魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
寒い。
目を覚まして、最初に思ったのはそんなことだった。
布団は肩までかかっている。暖房だって、切った覚えはない。それなのに、身体の片側だけが妙に冷えていた。
重たい瞼を閉じたまま、腕を動かす。
昨夜は、そこでルシャに掴まれた。狭いと文句を言っても離してくれず、結局、妙な姿勢のまま眠ることになったのだ。
けれど、伸ばした指先は何にも触れなかった。
「……ルシャ?」
返事がない。
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、空いた枕を照らしていた。
隣の布団は僅かに捲れ、その下には皺の寄ったシーツだけが残っている。
トイレだろう。
そう思って、身体を起こした。
いつもより、部屋が静かだった。
台所から物音はしない。水道の音も、冷蔵庫を開ける音も。僕が起きるのを待ちきれず、何か食べるものを探している気配さえなかった。
「ルシャ。起きてるのか?」
眼鏡をかけ、ベッドを降りる。
返事は、やっぱりなかった。
リビングにも、台所にもいない。トイレの扉は開いていて、洗面所にも誰もいなかった。
大して広くもない部屋だ。
探す場所なんて、それだけでなくなった。
寝室へ戻ったところで、足が止まる。
ベッドの脇に、服が畳まれていた。
薄い青色のニット。濃い色のスカート。その上には、変な顔をした鳥のぬいぐるみ。
僕が取ってやったものだった。
あんなに気に入って、家へ帰ってからもよく抱えていたのに。
「……なんで」
机の上には、昨日買った本が置かれていた。
最初の方に栞が挟まっている。
読みかけだった。
最後まで読むと言っていた。
僕は振り返り、玄関へ向かった。
彼女の靴は、なかった。
それで、ようやく分かってしまった。
「……嘘だろ」
昨夜の声が蘇る。
『明日ね』
腕に触れていた、冷たい指。
『ちゃんと、考えましょうね』
僕は頷いた。
二人で、と言った。
あいつだって、同じ言葉を返したじゃないか。
玄関の扉を開ける。
冷たい空気が、一気に流れ込んできた。
廊下には誰もいない。階段の下を覗いても、見えるのは雪の残った地面と、停められた自転車だけだった。
「ルシャ!」
声が、建物の壁に跳ね返る。
返事はなかった。
部屋へ戻り、携帯を手に取る。
連絡しなければ。
そう思って画面を開き、そこで指が止まった。
番号なんて知らない。
そもそも、あいつは携帯を持っていない。
一緒にいれば呼ぶだけでよかった。離れても、少し探せば見つかった。
そんな当たり前のことに、今になって気づく。
「……二人で、逃げるんじゃなかったのかよ」
誰もいない部屋で呟いた。
携帯を握ったまま、ベッドの端へ腰を下ろす。
すぐ隣に、ぬいぐるみがあった。
間の抜けた顔で、こちらを見ていた。
◆
マミさんへ連絡を入れると、返事はすぐに届いた。
『今から行く。そこで待っていなさい』
それを読んで、ようやく少しだけ息ができた。
何をすればいいのか、分からなかった。
追いかけるにしたって、どこへ行ったのか知らない。施設へ戻ったのだろうとは思う。けれど、その施設がどこにあるのかも、どうすれば辿り着けるのかも、僕は何一つ知らなかった。
何も知らないまま、逃げようと言ったのだ。
今までの普通くらい変えてやると、あんなに偉そうに。
「……情けないな」
額を押さえる。
昨夜、ルシャの返事が少し遅れたことを思い出した。
明日の話をする時、僕の目を見なかったことも。
気づけることは、あった。
それなのに僕は、約束したから大丈夫だと思った。信じたい言葉だけを受け取って、隣で眠った。
あいつが目を閉じていたから、眠っているのだと思い込んだ。
携帯の画面が暗くなる。
そこへ映った自分の顔が、ひどく頼りなく見えた。
一月三日。
七日になれば、学校が始まる。
冬休みの宿題はほとんど手をつけていない。バイトだって、そのうち始まる。
いつまでも、こうしているわけにはいかない。
着替えて。
顔を洗って。
何か食べて。
そうやって、いつもの生活へ戻ればいい。
五日を過ぎれば、ルシャのことも忘れるのだという。
だったら、もう少しの辛抱なのかもしれない。
あいつが座っていた椅子を何度も見てしまうことも。
物音がするたび、顔を上げてしまうことも。
全部、なくなる。
「……それでいいわけ、ないだろ」
声にした途端、喉の奥が詰まった。
僕は俯き、目元を強く押さえた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、それから少ししてからだった。
◆
「おはよう、シヲリ君」
扉を開けると、マミさんが立っていた。
コートの襟元から白いシャツが覗いている。片手には、小さな紙袋を提げていた。
僕の顔を見るなり何かを言いかけ、それから何も言わず、袋を差し出してくる。
「朝食は?」
「……まだです」
「だろうと思ったよ。とりあえず、入れてくれるかい」
脇へ退くと、マミさんは靴を脱いで上がった。
リビングへ入るなり、寝室の方へ一度だけ視線を向ける。
畳まれた服と、その上のぬいぐるみに目を留めても、驚いた様子はなかった。
「……知ってたんですか」
思わず、聞いた。
「何を?」
「ルシャが、一人で帰ること」
マミさんは僕へ向き直る。
「知ってはいなかったよ」
少し間を置いて、続ける。
「ただ、そうする可能性は考えていた」
「だったら――」
「止められなかったことを責めたいのなら、私に言ってくれて構わない」
静かな声に、続けかけた言葉が止まった。
「でも、その話だけをしに来たわけじゃないんだ。座ろうか、シヲリ君」
マミさんは椅子を引いた。
僕も、向かいへ座る。
紙袋から出てきたのは、二人分のサンドイッチと缶コーヒーだった。
差し出された缶は、まだ温かい。
両手で包んでから、僕は顔を上げた。
「……それじゃあ、何の話ですか」
「ルシャ君を、連れ戻す話だよ」
指が、缶の側面へ食い込んだ。
「できるんですか」
「その可能性について話しに来たんだ」
「方法があるんですか?」
「シヲリ君」
身を乗り出した僕を、赤い瞳が捉える。
「最後まで聞きなさい。君が思っているほど、簡単な話じゃない」
僕は、ゆっくりと背を戻した。
マミさんは缶を開け、一口だけ飲む。それから、ポケットの煙草へ触れた。
「吸っても?」
頷いて、台所から小皿を持ってくる。
短い礼のあと、煙草に火がついた。
白い煙が、僕たちの間を細く昇っていく。
「使うのは、契約魔術だ」
「……契約?」
「君とルシャ君で、契約を結ぶ」
その言葉を、頭の中で繰り返す。
僕たちを繋いでいたもの。
帰ろうとするたび、あいつが持ち出してきた、あの契約。
昨日、嘘だったと聞かされたもの。
「それで、ルシャが助かるんですか」
「内容次第では、その可能性を作れる」
マミさんは煙草を指に挟んだまま、僕を見た。
「前に説明しただろう。契約魔術は、約束を破れないよう相手を縛る術じゃない。約束が果たされるという結果を、先に成立させるものだ」
「……結果を、先に」
「ああ。ならば、ルシャ君がルシャ君として生きていることを必要とする約束を、二人の間に作る」
マミさんは、小皿の上へ灰を落とした。
「儀式が求める結果とは別の結果を、先にね」
分かったような、分からないような説明だった。
けれど、聞き逃してはいけない言葉だけは分かった。
「ルシャのままで、生きられるんですか」
「だから、その可能性だよ」
マミさんは、はっきりと言い直した。
「契約を結べば何でも思い通りになるわけじゃない。何を願うかも、どんな契約になるかも、君だけで決められるものじゃないからね」
「……ルシャも、そう思わないといけない」
「少なくとも、あの子を置き去りにした約束では意味がない」
昨日の顔を思い出す。
私のために普通を捨てられるかと聞いてきたルシャ。
僕の答えを聞いて、泣き出したルシャ。
そのくせ、一人で出ていったルシャ。
何を考えていたのか。
僕は、まだ聞けていない。
「じゃあ、会わないと」
「ああ」
「ルシャに、直接」
「その通り」
マミさんは頷いた。
僕は立ち上がりかけて、すぐに座り直す。
肝心なことが、何も解決していなかった。
「……どうやって、会うんですか」
ルシャは帰った。
あのハインツや、イルゼさんのいる場所へ。
世界律だとかいう、訳の分からないものを降ろそうとしている魔術士たちのところへ。
会いたいと言って、会わせてもらえるはずがない。
「それは簡単だ」
マミさんは、何でもないことのように答えた。
「いる場所まで行って、邪魔する奴を退かす」
僕は、しばらく黙った。
「……すみません。今、ものすごく大事なところを雑に済ませませんでした?」
「そうかな」
「そうですよ。魔術士がいるんでしょう。ハインツみたいなのが」
「いるだろうね。もっと厄介なのも」
「どうやって退かすんですか」
「退いてくれるなら、それが一番だ。そうでなければ、戦うことになる」
乾いた笑いが漏れた。
冗談だと言ってほしかった。
けれど、マミさんは笑っていない。
「……僕が?」
「ああ」
「僕、魔術なんて使えませんよ」
「知っている」
「喧嘩だって、まともにしたことないんです」
「それも、だいたい想像はつく」
「だったら――」
マミさんが手を伸ばす。
眼鏡の縁へ触れられ、反射的に身を引きかけた。
「少しだけ、失礼」
眼鏡が外された途端、景色の輪郭が変わった。
曖昧な靄だったものが、流れになる。
マミさんの周囲を巡る色。身体の内側から腕を伝い、指先へ集まっていくもの。
煙とは違う。
けれど、確かにそこにあるものが、一度に目の奥へ流れ込んでくる。
眉間へ力が入った。
「君には、これが視える」
眼鏡を持ったまま、マミさんは言った。
「魔術が起こったあとだけじゃない。起こる前の、魔力の動きもだ」
「……視えたところで」
「ハインツ君の攻撃を、何度か避けたそうだね」
言葉が止まる。
「ルシャ君から聞いたよ」
あの夜の光景が蘇った。
迫る腕より先に、動いた色。
ここへ来る、と分かった瞬間には、もう身体を動かしていた。
逃げ道を塞がれ、これ以上は逃げられないと思った時のことも覚えている。
恐怖が消えたわけじゃなかった。
なのに、一瞬だけ、ひどく静かになった。
相手の立ち方。
足の位置。
腕へ集まっていく魔力。
ばらばらだったものが、急に一つの動きとして繋がった。
何をすればいいのか。
分かりかけた。
そのことを、僕は誰にも話していなかった。
「君の眼は、魔術士を相手にするうえで武器になる」
「でも、結局、逃げ切れませんでした」
「ああ。だから、視えるだけで勝てるとは言っていない」
マミさんは、あっさり認めた。
「分かっていても避けられない攻撃はある。逃げ場をなくされればそれまでだし、君の身体が追いつかなければ意味もない」
「……それ、かなり致命的じゃないですか」
「だから、準備をするんだよ」
指先で、小皿の縁へ灰を落とす。
「私が何もせず、君を放り込むと思っているのかい。場所を探る。辿り着くための手を打つ。必要なものも用意する。向こうの魔術士を、私が引き受けることだってできる」
「マミさんも、来てくれるんですか」
「そのつもりだよ」
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
それに気づいたのか、マミさんはすぐに続けた。
「ただし、最後にあの子の前へ立つのは君だ」
「…………」
「私が代わりに約束をしても、君たちの約束にはならない」
僕は、机の上へ目を落とした。
コーヒーは、もうそれほど温かくなかった。
「……契約魔術って、禁忌なんですよね」
「そうだね」
「それを、僕に使わせるんですか」
「今さら気になるかい?」
「気にはなりますよ」
マミさんは、そこで初めて少し笑った。
「私は、決まりを守るのが得意な魔術士じゃなくてね」
「知ってます」
「ひどいな。まだそこまで見せた覚えはないんだけど」
いつもなら、もう少し何かを返せたと思う。
今日は、それ以上笑えなかった。
「……失敗したら、どうなりますか」
「君が死ぬ可能性はある」
答えは、すぐに返ってきた。
缶を握る手が止まる。
「儀式を止めても、ルシャ君が助かるとは限らない。契約を結ぶ前に間に合わなくなるかもしれないし、そもそも、あの子のところまで辿り着けないかもしれない」
「……随分、正直に言うんですね」
「ここを曖昧にして、君を連れていくわけにはいかないからね」
赤い瞳が、真っすぐ僕を見ていた。
「相手は長い時間をかけて、この儀式を準備してきた。それを壊しに行くんだ。君にどんな事情があろうと、向こうには君を止める理由がある」
僕は頷いた。
頷くことしかできなかった。
あの夜、刃が皮膚を裂いた感触を覚えている。
足に力が入らなくなったことも。
喉が乾いて、助けを呼ぶ声さえうまく出なかったことも。
死ぬかもしれない。
それは、ただの大げさな言葉ではなかった。
◆
「シヲリ君」
マミさんが、煙草を小皿へ押しつけた。
「もう一つ、聞いておいてほしい」
「……何ですか」
「ルシャ君を連れ戻せたとしても、それで何もかも元通り、とはいかないよ」
顔を上げる。
マミさんの声は、変わらず静かだった。
「彼女がいなくなれば、君と魔術との関わりは消える。少なくとも、今回の件で向こうが君を追う理由はなくなる」
「……はい」
「でも、君が自分から儀式へ踏み込み、彼女を連れ出すなら話は別だ」
机の上に、僕の眼鏡が置かれる。
「君は、魔術士たちの計画を潰した人間になる」
黒いフレームの向こうに、白い机が見えた。
レンズ越しの部分だけ、マミさんの魔力がぼやけている。
「学校へ行けなくなるってことですか」
「必ずそうなるとは言わない。今の暮らしを続けるために、できることもあるだろう」
マミさんは、一度言葉を切った。
「けれど、何も知らなかった頃と同じではいられない。君が関わりたくないと思った時に、向こうも引いてくれるとは限らないからね」
学校。
バイト先。
義母さんの顔が、頭を過る。
僕には、ルシャのほかにも大事な人がいる。
好きな場所があって。
失いたくないものがある。
昨日は、目の前にルシャがいた。
消えてしまうと聞いて、それが嫌で、ただ必死だった。
今は、その向こうにあるものまで考えられてしまう。
自分が傷つくだけで済まなかったら。
帰ってこられなかったら。
僕を育ててくれた人に、何も伝えられないまま死んでしまったら。
喉が、ゆっくりと狭くなる。
「……怖いです」
気づけば、そう言っていた。
マミさんは頷いた。
「だろうね」
「昨日は、あんなに簡単に言えたのに」
「簡単に言えたことが、簡単にできるとは限らないよ」
責める声ではなかった。
それが、かえって苦しかった。
逃げたければ、逃げていい。
この人は、そう言っている。
たとえ僕がここで頷いても、臆病だと笑ったりはしないのだろう。
「手を引くなら、今だ」
マミさんが言った。
「ルシャ君が用意した帰り道は、まだ残っている」
僕は、寝室へ目を向ける。
畳まれた服の上で、ぬいぐるみがこちらを見ていた。
置いていかれた本も見える。
読み終わるのかと聞いた時、ルシャは読むと答えた。
あの時から、置いていくつもりだったのだろうか。
僕がいなくても、その先を読みたいと思っていたのだろうか。
分からない。
分からないままにしたことばかりだった。
ルシャが何を考えて、どんな顔でこの部屋を出ていったのか。
僕は、眠っていた。
次に目を覚ました時には、もういなかった。
「……帰り道、ですか」
「ああ」
「あいつが勝手に決めたやつですね」
マミさんは答えなかった。
僕は膝の上で、両手を握る。
優しさなのかもしれない。
僕を巻き込みたくなかったのかもしれない。
それは、分かる。
それでも。
昨日の約束までなかったことにされて、黙って忘れるのを待てるほど、僕はできた人間じゃなかった。
「僕、まだ怒ってるんです」
「……ルシャ君に?」
「はい」
口にすると、少しだけ呼吸が楽になった。
「二人で考えようって言ったんです。あいつも、そうしようって。なのに、一人で全部決めて出ていった」
机の上の眼鏡へ、手を伸ばす。
「言いたいことが、まだあるんです」
縁へ触れた指先が、小さく震えていた。
怖い。
今も、怖い。
けれど、この震えが止まるまで待っていたら。
きっと、何もできなくなる。
「シヲリ君」
顔を上げる。
マミさんの周囲を、魔力が静かに巡っていた。
ずっと見ないようにしてきたものだった。
眼鏡をかけて。
ぼやけさせて。
気のせいにして。
そうやって暮らしてきた。
「君は今、境界の上に立っている」
マミさんが言う。
「こちらへ来るなら、もう知らなかったことにはできないよ」
僕は頷いた。
銀灰色の瞳を思い出す。
雪の中で、僕を見上げていた少女。
あの時も、怖かった。
関わらない方がいいと、どこかで思っていた。
それでも足を止めたのは、助けたいと思ったからだ。
今も、同じだった。
ただ、あの時よりも。
僕は、あいつのことを知っている。
わがままで。
口が悪くて。
すぐに人の食べ物を欲しがる。
本で知っていることでも、実際に見せると驚くほど嬉しそうにする。
得意げに笑うくせに、泣き方はひどく不器用だ。
名前しか知らなかった少女が。
もう、知らない誰かではなくなっていた。
「……普通に暮らすの、諦めたわけじゃないですよ」
僕が言うと、マミさんは僅かに眉を上げた。
「できるだけ学校にも行きたいし、バイトも続けたいです。義母さんにだって、心配をかけたくない」
「ああ」
「ルシャを助けたあとのことも、考えたい」
「それは、欲張りだね」
「そうですね」
少しだけ、笑えた。
誰に似たのかなんて、考えるまでもなかった。
「でも、何も失わずに済む方法がないからって、あいつだけ諦めるのは嫌です」
眼鏡を持ち上げる。
一度だけレンズを見つめ、それから耳へかけた。
溢れていた色が薄くなり、いつもの部屋が戻ってくる。
机も。
椅子も。
読みかけの本も。
その中に、ルシャの姿だけがなかった。
だから。
ここで終わりにはできない。
「マミさん」
「何だい」
「手を貸してください」
僕は、顔を上げた。
「ルシャを、迎えに行きます」
マミさんは、しばらく僕を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった」
差し出された手を、僕は握った。
温かい、人の手だった。
「それじゃあ、まずは食べようか。話も準備も、まだ山ほどある」
「……こんな時でも、朝ごはんなんですね」
「こんな時だからだよ」
マミさんは、紙袋を僕の方へ押した。
「人を助けに行く前に、君が倒れてどうする」
言い返せず、サンドイッチを一つ取る。
包みを開ける音が、静かな部屋に響いた。
いつもなら、隣から手が伸びてくる。
私のは、と当然のように聞かれる。
僕は、空いた椅子を一度だけ見た。
それから、サンドイッチを口へ運ぶ。
迎えに行こう。
あいつが、二度とこの部屋へ戻らないつもりだったとしても。
僕はまだ、昨日の約束を終わらせていない。