嫌だった。
それでも、眠っていた彼女の顔が浮かぶ。
「はい」
今度は、迷わず答えた。
マミさんはしばらく僕を見つめ、それから、静かに頷いた。
「――分かった」
彼女が、口を開く。
僕は目を逸らさず、その言葉を待った。
◆