魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
雪を踏む音が、一人分だけ響いていた。
一月四日。午後九時を少し過ぎたところ。
昨日から降り続く雪は、道路と歩道の境目まで白く埋めている。街灯の下を通るたび、足元へ落ちた自分の影が長く伸びては、また背後へ遠ざかっていった。
コートの内側へ、手を入れる。
指先に触れたのは、硬い鞘の感触だった。
マミさんから渡された短刀が、そこにある。
『術式を切るためのものだよ』
細い刀身には、僕には読めない文字がびっしりと刻まれている。
昼間、教えられた通りに魔力の繋ぎ目へ触れさせると、張られていた光の糸が音もなく解けた。
できたのは、それだけだ。
相手は動かない。こちらへ攻撃もしてこない。そんな状況で、何度か成功した。
それだけの人間が、今から魔術士のところへ行こうとしている。
「……無茶だろ、普通に考えて」
口にしてから、自分で少し笑った。
今さらだった。
手を引ける場所なら、昨日から何度も通り過ぎてきた。
マミさんは、先に向かっている。
僕がルシャのところへ辿り着けるように、周囲を引き受けると言っていた。何をするつもりなのか、詳しいことまでは教えてくれなかった。
ただ、一緒には行けない。
途中からは、一人で進まなければならないと、そう言われていた。
顔を上げる。
街並みの向こうに、蒼い光が見えた。
眼鏡越しでも分かるほど濃い色が、暗い空へ向かって立ち上っている。煙のようでいて風に流されることもなく、その根元だけが遠くの建物に遮られていた。
『あれだけの儀式だ。動き始めれば、君の眼には嫌でも分かる』
マミさんの言葉どおりだった。
あそこに、ルシャがいる。
そう分かっているのに、僕は一度だけ隣を見てしまった。
いつもなら少し前を歩いているか、こちらの袖を引っ張っている。何かを見つけるたびに足を止めて、僕の返事も待たずに駆け出していく。
当然、今は誰もいない。
何もない道へ目を向けた自分がおかしくて、小さく息を吐いた。
「……だから、迎えに行くんだろ」
白い息と一緒に呟いて、歩幅を広げる。
大通りを外れると、家の明かりが急に少なくなった。道沿いの木々が風に揺れ、枝へ積もっていた雪が、ときどき重たそうに落ちてくる。
その先に、人影があった。
足を止める。
道の真ん中に立つその人も、真っ直ぐこちらを見ていた。
「――行かせません」
聞き慣れた声だった。
だからこそ、一瞬、言葉の意味が分からなかった。
街灯の明かりが茶色い髪を照らし、後ろで結ばれたポニーテールが冷たい風に揺れている。
「……宮本さん」
呼ぶと、彼女は僅かに唇を結んだ。
いつもの柔らかな笑みはなかった。
「黒上君。このまま、家へ帰ってください」
◆
どうして、ここにいるのか。
そう聞こうとして、彼女の手元に目が止まった。
何もなかったはずの指先へ、色が集まっている。
靄のようなそれは細く引き伸ばされ、輪郭を持ち――次の瞬間には、一本の棍が彼女の手に収まっていた。
息を呑む。
眼鏡越しでも、見間違えようがない。
「宮本さんも……」
魔術士。
その言葉を、最後まで口にすることができなかった。
彼女は否定しなかった。
両手で棍を持ち直し、こちらへ半歩だけ足を踏み出す。
「これ以上、近づかないでください」
低く抑えた声だった。
聞き慣れているはずなのに、知らない人の声みたいだった。
ふと、水族館の帰りに彼女が聞いてきたことを思い出す。
――最近、身の回りで変わったことはありませんでしたか。
あの時から、知っていたのだろうか。
僕の隣にいた少女が何者なのかも。
これから、何が起こるのかも。
「ルシャさんのところへ、行くんですね」
「……うん」
「行けば、もう戻れなくなります」
「それも、聞いたよ」
ゆっくりと、一歩進む。
宮本さんの手に力が入った。
「止まってください」
もう一歩。
彼女の目が、僕の右手へ動く。
僕はコートから両手を出して、何も持っていないことを見せた。
それで安心してもらえるとは思わなかった。
けれど少なくとも、宮本さんへ刃物を向けるつもりはなかった。
「止まらなければ、私は黒上君を――」
声が途切れる。
棍の先が、僕の胸元へ向けられた。
そこで足を止める。
あと一歩踏み込めば、届いてしまう距離だった。
「……傷つけることになります」
最後の言葉だけが、震えていた。
僕は彼女の顔を見る。
厳しく見せようと細めた目も、強く結ばれた口元も、隠しきれない苦しさで歪んでいた。
「宮本さん」
「帰ってください」
「…………」
「お願いします」
棍の先が、少しだけ下がる。
それ以上、僕は進まなかった。
「いいじゃないですか。このまま、忘れてしまえば」
俯いたまま、宮本さんが言った。
「五日になれば、ルシャさんのことも。この冬休みにあったことも、全部なくなるんでしょう?」
「……そうらしいね」
「だったら、黒上君が危ないことをする必要なんてありません」
雪が、彼女の肩へ落ちる。
宮本さんは、それを払おうともしなかった。
「七日には、学校が始まります」
「うん」
「冬休みの宿題、まだ終わっていないんじゃないですか」
「……どうして分かるの」
「顔を見れば分かります」
「そんなに?」
「黒上君ですから」
どういう意味だ。
少しだけ笑うと、宮本さんの口元もほんの僅かに緩んだ。
けれど、それもすぐに消えてしまった。
「学校へ来て、本を読んで。授業を受けて、放課後にはバイトへ行って」
彼女が顔を上げる。
「そうやって、普通に過ごせばいいじゃないですか」
僕は答えなかった。
答えられなかったわけじゃない。
ただ今は、最後まで聞かなければいけないと思った。
僕を止めるためにここへ立っている、彼女の言葉を。
「前に、話してくれましたよね。将来、どうなりたいか」
覚えている。
大層な夢ではなかった。
ほどほどに勉強して、そこそこの大学へ行って、仕事を見つける。
できれば結婚なんかもして。
派手な成功も、大きな失敗もなく、普通に幸せに暮らしたい。
そんな、僕の話だった。
「私、あの話が好きだったんです」
宮本さんは、目を逸らさずに言った。
「黒上君らしくて。派手じゃなくて、でも、ちゃんと幸せで。……そういう未来があったらいいなって」
棍を握る手が、僅かに動く。
「だから、行かないでください」
命令ではなかった。
魔術士としての警告でもなかった。
同じ学校へ通う、一人の女の子のお願いだった。
「今なら、まだ戻れます。忘れてしまえば、辛くもなくなるんです」
そのとおりなのだろう。
目を覚ますたびに隣を探すことも。
空いた椅子へ、つい目を向けることも。
もう、なくなる。
胸の奥に残っているこの痛みも、一緒に消える。
そして僕は、十日前までと同じ生活へ戻る。
僕がずっと望んでいたはずの、普通の生活へ。
その未来を、宮本さんは僕に差し出してくれている。
「……ありがとう」
彼女の肩が、小さく揺れた。
「僕のこと、そこまで考えてくれて」
「だったら――」
「でも、ごめん」
口にすると、宮本さんの表情が歪んだ。
こんな顔をさせたかったわけじゃない。
それでも。
ここで頷くことだけは、できなかった。
「忘れる前に、まだ話したいことがあるんだ」
「……話して、どうするんですか」
「帰ってこいって言う」
宮本さんが、唇を噛んだ。
「そのために、黒上君が帰ってこられなくなったら?」
すぐには答えられなかった。
絶対に大丈夫だなんて、言えるはずがない。
そんな嘘をついたところで、きっと彼女には分かってしまう。
「……そうならないようにする」
「そんなの……」
「うん。頼りないよね」
自分でも、分かっていた。
勝てる保証なんてない。
そもそも辿り着けるかすら分からない。
それでも。
「でも、あいつがいなくなるのを待ってるだけなのは、もう嫌なんだ」
宮本さんは何も言わなかった。
僕も、それ以上は言えなかった。
暫くして、胸元へ向けられていた棍がゆっくりと下ろされる。
「……ずるい人です」
小さな声だった。
「本当に」
「ごめん」
「謝らないでください」
宮本さんは一度だけ目を閉じる。
それから道の端へ退いた。
僕は、その横を通り過ぎる。
一歩。
もう一歩。
進むたびに背中が重くなっていった。
彼女が今、どんな顔をしているのか。
振り返ることができなかった。
「黒上君」
それでも、呼ばれれば足が止まる。
振り向くと、宮本さんは泣きそうな顔で笑っていた。
「始業式、七日ですからね」
「……うん」
「宿題も、ちゃんと持ってきてください」
「今からじゃ、ちょっと厳しいかもしれない」
「知りません」
「厳しいなぁ」
「当たり前です」
鼻を一度啜ってから、彼女はもう一度僕を見る。
「だから、ちゃんと帰ってきてください」
今度は、迷わず頷けた。
帰ってこようと思った。
ルシャだけじゃない。
僕にも、帰りたい場所がある。
「行ってきます」
背を向けて、歩き出す。
数歩進んだところで、小さな声が届いた。
「……いってらっしゃい、黒上君」
今度は、振り返らなかった。
◆
教会の前へ辿り着いて、僕は一度だけ足を止めた。
古い建物だった。
白い外壁には長い年月の汚れが残り、入口へ続く石段の端には雪が積もっている。高い尖塔も、扉の上に掲げられた十字架も、見た目だけならどこにでもある古い教会と変わらない。
ただ、その建物を覆い尽くすように、蒼い光が立ち上っていた。
近づくにつれて、目の奥が重くなる。
扉の取っ手へ手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
重い扉を押すと、長い軋みが礼拝堂の静けさを引き裂いた。
左右に長椅子が並んでいる。
その間を、擦り切れた赤い絨毯が祭壇まで真っ直ぐに伸びていた。壁際の燭台には火が灯り、揺れる明かりが古い柱へ幾つもの影を作っている。
けれど、そんなものはほとんど目に入らなかった。
視線が、その奥へ吸い寄せられる。
「……ルシャ」
祭壇の中央に、彼女がいた。
椅子へ座らされ、両手と両足を拘束されている。
銀色の髪が肩へ落ち、その隙間から覗く顔は、ひどく白かった。
目は開いている。
けれど。
僕を見ていなかった。
「ルシャ!」
駆け出しかけたところで、足音が響いた。
柱の陰から、一人の男が進み出てくる。
黒いロングコート。
目元を覆う、飾り気のない仮面。
水族館で会った男だった。
「警告は、したはずだ」
低い声が礼拝堂に響く。
「これ以上、アレに近づくなと」
マミさんから聞いた名前が、頭を過った。
ヴァルター=クロイツ。
この儀式を進めている魔術士。
男は僕とルシャの間へ立ち、足を止めた。
「なぜ来た」
喉が乾いていた。
一度唾を飲み込んでから、答える。
「ルシャを、迎えに来ました」
男の口元が僅かに動いた。
「迎えに?」
「はい」
「妙なことを言う。アレは、自分の居場所へ戻っただけだ」
胸の奥が、ざらついた。
水族館でも同じだった。
この男は、一度も彼女を名前で呼ばない。
「ルシャです」
「何?」
「あいつの名前です」
仮面が、真っ直ぐこちらを向く。
「名称に意味はない」
「僕にはあります」
男は暫く僕を見ていた。
やがて興味を失ったように、祭壇へ顔を向ける。
「世界律を受け入れるために用意された依り代だ。そこに偶発的に生じた人格が、役目と共に消える。ただ、それだけのことだ」
淡々とした声だった。
壊れた部品を交換する話でもしているみたいに。
僕は、祭壇のルシャを見る。
返事はない。
こんな時まで大人しいのが、どうしようもなく腹立たしかった。
「それだけじゃないですよ」
「……何?」
「わがままで、口が悪くて。すぐ人の飯を欲しがるし、自分の都合ばっかり押しつけてくる」
ヴァルターの顔から、僅かに表情が消える。
それでも、口は止まらなかった。
「人が寝てるのに勝手に起こすし、行きたい場所があればこっちの予定なんてお構いなしです。そのくせ、落ち込んでると変なところで気を遣ってくる。何も知らないと思ったら妙なことだけ詳しいし、初めて見るものには馬鹿みたいにはしゃぐ」
「くだらんな」
「そうですね」
僕は頷いた。
「でも、僕が迎えに来たのは、そっちです」
男の背後で、蒼い光が揺れた。
「本人が戻ってきたのだぞ」
「知ってます」
「誰に強いられたわけでもなく、自ら選んでな」
「それも知ってます」
あいつが決めた。
僕を置いていくことも。
ここへ戻ってくることも。
全部、自分で。
「だから、もう一度話しに来たんです」
「本人が選んだ結末を、お前の感情で覆すというのか」
「はい」
「傲慢だな」
「……誰かに似たんでしょうね」
ルシャは動かない。
僕の悪口に、文句の一つも返してくれない。
そのことが怖くて、また一歩進んだ。
「この儀式にどれだけの意味があるのか、僕には分かりません」
「無知を誇るか」
「まさか」
首を横に振る。
「ただ、僕に分からないほど大事なことだからって、あいつが消えていい理由にはならない」
男は暫く黙っていた。
礼拝堂の奥で、蝋燭の火だけが揺れる。
「それだけのために、我らの研究を潰すか」
「はい」
「己の平穏を失っても?」
返事が、ほんの少し遅れた。
ヴァルターは、それを見逃さなかった。
「怖いか」
「怖いですよ」
当然だった。
痛いのも嫌だ。
死ぬのなんて、もっと嫌だ。
さっきから足の裏が床に張りついているみたいに重い。
それでも。
引き返す方向にだけは、動かなかった。
「ならば、去れ」
男が僕の背後を示す。
「その扉を出ろ。ここで見聞きしたことも、いずれ消える。お前は望んでいた日常へ戻れる」
一度だけ振り返った。
開いた扉の向こうに、雪が見える。
あそこを出れば、まだ間に合うのだろう。
僕一人なら。
何も知らなかった頃へ戻れる。
普通の高校生に戻れる。
「……それ、もう聞きました」
向き直り、眼鏡の縁へ触れる。
「答えも、決めてきました」
ゆっくりと外す。
途端。
世界に、色が溢れた。
「――っ」
床にも。
壁にも。
柱にも。
幾重にも重なった魔力が、礼拝堂全体を這っている。
遠くから見えていた蒼い光など、その一部でしかなかった。
無数の流れが絡み合い、枝分かれし、ただ一つの場所へ集まっている。
祭壇。
その中心に、ルシャがいた。
息が詰まった。
彼女の輪郭が、蒼い光の中で僅かにぼやけている。
僕は眼鏡をケースへ収め、内ポケットへ押し込んだ。
「僕が欲しい日常には、もう、あいつがいるんです」
短刀の柄を握る。
手汗で、僅かに滑った。
「最後に、もう一度だけ聞きます」
仮面の向こうから、視線を感じる。
「ルシャを、返してください」
「断る」
分かっていた答えだった。
それでも、胸の奥が痛んだ。
「……そうですか」
ヴァルターが片手を持ち上げる。
身体の周囲を巡っていた魔力が、指先へ向かって流れを変えた。
綺麗だった。
そう思ってしまうほど、乱れがない。
ハインツとも、マミさんとも違う。
動きの始まりを見ているはずなのに、最初から完成しているようにさえ見えた。
「互いに譲れぬものがあるのなら、これ以上言葉を重ねても意味はない」
床を這う光が、男の足元で膨らむ。
短刀を抜いた。
細い刀身が、蝋燭の明かりを拾う。
「来い、黒上シヲリ」
魔力が、跳ねた。
「お前の望みで、私を退けてみせろ」
◆
右。
そう理解するより先に、身体が動いた。
横へ飛び込んだ直後、背後で何かが裂ける。
遅れて轟音。
振り返れば、長椅子の背もたれが斜めにずれ、そのまま床へ崩れ落ちた。
喉が鳴る。
さっきまで僕の頭があった場所だった。
「……冗談だろ」
ヴァルターの指が、また動く。
今度は二つ。
一つは胸の高さ。
もう一つは、その下。
身を屈めかけて、止まる。
下へ逃げれば、もう一つに触れる。
咄嗟に長椅子の間へ飛び込んだ。
「っ……!」
袖が裂ける。
腕へ熱が走った。
歯を食いしばりながら床を転がり、立ち上がるより先に柱の陰へ身体を押し込む。
直後、すぐ横で木片が弾けた。
「視えているのか」
男の声が聞こえる。
答えている余裕なんてなかった。
魔術そのものが、全部見えるわけじゃない。
何が飛んでくるのか。
どんな形で襲ってくるのか。
そこまでは分からない。
ただ、その直前に魔力が動く。
どこへ集まり、どちらへ流れるのか。
それを追えば、攻撃が起きる前に、その場所から逃げられる。
少なくとも。
今のところは。
「なるほど」
柱の向こうで、色が広がった。
今までよりも、ずっと大きく。
「では、その眼で確かめるがいい」
嫌な予感がして、足元を見る。
既に。
柱の陰まで、光が満ちていた。
「――っ!」
逃げる場所がない。
床が、跳ね上がった。
足が地面から離れる。
背中から長椅子へ叩きつけられ、肺の中の空気が一度に押し出された。
「が、っ……!」
床へ落ちる。
息が吸えない。
口を開いても、喉から掠れた音が漏れるだけだった。
視えていた。
全部、視えていた。
それでも。
避けられなかった。
マミさんの言っていたことを、嫌になるほど正確に理解する。
見えることと。
対処できることは、全く別だ。
「力量差は分かったか」
足音が近づいてくる。
僕は壊れた椅子へ手をつき、無理やり身体を起こした。
「……ええ」
口の中に、鉄の味が広がる。
「すごく、分かりやすかったです」
ヴァルターが足を止めた。
その背後に、ルシャが見える。
さっきより、少し近い。
吹き飛ばされた分だけ、祭壇との距離は縮まっていた。
そんなことを考えている自分に、少し呆れる。
「ならば、終われ」
魔力が、左右で膨らんだ。
背後にも。
逃げる方向を、順番に塞いでいく。
同じように床ごと弾き飛ばされたら、今度こそ立てない。
短刀を握り直した。
視線を、男の手元へ向ける。
広がった流れの根元に。
一本だけ。
細い繋ぎ目があった。
昼間、何度も切ったものに似ている。
ただ。
ずっと速く。
ずっと複雑だ。
考えている時間はない。
僕は、前へ踏み込んだ。
「――何?」
ヴァルターの声が、僅かに変わる。
横から迫った何かが肩を裂いた。
「ぐっ……!」
熱い。
それでも、足は止めなかった。
後ろへ下がれば、別の流れが待っている。
だったら。
前しかない。
懐へ届く一歩手前で、短刀を振った。
狙うのは、人じゃない。
指先から伸びる色。
刃が触れた瞬間、僅かな抵抗があった。
布を引っかけたような、奇妙な感触。
そのまま振り抜く。
切れた。
僕を囲んでいた光が、一斉に形を失う。
床を走っていた線が、途中からほどけていった。
「……貴様」
男の顔が、真っ直ぐこちらを向いた。
初めて。
僕だけを見たような気がした。
「やっと」
血の混じった息を吐く。
「こっち、見ましたね」
言い終わるより早く、腹へ衝撃が走った。
魔力が動いたのは見えた。
けれど。
近すぎた。
「――っ、ぁ!」
足が浮き、背中から床へ叩きつけられる。
短刀が手を離れ、石の上を滑っていった。
身体を丸めようとして、腹に力が入らない。
「術式を切る刃か」
ヴァルターが、自分の指先を見ていた。
「珍しいものを持ち込んだな」
声には、もう驚きがなかった。
一度見せた。
だから、次は通らない。
そう言われたような気がした。
僕は片腕を床へつく。
持ち上がった身体が、すぐに落ちた。
「特異な眼を持っている。動きも、ただの素人にしては悪くない」
足音が、一つ。
「だが、それだけだ」
「……知ってますよ」
歯を食いしばり、もう一度腕へ力を込める。
「自分が強いなんて、一度も思ってない」
「ならば、なぜ立つ」
僕は顔を上げた。
祭壇の少女を見る。
「迎えに来たって、言ったでしょう」
ルシャは動かない。
ここまで騒いでも。
文句の一つも、言ってくれない。
「ルシャ!」
呼びかけた声が、礼拝堂に響く。
返事はなかった。
ヴァルターが、僕と彼女の間へ立つ。
「無駄だ。既に同調は始まっている」
「……儀式は、明日じゃ」
「完成するのが明日だ。準備がそれ以前から始まっていることに、何の不思議がある」
男の手が、祭壇へ向けられる。
教会を満たしていた魔力が、一斉に脈打った。
床から壁へ。
壁から柱へ。
幾つもの流れが絡み合い、ルシャの身体へ注ぎ込んでいく。
銀色の髪が、風もないのに浮き上がった。
その頬の輪郭が。
蒼い光の向こうへ、僅かに溶ける。
「やめろ!」
「お前に付き合う時間は、もう十分に取った」
短刀へ向かって走る。
魔力が動く。
一つ目を避ける。
二つ目に身を屈める。
三つ目。
間に合わなかった。
「っ……!」
太腿へ熱が走り、足が崩れる。
床へ手をつき、倒れかけた身体を無理やり前へ押し出した。
指先が、短刀の柄へ触れる。
握る。
今度こそ離さないように、強く。
「救った先に、何がある」
男の声が頭上から落ちてきた。
「役目を奪えば、アレには何も残らん」
「……残るだろ」
息を吸う。
痛みで、半分までしか入ってこない。
「食いたいものも、読みたい本も。行きたいところだって、あいつにはまだ、いくらでもある」
「その程度のもののために」
「その程度かどうかを、あんたが決めるな!」
叫んだ声が、喉へ引っかかった。
ヴァルターの周囲で、魔力が深く沈む。
僕は立ち上がった。
床へ落ちた自分の血は、見ないようにした。
「僕は、あいつに生きていてほしい」
足へ力を込める。
「それだけです」
男は答えなかった。
代わりに。
自分の胸元へ手を置いた。
「――」
ぞっとした。
今まで他の流れに紛れて見えていなかったものが、一瞬だけ形を持つ。
男の身体の中心から、無数の線が伸びていた。
床へ。
壁へ。
柱へ。
そして。
ルシャへ。
礼拝堂を満たしている魔力が、どこから始まり、どこを通って動いているのか。
ようやく分かった。
「……あんたが」
「そうだ」
ヴァルターが答える。
「この儀式は、私を基点としている」
男の胸元を見る。
次に。
自分の手にある刃を見る。
さっき切ったのは、外へ伸びていた一部分にすぎなかった。
だから、すぐに別の流れが繋がった。
止めるなら。
もっと奥。
この男の身体の中にあるものを、切らなければならない。
「分かったようだな」
ヴァルターが一歩近づいた。
「ならば、来い」
短刀を握る手が、震えた。
人を刺す。
その言葉が、初めて具体的な形を持った。
刃を構えることも。
相手へ向けることも。
今までは、まだどこか曖昧だった。
けれど、もう分かってしまった。
ここから先は。
人の身体へ刃を入れなければ、届かない。
僕がやる。
僕の手で。
この人を。
「できぬか」
仮面の向こうから、静かな声がした。
ヴァルターは逃げなかった。
かといって、隙を見せているわけでもない。
魔力は変わらず全身を巡っている。
儀式を進めながら。
僕を殺す準備もしている。
その両方を、崩さなければならない。
背後で。
ルシャの指先が、薄くなった。
「……やめろ」
「止めたいのだろう」
「…………」
「ならば、自分で止めてみせろ」
ハインツへ向けられた、ルシャの拳を思い出した。
あの時。
人を殺すところなんて見たくないと、僕は言った。
殺してほしくないと。
そう言った僕が。
今、人を刺そうとしている。
短刀から、目を離せなかった。
怖い。
傷つくのとは、全く違う怖さだった。
一度やってしまえば。
その事実だけは、もうなくならない。
「黒上シヲリ」
男が、僕の名前を呼ぶ。
「一人を傷つけることもできず、何を奪い返すつもりだ」
僕は、ルシャを見る。
あの頬へ触れた時の温度を、覚えている。
泣きながら。
ありがとう、と言った声も覚えている。
正しいことをするために、ここへ来たわけじゃない。
正義の味方になりたいわけでもない。
ただ。
あいつに、もう一度会いたかった。
話をして。
怒って。
くだらないことで喧嘩して。
一緒に、帰りたかった。
「……正しいなんて」
刃を握り直す。
「一度も、言ってない」
息を吐く。
身体の痛みは消えない。
恐怖も、ちゃんと残っている。
それでも。
足元と。
相手の手と。
その間を巡る魔力だけが、妙にはっきりと見えた。
ヴァルターの指が、僅かに止まる。
本当に。
一瞬だけ。
けれど、僕を見る仮面の角度が変わった。
「……お前は」
最後まで聞かなかった。
床を蹴る。
右から膨れた色へ、左肩を引く。
次は下。
踏み込む足の位置をずらす。
速い。
やっぱり、全部には追いつけない。
三つ目が腕を掠めた。
それでも短刀は離さない。
身体を前へ押し込む。
ヴァルターの手が、胸の高さまで上がった。
その指先へ刃を振る。
攻撃を生み出そうとしていた流れを、切った。
光がほどける。
空いた場所へ。
一歩。
踏み込んだ。
「――来い」
男の声がした。
仮面の奥で何を見ていたのかは、分からない。
僕はただ。
刃を、前へ押し出した。
コートを裂く。
その下へ。
ずぶりと沈む感触が、手の中へ残った。
息が止まる。
温かいものが、指へ触れた。
「……っ」
腕を引きたかった。
今すぐ離れたかった。
けれど。
その奥に。
まだ切れていない流れが見えていた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた謝罪だったのか。
自分でも分からなかった。
目を逸らさず。
僕は刃を、もう一度押し込んだ。
何かが。
切れた。
瞬間。
教会全体を満たしていた魔力が、中心から崩れ始める。
床を走っていた光が消えた。
壁を這っていた色がほどける。
祭壇へ集まっていた蒼が、行き場を失って空中へ散った。
ヴァルターの身体が、傾く。
支えることもできなかった。
短刀から手を離し、僕はその場へ膝をつく。
目の前で倒れていく男を。
ただ、見ていることしかできなかった。
◆