魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第三章「朱に交われば赤くなる」 九日目(上)

 

 今日も、目が覚めた。

 しばらく天井を見つめてから、頬へ手を伸ばす。

 指先は冷たい。

 頬を押せば、ちゃんと痛い。

 それを確かめてから、昨日のことを思い出す。

 着慣れない振袖。

 夜の神社。

 甘い匂いのする屋台。

 白い息を吐きながら、隣を歩いていたシヲリ。

 それから――おみくじは、大吉だった。

 そこまで思い出せて、ようやく息を吐く。

 よかった。

 今日も、私は私のままだ。

 

 枕元の時計は、六時十三分を示していた。

 一月二日。

 カーテンの向こうはまだ暗く、部屋には暖房の小さな音だけが響いている。

 ここ数日、眠っている時間が少しずつ長くなっていた。

 疲れているのとは、少し違う。

 起きようと思ってから身体が動くまでに、以前にはなかった間がある。

 指を動かそうとして、一瞬だけ、どう動かせばいいのか分からなくなることもあった。

 ほんの一瞬。

 けれど、その一瞬が日に日に増えている。

 昨日まで当たり前にできていたことを、朝になるたび、ひとつずつ確かめなければならない。

 そんな朝が、もう何度か続いていた。

 

 布団を抜け出し、隣の部屋へ向かう。

 ソファには、シヲリが寝ていた。

 掛け布団の端は床へ落ち、片腕が妙な角度で頭の上に伸びている。

 その姿を見つけた途端、無意識に肩から力が抜けた。

 

「……本当、間抜けな顔ね」

 

 傍らへしゃがみ込み、頬をつつく。

 返事はない。

 少し強く押してみる。

 眉間に皺が寄った。

 それが面白くてもう一度つつくと、今度は顔ごと反対側へ逃げられた。

 

「失礼ね」

 

 小声で文句を言いながら、床へ落ちた布団を拾って掛け直す。

 初めて会った頃は、何を言っても言い返してくるところが気に入らなかった。

 私が何かを頼むたびにため息をつくところも、すぐに馬鹿だの子供だのと言ってくるところも。

 今だって、腹は立つ。

 けれど、こうして黙って眠られていると――少しだけ、つまらない。

 額へ落ちていた黒い髪を、指先で避ける。

 明日になれば、私はここを出ていく。

 この部屋も。

 この寝顔も。

 きっと、もう見ることはない。

 

「…………」

 

 だから、今日こそ話さなければいけない。

 シヲリに、まだ話していないこと。

 話せないまま、ここまで来てしまったこと。

 聞いたら、どんな顔をするだろう。

 きっと怒る。

 呆れて、あの面倒くさそうな顔をして。

 もしかしたら、今度こそ本当に嫌われるかもしれない。

 

「……それは、ちょっと嫌だな」

 

 零れた声が、思っていたよりも弱くて、自分で驚いた。

 シヲリは起きない。

 規則正しい寝息だけが返ってくる。

 私はもう一度だけ、その頬へ触れた。

 それから、ゆっくりと立ち上がった。

 

 ◆

 

「ルシャ。今日、何かしたいことあるか?」

 

 そう聞かれたのは、朝食を食べ終えた頃だった。

 シヲリは自分のコーヒーを机へ置くと、私の前にもマグカップを差し出す。

 中身は、牛乳をたっぷり入れたカフェオレ。

 砂糖も、ちゃんと入っている。

 

「……何よ、急に」

「急でもないだろ。明日には帰るんだから」

 何でもないことのように言って、シヲリは向かいの椅子へ腰を下ろした。

「今日は、できるだけ付き合うよ。行きたいところとか、食べたいものとか。何かないのか」

 

 マグカップを両手で包みながら、その顔を見る。

 眠そうな目。

 少しだけ跳ねた髪。

 いつもと同じシヲリのはずなのに、妙に落ち着かない。

 

「それなら、北へ行きましょう」

「北?」

「この前、テレビでやっていたの。大きなカニを食べられるところ。私も、あれを食べてみたいわ」

「……北?」

 

 呆れられると思った。

 馬鹿を言うなとか。

 距離を考えろとか。

 いつものように、まず一つ二つ文句が飛んでくると思っていた。

 けれど、シヲリは机の上の携帯を手に取った。

 

「今からだと飛行機か。空港まで行く時間を考えると……」

「ちょっと」

 

 画面を操作する指が止まらない。

 思わず身を乗り出す。

 

「冗談よ。冗談に決まってるでしょう」

「……なんだよ」

「なんだよじゃないわよ。本当に行くつもりだったの?」

「行けるかどうか調べてただけだろ」

 

 そう言って、ようやく携帯を伏せた。

 私はしばらく、その手を見つめる。

 

「今日の貴方、少し変ね」

「そうか?」

「そうよ。いつもなら、もっと文句を言うじゃない」

「文句を言ってほしいのかよ」

「そういうわけじゃないけれど」

 

 カフェオレを一口飲む。

 いつもと同じ甘さだった。

 それなのに、その向こうにいるシヲリだけが、少し違って見える。

 

「本当に、私の言うことを何でも聞くつもり?」

「僕にできることならな。無理なものは無理だぞ」

 そこでようやく、少しだけいつもの顔に戻った。

「あと、三百万は出せない」

「まだ気にしていたの、あれ」

「忘れられる金額じゃないんだよ」

 

 思わず笑う。

 シヲリも笑った。

 その顔を見て、少しだけ安心した。

 行きたい場所なら、いくらでもある。

 本で読んだ街。

 テレビで見た景色。

 まだ食べたことのない料理。

 挙げ始めれば、それこそ一日どころでは足りない。

 けれど。

 今日、見ておきたいものはもう決まっていた。

 

「この街を回りましょう」

「白杜を?」

「ええ」

「この前も歩いただろ。もっと別のところでもいいんだぞ」

「ここがいいの」

 

 窓の向こうを見る。

 建物の屋根に残った雪が、朝の光を受けて白く光っていた。

 

「もう一度、見て回りたいわ」

 

 この街で、初めて食べたもの。

 初めて入った店。

 初めて遊んだ場所。

 そのほとんどに、シヲリがいた。

 だから最後に、もう一度だけ見ておきたかった。

 シヲリは何かを言いかけ、それから口を閉じる。

 

「……そっか」

 少し間を置いて、頷いた。

「じゃあ、そうしよう」

 

 ◆

 

 商店街は、この前よりも静かだった。

 閉じたシャッターには正月休みを知らせる紙が貼られ、それでも開いている店の前には人が集まっている。

 どこかから、焼けた醤油の匂いが漂ってきた。

 シヲリは、私の半歩ほど前を歩いている。

 時々こちらを振り返っては、目が合うと何でもないように前へ向き直る。

 何度目かで文句を言おうとしたところで、見覚えのある店を見つけた。

 

「あ」

「……また食うのか?」

「まだ何も言ってないでしょう」

「顔に書いてある」

 

 クレープ屋の看板を指さすと、シヲリが小さく笑った。

 今日は、この前とは違う味にした。

 私は苺とチョコレート。

 シヲリはバナナと生クリーム。

 受け取ったばかりのクレープは、紙越しでも少し温かい。

 一口食べると、冷たいクリームの中から苺の酸味が広がった。

 

「……美味しい」

「そりゃよかった」

 

 隣を見る。

 シヲリは、私を見るなり自分のクレープを少し遠ざけた。

 

「何よ」

「いや。嫌な予感がしただけ」

「一口ちょうだい」

「当たったよ」

 

 呆れた顔をされる。

 失礼な人。

 私は自分のクレープを差し出した。

 

「私のもあげるわ」

「お前、この前もそれ言ったからな」

「今日はちゃんとあげるわよ」

「信用って知ってるか?」

「いいから。ほら」

 

 口元へ近づける。

 シヲリはまだ疑わしそうにこちらを見ていたけれど、最後には観念したように少しだけ身を屈めた。

 今度は、引っ込めなかった。

 

「……本当にくれた」

「何よ、その感想」

「いや、驚いて」

「返しなさい」

「無理言うなよ」

 

 今度は、シヲリのクレープが差し出される。

 大きくかじったら、露骨に嫌そうな顔をされた。

 

「一口の大きさ、おかしくないか?」

「一口は一口でしょう」

「お前の口を基準にしたのが間違いだった」

 

 バナナも、美味しかった。

 そう伝えると、シヲリは「よかったですね」と投げやりに返した。

 それすら、少し嬉しかった。

 次に入ったのは、本屋だった。

 通路の両側に並んだ背表紙を眺めているうちに、自然と足が遅くなる。

 知っている本も、知らない本もある。

 同じ物語でも、表紙が違うだけで随分と別のものに見えた。

 

「本、好きなんだな」

「他にすることがなかったもの」

 一冊を棚へ戻しながら答える。

「でも、好きよ。本を読んでいる間は、そこへ行けるでしょう」

 

 行ったことのない国へ。

 生きたことのない時代へ。

 自分ではない誰かの人生へ。

 シヲリは少しだけこちらを見て、それから隣の棚へ視線を移した。

 

「貴方は、どんな本を読むの?」

「僕?」

「家にもたくさんあったじゃない。どれが好きなの」

「どれって言われてもな。お前の好みに合うか分からないし」

「貴方の好きな本を聞いているのよ」

 

 顔を覗き込む。

 シヲリは少しだけ目を逸らした。

 

「……じゃあ、何冊か選ぶから。その中で気になったやつにしなよ」

「ええ」

 

 連れていかれた棚の前で、シヲリは何度か本へ手を伸ばしては引っ込めた。

 別に一冊でなくてもいいと言うと、

 

「読む方はそれでいいけど、選ぶ方には都合があるんだよ」

 

 と、よく分からないことを言った。

 ようやく渡された一冊を開く。

 最初の数行を読んだところで、すぐ隣から声がした。

 

「それ、最初は少し地味なんだけど、途中から――」

「言わないで」

「……はい」

 

 大人しく口を閉じたのがおかしくて、笑ってしまった。

 その本を買うことにする。

 

「それ、読むのか?」

 会計へ向かおうとすると、シヲリが聞いた。

「読むから買うんでしょう」

「いや、そうだけど」

「何よ」

「……明日までに、読み終わるかなって」

 

 言った直後、シヲリは口を閉じた。

 私も、手の中の表紙へ目を落とす。

 そこそこの厚さがある。

 今夜読み始めても、最後まで読み切るのは難しいかもしれない。

 けれど。

 棚へ戻す気にはなれなかった。

 

「読むわ」

 

 もう一度、そう答える。

 シヲリは何も言わなかった。

 ただ、少しだけ遅れて、

 

「……そっか」

 

 と頷いた。

 そのあとも、私たちは街を歩いた。

 ゲームセンターでは、以前ぬいぐるみを取ってもらった機械を覗いた。

 同じ変な鳥が、今日は横倒しになって積まれている。

 

「お仲間、増やすか?」

「いいわ。あの子がいるもの」

「……そっか」

 

 代わりに、二人で車を走らせるゲームをした。

 シヲリは、こういうものはあまり得意ではないと言っていた。

 そのくせ、私が曲がり角の壁にぶつかっている間に、さっさと先へ行ってしまう。

 

「待ちなさいよ!」

「待つゲームじゃないんだよ、これ」

「もう一回」

「今の負け、認めるんだな?」

「練習よ」

「お前、さっきもそう言っただろ」

 

 三度やっても勝てなかった。

 四度目を要求すると、シヲリは呆れながらも財布を開いた。

 その手を見て――私は、何も言えなくなった。

 昼を食べたあとも、シヲリはずっと同じだった。

 気になる店があれば入ろうと言う。

 私が足を止めれば、一緒に止まる。

 疲れていないか。

 寒くないか。

 他に欲しいものはないか。

 尋ねられるたび、胸の奥に重たいものが少しずつ積もっていった。

 休憩に入った店でも、シヲリは壁の時計を見上げる。

 

「まだ時間あるな。次、どこか行きたいところあるか」

 カップの中で揺れる紅茶を見る。

「……貴方は?」

「僕?」

「貴方の行きたいところはないの」

「今日は、お前に付き合うって言っただろ」

 

 優しい声だった。

 だからこそ、嫌だった。

 いつものシヲリなら、もう少しくらい自分の都合を言う。

 歩き疲れたとか。

 金がなくなるとか。

 そろそろ帰りたいとか。

 そうやって文句を言いながら、それでも最後には隣にいてくれる。

 今日は、何も言わない。

 何を見ていても。

 何をしていても。

 最後には、必ず私の顔を見る。

 まるで。

 何かを見落としていないか、何度も確かめているみたいに。

 

 ◆

 

 店を出る頃には、空はもう夕方の色になっていた。

 建物の隙間を抜けてきた風に、紙袋が小さく鳴る。

 私は持ち手を握り直し、前を歩く背中へ声をかけた。

 

「もう、いいわ」

 シヲリが振り返る。

「疲れたか?」

「そうじゃない」

「じゃあ、どうしたんだよ」

 

 足を止めたシヲリに、向き直る。

 言わなければならないことがあった。

 今日こそ、自分から話すつもりだった。

 そのために、昨日だって約束した。

 なのに。

 口から出たのは、別の言葉だった。

 

「今日の貴方、気持ち悪いくらい優しい」

「……ひどくないか、それ」

「ひどいのは貴方よ」

 

 シヲリが困ったように笑った。

 また、その顔。

 

「何でも聞いてやるって言ったからって、気持ち悪いはないだろ」

「誤魔化さないで」

 

 その笑みが、止まった。

 私はまっすぐにシヲリを見る。

 

「昨日、私が寝ている間に、どこへ行ったの」

「…………」

 

 机の上に残されていた、少し出かけてくるという短い書き置き。

 帰ってきたシヲリは、私が起きているのを見ると驚いた顔をした。

 何かを聞こうとして。

 けれど、結局何も聞かなかった。

 思えば、あの時から少し変だった。

 

「……少し、用事があったんだよ」

 

 シヲリの指先が、顎へ触れる。

 私はその癖を知っている。

 嘘を吐く時。

 何かを誤魔化そうとする時。

 シヲリは、そうする。

 

「マミのところ?」

 

 指が止まった。

 返事はない。

 それだけで、十分だった。

 胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。

 

「何を聞いたの」

 

 シヲリは、今度は目を逸らさなかった。

 けれど、すぐには答えない。

 通りの向こうから、誰かの笑い声が聞こえる。

 自転車のベルが鳴り、私たちの横を人が通り過ぎていく。

 そのどれもが、不思議なくらい遠く感じた。

 

「……聞いたよ」

 

 やがて、シヲリが口を開いた。

 その声は、朝から聞いていたものよりずっと低かった。

 

「お前のことも」

 一度、言葉が切れる。

「五日の儀式のことも」

 

 息が止まった。

 シヲリは、それ以上何も言わなかった。

 私も――言えなかった。

 

 

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