魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

18 / 20
第三章「朱に交われば赤くなる」 十日目

 

 寒い。

 目を覚まして、最初に思ったのはそんなことだった。

 布団は肩までかかっている。暖房だって、切った覚えはない。それなのに、身体の片側だけが妙に冷えていた。

 重たい瞼を閉じたまま、腕を動かす。

 昨夜は、そこでルシャに掴まれた。狭いと文句を言っても離してくれず、結局、妙な姿勢のまま眠ることになったのだ。

 けれど、伸ばした指先は何にも触れなかった。

 

「……ルシャ?」

 

 返事がない。

 目を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、空いた枕を照らしていた。

 隣の布団は僅かに捲れ、その下には皺の寄ったシーツだけが残っている。

 トイレだろう。

 そう思って、身体を起こした。

 いつもより、部屋が静かだった。

 台所から物音はしない。水道の音も、冷蔵庫を開ける音も。僕が起きるのを待ちきれず、何か食べるものを探している気配さえなかった。

 

「ルシャ。起きてるのか?」

 

 眼鏡をかけ、ベッドを降りる。

 返事は、やっぱりなかった。

 リビングにも、台所にもいない。トイレの扉は開いていて、洗面所にも誰もいなかった。

 大して広くもない部屋だ。

 探す場所なんて、それだけでなくなった。

 寝室へ戻ったところで、足が止まる。

 ベッドの脇に、服が畳まれていた。

 薄い青色のニット。濃い色のスカート。その上には、変な顔をした鳥のぬいぐるみ。

 僕が取ってやったものだった。

 あんなに気に入って、家へ帰ってからもよく抱えていたのに。

 

「……なんで」

 

 机の上には、昨日買った本が置かれていた。

 最初の方に栞が挟まっている。

 読みかけだった。

 最後まで読むと言っていた。

 僕は振り返り、玄関へ向かった。

 彼女の靴は、なかった。

 それで、ようやく分かってしまった。

 

「……嘘だろ」

 

 昨夜の声が蘇る。

『明日ね』

 腕に触れていた、冷たい指。

『ちゃんと、考えましょうね』

 僕は頷いた。

 二人で、と言った。

 あいつだって、同じ言葉を返したじゃないか。

 玄関の扉を開ける。

 冷たい空気が、一気に流れ込んできた。

 廊下には誰もいない。階段の下を覗いても、見えるのは雪の残った地面と、停められた自転車だけだった。

 

「ルシャ!」

 

 声が、建物の壁に跳ね返る。

 返事はなかった。

 部屋へ戻り、携帯を手に取る。

 連絡しなければ。

 そう思って画面を開き、そこで指が止まった。

 番号なんて知らない。

 そもそも、あいつは携帯を持っていない。

 一緒にいれば呼ぶだけでよかった。離れても、少し探せば見つかった。

 そんな当たり前のことに、今になって気づく。

 

「……二人で、逃げるんじゃなかったのかよ」

 

 誰もいない部屋で呟いた。

 携帯を握ったまま、ベッドの端へ腰を下ろす。

 すぐ隣に、ぬいぐるみがあった。

 間の抜けた顔で、こちらを見ていた。

 

◆

 

 マミさんへ連絡を入れると、返事はすぐに届いた。

『今から行く。そこで待っていなさい』

 それを読んで、ようやく少しだけ息ができた。

 何をすればいいのか、分からなかった。

 追いかけるにしたって、どこへ行ったのか知らない。施設へ戻ったのだろうとは思う。けれど、その施設がどこにあるのかも、どうすれば辿り着けるのかも、僕は何一つ知らなかった。

 何も知らないまま、逃げようと言ったのだ。

 今までの普通くらい変えてやると、あんなに偉そうに。

 

「……情けないな」

 

 額を押さえる。

 昨夜、ルシャの返事が少し遅れたことを思い出した。

 明日の話をする時、僕の目を見なかったことも。

 気づけることは、あった。

 それなのに僕は、約束したから大丈夫だと思った。信じたい言葉だけを受け取って、隣で眠った。

 あいつが目を閉じていたから、眠っているのだと思い込んだ。

 携帯の画面が暗くなる。

 そこへ映った自分の顔が、ひどく頼りなく見えた。

 一月三日。

 七日になれば、学校が始まる。

 冬休みの宿題はほとんど手をつけていない。バイトだって、そのうち始まる。

 いつまでも、こうしているわけにはいかない。

 着替えて。

 顔を洗って。

 何か食べて。

 そうやって、いつもの生活へ戻ればいい。

 五日を過ぎれば、ルシャのことも忘れるのだという。

 だったら、もう少しの辛抱なのかもしれない。

 あいつが座っていた椅子を何度も見てしまうことも。

 物音がするたび、顔を上げてしまうことも。

 全部、なくなる。

 

「……それでいいわけ、ないだろ」

 

 声にした途端、喉の奥が詰まった。

 僕は俯き、目元を強く押さえた。

 玄関のチャイムが鳴ったのは、それから少ししてからだった。

 

◆

 

「おはよう、シヲリ君」

 

 扉を開けると、マミさんが立っていた。

 コートの襟元から白いシャツが覗いている。片手には、小さな紙袋を提げていた。

 僕の顔を見るなり何かを言いかけ、それから何も言わず、袋を差し出してくる。

 

「朝食は?」

「……まだです」

「だろうと思ったよ。とりあえず、入れてくれるかい」

 

 脇へ退くと、マミさんは靴を脱いで上がった。

 リビングへ入るなり、寝室の方へ一度だけ視線を向ける。

 畳まれた服と、その上のぬいぐるみに目を留めても、驚いた様子はなかった。

 

「……知ってたんですか」

 思わず、聞いた。

「何を?」

「ルシャが、一人で帰ること」

 

 マミさんは僕へ向き直る。

 

「知ってはいなかったよ」

 少し間を置いて、続ける。

「ただ、そうする可能性は考えていた」

「だったら――」

「止められなかったことを責めたいのなら、私に言ってくれて構わない」

 

 静かな声に、続けかけた言葉が止まった。

 

「でも、その話だけをしに来たわけじゃないんだ。座ろうか、シヲリ君」

 

 マミさんは椅子を引いた。

 僕も、向かいへ座る。

 紙袋から出てきたのは、二人分のサンドイッチと缶コーヒーだった。

 差し出された缶は、まだ温かい。

 両手で包んでから、僕は顔を上げた。

 

「……それじゃあ、何の話ですか」

「ルシャ君を、連れ戻す話だよ」

 指が、缶の側面へ食い込んだ。

「できるんですか」

「その可能性について話しに来たんだ」

「方法があるんですか?」

「シヲリ君」

 

 身を乗り出した僕を、赤い瞳が捉える。

 

「最後まで聞きなさい。君が思っているほど、簡単な話じゃない」

 

 僕は、ゆっくりと背を戻した。

 マミさんは缶を開け、一口だけ飲む。それから、ポケットの煙草へ触れた。

 

「吸っても?」

 

 頷いて、台所から小皿を持ってくる。

 短い礼のあと、煙草に火がついた。

 白い煙が、僕たちの間を細く昇っていく。

 

「使うのは、契約魔術だ」

「……契約?」

「君とルシャ君で、契約を結ぶ」

 

 その言葉を、頭の中で繰り返す。

 僕たちを繋いでいたもの。

 帰ろうとするたび、あいつが持ち出してきた、あの契約。

 昨日、嘘だったと聞かされたもの。

 

「それで、ルシャが助かるんですか」

「内容次第では、その可能性を作れる」

 

 マミさんは煙草を指に挟んだまま、僕を見た。

 

「前に説明しただろう。契約魔術は、約束を破れないよう相手を縛る術じゃない。約束が果たされるという結果を、先に成立させるものだ」

「……結果を、先に」

「ああ。ならば、ルシャ君がルシャ君として生きていることを必要とする約束を、二人の間に作る」

 

 マミさんは、小皿の上へ灰を落とした。

 

「儀式が求める結果とは別の結果を、先にね」

 

 分かったような、分からないような説明だった。

 けれど、聞き逃してはいけない言葉だけは分かった。

 

「ルシャのままで、生きられるんですか」

「だから、その可能性だよ」

 

 マミさんは、はっきりと言い直した。

 

「契約を結べば何でも思い通りになるわけじゃない。何を願うかも、どんな契約になるかも、君だけで決められるものじゃないからね」

「……ルシャも、そう思わないといけない」

「少なくとも、あの子を置き去りにした約束では意味がない」

 

 昨日の顔を思い出す。

 私のために普通を捨てられるかと聞いてきたルシャ。

 僕の答えを聞いて、泣き出したルシャ。

 そのくせ、一人で出ていったルシャ。

 何を考えていたのか。

 僕は、まだ聞けていない。

 

「じゃあ、会わないと」

「ああ」

「ルシャに、直接」

「その通り」

 

 マミさんは頷いた。

 僕は立ち上がりかけて、すぐに座り直す。

 肝心なことが、何も解決していなかった。

 

「……どうやって、会うんですか」

 

 ルシャは帰った。

 あのハインツや、イルゼさんのいる場所へ。

 世界律だとかいう、訳の分からないものを降ろそうとしている魔術士たちのところへ。

 会いたいと言って、会わせてもらえるはずがない。

 

「それは簡単だ」

 

 マミさんは、何でもないことのように答えた。

 

「いる場所まで行って、邪魔する奴を退かす」

 

 僕は、しばらく黙った。

 

「……すみません。今、ものすごく大事なところを雑に済ませませんでした?」

「そうかな」

「そうですよ。魔術士がいるんでしょう。ハインツみたいなのが」

「いるだろうね。もっと厄介なのも」

「どうやって退かすんですか」

「退いてくれるなら、それが一番だ。そうでなければ、戦うことになる」

 

 乾いた笑いが漏れた。

 冗談だと言ってほしかった。

 けれど、マミさんは笑っていない。

 

「……僕が?」

「ああ」

「僕、魔術なんて使えませんよ」

「知っている」

「喧嘩だって、まともにしたことないんです」

「それも、だいたい想像はつく」

「だったら――」

 

 マミさんが手を伸ばす。

 眼鏡の縁へ触れられ、反射的に身を引きかけた。

 

「少しだけ、失礼」

 

 眼鏡が外された途端、景色の輪郭が変わった。

 曖昧な靄だったものが、流れになる。

 マミさんの周囲を巡る色。身体の内側から腕を伝い、指先へ集まっていくもの。

 煙とは違う。

 けれど、確かにそこにあるものが、一度に目の奥へ流れ込んでくる。

 眉間へ力が入った。

 

「君には、これが視える」

 

 眼鏡を持ったまま、マミさんは言った。

 

「魔術が起こったあとだけじゃない。起こる前の、魔力の動きもだ」

「……視えたところで」

「ハインツ君の攻撃を、何度か避けたそうだね」

 

 言葉が止まる。

 

「ルシャ君から聞いたよ」

 

 あの夜の光景が蘇った。

 迫る腕より先に、動いた色。

 ここへ来る、と分かった瞬間には、もう身体を動かしていた。

 逃げ道を塞がれ、これ以上は逃げられないと思った時のことも覚えている。

 恐怖が消えたわけじゃなかった。

 なのに、一瞬だけ、ひどく静かになった。

 相手の立ち方。

 足の位置。

 腕へ集まっていく魔力。

 ばらばらだったものが、急に一つの動きとして繋がった。

 何をすればいいのか。

 分かりかけた。

 そのことを、僕は誰にも話していなかった。

 

「君の眼は、魔術士を相手にするうえで武器になる」

「でも、結局、逃げ切れませんでした」

「ああ。だから、視えるだけで勝てるとは言っていない」

 

 マミさんは、あっさり認めた。

 

「分かっていても避けられない攻撃はある。逃げ場をなくされればそれまでだし、君の身体が追いつかなければ意味もない」

「……それ、かなり致命的じゃないですか」

「だから、準備をするんだよ」

 

 指先で、小皿の縁へ灰を落とす。

 

「私が何もせず、君を放り込むと思っているのかい。場所を探る。辿り着くための手を打つ。必要なものも用意する。向こうの魔術士を、私が引き受けることだってできる」

「マミさんも、来てくれるんですか」

「そのつもりだよ」

 

 胸の奥が、少しだけ緩んだ。

 それに気づいたのか、マミさんはすぐに続けた。

 

「ただし、最後にあの子の前へ立つのは君だ」

「…………」

「私が代わりに約束をしても、君たちの約束にはならない」

 

 僕は、机の上へ目を落とした。

 コーヒーは、もうそれほど温かくなかった。

 

「……契約魔術って、禁忌なんですよね」

「そうだね」

「それを、僕に使わせるんですか」

「今さら気になるかい?」

「気にはなりますよ」

 

 マミさんは、そこで初めて少し笑った。

 

「私は、決まりを守るのが得意な魔術士じゃなくてね」

「知ってます」

「ひどいな。まだそこまで見せた覚えはないんだけど」

 

 いつもなら、もう少し何かを返せたと思う。

 今日は、それ以上笑えなかった。

 

「……失敗したら、どうなりますか」

「君が死ぬ可能性はある」

 

 答えは、すぐに返ってきた。

 缶を握る手が止まる。

 

「儀式を止めても、ルシャ君が助かるとは限らない。契約を結ぶ前に間に合わなくなるかもしれないし、そもそも、あの子のところまで辿り着けないかもしれない」

「……随分、正直に言うんですね」

「ここを曖昧にして、君を連れていくわけにはいかないからね」

 

 赤い瞳が、真っすぐ僕を見ていた。

 

「相手は長い時間をかけて、この儀式を準備してきた。それを壊しに行くんだ。君にどんな事情があろうと、向こうには君を止める理由がある」

 

 僕は頷いた。

 頷くことしかできなかった。

 あの夜、刃が皮膚を裂いた感触を覚えている。

 足に力が入らなくなったことも。

 喉が乾いて、助けを呼ぶ声さえうまく出なかったことも。

 死ぬかもしれない。

 それは、ただの大げさな言葉ではなかった。

 

◆

 

「シヲリ君」

 

 マミさんが、煙草を小皿へ押しつけた。

 

「もう一つ、聞いておいてほしい」

「……何ですか」

「ルシャ君を連れ戻せたとしても、それで何もかも元通り、とはいかないよ」

 

 顔を上げる。

 マミさんの声は、変わらず静かだった。

 

「彼女がいなくなれば、君と魔術との関わりは消える。少なくとも、今回の件で向こうが君を追う理由はなくなる」

「……はい」

「でも、君が自分から儀式へ踏み込み、彼女を連れ出すなら話は別だ」

 

 机の上に、僕の眼鏡が置かれる。

 

「君は、魔術士たちの計画を潰した人間になる」

 

 黒いフレームの向こうに、白い机が見えた。

 レンズ越しの部分だけ、マミさんの魔力がぼやけている。

 

「学校へ行けなくなるってことですか」

「必ずそうなるとは言わない。今の暮らしを続けるために、できることもあるだろう」

 

 マミさんは、一度言葉を切った。

 

「けれど、何も知らなかった頃と同じではいられない。君が関わりたくないと思った時に、向こうも引いてくれるとは限らないからね」

 

 学校。

 バイト先。

 義母さんの顔が、頭を過る。

 僕には、ルシャのほかにも大事な人がいる。

 好きな場所があって。

 失いたくないものがある。

 昨日は、目の前にルシャがいた。

 消えてしまうと聞いて、それが嫌で、ただ必死だった。

 今は、その向こうにあるものまで考えられてしまう。

 自分が傷つくだけで済まなかったら。

 帰ってこられなかったら。

 僕を育ててくれた人に、何も伝えられないまま死んでしまったら。

 喉が、ゆっくりと狭くなる。

 

「……怖いです」

 

 気づけば、そう言っていた。

 マミさんは頷いた。

 

「だろうね」

「昨日は、あんなに簡単に言えたのに」

「簡単に言えたことが、簡単にできるとは限らないよ」

 

 責める声ではなかった。

 それが、かえって苦しかった。

 逃げたければ、逃げていい。

 この人は、そう言っている。

 たとえ僕がここで頷いても、臆病だと笑ったりはしないのだろう。

 

「手を引くなら、今だ」

 

 マミさんが言った。

 

「ルシャ君が用意した帰り道は、まだ残っている」

 

 僕は、寝室へ目を向ける。

 畳まれた服の上で、ぬいぐるみがこちらを見ていた。

 置いていかれた本も見える。

 読み終わるのかと聞いた時、ルシャは読むと答えた。

 あの時から、置いていくつもりだったのだろうか。

 僕がいなくても、その先を読みたいと思っていたのだろうか。

 分からない。

 分からないままにしたことばかりだった。

 ルシャが何を考えて、どんな顔でこの部屋を出ていったのか。

 僕は、眠っていた。

 次に目を覚ました時には、もういなかった。

 

「……帰り道、ですか」

「ああ」

「あいつが勝手に決めたやつですね」

 

 マミさんは答えなかった。

 僕は膝の上で、両手を握る。

 優しさなのかもしれない。

 僕を巻き込みたくなかったのかもしれない。

 それは、分かる。

 それでも。

 昨日の約束までなかったことにされて、黙って忘れるのを待てるほど、僕はできた人間じゃなかった。

 

「僕、まだ怒ってるんです」

「……ルシャ君に?」

「はい」

 

 口にすると、少しだけ呼吸が楽になった。

 

「二人で考えようって言ったんです。あいつも、そうしようって。なのに、一人で全部決めて出ていった」

 

 机の上の眼鏡へ、手を伸ばす。

 

「言いたいことが、まだあるんです」

 

 縁へ触れた指先が、小さく震えていた。

 怖い。

 今も、怖い。

 けれど、この震えが止まるまで待っていたら。

 きっと、何もできなくなる。

 

「シヲリ君」

 

 顔を上げる。

 マミさんの周囲を、魔力が静かに巡っていた。

 ずっと見ないようにしてきたものだった。

 眼鏡をかけて。

 ぼやけさせて。

 気のせいにして。

 そうやって暮らしてきた。

 

「君は今、境界の上に立っている」

 

 マミさんが言う。

 

「こちらへ来るなら、もう知らなかったことにはできないよ」

 

 僕は頷いた。

 銀灰色の瞳を思い出す。

 雪の中で、僕を見上げていた少女。

 あの時も、怖かった。

 関わらない方がいいと、どこかで思っていた。

 それでも足を止めたのは、助けたいと思ったからだ。

 今も、同じだった。

 ただ、あの時よりも。

 僕は、あいつのことを知っている。

 わがままで。

 口が悪くて。

 すぐに人の食べ物を欲しがる。

 本で知っていることでも、実際に見せると驚くほど嬉しそうにする。

 得意げに笑うくせに、泣き方はひどく不器用だ。

 名前しか知らなかった少女が。

 もう、知らない誰かではなくなっていた。

 

「……普通に暮らすの、諦めたわけじゃないですよ」

 僕が言うと、マミさんは僅かに眉を上げた。

「できるだけ学校にも行きたいし、バイトも続けたいです。義母さんにだって、心配をかけたくない」

「ああ」

「ルシャを助けたあとのことも、考えたい」

「それは、欲張りだね」

「そうですね」

 

 少しだけ、笑えた。

 誰に似たのかなんて、考えるまでもなかった。

 

「でも、何も失わずに済む方法がないからって、あいつだけ諦めるのは嫌です」

 

 眼鏡を持ち上げる。

 一度だけレンズを見つめ、それから耳へかけた。

 溢れていた色が薄くなり、いつもの部屋が戻ってくる。

 机も。

 椅子も。

 読みかけの本も。

 その中に、ルシャの姿だけがなかった。

 だから。

 ここで終わりにはできない。

 

「マミさん」

「何だい」

「手を貸してください」

 

 僕は、顔を上げた。

 

「ルシャを、迎えに行きます」

 

 マミさんは、しばらく僕を見ていた。

 やがて、小さく息を吐く。

 

「分かった」

 

 差し出された手を、僕は握った。

 温かい、人の手だった。

 

「それじゃあ、まずは食べようか。話も準備も、まだ山ほどある」

「……こんな時でも、朝ごはんなんですね」

「こんな時だからだよ」

 

 マミさんは、紙袋を僕の方へ押した。

 

「人を助けに行く前に、君が倒れてどうする」

 

 言い返せず、サンドイッチを一つ取る。

 包みを開ける音が、静かな部屋に響いた。

 いつもなら、隣から手が伸びてくる。

 私のは、と当然のように聞かれる。

 僕は、空いた椅子を一度だけ見た。

 それから、サンドイッチを口へ運ぶ。

 迎えに行こう。

 あいつが、二度とこの部屋へ戻らないつもりだったとしても。

 僕はまだ、昨日の約束を終わらせていない。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。