魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
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目を開ける。
部屋は未だ暗かった。……当たり前と言えば当たり前だ。何より私は、元から寝てなんていないのだから。
すぐ隣で感じる愛おしい温もり。寝ているのにも関わらず、しっかりと握られた手。その手をゆっくりと、起こさないよう慎重に剥がしていく。
それでも、最後の一本だけはどうしても離せず、しばらくその指先を握ったまま動かなかった。
しかし、その指もすぐに離した。
「もう私は、十分すぎるくらい貰ったから」
念の為、音を立てないようにベッドから降りる。床へ足をつけた途端、身体が僅かにふらついた。
「…………急がないと」
思っていたより、酷い。
身体が重いというより、自分と世界との繋がりが分からなくなる不思議な感覚。気を抜けば平衡感覚を失って倒れてしまいそう。
それでも、まだ歩ける。だから、大丈夫。
ふらつく体を何とか支えながら、部屋の隅へ向かった。そこにかかった全身鏡には、まるで普通の女の子みたいな格好をした女の子がいた。
暖かいコート。ニット。スカート。
袖へ触れる。どれも、三日目にシヲリが買ってくれたやつだった。
「ありがとう」
気に入っていた。
初めて、自分で選んだ服。シヲリに似合うと言ってもらった服。その服を脱いで、一枚ずつ丁寧に畳んでベッドの横に置く。
代わりに取り出したのは、白と黒を基調にした慣れ親しんだ服。あの場所で与えられた――依り代としての私の服。
袖を通して、ボタンを留める。それだけで、鏡の中には何もなかった頃の自分が戻っていた。
目を瞑る。大きく、深呼吸をする。これでいい……いや、これがいい。
「……バカみたい」
頭の中にあった最後のもしもを、捨てる。思わず笑ってしまうような、そんなもしも。
荷物は、何もいらない。
元より、私は空っぽだったのだから。それでも、机の上に置かれていた小さな人形だけは手に取った。三日目、シヲリが取ってくれた、変な顔をした人形。
「――ふふ」
顔を潰して、撫でて、しばらく見つめていた。
――喉の奥に込みあがる熱を、唾液と共に流し込む。
持っていきたい。ずっと、持っていたい。……けれど。指先に力を込めてから、そっと人形を畳んだ服の上に置く。
「これは、置いていくわ」
私が持っていけば、きっと一緒に消えてしまうから。
それなら、ここにあった方が良い。この部屋に、シヲリの側に。そうすれば、もしかしたら、彼が私の事を思い出してくれるかもしれないから。
そんな馬鹿みたいな想像をしながら、最後にこの部屋を一望する。
後は、出ていくだけ。
扉に向かって、歩く。一歩。二歩と。しかし、玄関の前で足が止まった。振り返れば、ベッドの上でシヲリが眠っている。
「最期くらい」
いいでしょう。そう思って、私はもう一度ベッドへ戻った。
そして、その傍らへ膝をつく。眠っている、シヲリの顔を静かに見つめる。
「相変わらず、間抜けな顔」
思わず、笑い声が漏れる。この九日間、ずっと私の側にいてくれた人を瞳に焼き付ける。どうにか、忘れないように。そう願って。
「ありがとう」
一度嚥下した感情が、再びせりあがってくる。……気づけば、口からこぼれていた言葉。それを口にしたらしかし、もう止めることなんてできなかった。
「ありがとう、シヲリ。私を、見つけてくれて」
もう殆ど存在が消えかかった頃。せめて最期くらい私が死ぬ世界を見ておこうと、私はあの場所を飛び出した。
誰にも見られず。声は届かず。皆記憶には残らない。
それでも、最期に見た世界は私にとってはとても刺激的で、綺麗だった。満足だと、そう思っていた。シヲリと出会う、その前までは。
「あり、がとう。私、に、沢山のものを、くれて」
息を吸って、ゆっくり吐く。震えて、上手く話せない。涙も壊れた蛇口みたいに、止まってはくれない。それでも、私はシヲリをしっかりと見る。
「ありがとう、シヲリ。私のために、貴方の大切なモノを、捨てようとしてくれて」
嬉しかった。彼が何よりも大切にしていた普通に、私を入れてくれたことが。私を必要だと言ってくれたことが、本当に嬉しかった。
それだけで良かった。それだけで、私は意味を得た。
例え世界が忘れても。歴史から私の証拠が消え去っても。例え、この人が私の名前を思い出せなくなっても。この九日間で、この人の何かを私が変えたのなら。
私は、確かにここに居たのだから。
「ありがとう、シヲリ。楽しかったわ。とても、とても」
夕刻、あれだけ泣いたのに涙はまだ止まることはない。一つ。また一つ。頬を伝って、シーツへ落ちていく。
返事はない。当たり前だ。
私は笑って、涙を拭って、深く息を吸って彼を見る。
「だから貴方は連れていけない」
ううん。と首を横に振る。
「絶対に、連れて行かない」
もっと一緒にいたい。明日も。明後日も。その次の日も。
シヲリが言っていたみたいに、何の意味もない朝を迎えてご飯を食べて。本を読んで、くだらないことで笑って。
そうやって生きる未来は、あまりにも眩しすぎて目がくらみそうで。
けれど、もういい。
私は欲しかったものを、ちゃんともらった。これ以上望んだら、それこそ本当にわがままだ。――だから、今度は私が返す番。
「だって、こんな優しい人に、こんな世界似合わないもの」
シヲリの頬へ、そっと手を添える。
額へ落ちていた黒い髪を、指先で避ける。
感謝の言葉も、別れの言葉も何度言っても足りることはない。だから本当に――これで最期。そして、最期のわがまま。
寝ているシヲリに、そっと唇を重ねる。
「だから、さようなら。私が初めて愛した人」
ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。
シヲリは起きなかった。
それでいい。起きてしまったら、きっと私は、行けなくなる。だって私は弱いから。
「よし」
今度こそ、立ち上がった。もう、振り返らない。部屋を出て、玄関へ向かう。靴を履いて、ドアノブに手をかける。
そして、そのままドアを押した。
外一面を埋め尽くすほどの雪景色。その電柱の横に、私のよく見知った顔が一人静かに立っていた。思わず呆れて白いため息をつく。
給仕服に身を包んだ、栗色の髪を肩口あたりまで流した女。私はその女の横を素通りして外に出る。女は、私の後ろを歩いてきた。
何も言わず。何も聞かず。ただ黙って。私はその女には、一言だけお礼を言うことにした。
「ありがとうイルゼ。約束、守ってくれたのね」
女は何も言わない。
「あなた、もう殆ど私のこと覚えてないんでしょう」
静かだった女の気配が僅かに、揺れる。どうやら図星らしい。相変わらず分かりやすい人だと少し笑える。それでも、私の元へきて約束を守ってくれたということは、細かい彼女のことだ、大方メモでもしているのだろう。
空を見上げて、歌を唄う。足取りが軽い。
雪が降る空の隙間からは、真ん丸の月が覗いていた。
「消えるには、いい日ね」
そんな私の囁くような言葉は、冷たい風に吹かれて雪に解けていった。