魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
今日も、目が覚めた。
しばらく天井を見つめてから、頬へ手を伸ばす。
指先は冷たい。
頬を押せば、ちゃんと痛い。
それを確かめてから、昨日のことを思い出す。
着慣れない振袖。
夜の神社。
甘い匂いのする屋台。
白い息を吐きながら、隣を歩いていたシヲリ。
それから――おみくじは、大吉だった。
そこまで思い出せて、ようやく息を吐く。
よかった。
今日も、私は私のままだ。
枕元の時計は、六時十三分を示していた。
一月二日。
カーテンの向こうはまだ暗く、部屋には暖房の小さな音だけが響いている。
ここ数日、眠っている時間が少しずつ長くなっていた。
疲れているのとは、少し違う。
起きようと思ってから身体が動くまでに、以前にはなかった間がある。
指を動かそうとして、一瞬だけ、どう動かせばいいのか分からなくなることもあった。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬が日に日に増えている。
昨日まで当たり前にできていたことを、朝になるたび、ひとつずつ確かめなければならない。
そんな朝が、もう何度か続いていた。
布団を抜け出し、隣の部屋へ向かう。
ソファには、シヲリが寝ていた。
掛け布団の端は床へ落ち、片腕が妙な角度で頭の上に伸びている。
その姿を見つけた途端、無意識に肩から力が抜けた。
「……本当、間抜けな顔ね」
傍らへしゃがみ込み、頬をつつく。
返事はない。
少し強く押してみる。
眉間に皺が寄った。
それが面白くてもう一度つつくと、今度は顔ごと反対側へ逃げられた。
「失礼ね」
小声で文句を言いながら、床へ落ちた布団を拾って掛け直す。
初めて会った頃は、何を言っても言い返してくるところが気に入らなかった。
私が何かを頼むたびにため息をつくところも、すぐに馬鹿だの子供だのと言ってくるところも。
今だって、腹は立つ。
けれど、こうして黙って眠られていると――少しだけ、つまらない。
額へ落ちていた黒い髪を、指先で避ける。
明日になれば、私はここを出ていく。
この部屋も。
この寝顔も。
きっと、もう見ることはない。
「…………」
だから、今日こそ話さなければいけない。
シヲリに、まだ話していないこと。
話せないまま、ここまで来てしまったこと。
聞いたら、どんな顔をするだろう。
きっと怒る。
呆れて、あの面倒くさそうな顔をして。
もしかしたら、今度こそ本当に嫌われるかもしれない。
「……それは、ちょっと嫌だな」
零れた声が、思っていたよりも弱くて、自分で驚いた。
シヲリは起きない。
規則正しい寝息だけが返ってくる。
私はもう一度だけ、その頬へ触れた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
◆
「ルシャ。今日、何かしたいことあるか?」
そう聞かれたのは、朝食を食べ終えた頃だった。
シヲリは自分のコーヒーを机へ置くと、私の前にもマグカップを差し出す。
中身は、牛乳をたっぷり入れたカフェオレ。
砂糖も、ちゃんと入っている。
「……何よ、急に」
「急でもないだろ。明日には帰るんだから」
何でもないことのように言って、シヲリは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「今日は、できるだけ付き合うよ。行きたいところとか、食べたいものとか。何かないのか」
マグカップを両手で包みながら、その顔を見る。
眠そうな目。
少しだけ跳ねた髪。
いつもと同じシヲリのはずなのに、妙に落ち着かない。
「それなら、北へ行きましょう」
「北?」
「この前、テレビでやっていたの。大きなカニを食べられるところ。私も、あれを食べてみたいわ」
「……北?」
呆れられると思った。
馬鹿を言うなとか。
距離を考えろとか。
いつものように、まず一つ二つ文句が飛んでくると思っていた。
けれど、シヲリは机の上の携帯を手に取った。
「今からだと飛行機か。空港まで行く時間を考えると……」
「ちょっと」
画面を操作する指が止まらない。
思わず身を乗り出す。
「冗談よ。冗談に決まってるでしょう」
「……なんだよ」
「なんだよじゃないわよ。本当に行くつもりだったの?」
「行けるかどうか調べてただけだろ」
そう言って、ようやく携帯を伏せた。
私はしばらく、その手を見つめる。
「今日の貴方、少し変ね」
「そうか?」
「そうよ。いつもなら、もっと文句を言うじゃない」
「文句を言ってほしいのかよ」
「そういうわけじゃないけれど」
カフェオレを一口飲む。
いつもと同じ甘さだった。
それなのに、その向こうにいるシヲリだけが、少し違って見える。
「本当に、私の言うことを何でも聞くつもり?」
「僕にできることならな。無理なものは無理だぞ」
そこでようやく、少しだけいつもの顔に戻った。
「あと、三百万は出せない」
「まだ気にしていたの、あれ」
「忘れられる金額じゃないんだよ」
思わず笑う。
シヲリも笑った。
その顔を見て、少しだけ安心した。
行きたい場所なら、いくらでもある。
本で読んだ街。
テレビで見た景色。
まだ食べたことのない料理。
挙げ始めれば、それこそ一日どころでは足りない。
けれど。
今日、見ておきたいものはもう決まっていた。
「この街を回りましょう」
「白杜を?」
「ええ」
「この前も歩いただろ。もっと別のところでもいいんだぞ」
「ここがいいの」
窓の向こうを見る。
建物の屋根に残った雪が、朝の光を受けて白く光っていた。
「もう一度、見て回りたいわ」
この街で、初めて食べたもの。
初めて入った店。
初めて遊んだ場所。
そのほとんどに、シヲリがいた。
だから最後に、もう一度だけ見ておきたかった。
シヲリは何かを言いかけ、それから口を閉じる。
「……そっか」
少し間を置いて、頷いた。
「じゃあ、そうしよう」
◆
商店街は、この前よりも静かだった。
閉じたシャッターには正月休みを知らせる紙が貼られ、それでも開いている店の前には人が集まっている。
どこかから、焼けた醤油の匂いが漂ってきた。
シヲリは、私の半歩ほど前を歩いている。
時々こちらを振り返っては、目が合うと何でもないように前へ向き直る。
何度目かで文句を言おうとしたところで、見覚えのある店を見つけた。
「あ」
「……また食うのか?」
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔に書いてある」
クレープ屋の看板を指さすと、シヲリが小さく笑った。
今日は、この前とは違う味にした。
私は苺とチョコレート。
シヲリはバナナと生クリーム。
受け取ったばかりのクレープは、紙越しでも少し温かい。
一口食べると、冷たいクリームの中から苺の酸味が広がった。
「……美味しい」
「そりゃよかった」
隣を見る。
シヲリは、私を見るなり自分のクレープを少し遠ざけた。
「何よ」
「いや。嫌な予感がしただけ」
「一口ちょうだい」
「当たったよ」
呆れた顔をされる。
失礼な人。
私は自分のクレープを差し出した。
「私のもあげるわ」
「お前、この前もそれ言ったからな」
「今日はちゃんとあげるわよ」
「信用って知ってるか?」
「いいから。ほら」
口元へ近づける。
シヲリはまだ疑わしそうにこちらを見ていたけれど、最後には観念したように少しだけ身を屈めた。
今度は、引っ込めなかった。
「……本当にくれた」
「何よ、その感想」
「いや、驚いて」
「返しなさい」
「無理言うなよ」
今度は、シヲリのクレープが差し出される。
大きくかじったら、露骨に嫌そうな顔をされた。
「一口の大きさ、おかしくないか?」
「一口は一口でしょう」
「お前の口を基準にしたのが間違いだった」
バナナも、美味しかった。
そう伝えると、シヲリは「よかったですね」と投げやりに返した。
それすら、少し嬉しかった。
次に入ったのは、本屋だった。
通路の両側に並んだ背表紙を眺めているうちに、自然と足が遅くなる。
知っている本も、知らない本もある。
同じ物語でも、表紙が違うだけで随分と別のものに見えた。
「本、好きなんだな」
「他にすることがなかったもの」
一冊を棚へ戻しながら答える。
「でも、好きよ。本を読んでいる間は、そこへ行けるでしょう」
行ったことのない国へ。
生きたことのない時代へ。
自分ではない誰かの人生へ。
シヲリは少しだけこちらを見て、それから隣の棚へ視線を移した。
「貴方は、どんな本を読むの?」
「僕?」
「家にもたくさんあったじゃない。どれが好きなの」
「どれって言われてもな。お前の好みに合うか分からないし」
「貴方の好きな本を聞いているのよ」
顔を覗き込む。
シヲリは少しだけ目を逸らした。
「……じゃあ、何冊か選ぶから。その中で気になったやつにしなよ」
「ええ」
連れていかれた棚の前で、シヲリは何度か本へ手を伸ばしては引っ込めた。
別に一冊でなくてもいいと言うと、
「読む方はそれでいいけど、選ぶ方には都合があるんだよ」
と、よく分からないことを言った。
ようやく渡された一冊を開く。
最初の数行を読んだところで、すぐ隣から声がした。
「それ、最初は少し地味なんだけど、途中から――」
「言わないで」
「……はい」
大人しく口を閉じたのがおかしくて、笑ってしまった。
その本を買うことにする。
「それ、読むのか?」
会計へ向かおうとすると、シヲリが聞いた。
「読むから買うんでしょう」
「いや、そうだけど」
「何よ」
「……明日までに、読み終わるかなって」
言った直後、シヲリは口を閉じた。
私も、手の中の表紙へ目を落とす。
そこそこの厚さがある。
今夜読み始めても、最後まで読み切るのは難しいかもしれない。
けれど。
棚へ戻す気にはなれなかった。
「読むわ」
もう一度、そう答える。
シヲリは何も言わなかった。
ただ、少しだけ遅れて、
「……そっか」
と頷いた。
そのあとも、私たちは街を歩いた。
ゲームセンターでは、以前ぬいぐるみを取ってもらった機械を覗いた。
同じ変な鳥が、今日は横倒しになって積まれている。
「お仲間、増やすか?」
「いいわ。あの子がいるもの」
「……そっか」
代わりに、二人で車を走らせるゲームをした。
シヲリは、こういうものはあまり得意ではないと言っていた。
そのくせ、私が曲がり角の壁にぶつかっている間に、さっさと先へ行ってしまう。
「待ちなさいよ!」
「待つゲームじゃないんだよ、これ」
「もう一回」
「今の負け、認めるんだな?」
「練習よ」
「お前、さっきもそう言っただろ」
三度やっても勝てなかった。
四度目を要求すると、シヲリは呆れながらも財布を開いた。
その手を見て――私は、何も言えなくなった。
昼を食べたあとも、シヲリはずっと同じだった。
気になる店があれば入ろうと言う。
私が足を止めれば、一緒に止まる。
疲れていないか。
寒くないか。
他に欲しいものはないか。
尋ねられるたび、胸の奥に重たいものが少しずつ積もっていった。
休憩に入った店でも、シヲリは壁の時計を見上げる。
「まだ時間あるな。次、どこか行きたいところあるか」
カップの中で揺れる紅茶を見る。
「……貴方は?」
「僕?」
「貴方の行きたいところはないの」
「今日は、お前に付き合うって言っただろ」
優しい声だった。
だからこそ、嫌だった。
いつものシヲリなら、もう少しくらい自分の都合を言う。
歩き疲れたとか。
金がなくなるとか。
そろそろ帰りたいとか。
そうやって文句を言いながら、それでも最後には隣にいてくれる。
今日は、何も言わない。
何を見ていても。
何をしていても。
最後には、必ず私の顔を見る。
まるで。
何かを見落としていないか、何度も確かめているみたいに。
◆
店を出る頃には、空はもう夕方の色になっていた。
建物の隙間を抜けてきた風に、紙袋が小さく鳴る。
私は持ち手を握り直し、前を歩く背中へ声をかけた。
「もう、いいわ」
シヲリが振り返る。
「疲れたか?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どうしたんだよ」
足を止めたシヲリに、向き直る。
言わなければならないことがあった。
今日こそ、自分から話すつもりだった。
そのために、昨日だって約束した。
なのに。
口から出たのは、別の言葉だった。
「今日の貴方、気持ち悪いくらい優しい」
「……ひどくないか、それ」
「ひどいのは貴方よ」
シヲリが困ったように笑った。
また、その顔。
「何でも聞いてやるって言ったからって、気持ち悪いはないだろ」
「誤魔化さないで」
その笑みが、止まった。
私はまっすぐにシヲリを見る。
「昨日、私が寝ている間に、どこへ行ったの」
「…………」
机の上に残されていた、少し出かけてくるという短い書き置き。
帰ってきたシヲリは、私が起きているのを見ると驚いた顔をした。
何かを聞こうとして。
けれど、結局何も聞かなかった。
思えば、あの時から少し変だった。
「……少し、用事があったんだよ」
シヲリの指先が、顎へ触れる。
私はその癖を知っている。
嘘を吐く時。
何かを誤魔化そうとする時。
シヲリは、そうする。
「マミのところ?」
指が止まった。
返事はない。
それだけで、十分だった。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
「何を聞いたの」
シヲリは、今度は目を逸らさなかった。
けれど、すぐには答えない。
通りの向こうから、誰かの笑い声が聞こえる。
自転車のベルが鳴り、私たちの横を人が通り過ぎていく。
そのどれもが、不思議なくらい遠く感じた。
「……聞いたよ」
やがて、シヲリが口を開いた。
その声は、朝から聞いていたものよりずっと低かった。
「お前のことも」
一度、言葉が切れる。
「五日の儀式のことも」
息が止まった。
シヲリは、それ以上何も言わなかった。
私も――言えなかった。