魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第三章「朱に交われば赤くなる」 九日目(中)

 

 ◆

 

 河川敷のベンチには、薄く雪が積もっていた。

 手で払ってから、ルシャを座らせる。彼女は素直に腰を下ろし、買った本の入った袋を膝へ置いた。

 僕も、その隣へ座る。

 街の音が、土手の向こうへ遠ざかっていく。

 目の前を流れる川は暗く、対岸の街灯だけが、水面の上で細く揺れていた。

 

「ここも、懐かしいわね」

 

 ルシャが言った。

 少し先に、見覚えのある道がある。

 九日前、僕が彼女を見つけた場所だった。

 

「……そんな前のことじゃないだろ」

「そうね」

 ルシャは小さく笑う。

「でも、随分前みたい」

 

 膝の上で、紙袋の端を撫でている。

 僕はその指を見ていた。

 何を、どこから話せばいいのか。

 昨日からずっと考えていたはずなのに、いざ隣に座ると、言葉が出てこない。

 

「それで」

 先に口を開いたのは、ルシャだった。

「どこまで聞いたの」

「……大体は」

「それじゃ分からないわ」

 

 銀灰色の瞳が、こちらを向く。

 

「私が、何のために生まれたのかも?」

 

 喉が詰まった。

 それでも、頷く。

 

「五日の儀式で、何が起こるのかも?」

「……ああ」

「そう」

 

 ルシャは視線を川へ戻した。

 驚きもしなかった。

 怒りもしなかった。

 ただ、少しだけ困ったように笑う。

 

「聞かない方がよかったのに。馬鹿ね、シヲリ」

 その顔を見た途端、昨日から押し込めていたものが喉元までせり上がってきた。

「……なんで」

「何?」

「なんで、そんな顔で笑えるんだよ」

 

 ルシャの指が止まる。

 僕は握っていた手を開いた。指先が冷えて、うまく動かなかった。

 

「聞いたよ。世界律とか、依り代とか。正直、分からないことばっかりだったけど」

「ええ」

「それでも、儀式が終わったら、お前がどうなるかは分かった」

 

 口にしたくなかった。

 言ってしまえば、昨日聞いた話が本当になってしまうような気がした。

 けれど、ルシャは否定してくれない。

 

「お前、死ぬんだって」

「死ぬんじゃないわ」

 静かな声だった。

「代わるだけよ」

「何が違うんだよ!」

 

 思ったよりも大きな声が出た。

 ルシャが僅かに目を伏せる。

 

「お前の身体が残っても、そこにいるのはお前じゃなくなるんだろ。ルシャ=ルシアーデっていう人格は、消えてなくなるんだって」

「……ええ」

「だから、今も少しずつ、お前の存在は薄くなってるって」

 

 昨日の神社を思い出す。

 二人分のおみくじを用意した人。

 隣にいるはずのルシャへ、なかなか向かなかった視線。

 あれだけではなかった。

 服を選んだ時も、街を歩いている時も。

 僕には見えている彼女を、周りの人は時々、そこにいないように扱っていた。

 

「人に気づかれないのも、最近、寝ていることが増えたのも。それが理由なんだろ」

 ルシャは少し間を置いて、頷いた。

「……どうして、言わなかったんだ」

「言って、どうするの」

 

 責めるような声ではなかった。

 本当に分からないとでもいうように、ルシャは僕を見る。

 

「シヲリが知っても、何も変わらないわ。むしろ、知ったせいで狙われるかもしれない。魔術士は、秘密を知られるのを嫌うもの」

「だからって」

「それに――」

 

 ルシャが、言葉を切った。

 膝の上の紙袋を強く握る。

 

「貴方には、もう一つ話さないといけないことがある」

「……何だよ」

 

 ルシャは、すぐには答えなかった。

 川面へ目を向けたまま、何度か唇を動かしている。

 まるで、言葉を探しているようだった。

 やがて、小さく息を吸う。

 

「シヲリ」

「うん」

「あの夜のこと、覚えてる?」

「あの夜?」

「私たちが、初めて会った日」

 

 忘れるはずがない。

 雪の中で倒れていた銀髪の少女。

 血に濡れた身体。

 青白い光。

 首元に残った、黒い痕。

 

「覚えてるよ」

「そう」

 

 ルシャは、自分の首元へ指を添えた。

 

「貴方は、あの時からずっと、私たちが契約で繋がっていると思っていたわね」

「……何だよ、急に」

「恩を返してもらうまで、私に付き合わなきゃいけない。そう思っていたでしょう?」

「お前がそう言ったんだろ」

「ええ」

 ルシャは頷いた。

「私が言った」

 

 一拍。

 雪が、僕たちの間へ落ちる。

 

「でもね」

 ルシャの声が、僅かに震えた。

「私たち、契約なんてしてないの」

「…………は?」

 

 言葉の意味が理解できなかった。

 ルシャは笑わなかった。

 僕をまっすぐに見ている。

 

「正確には、あの夜の契約は成立しなかった」

「待て」

「契約魔術には、成立するための条件があるの。互いの意思も、願いも、差し出すものも、世界が釣り合っていると認めなければならない」

「ちょっと待てって」

「でも、あの時は足りなかった」

 ルシャは淡々と続ける。

「術式は途中で終わった。だから、本当は――あの時点で何も成立していなかったのよ」

「……じゃあ」

 

 頭が追いつかない。

 

「あれは?」

「失敗した契約の痕跡」

「マミさんが言ってた、願いの交換っていうのは」

「契約魔術そのものの説明は本当よ」

「そうじゃなくて!」

 

 思わず立ち上がった。

 ルシャの肩が僅かに跳ねる。

 

「じゃあ、僕たちの契約は?」

「ないわ」

「最初から?」

「……ええ」

「お前、それ知ってたのか」

 

 沈黙。

 それだけで答えは分かった。

 

「知ってたんだな」

「……ええ」

「それで、僕には契約したって言ったのか」

 ルシャは俯いた。

「そうよ」

「なんで」

 声が掠れた。

「なんで、そんな嘘ついたんだよ」

「…………」

「僕、この九日間ずっと――」

 

 契約だから。

 仕方がないから。

 こいつの恩返しが終わるまでは。

 そう言い訳してきた。

 水族館へ行った時も。

 料理を作った時も。

 初詣に行った時も。

 今日、一緒に街を歩いていた時だって。

 

「なんでだよ」

「……欲しかったから」

 小さな声だった。

「何が」

「理由が」

 

 ルシャが顔を上げる。

 今にも泣きそうな顔をしていた。

 

「貴方の隣にいる理由が、欲しかったの」

 

 何も言えなかった。

 

「最初は、本当に少しだけのつもりだった。恩返しを理由にして、何日か一緒にいられれば、それでいいと思ったの」

「……」

「だって貴方、放っておいたら絶対に私と関わろうとしなかったでしょう?」

「それは……」

 

 否定できない。

 魔術なんて知らなかった。

 知りたくもなかった。

 あの夜のことだって、できるなら忘れて普通の日常へ戻りたかった。

 

「私はもうすぐ、いなくなる」

 ルシャが言う。

「誰にも見てもらえなくなって、誰にも覚えてもらえなくなって。そんな時に、貴方だけが私を見つけた」

 

 銀灰色の瞳が揺れる。

 

「だから、少しくらい欲張ってもいいかなって思ったの」

「……それで、契約したって?」

「ええ」

「僕を騙して?」

「……ええ」

 

 ルシャは目を逸らさなかった。

 

「ごめんなさい」

 

 何か言ってやろうと思った。

 最低だとか。

 ふざけるなとか。

 この九日間返せとか。

 いくらでも文句は浮かんだ。

 なのに、口から出たのは別の言葉だった。

 

「……じゃあ」

「何?」

「僕が今日までお前と一緒にいたのは、何だったんだよ」

 

 ルシャの目が僅かに見開かれる。

 

「契約なんてなかったんだろ」

「ええ」

「だったら僕は、いつでも帰れたんじゃないか」

「そうね」

「三日目も。四日目も。水族館の日も。昨日だって」

「ええ」

「お前を無視して、普通に生活できたんだよな」

 ルシャは、ゆっくりと頷く。

「できたわ」

「…………」

「契約で貴方を縛ったことなんて、一度もないもの」

 

 その言葉だけが、妙に胸へ残った。

 契約なんてなかった。

 なら。

 あの日、本屋へ行ったのも。

 ゲームセンターで財布を空にしたのも。

 水族館へ行ったのも。

 初詣へ誘ったのも。

 全部。

 

「……そっか」

 

 自分でも驚くほど、小さな声が出た。

 ルシャが怪訝そうに僕を見る。

 

「シヲリ?」

「じゃあ、全部僕が勝手にやってたのか」

「……そういうことになるわね」

「なんだよ、それ」

 

 笑いが漏れた。

 呆れたような、自分に対する笑いだった。

 

「僕、馬鹿みたいじゃないか」

「……怒らないの?」

「怒ってるよ」

「でしょうね」

「かなり怒ってる」

「ごめんなさい」

「でも」

 

 ルシャを見る。

 

「今は、それより腹が立ってることがある」

 

 笑いが消えた。

 

「お前が、いなくなることだよ」

 

 ルシャが、何も言わなくなった。

 

「契約がなかったなら、なおさらだ」

「……どういう意味?」

「僕はもう、お前に付き合う義務なんてないんだろ」

「ええ」

「だったら、ここから先どうするかは僕が決める」

「シヲリ」

「勝手に僕を解放したつもりになるなよ」

 

 ルシャの眉が、苦しそうに寄る。

 

「でも、そこは心配しなくていいの」

 

 彼女は紙袋を脇へ置くと、ゆっくり立ち上がった。

 いつの間にか、雪が降り始めている。

 掌を上へ向ける。

 舞い落ちた小さな雪片が、指先へ触れて消えた。

 

「五日の儀式が終われば、私がいたということも、世界からなくなるから」

 

 昨日、マミさんから聞いた言葉が蘇る。

 人格だけではない。

 彼女を彼女としてこの世界に結びつけていたものが、失われる。

 存在も。

 関わりも。

 彼女がここにいたという、その記録さえ。

 

「シヲリが私を見つけたことも、一緒にいたことも。私を通して魔術に関わったことも、なくなるわ」

 

 振り返ったルシャは、やっぱり笑っていた。

 

「ちゃんと、元の生活に戻れる。だから――」

「何が、ちゃんとなんだよ」

 

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

 ルシャの笑みが止まる。

 

「それで全部終わりって、何を勝手に決めてるんだ」

「何って……シヲリが望んでいたことでしょう?」

 

 普通に生きたい。

 魔術なんてものに関わりたくない。

 何度も言った。

 こいつの前で、何度も。

 

「望んでたよ」

「だったら」

「でも、僕が欲しかったのは、お前がいなかったことになる日常じゃない」

 

 ルシャが口を閉じた。

 僕も立ち上がる。

 銀色の髪へ、雪が落ちた。

 

「人の家に勝手についてきて、ベッドを占領して。飯を作れだの、どこかへ連れていけだの、好き勝手言って」

「……シヲリ」

「挙句に契約まで嘘で」

「それは……本当に悪かったと思ってるわ」

「そこはちゃんと反省しろ」

「してるわよ」

「それで最後は、全部忘れろっていうのかよ」

 

 ルシャは何も言わなかった。

 言葉にするたび、彼女の顔が浮かんだ。

 クレープを頬張っている顔。

 変なぬいぐるみを抱えている顔。

 フレンチトーストの焼け具合を、真剣に覗き込んでいる顔。

 水槽の青い光に照らされた横顔も。

 初詣で大吉を突きつけてきた、得意げな笑みも。

 そんなものばかりが、次々と思い出された。

 

「僕が忘れれば、それでいいのかよ」

「……それなら、貴方は困らないもの」

「僕が困るかどうかまで、お前が決めるなよ」

 

 ルシャの顔が歪む。

 分かっていた。

 怒ったところで、何かが変わるわけじゃない。

 彼女だって、自分からこうなったわけではない。

 それでも。

 笑って大丈夫だと言われることだけは、耐えられなかった。

 

「僕が知ってるお前がいなくなるなら、それは死ぬのと同じじゃないか」

 掌を上へ向けていたルシャの腕が、ゆっくりと下りる。

「……私は、そのために生まれたのよ」

「そのために生まれたら、そのためにいなくならなきゃいけないのか」

「そういうものなの」

「僕は、嫌だよ」

 

 ルシャが顔を上げた。

 僕は、その目を見る。

 

「儀式が終わったあとも、お前は甘いものが食いたいって言うのか?」

「……」

「今日買った本を読んで、面白かったとか、つまらなかったとか。僕に文句を言うのかよ」

 返事はない。

「朝になったら、人のベッドを勝手に占領してるのか?」

「……シヲリ」

「それができないなら、僕にとっては同じなんだよ」

 

 川の向こうで、車の走る音がした。

 ルシャの唇が動く。

 けれど、声にはならなかった。

 しばらくして、小さく息を吸う。

 

「……じゃあ」

 

 さっきまでとは違う。

 ひどく頼りない声だった。

 

「シヲリは、私のために普通を捨てられる?」

 

 すぐには答えられなかった。

 傷を負った腕が、コートの下で疼いた気がした。

 逃げても追いつかれた。

 こちらの声なんて、聞いてもらえなかった。

 あの夜、ルシャが来なければ、僕は死んでいたかもしれない。

 ああいうものと、また関わる。

 この先も、ずっと。

 怖くないわけがなかった。

 学校へ行って。

 バイトをして。

 本を読んで。

 昨日と似た今日を過ごして、今日と似た明日を迎える。

 そんな毎日を、僕は今だって手放したくない。

 けれど。

 目の前にいる少女を見る。

 僕の返事を待っている。

 逃げ道を用意するみたいに、もういいのだと笑おうとしている。

 その顔を見て、ようやく分かった。

 僕は、元に戻りたいわけじゃなかった。

 今日の続きを、明日もやりたかったのだ。

 

「……普通に生きたいよ」

 

 ルシャの目が、僅かに揺れた。

 

「できれば危ない目には遭いたくない。痛いのも怖いのも、もう十分だ」

「……ええ」

「でも、お前が消えるのを見捨ててまで、元通りになりたいとは思わない」

 

 息を吐く。

 白くなったそれが、僕たちの間へ流れた。

 

「僕が欲しいのは、お前もいる毎日だよ」

 ルシャは動かなかった。

「だから、今までの普通じゃ無理だっていうなら」

 ちゃんと、その顔を見る。

「それくらい、変えてやるさ」

 

 一粒、涙が落ちた。

 最初は、雪が溶けたのかと思った。

 ルシャ自身も、そう思ったのかもしれない。

 不思議そうに頬へ触れ、濡れた指先を見つめている。

 

「……あれ」

 もう一粒、落ちた。

「おかしい、わね」

 

 笑おうとする。

 けれど、その途中で唇が震えた。

 

「こんなつもりじゃ、なかったんだけど」

「ルシャ」

「違うのよ。私、別に、泣くつもりなんて」

 

 言いながら、目元を擦る。

 擦っても、すぐに次が零れた。

 僕は迷ってから、一歩近づく。

 肩へ触れると、ルシャは逃げなかった。

 それどころか、僕のコートの胸元を弱く掴んだ。

 

「……ありがとう」

 小さな声がした。

「ありがとう、シヲリ」

「……ああ」

 

 何と返せばいいのか分からなかった。

 僕はまだ、何もできていない。

 助ける方法も。

 逃げる場所も知らない。

 それなのに、ルシャは何度も礼を言った。

 泣きながら、困ったように笑っていた。

 

「……泣きすぎだろ」

「うるさい」

「ほら、擦るなって。赤くなるぞ」

「誰のせいよ」

「僕なのかよ」

 

 取り出したハンカチを渡すと、ひったくるように受け取られた。

 その乱暴さに、少しだけ安心する。

 いつものルシャだった。

 まだ、ここにいる。

 

「なあ」

「……何よ」

「逃げよう」

 

 目元を押さえていた手が止まった。

 

「五日の儀式なんて、行かなきゃいい」

「シヲリ」

「分かってる。それだけで済まないことくらい」

 

 追手が来る。

 隠れていれば助かるのかどうかも分からない。

 日に日に薄くなっているという彼女の存在が、それで元に戻るとも限らない。

 それでも。

 戻って消えるのを待つなんて、できなかった。

 

「マミさんに、もう一度相談しよう。逃げる方法も、お前が消えなくて済む方法も」

「……」

「昨日は、話を聞くだけで精一杯だった。でも、今度は違う」

 ルシャを見る。

「二人で聞きに行こう」

 

 しばらく、返事はなかった。

 彼女は濡れたハンカチを握ったまま、じっと僕を見ている。

 

「本当に、私と逃げるつもりなの?」

「ああ」

「契約もないのに?」

 

 一瞬、言葉に詰まった。

 それから、思わず笑った。

 

「今さらそれ聞くのかよ」

「……だって」

「ないんだろ、契約」

「ええ」

「なら、僕がそうしたいからだよ」

 

 ルシャの目が、大きく見開かれた。

 

「学校も、バイトもあるのに?」

「あるよ。だから、できれば辞めずに済む方法がいい」

「……馬鹿ね。そんなに都合よくいくわけないでしょう」

「じゃあ、どうするか考えるんだろ」

 

 ルシャが俯く。

 その肩が、もう一度だけ小さく震えた。

 

「……そっか」

 消えそうな声だった。

「そう」

 

 顔を上げた彼女の身体が、不意に傾いだ。

 反射的に腕を伸ばす。

 掴んだ肩には、ほとんど力が入っていなかった。

 

「おい」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないだろ」

「少し、疲れただけよ」

 

 額が、僕の胸元へ触れる。

 自分から離れようとしないことが、かえって怖かった。

 

「今日、ずっと歩いたもの。それに、こんなに泣く予定じゃなかったし」

「……帰ろう。とりあえず、暖かいところに」

「ええ」

 

 小さく頷いてから、ルシャが僕の袖を引く。

 

「続きは、明日にしましょう」

「でも、明日はイルゼさんが」

「分かってるわ」

 

 顔を上げる。

 涙の跡が残った顔に、いつもの、少し傲慢な笑みが戻っていた。

 

「その前に、ちゃんと話しましょう。逃げる場所も、そのあとのことも」

「……本当に?」

「本当よ」

 

 僕の袖を掴む指に、少しだけ力が入る。

 

「だから、今日は帰りましょう。寒いわ」

 

 僕は彼女の脇に置かれた紙袋を拾った。

 帰ったら、まずマミさんに連絡しよう。

 それから温かいものを食べて、ルシャを休ませる。

 明日、二人で考えればいい。

 そう思って、頷いた。

 

「分かった。約束だからな」

「……ええ」

 

 ルシャは、静かに笑った。

 

 ◆

 

 帰宅してからのルシャは、大人しかった。

 いつもなら食事ができるまで台所を覗きに来るのに、今日はソファで膝を抱えている。

 声をかければ返事はする。

 けれど、目を離すと、すぐに瞼が下りてしまった。

 温めたスープを飲ませている間に、マミさんへ連絡を入れる。

 ルシャと話をしたこと。

 儀式へ行かせたくないこと。

 明日、もう一度相談したいこと。

 返事は、少ししてから届いた。

 

『分かった。私にも考えさせてくれ』

 

 それ以上は何も書かれていなかった。

 画面を閉じると、ルシャと目が合う。

 

「……マミ?」

「ああ。明日、相談しようって」

「そう」

 

 彼女はそれだけ言って、両手でカップを持ち直した。

 食事を終えると、ルシャは早々にベッドへ向かった。

 

「歯、磨いたのか」

「磨いたわよ」

「ならいいけど。水、ここに置いとくから」

「ええ」

 

 枕元へコップを置き、部屋の明かりを落とす。

 ソファへ戻ろうとしたところで、袖を掴まれた。

 

「シヲリ」

「何?」

「こっち」

 

 ルシャが、布団の端を持ち上げている。

 その手と顔を交互に見る。

 

「……何してんの」

「見れば分かるでしょう」

「いや、分かるけど」

「じゃあ、早く」

「僕はソファで寝るから」

「今日は、嫌」

 

 手は離れなかった。

 いつもみたいに強く引っ張られたわけじゃない。

 それなのに、振りほどけなかった。

 

「……狭いぞ」

「知ってるわ」

「知ってて言ってるのかよ」

 

 眼鏡を外し、枕元へ置く。

 布団の端へ身体を入れると、ルシャがすぐに寄ってきた。

 冷たい指が腕に触れ、思わず肩が跳ねる。

 

「冷たっ」

「温めなさい」

「湯たんぽじゃないんだぞ」

「似たようなものよ」

「全然違うわ」

 

 ルシャは少し笑った。

 僕の腕を抱えたまま、目を閉じる。

 いつもなら、何か一つくらい余計なことを言っていたと思う。

 けれど今日は、言葉が見つからなかった。

 

「……シヲリ」

「ん?」

「明日ね」

「ああ」

「ちゃんと、考えましょうね」

「分かってるよ」

 

 天井を見ながら答える。

 

「二人でな」

 

 腕に触れていた指が、僅かに動いた。

 少し間があってから、返事がする。

 

「……ええ。二人で」

 

 それから間もなく、隣の呼吸がゆっくりになった。

 僕は、なかなか眠れなかった。

 何も決まっていない。

 何も、解決していない。

 それでも。

 隣にルシャがいるだけで、さっきまでとは違った。

 明日になったら、マミさんのところへ行く。

 もう一度話を聞く。

 できることを探す。

 必要なら、この街を離れる。

 怖くないわけじゃない。

 けれど、彼女のいない明日を待つ方が、今はずっと怖かった。

 顔を横へ向ける。

 ルシャは、僕の腕を抱いたまま眠っている。

 

「……おやすみ」

 返事はない。

 

 やがて僕も、ゆっくりと目を閉じた。

 明日になれば、二人で続きを話せる。

 そう、信じていた。

 

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