魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第三章「朱に交われば赤くなる」 九日目(下)

 

◆

 

 目を開ける。

 部屋は未だ暗かった。……当たり前と言えば当たり前だ。何より私は、元から寝てなんていないのだから。

 すぐ隣で感じる愛おしい温もり。寝ているのにも関わらず、しっかりと握られた手。その手をゆっくりと、起こさないよう慎重に剥がしていく。

 それでも、最後の一本だけはどうしても離せず、しばらくその指先を握ったまま動かなかった。

 しかし、その指もすぐに離した。

 

「もう私は、十分すぎるくらい貰ったから」

 

 念の為、音を立てないようにベッドから降りる。床へ足をつけた途端、身体が僅かにふらついた。

 

「…………急がないと」

 

 思っていたより、酷い。

 身体が重いというより、自分と世界との繋がりが分からなくなる不思議な感覚。気を抜けば平衡感覚を失って倒れてしまいそう。

 それでも、まだ歩ける。だから、大丈夫。

 ふらつく体を何とか支えながら、部屋の隅へ向かった。そこにかかった全身鏡には、まるで普通の女の子みたいな格好をした女の子がいた。

 暖かいコート。ニット。スカート。

 袖へ触れる。どれも、三日目にシヲリが買ってくれたやつだった。

 

「ありがとう」

 

 気に入っていた。

 初めて、自分で選んだ服。シヲリに似合うと言ってもらった服。その服を脱いで、一枚ずつ丁寧に畳んでベッドの横に置く。

 代わりに取り出したのは、白と黒を基調にした慣れ親しんだ服。あの場所で与えられた――依り代としての私の服。

 袖を通して、ボタンを留める。それだけで、鏡の中には何もなかった頃の自分が戻っていた。

 目を瞑る。大きく、深呼吸をする。これでいい……いや、これがいい。

 

「……バカみたい」

 

 頭の中にあった最後のもしもを、捨てる。思わず笑ってしまうような、そんなもしも。

 荷物は、何もいらない。

 元より、私は空っぽだったのだから。それでも、机の上に置かれていた小さな人形だけは手に取った。三日目、シヲリが取ってくれた、変な顔をした人形。

 

「――ふふ」

 

 顔を潰して、撫でて、しばらく見つめていた。

 ――喉の奥に込みあがる熱を、唾液と共に流し込む。

 持っていきたい。ずっと、持っていたい。……けれど。指先に力を込めてから、そっと人形を畳んだ服の上に置く。

 

「これは、置いていくわ」

 

 私が持っていけば、きっと一緒に消えてしまうから。

 それなら、ここにあった方が良い。この部屋に、シヲリの側に。そうすれば、もしかしたら、彼が私の事を思い出してくれるかもしれないから。

 そんな馬鹿みたいな想像をしながら、最後にこの部屋を一望する。

 後は、出ていくだけ。

 扉に向かって、歩く。一歩。二歩と。しかし、玄関の前で足が止まった。振り返れば、ベッドの上でシヲリが眠っている。

 

「最期くらい」

 

 いいでしょう。そう思って、私はもう一度ベッドへ戻った。

 そして、その傍らへ膝をつく。眠っている、シヲリの顔を静かに見つめる。

 

「相変わらず、間抜けな顔」

 

 思わず、笑い声が漏れる。この九日間、ずっと私の側にいてくれた人を瞳に焼き付ける。どうにか、忘れないように。そう願って。

 

「ありがとう」

 一度嚥下した感情が、再びせりあがってくる。……気づけば、口からこぼれていた言葉。それを口にしたらしかし、もう止めることなんてできなかった。

 

「ありがとう、シヲリ。私を、見つけてくれて」

 

 もう殆ど存在が消えかかった頃。せめて最期くらい私が死ぬ世界を見ておこうと、私はあの場所を飛び出した。

 誰にも見られず。声は届かず。皆記憶には残らない。

 それでも、最期に見た世界は私にとってはとても刺激的で、綺麗だった。満足だと、そう思っていた。シヲリと出会う、その前までは。

 

「あり、がとう。私、に、沢山のものを、くれて」

 

 息を吸って、ゆっくり吐く。震えて、上手く話せない。涙も壊れた蛇口みたいに、止まってはくれない。それでも、私はシヲリをしっかりと見る。

 

「ありがとう、シヲリ。私のために、貴方の大切なモノを、捨てようとしてくれて」

 

 嬉しかった。彼が何よりも大切にしていた普通に、私を入れてくれたことが。私を必要だと言ってくれたことが、本当に嬉しかった。

 それだけで良かった。それだけで、私は意味を得た。

 例え世界が忘れても。歴史から私の証拠が消え去っても。例え、この人が私の名前を思い出せなくなっても。この九日間で、この人の何かを私が変えたのなら。

 私は、確かにここに居たのだから。

 

「ありがとう、シヲリ。楽しかったわ。とても、とても」

 

 夕刻、あれだけ泣いたのに涙はまだ止まることはない。一つ。また一つ。頬を伝って、シーツへ落ちていく。

 返事はない。当たり前だ。

 私は笑って、涙を拭って、深く息を吸って彼を見る。

 

「だから貴方は連れていけない」

 ううん。と首を横に振る。

「絶対に、連れて行かない」

 

 もっと一緒にいたい。明日も。明後日も。その次の日も。

 シヲリが言っていたみたいに、何の意味もない朝を迎えてご飯を食べて。本を読んで、くだらないことで笑って。

 そうやって生きる未来は、あまりにも眩しすぎて目がくらみそうで。

 けれど、もういい。

 私は欲しかったものを、ちゃんともらった。これ以上望んだら、それこそ本当にわがままだ。――だから、今度は私が返す番。

 

「だって、こんな優しい人に、こんな世界似合わないもの」

 

 シヲリの頬へ、そっと手を添える。

 額へ落ちていた黒い髪を、指先で避ける。

 感謝の言葉も、別れの言葉も何度言っても足りることはない。だから本当に――これで最期。そして、最期のわがまま。

 寝ているシヲリに、そっと唇を重ねる。

 

「だから、さようなら。私が初めて愛した人」

 

 ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。

 シヲリは起きなかった。

 それでいい。起きてしまったら、きっと私は、行けなくなる。だって私は弱いから。

 

「よし」

 

 今度こそ、立ち上がった。もう、振り返らない。部屋を出て、玄関へ向かう。靴を履いて、ドアノブに手をかける。

 そして、そのままドアを押した。

 

 外一面を埋め尽くすほどの雪景色。その電柱の横に、私のよく見知った顔が一人静かに立っていた。思わず呆れて白いため息をつく。

 給仕服に身を包んだ、栗色の髪を肩口あたりまで流した女。私はその女の横を素通りして外に出る。女は、私の後ろを歩いてきた。

 何も言わず。何も聞かず。ただ黙って。私はその女には、一言だけお礼を言うことにした。

 

「ありがとうイルゼ。約束、守ってくれたのね」

 女は何も言わない。

「あなた、もう殆ど私のこと覚えてないんでしょう」

 

 静かだった女の気配が僅かに、揺れる。どうやら図星らしい。相変わらず分かりやすい人だと少し笑える。それでも、私の元へきて約束を守ってくれたということは、細かい彼女のことだ、大方メモでもしているのだろう。

 空を見上げて、歌を唄う。足取りが軽い。

 雪が降る空の隙間からは、真ん丸の月が覗いていた。

 

「消えるには、いい日ね」

 

 そんな私の囁くような言葉は、冷たい風に吹かれて雪に解けていった。

 

 

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