魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
蒼い空。水晶のような大きな月。
透き通った水面はそのすべてを映し、空と水は一本の水平線だけで分かたれている。
そんな世界の真ん中に、一人の女の子が立っていた。
――まただ。
眠るたび、決まって僕はここへ来る。
見たことも、聞いたこともない場所。だというのに、なぜか懐かしい。
いつも通り、水面に小さな波紋を広げながら、彼女がこちらへ歩いてくる。
けれど、その姿だけは靄がかかったようにぼやけていて、どうしてもうまく認識できない。
「シヲリ」
その子は、いつも僕の名前を呼ぶ。
「――ぜんぶ、――て、――」
声に雑音が混じる。
何を言っているのかは聞き取れない。意味だって分からない。
それなのに、その声を聞いていると胸の奥が締め付けられて、どうしようもなく悲しくなる。
理由なんて、何ひとつ分からないのに。
だから、僕はこの夢が嫌いだ。
◆
パシャ、とシャッター音が耳を打った。
いつの間に眠ってしまっていたのだろう。
まどろみの底から意識を引き上げられ、重たい瞼を開く。すると、真っ先に見慣れた女の子の顔が視界へ飛び込んできた。
「あ、お、おはよう黒上君!」
僕が起きたことに気づくや否や、宮本さんは慌てたように両手を振り、それから誤魔化すようにはにかんだ。
「ごめんね。起こしちゃったかな?」
「ああ、いや、別に。……というか、今撮らなかった?」
ぴくり、と宮本さんの肩が跳ねた。
手にしていた携帯をさっと胸元へ隠し、視線が一瞬だけ僕から逸れる。
「な、何言ってるの? 気のせいじゃないかな。多分」
「そっか。気のせいか」
それは残念だ。
もし撮られていたなら、交換条件に宮本さんの写真も一枚撮らせてもらおうと思ったのに。
そんなことを考えながら、凝り固まった背筋を伸ばす。
そこでようやく、辺りの景色が目に入った。
「……僕、いつから寝てたんだっけ」
見慣れた本棚。整然と並べられた机と椅子。
目の前には、読みかけの本が開いたまま置かれている。
壁に掛けられた時計は、すでに十七時を指していた。
……終業式が終わったのは昼前だったはずだ。
ということは僕は、少なくとも四、五時間はここで眠りこけていたことになる。
せっかくの終業式だというのに、結局一日を学校で潰してしまった。
隣を見ると、宮本さんが小さく首を傾げている。
「どうだろう。私も今ここに来たところだから」
「そっか」
そう答える宮本さんへ、何とはなしに視線を向ける。
宮本小夜は、中学時代からの知り合いだ。とはいえ当時は顔を知っている程度で、こうして話すようになったのは高校に入ってからだった。
誰も彼もが少しくらいは制服を着崩したがるこの年頃に、彼女は模範的という言葉をそのまま形にしたような格好をしている。
皺ひとつないブレザー。膝が隠れるほどのスカートに、黒いタイツ。
低い位置で結ばれたポニーテールまで妙にきっちりしていて、これで眼鏡までかけていたなら、きっとあだ名は委員長だった。
「黒上君?」
「……ごめん。ぼーっとしてた」
困ったように眉尻を下げる宮本さんへ謝ってから、今さらながら気になったことを尋ねる。
「そういえば、宮本さんはどうしてここに?」
「私ですか?」
ぱちぱちと瞬きをして、それから自分の胸元を指さす。
「生徒会の仕事が終わって、帰ろうと思ってたんです。それで図書室の前を通ったら、黒上君が見えたから」
「なるほど」
僕が盛大に惰眠を貪っている間、宮本さんは真面目に働いていたらしい。
「それは、こんな時間までお疲れ様」
どの口が言っているのかとは自分でも思うが、宮本さんは気にした様子もなく
「ありがとうございます」
と笑った。
その笑顔に曖昧に頷きながら、改めて壁の時計へと目を向ける。
「でも大変だね。最後の最後まで仕事なんて」
「仕方ないですよ。生徒会は始業式の準備とか、色々ありますから」
そう言いながらも、特に嫌そうな様子はない。
むしろ当然のことみたいに笑っている。
「僕だったら絶対、誰かに押しつけて帰ってるけどな」
「駄目ですよ。自分の仕事なんですから、ちゃんとやらないと」
あまりにも予想通りの答えで、思わず笑ってしまった。
「さすが、天下の生徒会長様だな」
「もう。からかわないでください」
宮本さんは少しだけ頬を膨らませる。
そんな様子に小さく笑いながら、ふと先ほどの話が気になった。
「そういえば、三学期って何かイベントでもやるの?」
何気なく尋ねると、宮本さんがきょとんと目を瞬かせた。
「イベント?」
「いや、始業式の準備だけでこんな時間まではかからないだろうし。何かやるのかなって」
「あぁ、そういうことですか」
納得したように頷いた宮本さんは、何かを思い出したらしく
「あ」
と声を漏らすと、足元の鞄へ手を伸ばした。
「実は、アンケートを取ろうと思っていて」
「アンケート?」
「三学期の生徒会広報で、進路についての特集をやろうって話になって。それでアンケートを取ろうと思ってるんです」
差し出された紙を受け取る。
中央には、大きく一つの質問が書かれていた。
「あなたが思い描く、理想の三十歳?」
「はい。ほら、私たちももうすぐ三年生じゃないですか。進路とか、色々考え始める時期なので。そのきっかけになればって、議題に上がったんです」
「ふうん」
「……あんまり興味なさそうですね」
少し不満そうに、じっと見つめられる。
そんなに露骨に顔に出ていただろうか。少し気まずくなって、指先で眼鏡の位置を直す。
「いや、興味がないっていうより……想像つかないなと思って」
紙を返しながら答える。
三十歳の自分。
頭の中に思い浮かべてみても、どうにも輪郭がぼやけてしまう。
「十年以上も先なんて、時代も変わってるだろうし。想像するの難しくない?」
「もう。そういうことじゃないですよ」
宮本さんが唇を尖らせる。
「別に、未来予想をしてくださいって話じゃないんですから」
そう言って、宮本さんは少しだけ身を乗り出す。興味を隠すつもりもないのか、こちらを見つめる目がどこか期待するように輝いていた。
こういう時だけ妙に分かりやすいところが、少しおかしくて、少し微笑ましい。
「黒上君にはありませんか? 将来の夢とか、理想の生活とか」
「将来の夢、理想の生活、ねぇ」
椅子の背にもたれながら、ぼんやりと天井へ視線を逃がす。
改めて聞かれると困る。
将来の夢なんて言われると、途端に立派なものを答えなければいけない気がしてしまう。
けれど僕にだって、一応こうなればいいなと思っているものくらいはあった。
「まぁ、そういうことなら……ないことはないかも」
そう答えると、宮本さんの表情がぱっと明るくなった。少しだけ身を乗り出したまま、続きを待つようにこちらを見つめている。
「いや、本当に大したことじゃないから」
「全然大丈夫です」
「僕が大丈夫じゃないんだけどな……」
自分の将来について真面目に語るなんて、どうにも気恥ずかしい。
それでも、このまま誤魔化せそうにはなかった。
小さく息を吐いて、ぼんやりと自分の未来を思い浮かべる。
「本当につまらないんだけどさ」
一度、言葉を切る。
「普通に、幸せに生きていたいなって」
「普通に幸せ、ですか」
宮本さんが少しだけ目を丸くする。
まぁ、そんな反応になるよなと思いながら肩をすくめた。
「このままほどほどに勉強して、そこそこの大学に行く。そこでもまぁ頑張って、悪くない会社に入って、普通に働いて、普通に暮らす」
大きな成功が欲しいわけでも、特別な何かになりたいわけでもない。
我ながら、面白味のない人生設計だ。
「そこにお嫁さんとかいたら、もう文句なしなんだけど」
そこは今後の僕の頑張り次第なので、何とも言えない。
宮本さんは、そんな面白くもない話を、口を挟むこともなくじっと聞いていた。
そのせいだろうか。
気づけば僕ばかり話していたことに気づいて、少し気恥ずかしくなる。
「……ごめん。僕ばっかり話してた」
「いえ」
「でも、僕の理想なんてそんなものだよ。ね、つまらないでしょ?」
「そんなことありません!」
思っていたより大きな声が返ってきた。
驚いて顔を向けると、宮本さん自身も自分の声に驚いたらしい。
みるみる頬が赤くなっていく。
「ご、ごめんなさい。大きな声を出して……」
「いや、それはいいけど」
「でも、つまらなくなんてないです」
少しだけ俯きながら、それでもはっきりと続ける。
「その……素敵だと思います。すごく」
「あ、ありがとう……ございます?」
妙な空気になった。
僕が何と返せばいいのか分からずにいると、宮本さんは逃げるように本を開く。
「本、読みましょう」
「……うん」
唐突な提案だったが、断る理由もない。
それに、これ以上つついたところで碌なことにならない気がした。
僕も開いたままになっていた本へ視線を戻す。
それからしばらく、二人で黙って本を読んだ。
ふと顔を上げた頃には、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。
時計を見れば、既に十八時を指していた。
「……もうこんな時間か」
本を閉じる。
「僕はそろそろ帰るけど、宮本さんは?」
「私も帰ります」
そう言って宮本さんも鞄を持ち上げる。
本を返し、二人そろって図書室を出た。
暖房の効いていた室内から出た途端、冬の冷気が頬を刺す。鞄からマフラーを取り出し、首元へ巻いた。
人気のなくなった廊下を並んで歩く。
窓の外はすっかり暗く、校舎の灯りが薄くガラスへ映り込んでいた。
そんな中、不意に宮本さんが口を開く。
「ねぇ、黒上君」
「ん?」
少しだけ間を置いて、宮本さんがこちらを見る。
「雪女って、信じますか?」
「……雪女?」
思いもしなかった言葉に、足がわずかに緩んだ。
雪女。よりにもよって、宮本さんの口からそんな怪談めいた言葉が出てくるとは思わなかった。
「あ、今『何言ってんだこいつ』って思ったでしょう」
「……いや、そんなことはないけど」
「間がありました」
「気のせいじゃない?」
「さっき私が使った言い訳、そのまま返さないでください」
じとりと睨まれる。怒っているはずなのに、どうにも迫力がない。むしろ少し可愛いと思ってしまったのは、本人には黙っておこう。
「ごめんごめん。でも、急だったから驚いただけだよ。宮本さんって、そういう話あんまりしなさそうだし」
「それは……まぁ、自分でもそう思いますけど」
少しだけ気まずそうに視線を逸らしてから、宮本さんは前を向いた。
「でも最近、結構有名なんですよ。この辺で雪女が出るって」
「雪女が?」
「はい。ネットでも話題になってますし、学校でも知ってる人は多いです」
横目に宮本さんの顔を見る。楽しそうに口元を緩め、こちらの反応を窺うようにちらりと視線を向けてきた。
どうやら本人も、怖がっているというより、最近仕入れた面白い噂を誰かに話したかったらしい。
「へぇ。そんなに流行ってるんだ」
「流行ってる、って言い方も変ですけど……実際、雪女を探しに行ったり、噂を確かめようとして問題を起こす生徒もいるみたいで」
「そこまで?」
思っていたより、随分と人気のある怪談らしい。
せいぜい友達同士で面白半分に話す程度のものだと思っていたのだけれど。
「それで生徒会にも話が回ってきたんです。冬休みに入るし、危ないことはしないよう注意してくださいって」
「なるほど。だから宮本さんも知ってるわけか」
「そういうことです」
宮本さんは内緒話でもするように少しだけこちらへ顔を寄せる。口元には、まだ楽しげな笑みが残っていた。
「それがですね、普通の噂話にしては妙に具体的なんですよ」
「具体的?」
「はい。見たっていう人の話とか、その時の状況とか。似たような内容が何件もあって」
その言い方に、少しだけ興味を引かれる。
「例えば?」
「んー……説明するより見た方が早いかもしれません。『白杜市 雪女』って調べてみてください」
言われるまま携帯を取り出し、検索欄に文字を打ち込む。
白杜市、雪女。
検索をかけると、関連する投稿や記事がいくつも表示された。
「これ?」
「はい。それです」
大半は悪ふざけや、噂に便乗しただけのものだ。けれど中には、妙に具体的な目撃談も混じっている。
曰く、彼女は映らない。写真にも、鏡にも、その姿は残らない。
曰く、彼女に声をかけられた者は殺される。血に染まった女を見た、という話まであるらしい。
そして――曰く、彼女は記憶に残らない。
「記憶に、残らない……ね」
その言葉だけは、他の噂より少しだけ引っかかった。
僕には、十三歳より前の記憶がない。交通事故の後遺症だと聞いているし、この怪談とは何の関係もない。
それでも、文字にして目にすると妙な感覚があった。
誰かに会った。誰かと話した。けれど、その相手だけが思い出せない。
そういう内容の投稿が、ひとつやふたつではなく並んでいる。
「確かに、怪談にしては妙かもね」
「でしょ?」
宮本さんが僕の携帯を覗き込んだ。
「あ。これとか結構有名ですよ」
そう言って、一枚の画像を指さす。
宮本さんが指さした画像をタップしてみれば、写っているのは雪の積もった道路と、その脇にある小さな公園だった。
「これのどこがおかしいの?」
「私も最初は分からなかったんですけど……ほら、ここ」
宮本さんが画面を拡大する。
道路から公園へと続く、いくつかの窪み。
「これ、足跡に見えませんか?」
「……言われてみれば?」
「それが、このブランコまで続いてるんです」
指先を追う。
確かに足跡らしい窪みは、公園の奥にあるブランコの前まで続いていた。
そして、そこで途切れている。
「普通に誰かが遊んで帰っただけじゃ――」
言いかけて、気づく。
もう一度写真を見る。
「……あぁ、なるほど。帰った跡がないのか」
「そういうことです」
入ってきた足跡はある。
けれど、出ていった足跡がない。
「しかも、この写真を撮った人も、なんでこの公園にいたのかよく覚えてないらしくて」
「それはまた、随分と出来すぎてるね」
コメント欄を見ると、確かに似たようなことが書かれていた。
とはいえ――
「まぁ、これが本当に足跡なら、だけど」
雪がかなり積もった日の写真だ。
足跡らしきものも輪郭はほとんど崩れていて、そう言われればそう見える、という程度にしか見えない。
噂話だって同じだ。
誰かが面白半分で始めたものへ、みんなが乗っかっているだけかもしれない。
記憶がないなんて発言も、証明のしようがない。
それが許されるなら、僕だって昨日ものすごく可愛い彼女ができて、今日はデートの予定だった。
ただ記憶がないだけで。
「黒上君?」
宮本さんが不思議そうにこちらを見る。
「なんで急にそんな悲しそうな顔してるんですか?」
「……気にしないでください。自分で考えた反論に、自分でダメージを受けてるだけです」
首を傾げ、ポニーテールを揺らす宮本さん。
そんな頭大丈夫かな、みたいな目で見ないでほしい。
勿論、宮本さんがそんなことを考える人じゃないことくらい分かっているので、完全に僕の被害妄想だけれど。
そんな悲しい虚構へ心の中で別れを告げながら、二人揃って校舎を出る。
その瞬間、ふわりと白いものが目の前を横切った。
「……雪」
見上げれば、大粒の雪が夜空からゆっくりと落ちてきていた。
「どうりで寒いわけだ」
マフラーへ顎を埋め、ポケットへ手を突っ込む。
隣では宮本さんも足を止め、降り始めた雪を見上げていた。
「そういえば、さっきの話ですけど」
「雪女?」
「はい」
空から落ちてきた雪を目で追いながら、宮本さんは何でもないことのように続ける。
「もしかしたら、本当にいるかもしれませんね。雪女」
「……宮本さん、意外とそういうの信じるんだ」
「信じるというか……」
少し考えるように視線を上げ、それから宮本さんは小さく笑った。
「私たちが知らないだけとか、見えてないだけとか。そういうものを、ないって決めつけるのも変かなって」
てっきり、
「ロマンですよ」
くらいの答えが返ってくると思っていたので、少し意外だった。
「見えないから、いないとは限らない?」
「そういうことです」
得意げというほどでもなく、けれどどこか満足そうに宮本さんが頷く。
随分とそれらしいことを言うものだから、少しだけ考えてしまう。
「じゃあ、サンタクロースも?」
「え?」
「僕たちが見たことないだけで、本当はいるかもしれない」
「あはは。それはどうでしょう」
さすがにそこまでは保証してくれないらしい。
けれど、宮本さんはもう一度空を見上げると、降り続ける雪を見て嬉しそうに目を細めた。
「でも、今日くらいは信じてもいいんじゃないですか?」
「今日?」
「ほら」
促されるまま空を見上げる。
街灯の明かりを受けながら、白い雪が夜空を埋めていた。
「ホワイトクリスマス、ですから」
そう言って、宮本さんがこちらを振り返る。
「メリークリスマス、黒上君」
柔らかく笑うその顔に、一瞬だけ言葉が詰まった。
……危ない。
今のはちょっと可愛すぎる。
「ありがとう、サンタさん」
「サンタさん? 何か貰ったんですか?」
はい。
それはもう素敵な、思い出の一ページを。
――なんて言ったら変な人だと思われそうなので、そっと胸の内にしまっておく。
そんな他愛もない話をしながら、二人で雪の降る道を歩いていく。
しばらくすると、いつもの分かれ道が見えてきた。ここから先は、僕と宮本さんで帰る方向が違う。
足を止めた宮本さんが、こちらへ向き直る。
「じゃあ、私は習い事があるので」
そう言って、宮本さんは進行方向へ少しだけ身体を向ける。
その仕草につられて、僕も何となく別れの言葉を口にしかけた。
「うん。また明日――じゃないな。次は休み明けか」
「はい。なので、よいお年を」
「うん。よいお年を」
律儀に頭を下げてから、宮本さんは帰路についた。
その背中を少しだけ見送る。
十二月二十五日。
こんな日まで学校なんてどうかしている。ついさっきまではそう思っていたのだけれど、最後の最後で存外悪くない一日になってしまった。
我ながら単純だ。
まぁ、僕も男の子ということだろう。
そんなことを考えながら、僕も宮本さんとは反対の方向へ歩き出す。
降り始めた雪の中、聖夜を祝う歌を小さく口ずさみながら。