魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第四章「それでも雪は、白く降る」 十一日目(上)

 

 雪を踏む音が、一人分だけ響いていた。

 一月四日。午後九時を少し過ぎたところ。

 昨日から降り続く雪は、道路と歩道の境目まで白く埋めている。街灯の下を通るたび、足元へ落ちた自分の影が長く伸びては、また背後へ遠ざかっていった。

 コートの内側へ、手を入れる。

 指先に触れたのは、硬い鞘の感触だった。

 マミさんから渡された短刀が、そこにある。

『術式を切るためのものだよ』

 細い刀身には、僕には読めない文字がびっしりと刻まれている。

 昼間、教えられた通りに魔力の繋ぎ目へ触れさせると、張られていた光の糸が音もなく解けた。

 できたのは、それだけだ。

 相手は動かない。こちらへ攻撃もしてこない。そんな状況で、何度か成功した。

 それだけの人間が、今から魔術士のところへ行こうとしている。

 

「……無茶だろ、普通に考えて」

 

 口にしてから、自分で少し笑った。

 今さらだった。

 手を引ける場所なら、昨日から何度も通り過ぎてきた。

 マミさんは、先に向かっている。

 僕がルシャのところへ辿り着けるように、周囲を引き受けると言っていた。何をするつもりなのか、詳しいことまでは教えてくれなかった。

 ただ、一緒には行けない。

 途中からは、一人で進まなければならないと、そう言われていた。

 顔を上げる。

 街並みの向こうに、蒼い光が見えた。

 眼鏡越しでも分かるほど濃い色が、暗い空へ向かって立ち上っている。煙のようでいて風に流されることもなく、その根元だけが遠くの建物に遮られていた。

 

『あれだけの儀式だ。動き始めれば、君の眼には嫌でも分かる』

 

 マミさんの言葉どおりだった。

 あそこに、ルシャがいる。

 そう分かっているのに、僕は一度だけ隣を見てしまった。

 いつもなら少し前を歩いているか、こちらの袖を引っ張っている。何かを見つけるたびに足を止めて、僕の返事も待たずに駆け出していく。

 当然、今は誰もいない。

 何もない道へ目を向けた自分がおかしくて、小さく息を吐いた。

 

「……だから、迎えに行くんだろ」

 白い息と一緒に呟いて、歩幅を広げる。

 

 大通りを外れると、家の明かりが急に少なくなった。道沿いの木々が風に揺れ、枝へ積もっていた雪が、ときどき重たそうに落ちてくる。

 その先に、人影があった。

 足を止める。

 道の真ん中に立つその人も、真っ直ぐこちらを見ていた。

 

「――行かせません」

 

 聞き慣れた声だった。

 だからこそ、一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 街灯の明かりが茶色い髪を照らし、後ろで結ばれたポニーテールが冷たい風に揺れている。

 

「……宮本さん」

 

 呼ぶと、彼女は僅かに唇を結んだ。

 いつもの柔らかな笑みはなかった。

 

「黒上君。このまま、家へ帰ってください」

 

◆

 

 どうして、ここにいるのか。

 そう聞こうとして、彼女の手元に目が止まった。

 何もなかったはずの指先へ、色が集まっている。

 靄のようなそれは細く引き伸ばされ、輪郭を持ち――次の瞬間には、一本の棍が彼女の手に収まっていた。

 息を呑む。

 眼鏡越しでも、見間違えようがない。

 

「宮本さんも……」

 

 魔術士。

 その言葉を、最後まで口にすることができなかった。

 彼女は否定しなかった。

 両手で棍を持ち直し、こちらへ半歩だけ足を踏み出す。

 

「これ以上、近づかないでください」

 

 低く抑えた声だった。

 聞き慣れているはずなのに、知らない人の声みたいだった。

 ふと、水族館の帰りに彼女が聞いてきたことを思い出す。

 ――最近、身の回りで変わったことはありませんでしたか。

 あの時から、知っていたのだろうか。

 僕の隣にいた少女が何者なのかも。

 これから、何が起こるのかも。

 

「ルシャさんのところへ、行くんですね」

「……うん」

「行けば、もう戻れなくなります」

「それも、聞いたよ」

 

 ゆっくりと、一歩進む。

 宮本さんの手に力が入った。

 

「止まってください」

 

 もう一歩。

 彼女の目が、僕の右手へ動く。

 僕はコートから両手を出して、何も持っていないことを見せた。

 それで安心してもらえるとは思わなかった。

 けれど少なくとも、宮本さんへ刃物を向けるつもりはなかった。

 

「止まらなければ、私は黒上君を――」

 

 声が途切れる。

 棍の先が、僕の胸元へ向けられた。

 そこで足を止める。

 あと一歩踏み込めば、届いてしまう距離だった。

 

「……傷つけることになります」

 

 最後の言葉だけが、震えていた。

 僕は彼女の顔を見る。

 厳しく見せようと細めた目も、強く結ばれた口元も、隠しきれない苦しさで歪んでいた。

 

「宮本さん」

「帰ってください」

「…………」

「お願いします」

 

 棍の先が、少しだけ下がる。

 それ以上、僕は進まなかった。

 

「いいじゃないですか。このまま、忘れてしまえば」

 

 俯いたまま、宮本さんが言った。

 

「五日になれば、ルシャさんのことも。この冬休みにあったことも、全部なくなるんでしょう?」

「……そうらしいね」

 

「だったら、黒上君が危ないことをする必要なんてありません」

 雪が、彼女の肩へ落ちる。

 宮本さんは、それを払おうともしなかった。

 

「七日には、学校が始まります」

「うん」

「冬休みの宿題、まだ終わっていないんじゃないですか」

「……どうして分かるの」

「顔を見れば分かります」

「そんなに?」

「黒上君ですから」

 

 どういう意味だ。

 少しだけ笑うと、宮本さんの口元もほんの僅かに緩んだ。

 けれど、それもすぐに消えてしまった。

 

「学校へ来て、本を読んで。授業を受けて、放課後にはバイトへ行って」

 彼女が顔を上げる。

「そうやって、普通に過ごせばいいじゃないですか」

 

 僕は答えなかった。

 答えられなかったわけじゃない。

 ただ今は、最後まで聞かなければいけないと思った。

 僕を止めるためにここへ立っている、彼女の言葉を。

 

「前に、話してくれましたよね。将来、どうなりたいか」

 

 覚えている。

 大層な夢ではなかった。

 ほどほどに勉強して、そこそこの大学へ行って、仕事を見つける。

 できれば結婚なんかもして。

 派手な成功も、大きな失敗もなく、普通に幸せに暮らしたい。

 そんな、僕の話だった。

 

「私、あの話が好きだったんです」

 

 宮本さんは、目を逸らさずに言った。

 

「黒上君らしくて。派手じゃなくて、でも、ちゃんと幸せで。……そういう未来があったらいいなって」

 

 棍を握る手が、僅かに動く。

 

「だから、行かないでください」

 

 命令ではなかった。

 魔術士としての警告でもなかった。

 同じ学校へ通う、一人の女の子のお願いだった。

 

「今なら、まだ戻れます。忘れてしまえば、辛くもなくなるんです」

 

 そのとおりなのだろう。

 目を覚ますたびに隣を探すことも。

 空いた椅子へ、つい目を向けることも。

 もう、なくなる。

 胸の奥に残っているこの痛みも、一緒に消える。

 そして僕は、十日前までと同じ生活へ戻る。

 僕がずっと望んでいたはずの、普通の生活へ。

 その未来を、宮本さんは僕に差し出してくれている。

 

「……ありがとう」

 

 彼女の肩が、小さく揺れた。

 

「僕のこと、そこまで考えてくれて」

「だったら――」

「でも、ごめん」

 

 口にすると、宮本さんの表情が歪んだ。

 こんな顔をさせたかったわけじゃない。

 それでも。

 ここで頷くことだけは、できなかった。

 

「忘れる前に、まだ話したいことがあるんだ」

「……話して、どうするんですか」

「帰ってこいって言う」

 宮本さんが、唇を噛んだ。

「そのために、黒上君が帰ってこられなくなったら?」

 

 すぐには答えられなかった。

 絶対に大丈夫だなんて、言えるはずがない。

 そんな嘘をついたところで、きっと彼女には分かってしまう。

 

「……そうならないようにする」

「そんなの……」

「うん。頼りないよね」

 

 自分でも、分かっていた。

 勝てる保証なんてない。

 そもそも辿り着けるかすら分からない。

 それでも。

 

「でも、あいつがいなくなるのを待ってるだけなのは、もう嫌なんだ」

 

 宮本さんは何も言わなかった。

 僕も、それ以上は言えなかった。

 暫くして、胸元へ向けられていた棍がゆっくりと下ろされる。

 

「……ずるい人です」

 小さな声だった。

「本当に」

「ごめん」

「謝らないでください」

 

 宮本さんは一度だけ目を閉じる。

 それから道の端へ退いた。

 僕は、その横を通り過ぎる。

 一歩。

 もう一歩。

 進むたびに背中が重くなっていった。

 彼女が今、どんな顔をしているのか。

 振り返ることができなかった。

 

「黒上君」

 

 それでも、呼ばれれば足が止まる。

 振り向くと、宮本さんは泣きそうな顔で笑っていた。

 

「始業式、七日ですからね」

「……うん」

「宿題も、ちゃんと持ってきてください」

「今からじゃ、ちょっと厳しいかもしれない」

「知りません」

「厳しいなぁ」

「当たり前です」

 

 鼻を一度啜ってから、彼女はもう一度僕を見る。

 

「だから、ちゃんと帰ってきてください」

 

 今度は、迷わず頷けた。

 帰ってこようと思った。

 ルシャだけじゃない。

 僕にも、帰りたい場所がある。

 

「行ってきます」

 

 背を向けて、歩き出す。

 数歩進んだところで、小さな声が届いた。

 

「……いってらっしゃい、黒上君」

 

 今度は、振り返らなかった。

 

◆

 

 教会の前へ辿り着いて、僕は一度だけ足を止めた。

 古い建物だった。

 白い外壁には長い年月の汚れが残り、入口へ続く石段の端には雪が積もっている。高い尖塔も、扉の上に掲げられた十字架も、見た目だけならどこにでもある古い教会と変わらない。

 ただ、その建物を覆い尽くすように、蒼い光が立ち上っていた。

 近づくにつれて、目の奥が重くなる。

 扉の取っ手へ手をかける。

 鍵は、かかっていなかった。

 重い扉を押すと、長い軋みが礼拝堂の静けさを引き裂いた。

 左右に長椅子が並んでいる。

 その間を、擦り切れた赤い絨毯が祭壇まで真っ直ぐに伸びていた。壁際の燭台には火が灯り、揺れる明かりが古い柱へ幾つもの影を作っている。

 けれど、そんなものはほとんど目に入らなかった。

 視線が、その奥へ吸い寄せられる。

 

「……ルシャ」

 

 祭壇の中央に、彼女がいた。

 椅子へ座らされ、両手と両足を拘束されている。

 銀色の髪が肩へ落ち、その隙間から覗く顔は、ひどく白かった。

 目は開いている。

 けれど。

 僕を見ていなかった。

 

「ルシャ!」

 

 駆け出しかけたところで、足音が響いた。

 柱の陰から、一人の男が進み出てくる。

 黒いロングコート。

 目元を覆う、飾り気のない仮面。

 水族館で会った男だった。

 

「警告は、したはずだ」

 

 低い声が礼拝堂に響く。

 

「これ以上、アレに近づくなと」

 

 マミさんから聞いた名前が、頭を過った。

 ヴァルター=クロイツ。

 この儀式を進めている魔術士。

 男は僕とルシャの間へ立ち、足を止めた。

 

「なぜ来た」

 

 喉が乾いていた。

 一度唾を飲み込んでから、答える。

 

「ルシャを、迎えに来ました」

 男の口元が僅かに動いた。

「迎えに?」

「はい」

「妙なことを言う。アレは、自分の居場所へ戻っただけだ」

 

 胸の奥が、ざらついた。

 水族館でも同じだった。

 この男は、一度も彼女を名前で呼ばない。

 

「ルシャです」

「何?」

「あいつの名前です」

 

 仮面が、真っ直ぐこちらを向く。

 

「名称に意味はない」

「僕にはあります」

 

 男は暫く僕を見ていた。

 やがて興味を失ったように、祭壇へ顔を向ける。

 

「世界律を受け入れるために用意された依り代だ。そこに偶発的に生じた人格が、役目と共に消える。ただ、それだけのことだ」

 

 淡々とした声だった。

 壊れた部品を交換する話でもしているみたいに。

 僕は、祭壇のルシャを見る。

 返事はない。

 こんな時まで大人しいのが、どうしようもなく腹立たしかった。

 

「それだけじゃないですよ」

「……何?」

「わがままで、口が悪くて。すぐ人の飯を欲しがるし、自分の都合ばっかり押しつけてくる」

 

 ヴァルターの顔から、僅かに表情が消える。

 それでも、口は止まらなかった。

 

「人が寝てるのに勝手に起こすし、行きたい場所があればこっちの予定なんてお構いなしです。そのくせ、落ち込んでると変なところで気を遣ってくる。何も知らないと思ったら妙なことだけ詳しいし、初めて見るものには馬鹿みたいにはしゃぐ」

「くだらんな」

「そうですね」

 

 僕は頷いた。

 

「でも、僕が迎えに来たのは、そっちです」

 男の背後で、蒼い光が揺れた。

「本人が戻ってきたのだぞ」

「知ってます」

「誰に強いられたわけでもなく、自ら選んでな」

「それも知ってます」

 

 あいつが決めた。

 僕を置いていくことも。

 ここへ戻ってくることも。

 全部、自分で。

 

「だから、もう一度話しに来たんです」

「本人が選んだ結末を、お前の感情で覆すというのか」

「はい」

「傲慢だな」

「……誰かに似たんでしょうね」

 

 ルシャは動かない。

 僕の悪口に、文句の一つも返してくれない。

 そのことが怖くて、また一歩進んだ。

 

「この儀式にどれだけの意味があるのか、僕には分かりません」

「無知を誇るか」

「まさか」

 首を横に振る。

「ただ、僕に分からないほど大事なことだからって、あいつが消えていい理由にはならない」

 

 男は暫く黙っていた。

 礼拝堂の奥で、蝋燭の火だけが揺れる。

 

「それだけのために、我らの研究を潰すか」

「はい」

「己の平穏を失っても?」

 

 返事が、ほんの少し遅れた。

 ヴァルターは、それを見逃さなかった。

 

「怖いか」

「怖いですよ」

 

 当然だった。

 痛いのも嫌だ。

 死ぬのなんて、もっと嫌だ。

 さっきから足の裏が床に張りついているみたいに重い。

 それでも。

 引き返す方向にだけは、動かなかった。

 

「ならば、去れ」

 男が僕の背後を示す。

「その扉を出ろ。ここで見聞きしたことも、いずれ消える。お前は望んでいた日常へ戻れる」

 

 一度だけ振り返った。

 開いた扉の向こうに、雪が見える。

 あそこを出れば、まだ間に合うのだろう。

 僕一人なら。

 何も知らなかった頃へ戻れる。

 普通の高校生に戻れる。

 

「……それ、もう聞きました」

 向き直り、眼鏡の縁へ触れる。

「答えも、決めてきました」

 

 ゆっくりと外す。

 途端。

 

 世界に、色が溢れた。

 

「――っ」

 

 床にも。

 壁にも。

 柱にも。

 幾重にも重なった魔力が、礼拝堂全体を這っている。

 遠くから見えていた蒼い光など、その一部でしかなかった。

 無数の流れが絡み合い、枝分かれし、ただ一つの場所へ集まっている。

 祭壇。

 その中心に、ルシャがいた。

 息が詰まった。

 彼女の輪郭が、蒼い光の中で僅かにぼやけている。

 僕は眼鏡をケースへ収め、内ポケットへ押し込んだ。

 

「僕が欲しい日常には、もう、あいつがいるんです」

 

 短刀の柄を握る。

 手汗で、僅かに滑った。

 

「最後に、もう一度だけ聞きます」

 

 仮面の向こうから、視線を感じる。

 

「ルシャを、返してください」

「断る」

 

 分かっていた答えだった。

 それでも、胸の奥が痛んだ。

 

「……そうですか」

 

 ヴァルターが片手を持ち上げる。

 身体の周囲を巡っていた魔力が、指先へ向かって流れを変えた。

 綺麗だった。

 そう思ってしまうほど、乱れがない。

 ハインツとも、マミさんとも違う。

 動きの始まりを見ているはずなのに、最初から完成しているようにさえ見えた。

 

「互いに譲れぬものがあるのなら、これ以上言葉を重ねても意味はない」

 

 床を這う光が、男の足元で膨らむ。

 短刀を抜いた。

 細い刀身が、蝋燭の明かりを拾う。

 

「来い、黒上シヲリ」

 

 魔力が、跳ねた。

 

「お前の望みで、私を退けてみせろ」

 

◆

 

 右。

 そう理解するより先に、身体が動いた。

 横へ飛び込んだ直後、背後で何かが裂ける。

 遅れて轟音。

 振り返れば、長椅子の背もたれが斜めにずれ、そのまま床へ崩れ落ちた。

 喉が鳴る。

 さっきまで僕の頭があった場所だった。

 

「……冗談だろ」

 

 ヴァルターの指が、また動く。

 今度は二つ。

 一つは胸の高さ。

 もう一つは、その下。

 身を屈めかけて、止まる。

 下へ逃げれば、もう一つに触れる。

 咄嗟に長椅子の間へ飛び込んだ。

 

「っ……!」

 

 袖が裂ける。

 腕へ熱が走った。

 歯を食いしばりながら床を転がり、立ち上がるより先に柱の陰へ身体を押し込む。

 直後、すぐ横で木片が弾けた。

 

「視えているのか」

 

 男の声が聞こえる。

 答えている余裕なんてなかった。

 魔術そのものが、全部見えるわけじゃない。

 何が飛んでくるのか。

 どんな形で襲ってくるのか。

 そこまでは分からない。

 ただ、その直前に魔力が動く。

 どこへ集まり、どちらへ流れるのか。

 それを追えば、攻撃が起きる前に、その場所から逃げられる。

 少なくとも。

 今のところは。

 

「なるほど」

 

 柱の向こうで、色が広がった。

 今までよりも、ずっと大きく。

 

「では、その眼で確かめるがいい」

 

 嫌な予感がして、足元を見る。

 既に。

 柱の陰まで、光が満ちていた。

 

「――っ!」

 

 逃げる場所がない。

 床が、跳ね上がった。

 足が地面から離れる。

 背中から長椅子へ叩きつけられ、肺の中の空気が一度に押し出された。

 

「が、っ……!」

 

 床へ落ちる。

 息が吸えない。

 口を開いても、喉から掠れた音が漏れるだけだった。

 視えていた。

 全部、視えていた。

 それでも。

 避けられなかった。

 マミさんの言っていたことを、嫌になるほど正確に理解する。

 見えることと。

 対処できることは、全く別だ。

 

「力量差は分かったか」

 

 足音が近づいてくる。

 僕は壊れた椅子へ手をつき、無理やり身体を起こした。

 

「……ええ」

 

 口の中に、鉄の味が広がる。

「すごく、分かりやすかったです」

 

 ヴァルターが足を止めた。

 その背後に、ルシャが見える。

 さっきより、少し近い。

 吹き飛ばされた分だけ、祭壇との距離は縮まっていた。

 そんなことを考えている自分に、少し呆れる。

 

「ならば、終われ」

 

 魔力が、左右で膨らんだ。

 背後にも。

 逃げる方向を、順番に塞いでいく。

 同じように床ごと弾き飛ばされたら、今度こそ立てない。

 短刀を握り直した。

 視線を、男の手元へ向ける。

 広がった流れの根元に。

 一本だけ。

 細い繋ぎ目があった。

 昼間、何度も切ったものに似ている。

 ただ。

 ずっと速く。

 ずっと複雑だ。

 考えている時間はない。

 僕は、前へ踏み込んだ。

 

「――何?」

 

 ヴァルターの声が、僅かに変わる。

 横から迫った何かが肩を裂いた。

 

「ぐっ……!」

 

 熱い。

 それでも、足は止めなかった。

 後ろへ下がれば、別の流れが待っている。

 だったら。

 前しかない。

 懐へ届く一歩手前で、短刀を振った。

 狙うのは、人じゃない。

 指先から伸びる色。

 刃が触れた瞬間、僅かな抵抗があった。

 布を引っかけたような、奇妙な感触。

 そのまま振り抜く。

 切れた。

 僕を囲んでいた光が、一斉に形を失う。

 床を走っていた線が、途中からほどけていった。

 

「……貴様」

 

 男の顔が、真っ直ぐこちらを向いた。

 初めて。

 僕だけを見たような気がした。

 

「やっと」

 

 血の混じった息を吐く。

 

「こっち、見ましたね」

 

 言い終わるより早く、腹へ衝撃が走った。

 魔力が動いたのは見えた。

 けれど。

 近すぎた。

 

「――っ、ぁ!」

 

 足が浮き、背中から床へ叩きつけられる。

 短刀が手を離れ、石の上を滑っていった。

 身体を丸めようとして、腹に力が入らない。

 

「術式を切る刃か」

 ヴァルターが、自分の指先を見ていた。

「珍しいものを持ち込んだな」

 

 声には、もう驚きがなかった。

 一度見せた。

 だから、次は通らない。

 そう言われたような気がした。

 僕は片腕を床へつく。

 持ち上がった身体が、すぐに落ちた。

 

「特異な眼を持っている。動きも、ただの素人にしては悪くない」

 足音が、一つ。

「だが、それだけだ」

「……知ってますよ」

 

 歯を食いしばり、もう一度腕へ力を込める。

 

「自分が強いなんて、一度も思ってない」

「ならば、なぜ立つ」

 

 僕は顔を上げた。

 祭壇の少女を見る。

 

「迎えに来たって、言ったでしょう」

 

 ルシャは動かない。

 ここまで騒いでも。

 文句の一つも、言ってくれない。

 

「ルシャ!」

 

 呼びかけた声が、礼拝堂に響く。

 返事はなかった。

 ヴァルターが、僕と彼女の間へ立つ。

 

「無駄だ。既に同調は始まっている」

「……儀式は、明日じゃ」

「完成するのが明日だ。準備がそれ以前から始まっていることに、何の不思議がある」

 

 男の手が、祭壇へ向けられる。

 教会を満たしていた魔力が、一斉に脈打った。

 床から壁へ。

 壁から柱へ。

 幾つもの流れが絡み合い、ルシャの身体へ注ぎ込んでいく。

 銀色の髪が、風もないのに浮き上がった。

 その頬の輪郭が。

 蒼い光の向こうへ、僅かに溶ける。

 

「やめろ!」

「お前に付き合う時間は、もう十分に取った」

 

 短刀へ向かって走る。

 魔力が動く。

 一つ目を避ける。

 二つ目に身を屈める。

 三つ目。

 間に合わなかった。

 

「っ……!」

 

 太腿へ熱が走り、足が崩れる。

 床へ手をつき、倒れかけた身体を無理やり前へ押し出した。

 指先が、短刀の柄へ触れる。

 握る。

 今度こそ離さないように、強く。

 

「救った先に、何がある」

 

 男の声が頭上から落ちてきた。

 

「役目を奪えば、アレには何も残らん」

「……残るだろ」

 

 息を吸う。

 痛みで、半分までしか入ってこない。

 

「食いたいものも、読みたい本も。行きたいところだって、あいつにはまだ、いくらでもある」

「その程度のもののために」

「その程度かどうかを、あんたが決めるな!」

 

 叫んだ声が、喉へ引っかかった。

 ヴァルターの周囲で、魔力が深く沈む。

 僕は立ち上がった。

 床へ落ちた自分の血は、見ないようにした。

 

「僕は、あいつに生きていてほしい」

 

 足へ力を込める。

「それだけです」

 男は答えなかった。

 代わりに。

 自分の胸元へ手を置いた。

 

「――」

 

 ぞっとした。

 今まで他の流れに紛れて見えていなかったものが、一瞬だけ形を持つ。

 男の身体の中心から、無数の線が伸びていた。

 床へ。

 壁へ。

 柱へ。

 そして。

 ルシャへ。

 礼拝堂を満たしている魔力が、どこから始まり、どこを通って動いているのか。

 ようやく分かった。

 

「……あんたが」

「そうだ」

 

 ヴァルターが答える。

 

「この儀式は、私を基点としている」

 

 男の胸元を見る。

 次に。

 自分の手にある刃を見る。

 さっき切ったのは、外へ伸びていた一部分にすぎなかった。

 だから、すぐに別の流れが繋がった。

 止めるなら。

 もっと奥。

 この男の身体の中にあるものを、切らなければならない。

 

「分かったようだな」

 ヴァルターが一歩近づいた。

「ならば、来い」

 

 短刀を握る手が、震えた。

 人を刺す。

 その言葉が、初めて具体的な形を持った。

 刃を構えることも。

 相手へ向けることも。

 今までは、まだどこか曖昧だった。

 けれど、もう分かってしまった。

 ここから先は。

 人の身体へ刃を入れなければ、届かない。

 僕がやる。

 僕の手で。

 この人を。

 

「できぬか」

 

 仮面の向こうから、静かな声がした。

 ヴァルターは逃げなかった。

 かといって、隙を見せているわけでもない。

 魔力は変わらず全身を巡っている。

 儀式を進めながら。

 僕を殺す準備もしている。

 その両方を、崩さなければならない。

 背後で。

 ルシャの指先が、薄くなった。

 

「……やめろ」

「止めたいのだろう」

「…………」

「ならば、自分で止めてみせろ」

 

 ハインツへ向けられた、ルシャの拳を思い出した。

 あの時。

 人を殺すところなんて見たくないと、僕は言った。

 殺してほしくないと。

 そう言った僕が。

 今、人を刺そうとしている。

 短刀から、目を離せなかった。

 怖い。

 傷つくのとは、全く違う怖さだった。

 一度やってしまえば。

 その事実だけは、もうなくならない。

 

「黒上シヲリ」

 男が、僕の名前を呼ぶ。

「一人を傷つけることもできず、何を奪い返すつもりだ」

 

 僕は、ルシャを見る。

 あの頬へ触れた時の温度を、覚えている。

 泣きながら。

 ありがとう、と言った声も覚えている。

 正しいことをするために、ここへ来たわけじゃない。

 正義の味方になりたいわけでもない。

 ただ。

 あいつに、もう一度会いたかった。

 話をして。

 怒って。

 くだらないことで喧嘩して。

 一緒に、帰りたかった。

 

「……正しいなんて」

 刃を握り直す。

「一度も、言ってない」

 

 息を吐く。

 身体の痛みは消えない。

 恐怖も、ちゃんと残っている。

 それでも。

 足元と。

 相手の手と。

 その間を巡る魔力だけが、妙にはっきりと見えた。

 ヴァルターの指が、僅かに止まる。

 本当に。

 一瞬だけ。

 けれど、僕を見る仮面の角度が変わった。

 

「……お前は」

 

 最後まで聞かなかった。

 床を蹴る。

 右から膨れた色へ、左肩を引く。

 次は下。

 踏み込む足の位置をずらす。

 速い。

 やっぱり、全部には追いつけない。

 三つ目が腕を掠めた。

 それでも短刀は離さない。

 身体を前へ押し込む。

 ヴァルターの手が、胸の高さまで上がった。

 その指先へ刃を振る。

 攻撃を生み出そうとしていた流れを、切った。

 光がほどける。

 空いた場所へ。

 一歩。

 踏み込んだ。

 

「――来い」

 

 男の声がした。

 仮面の奥で何を見ていたのかは、分からない。

 僕はただ。

 刃を、前へ押し出した。

 コートを裂く。

 その下へ。

 ずぶりと沈む感触が、手の中へ残った。

 息が止まる。

 温かいものが、指へ触れた。

 

「……っ」

 

 腕を引きたかった。

 今すぐ離れたかった。

 けれど。

 その奥に。

 まだ切れていない流れが見えていた。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰に向けた謝罪だったのか。

 自分でも分からなかった。

 目を逸らさず。

 僕は刃を、もう一度押し込んだ。

 何かが。

 切れた。

 瞬間。

 教会全体を満たしていた魔力が、中心から崩れ始める。

 床を走っていた光が消えた。

 壁を這っていた色がほどける。

 祭壇へ集まっていた蒼が、行き場を失って空中へ散った。

 ヴァルターの身体が、傾く。

 支えることもできなかった。

 短刀から手を離し、僕はその場へ膝をつく。

 目の前で倒れていく男を。

 ただ、見ていることしかできなかった。

 

◆

 

 

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