魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
河川敷のベンチには、薄く雪が積もっていた。
手で払ってから、ルシャを座らせる。彼女は素直に腰を下ろし、買った本の入った袋を膝へ置いた。
僕も、その隣へ座る。
街の音が、土手の向こうへ遠ざかっていく。
目の前を流れる川は暗く、対岸の街灯だけが、水面の上で細く揺れていた。
「ここも、懐かしいわね」
ルシャが言った。
少し先に、見覚えのある道がある。
九日前、僕が彼女を見つけた場所だった。
「……そんな前のことじゃないだろ」
「そうね」
ルシャは小さく笑う。
「でも、随分前みたい」
膝の上で、紙袋の端を撫でている。
僕はその指を見ていた。
何を、どこから話せばいいのか。
昨日からずっと考えていたはずなのに、いざ隣に座ると、言葉が出てこない。
「それで」
先に口を開いたのは、ルシャだった。
「どこまで聞いたの」
「……大体は」
「それじゃ分からないわ」
銀灰色の瞳が、こちらを向く。
「私が、何のために生まれたのかも?」
喉が詰まった。
それでも、頷く。
「五日の儀式で、何が起こるのかも?」
「……ああ」
「そう」
ルシャは視線を川へ戻した。
驚きもしなかった。
怒りもしなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑う。
「聞かない方がよかったのに。馬鹿ね、シヲリ」
その顔を見た途端、昨日から押し込めていたものが喉元までせり上がってきた。
「……なんで」
「何?」
「なんで、そんな顔で笑えるんだよ」
ルシャの指が止まる。
僕は握っていた手を開いた。指先が冷えて、うまく動かなかった。
「聞いたよ。世界律とか、依り代とか。正直、分からないことばっかりだったけど」
「ええ」
「それでも、儀式が終わったら、お前がどうなるかは分かった」
口にしたくなかった。
言ってしまえば、昨日聞いた話が本当になってしまうような気がした。
けれど、ルシャは否定してくれない。
「お前、死ぬんだって」
「死ぬんじゃないわ」
静かな声だった。
「代わるだけよ」
「何が違うんだよ!」
思ったよりも大きな声が出た。
ルシャが僅かに目を伏せる。
「お前の身体が残っても、そこにいるのはお前じゃなくなるんだろ。ルシャ=ルシアーデっていう人格は、消えてなくなるんだって」
「……ええ」
「だから、今も少しずつ、お前の存在は薄くなってるって」
昨日の神社を思い出す。
二人分のおみくじを用意した人。
隣にいるはずのルシャへ、なかなか向かなかった視線。
あれだけではなかった。
服を選んだ時も、街を歩いている時も。
僕には見えている彼女を、周りの人は時々、そこにいないように扱っていた。
「人に気づかれないのも、最近、寝ていることが増えたのも。それが理由なんだろ」
ルシャは少し間を置いて、頷いた。
「……どうして、言わなかったんだ」
「言って、どうするの」
責めるような声ではなかった。
本当に分からないとでもいうように、ルシャは僕を見る。
「シヲリが知っても、何も変わらないわ。むしろ、知ったせいで狙われるかもしれない。魔術士は、秘密を知られるのを嫌うもの」
「だからって」
「それに――」
ルシャが、言葉を切った。
膝の上の紙袋を強く握る。
「貴方には、もう一つ話さないといけないことがある」
「……何だよ」
ルシャは、すぐには答えなかった。
川面へ目を向けたまま、何度か唇を動かしている。
まるで、言葉を探しているようだった。
やがて、小さく息を吸う。
「シヲリ」
「うん」
「あの夜のこと、覚えてる?」
「あの夜?」
「私たちが、初めて会った日」
忘れるはずがない。
雪の中で倒れていた銀髪の少女。
血に濡れた身体。
青白い光。
首元に残った、黒い痕。
「覚えてるよ」
「そう」
ルシャは、自分の首元へ指を添えた。
「貴方は、あの時からずっと、私たちが契約で繋がっていると思っていたわね」
「……何だよ、急に」
「恩を返してもらうまで、私に付き合わなきゃいけない。そう思っていたでしょう?」
「お前がそう言ったんだろ」
「ええ」
ルシャは頷いた。
「私が言った」
一拍。
雪が、僕たちの間へ落ちる。
「でもね」
ルシャの声が、僅かに震えた。
「私たち、契約なんてしてないの」
「…………は?」
言葉の意味が理解できなかった。
ルシャは笑わなかった。
僕をまっすぐに見ている。
「正確には、あの夜の契約は成立しなかった」
「待て」
「契約魔術には、成立するための条件があるの。互いの意思も、願いも、差し出すものも、世界が釣り合っていると認めなければならない」
「ちょっと待てって」
「でも、あの時は足りなかった」
ルシャは淡々と続ける。
「術式は途中で終わった。だから、本当は――あの時点で何も成立していなかったのよ」
「……じゃあ」
頭が追いつかない。
「あれは?」
「失敗した契約の痕跡」
「マミさんが言ってた、願いの交換っていうのは」
「契約魔術そのものの説明は本当よ」
「そうじゃなくて!」
思わず立ち上がった。
ルシャの肩が僅かに跳ねる。
「じゃあ、僕たちの契約は?」
「ないわ」
「最初から?」
「……ええ」
「お前、それ知ってたのか」
沈黙。
それだけで答えは分かった。
「知ってたんだな」
「……ええ」
「それで、僕には契約したって言ったのか」
ルシャは俯いた。
「そうよ」
「なんで」
声が掠れた。
「なんで、そんな嘘ついたんだよ」
「…………」
「僕、この九日間ずっと――」
契約だから。
仕方がないから。
こいつの恩返しが終わるまでは。
そう言い訳してきた。
水族館へ行った時も。
料理を作った時も。
初詣に行った時も。
今日、一緒に街を歩いていた時だって。
「なんでだよ」
「……欲しかったから」
小さな声だった。
「何が」
「理由が」
ルシャが顔を上げる。
今にも泣きそうな顔をしていた。
「貴方の隣にいる理由が、欲しかったの」
何も言えなかった。
「最初は、本当に少しだけのつもりだった。恩返しを理由にして、何日か一緒にいられれば、それでいいと思ったの」
「……」
「だって貴方、放っておいたら絶対に私と関わろうとしなかったでしょう?」
「それは……」
否定できない。
魔術なんて知らなかった。
知りたくもなかった。
あの夜のことだって、できるなら忘れて普通の日常へ戻りたかった。
「私はもうすぐ、いなくなる」
ルシャが言う。
「誰にも見てもらえなくなって、誰にも覚えてもらえなくなって。そんな時に、貴方だけが私を見つけた」
銀灰色の瞳が揺れる。
「だから、少しくらい欲張ってもいいかなって思ったの」
「……それで、契約したって?」
「ええ」
「僕を騙して?」
「……ええ」
ルシャは目を逸らさなかった。
「ごめんなさい」
何か言ってやろうと思った。
最低だとか。
ふざけるなとか。
この九日間返せとか。
いくらでも文句は浮かんだ。
なのに、口から出たのは別の言葉だった。
「……じゃあ」
「何?」
「僕が今日までお前と一緒にいたのは、何だったんだよ」
ルシャの目が僅かに見開かれる。
「契約なんてなかったんだろ」
「ええ」
「だったら僕は、いつでも帰れたんじゃないか」
「そうね」
「三日目も。四日目も。水族館の日も。昨日だって」
「ええ」
「お前を無視して、普通に生活できたんだよな」
ルシャは、ゆっくりと頷く。
「できたわ」
「…………」
「契約で貴方を縛ったことなんて、一度もないもの」
その言葉だけが、妙に胸へ残った。
契約なんてなかった。
なら。
あの日、本屋へ行ったのも。
ゲームセンターで財布を空にしたのも。
水族館へ行ったのも。
初詣へ誘ったのも。
全部。
「……そっか」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
ルシャが怪訝そうに僕を見る。
「シヲリ?」
「じゃあ、全部僕が勝手にやってたのか」
「……そういうことになるわね」
「なんだよ、それ」
笑いが漏れた。
呆れたような、自分に対する笑いだった。
「僕、馬鹿みたいじゃないか」
「……怒らないの?」
「怒ってるよ」
「でしょうね」
「かなり怒ってる」
「ごめんなさい」
「でも」
ルシャを見る。
「今は、それより腹が立ってることがある」
笑いが消えた。
「お前が、いなくなることだよ」
ルシャが、何も言わなくなった。
「契約がなかったなら、なおさらだ」
「……どういう意味?」
「僕はもう、お前に付き合う義務なんてないんだろ」
「ええ」
「だったら、ここから先どうするかは僕が決める」
「シヲリ」
「勝手に僕を解放したつもりになるなよ」
ルシャの眉が、苦しそうに寄る。
「でも、そこは心配しなくていいの」
彼女は紙袋を脇へ置くと、ゆっくり立ち上がった。
いつの間にか、雪が降り始めている。
掌を上へ向ける。
舞い落ちた小さな雪片が、指先へ触れて消えた。
「五日の儀式が終われば、私がいたということも、世界からなくなるから」
昨日、マミさんから聞いた言葉が蘇る。
人格だけではない。
彼女を彼女としてこの世界に結びつけていたものが、失われる。
存在も。
関わりも。
彼女がここにいたという、その記録さえ。
「シヲリが私を見つけたことも、一緒にいたことも。私を通して魔術に関わったことも、なくなるわ」
振り返ったルシャは、やっぱり笑っていた。
「ちゃんと、元の生活に戻れる。だから――」
「何が、ちゃんとなんだよ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
ルシャの笑みが止まる。
「それで全部終わりって、何を勝手に決めてるんだ」
「何って……シヲリが望んでいたことでしょう?」
普通に生きたい。
魔術なんてものに関わりたくない。
何度も言った。
こいつの前で、何度も。
「望んでたよ」
「だったら」
「でも、僕が欲しかったのは、お前がいなかったことになる日常じゃない」
ルシャが口を閉じた。
僕も立ち上がる。
銀色の髪へ、雪が落ちた。
「人の家に勝手についてきて、ベッドを占領して。飯を作れだの、どこかへ連れていけだの、好き勝手言って」
「……シヲリ」
「挙句に契約まで嘘で」
「それは……本当に悪かったと思ってるわ」
「そこはちゃんと反省しろ」
「してるわよ」
「それで最後は、全部忘れろっていうのかよ」
ルシャは何も言わなかった。
言葉にするたび、彼女の顔が浮かんだ。
クレープを頬張っている顔。
変なぬいぐるみを抱えている顔。
フレンチトーストの焼け具合を、真剣に覗き込んでいる顔。
水槽の青い光に照らされた横顔も。
初詣で大吉を突きつけてきた、得意げな笑みも。
そんなものばかりが、次々と思い出された。
「僕が忘れれば、それでいいのかよ」
「……それなら、貴方は困らないもの」
「僕が困るかどうかまで、お前が決めるなよ」
ルシャの顔が歪む。
分かっていた。
怒ったところで、何かが変わるわけじゃない。
彼女だって、自分からこうなったわけではない。
それでも。
笑って大丈夫だと言われることだけは、耐えられなかった。
「僕が知ってるお前がいなくなるなら、それは死ぬのと同じじゃないか」
掌を上へ向けていたルシャの腕が、ゆっくりと下りる。
「……私は、そのために生まれたのよ」
「そのために生まれたら、そのためにいなくならなきゃいけないのか」
「そういうものなの」
「僕は、嫌だよ」
ルシャが顔を上げた。
僕は、その目を見る。
「儀式が終わったあとも、お前は甘いものが食いたいって言うのか?」
「……」
「今日買った本を読んで、面白かったとか、つまらなかったとか。僕に文句を言うのかよ」
返事はない。
「朝になったら、人のベッドを勝手に占領してるのか?」
「……シヲリ」
「それができないなら、僕にとっては同じなんだよ」
川の向こうで、車の走る音がした。
ルシャの唇が動く。
けれど、声にはならなかった。
しばらくして、小さく息を吸う。
「……じゃあ」
さっきまでとは違う。
ひどく頼りない声だった。
「シヲリは、私のために普通を捨てられる?」
すぐには答えられなかった。
傷を負った腕が、コートの下で疼いた気がした。
逃げても追いつかれた。
こちらの声なんて、聞いてもらえなかった。
あの夜、ルシャが来なければ、僕は死んでいたかもしれない。
ああいうものと、また関わる。
この先も、ずっと。
怖くないわけがなかった。
学校へ行って。
バイトをして。
本を読んで。
昨日と似た今日を過ごして、今日と似た明日を迎える。
そんな毎日を、僕は今だって手放したくない。
けれど。
目の前にいる少女を見る。
僕の返事を待っている。
逃げ道を用意するみたいに、もういいのだと笑おうとしている。
その顔を見て、ようやく分かった。
僕は、元に戻りたいわけじゃなかった。
今日の続きを、明日もやりたかったのだ。
「……普通に生きたいよ」
ルシャの目が、僅かに揺れた。
「できれば危ない目には遭いたくない。痛いのも怖いのも、もう十分だ」
「……ええ」
「でも、お前が消えるのを見捨ててまで、元通りになりたいとは思わない」
息を吐く。
白くなったそれが、僕たちの間へ流れた。
「僕が欲しいのは、お前もいる毎日だよ」
ルシャは動かなかった。
「だから、今までの普通じゃ無理だっていうなら」
ちゃんと、その顔を見る。
「それくらい、変えてやるさ」
一粒、涙が落ちた。
最初は、雪が溶けたのかと思った。
ルシャ自身も、そう思ったのかもしれない。
不思議そうに頬へ触れ、濡れた指先を見つめている。
「……あれ」
もう一粒、落ちた。
「おかしい、わね」
笑おうとする。
けれど、その途中で唇が震えた。
「こんなつもりじゃ、なかったんだけど」
「ルシャ」
「違うのよ。私、別に、泣くつもりなんて」
言いながら、目元を擦る。
擦っても、すぐに次が零れた。
僕は迷ってから、一歩近づく。
肩へ触れると、ルシャは逃げなかった。
それどころか、僕のコートの胸元を弱く掴んだ。
「……ありがとう」
小さな声がした。
「ありがとう、シヲリ」
「……ああ」
何と返せばいいのか分からなかった。
僕はまだ、何もできていない。
助ける方法も。
逃げる場所も知らない。
それなのに、ルシャは何度も礼を言った。
泣きながら、困ったように笑っていた。
「……泣きすぎだろ」
「うるさい」
「ほら、擦るなって。赤くなるぞ」
「誰のせいよ」
「僕なのかよ」
取り出したハンカチを渡すと、ひったくるように受け取られた。
その乱暴さに、少しだけ安心する。
いつものルシャだった。
まだ、ここにいる。
「なあ」
「……何よ」
「逃げよう」
目元を押さえていた手が止まった。
「五日の儀式なんて、行かなきゃいい」
「シヲリ」
「分かってる。それだけで済まないことくらい」
追手が来る。
隠れていれば助かるのかどうかも分からない。
日に日に薄くなっているという彼女の存在が、それで元に戻るとも限らない。
それでも。
戻って消えるのを待つなんて、できなかった。
「マミさんに、もう一度相談しよう。逃げる方法も、お前が消えなくて済む方法も」
「……」
「昨日は、話を聞くだけで精一杯だった。でも、今度は違う」
ルシャを見る。
「二人で聞きに行こう」
しばらく、返事はなかった。
彼女は濡れたハンカチを握ったまま、じっと僕を見ている。
「本当に、私と逃げるつもりなの?」
「ああ」
「契約もないのに?」
一瞬、言葉に詰まった。
それから、思わず笑った。
「今さらそれ聞くのかよ」
「……だって」
「ないんだろ、契約」
「ええ」
「なら、僕がそうしたいからだよ」
ルシャの目が、大きく見開かれた。
「学校も、バイトもあるのに?」
「あるよ。だから、できれば辞めずに済む方法がいい」
「……馬鹿ね。そんなに都合よくいくわけないでしょう」
「じゃあ、どうするか考えるんだろ」
ルシャが俯く。
その肩が、もう一度だけ小さく震えた。
「……そっか」
消えそうな声だった。
「そう」
顔を上げた彼女の身体が、不意に傾いだ。
反射的に腕を伸ばす。
掴んだ肩には、ほとんど力が入っていなかった。
「おい」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「少し、疲れただけよ」
額が、僕の胸元へ触れる。
自分から離れようとしないことが、かえって怖かった。
「今日、ずっと歩いたもの。それに、こんなに泣く予定じゃなかったし」
「……帰ろう。とりあえず、暖かいところに」
「ええ」
小さく頷いてから、ルシャが僕の袖を引く。
「続きは、明日にしましょう」
「でも、明日はイルゼさんが」
「分かってるわ」
顔を上げる。
涙の跡が残った顔に、いつもの、少し傲慢な笑みが戻っていた。
「その前に、ちゃんと話しましょう。逃げる場所も、そのあとのことも」
「……本当に?」
「本当よ」
僕の袖を掴む指に、少しだけ力が入る。
「だから、今日は帰りましょう。寒いわ」
僕は彼女の脇に置かれた紙袋を拾った。
帰ったら、まずマミさんに連絡しよう。
それから温かいものを食べて、ルシャを休ませる。
明日、二人で考えればいい。
そう思って、頷いた。
「分かった。約束だからな」
「……ええ」
ルシャは、静かに笑った。
◆
帰宅してからのルシャは、大人しかった。
いつもなら食事ができるまで台所を覗きに来るのに、今日はソファで膝を抱えている。
声をかければ返事はする。
けれど、目を離すと、すぐに瞼が下りてしまった。
温めたスープを飲ませている間に、マミさんへ連絡を入れる。
ルシャと話をしたこと。
儀式へ行かせたくないこと。
明日、もう一度相談したいこと。
返事は、少ししてから届いた。
『分かった。私にも考えさせてくれ』
それ以上は何も書かれていなかった。
画面を閉じると、ルシャと目が合う。
「……マミ?」
「ああ。明日、相談しようって」
「そう」
彼女はそれだけ言って、両手でカップを持ち直した。
食事を終えると、ルシャは早々にベッドへ向かった。
「歯、磨いたのか」
「磨いたわよ」
「ならいいけど。水、ここに置いとくから」
「ええ」
枕元へコップを置き、部屋の明かりを落とす。
ソファへ戻ろうとしたところで、袖を掴まれた。
「シヲリ」
「何?」
「こっち」
ルシャが、布団の端を持ち上げている。
その手と顔を交互に見る。
「……何してんの」
「見れば分かるでしょう」
「いや、分かるけど」
「じゃあ、早く」
「僕はソファで寝るから」
「今日は、嫌」
手は離れなかった。
いつもみたいに強く引っ張られたわけじゃない。
それなのに、振りほどけなかった。
「……狭いぞ」
「知ってるわ」
「知ってて言ってるのかよ」
眼鏡を外し、枕元へ置く。
布団の端へ身体を入れると、ルシャがすぐに寄ってきた。
冷たい指が腕に触れ、思わず肩が跳ねる。
「冷たっ」
「温めなさい」
「湯たんぽじゃないんだぞ」
「似たようなものよ」
「全然違うわ」
ルシャは少し笑った。
僕の腕を抱えたまま、目を閉じる。
いつもなら、何か一つくらい余計なことを言っていたと思う。
けれど今日は、言葉が見つからなかった。
「……シヲリ」
「ん?」
「明日ね」
「ああ」
「ちゃんと、考えましょうね」
「分かってるよ」
天井を見ながら答える。
「二人でな」
腕に触れていた指が、僅かに動いた。
少し間があってから、返事がする。
「……ええ。二人で」
それから間もなく、隣の呼吸がゆっくりになった。
僕は、なかなか眠れなかった。
何も決まっていない。
何も、解決していない。
それでも。
隣にルシャがいるだけで、さっきまでとは違った。
明日になったら、マミさんのところへ行く。
もう一度話を聞く。
できることを探す。
必要なら、この街を離れる。
怖くないわけじゃない。
けれど、彼女のいない明日を待つ方が、今はずっと怖かった。
顔を横へ向ける。
ルシャは、僕の腕を抱いたまま眠っている。
「……おやすみ」
返事はない。
やがて僕も、ゆっくりと目を閉じた。
明日になれば、二人で続きを話せる。
そう、信じていた。