魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
耳鳴りがしていた。
自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえる。
手を見る。
赤かった。
擦れば落ちるような気がして、コートへ押しつける。それでも指の間に残った生温い感触までは、どうしても消えてくれなかった。
「……ルシャ」
名前を呼んで、顔を上げる。
祭壇に、彼女がいた。
まだ、そこにいる。
僕は壊れた長椅子へ手を伸ばし、それを支えに身体を引き上げた。
立ち上がった途端、膝が折れかける。
「っ……」
息を止めて、どうにか堪えた。
あと少しだった。
あと少しで、手が届く。
足を引きずりながら、一歩進む。
その時。
背後で、何かが床を擦った。
身体が強張った。
ゆっくりと振り返る。
ヴァルターが、立っていた。
「……嘘だろ」
胸元を片手で押さえている。
指の間から溢れた血が、黒いコートをさらに濃く染めていた。
それでも。
男は、立っていた。
こちらへ向いた仮面を見て、息が詰まる。
もう一度。
戦えるだろうか。
腕を持ち上げようとした。
上がらなかった。
ヴァルターが胸元へ手を伸ばす。
肉の内側から引き抜かれた短刀が、燭台の明かりを拾った。
男の身体が、僅かに揺れる。
けれど、倒れない。
「これは、お前のものだろう」
短刀が投げられた。
僕から少し離れた床へ落ち、乾いた音を立てながら滑ってくる。
拾うこともできず、僕はただ男を見た。
「過信するな」
掠れた声だった。
「お前ごときに、容易く殺される私ではない」
言い終えたところで、仮面から小さな破片が落ちた。
戦いのどこで傷ついたのか。
表面には、一本の亀裂が走っている。
ヴァルターがそこへ指をかけた。
割れた仮面が、その手の中で外れる。
露わになった瞳を見て、息を呑んだ。
銀灰色。
その色を、僕は知っていた。
怒っている時も。
笑っている時も。
呆れたようにこちらを見る時も。
何度も、何度も。
僕を真っ直ぐに見返してきた瞳と、同じ色だった。
「……あなたは」
「黒上シヲリ」
問いかけを遮るように、男が僕の名前を呼ぶ。
「認めよう。儀式は破れた」
その口元から、一筋の血が零れた。
反射的に足が動きかける。
しかし、ヴァルターは片手を上げてそれを制した。
「最後まで、責任を取れるか」
「…………」
何に対する責任なのか。
ルシャをここから連れ出すことなのか。
この人が積み重ねてきたものを壊したことなのか。
それとも。
その両方なのか。
僕には、全部は分からなかった。
ただ。
連れ戻して、それで終わりではない。
そのことだけは、分かっていた。
「……逃げません」
掠れた声で答える。
「連れ帰って、それで終わりにはしません。今度は、ちゃんとあいつと話します」
ヴァルターは、黙って僕を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「そうか」
それ以上は何も言わず、男は踵を返した。
「待ってください」
咄嗟に呼び止める。
「その傷――」
「私へ構っている時間があるのか」
足を止めたまま、ヴァルターが言う。
「流れを止めただけだ。器へ刻まれたものまで、消えたわけではない」
頭が、一瞬で冷えた。
祭壇を見る。
ルシャの輪郭は。
まだ、蒼い光の中で曖昧なままだった。
僕は、この人と戦うために来たんじゃない。
ルシャを助けに来た。
ここで止まっている場合じゃない。
床から短刀を拾い上げる。
血で濡れた柄が滑り、両手で握り直した。
祭壇へ向かう僕の足音と、遠ざかっていくヴァルターの足音が、静かな礼拝堂の中で重なる。
段差へ足をかけたところで、一度だけ振り返った。
ヴァルターの姿は。
もう、どこにもなかった。
◆
「ルシャ」
すぐ近くで呼んでも、返事はなかった。
銀灰色の瞳は開いたまま、何も映していない。
僕は短刀を持ち上げ、彼女の手首を縛るものへ目を凝らした。
金属の鎖へ、細い魔力が幾重にも絡みついている。
その結び目へ刃を当てる。
光が切れた。
張り詰めていた鎖が、力を失ったように緩む。
一つずつ。
片方ずつ。
焦らないように、拘束を外していく。
最後の一つが解けた瞬間。
ルシャの身体が、前へ傾いた。
「――っ」
慌てて抱きとめる。
傷ついた腕に鋭い痛みが走り、危うく取り落としそうになった。それでも離さず、そのまま祭壇の段差へ腰を落とす。
腕の中のルシャは。
冷たかった。
そして、ひどく軽かった。
最初に見つけた夜のことを、嫌でも思い出す。
「……迎えに来たぞ」
銀色の髪を払う。
頬へ触れる。
動かない。
「お前、約束破っただろ」
声が震えた。
「明日、二人で考えるって言ったじゃないか」
返事はなかった。
僕は一度だけ唇を噛む。
怒るのは、あとだ。
文句だって、いくらでも言ってやる。
だから。
まずは、帰ってきてもらわなければならない。
マミさんから教わったことを思い出す。
この短刀は、術式を切るためだけのものではない。
刀身に刻まれた文字。
その内側へ、あらかじめ込められた魔力。
僕にはないものを、マミさんが用意してくれた。
あとは。
僕が、使うだけだ。
ルシャの首元へかかった髪を、そっと避ける。
白い肌へ、短刀の先を触れさせた。
「……少しだけ、我慢してくれ」
刃を引く必要はなかった。
触れた場所から、淡い光が滲み出す。
それはルシャの身体を伝って床へ落ち、僕たちを中心に円を描き始めた。
見覚えがあった。
十一日前。
雪の上で見たものと、同じだった。
幾何的な紋様が、足元いっぱいに広がっていく。
一つ。
また一つ。
淡い文字列が円環を埋め、やがて蒼い光が脈を打った。
僕は、教えられた言葉を口にする。
「――|Ἐγώ εἰμι ἡ μήτηρ σου, ἡ ἄνασσά σου, ἡ δέσποινά σου. Ἡ ζωή σου ἐμή· μηδὲ ὁ θάνατός σου ἄνευ τῆς ἐμῆς βουλῆς.《エゴー・エイミ・ヘー・メーテール・スー、ヘー・アナッサ・スー、ヘー・デスポイナ・スー。 ヘー・ゾーエー・スー・エメー。メーデ・ホ・タナトス・スー・アネウ・テース・エメース・ブーレース》」
瞬間。
蒼が、弾けた。
「っ……」
足元の紋様が一斉に輝き、そこから伸びた細い光が、僕とルシャの身体へ絡みつく。
まるで糸だった。
僕の首元から伸びた光と。
ルシャの首元から伸びた光。
二本は宙で触れ合い、一本へと結ばれる。
――同じだ。
あの日と。
何も知らなかった僕の目の前で、ルシャが起こした光景と。
雪が降っていた。
いつもの帰り道だった。
少し寒くて、早く帰ってコーヒーでも飲もうと思っていた。
その先に、銀色の髪が見えた。
白い雪に広がる赤と、その真ん中で僕を見上げた少女。
『あなた、私を助けたい?』
随分と偉そうな聞き方だった。
助けてほしいなら、素直にそう言えばいい。
今なら、きっと文句の一つくらい言ったと思う。
それでも。
あの時の僕は、答えた。
助けたい、と。
僕は腕の中のルシャを見る。
冷たい手を取り、その指へ自分の指を絡めた。
自分の手が血で汚れていることに、その時になって気づく。
拭ってから触れればよかった。
こんな手で触るなと、怒られるかもしれない。
でも。
怒ってくれれば、それでよかった。
「……なあ、ルシャ」
細い指を、握り直す。
「昨日買った本、まだ読んでないだろ」
返事はない。
「感想、まだ聞いてないんだよ」
光の糸が、淡く脈打った。
「お前の本も、服も、ぬいぐるみも。全部、置いたままだから」
ルシャは答えない。
それでも、話しかける。
「学校もバイトもあるから、毎日は付き合えないぞ。飯だって、たまにはお前が作れよ。フレンチトースト以外も、教えるから」
喉が詰まる。
笑おうとしたのに、息が震えた。
「だから……勝手に終わりにするなよ」
ここまで来て。
ようやく分かった。
僕が欲しかったものは、もっと大層な何かじゃない。
朝、目を覚ましたら、あいつがいる。
何を食べるかで揉めて。
くだらないことで言い合って。
明日はどうしようかと、また話をする。
そんな。
何でもない続きを。
僕は、なくしたくなかった。
あの夜。
僕は何も知らなかった。
契約のことも。
何を差し出すのかも。
目の前にいる少女が、どんな人間なのかさえ。
何一つ知らないまま、ただ助けたいと願った。
でも。
今は知っている。
ルシャのことを。
あの夜より、ずっと。
そのうえで。
今度は、僕が選ぶ。
「――|Τὸ αἷμά σου ἐμόν· ἡ ζωή σου ἐμή. Οὐδὲ ὁ θάνατος δύναταί σε ἀφελέσθαι ἄνευ τῆς ἐμῆς γνώμης. Ὦ κόσμε, τὸν δεσμὸν δεσπότου καὶ δούλου ἐνθάδε χάραξον.《ト・ハイマ・スー・エモン。ヘー・ゾーエー・スー・エメー。ウーデ・ホ・タナトス・デュナタイ・セ・アフェレスタイ・アネウ・テース・エメース・グノーメース。オー・コスメ、トン・デスモン・デスポトゥー・カイ・ドゥールー・エンタデ・カラクソン》」
光が、一際強く輝いた。
足元から立ち上った蒼が、僕とルシャの身体を包み込む。
首筋が、熱を持った。
「っ……!」
焼けるような感覚。
十一日前にも感じた、あの熱だった。
ルシャの白い首元にも、蒼い光が集まっていく。
僕は腕の中へ、彼女を強く抱き寄せた。
「お前に、生きていてほしい」
声にしてしまえば。
もう、止められなかった。
「ルシャのままで。笑って、怒って、好きなことをして」
額を寄せる。
冷たい肌へ、自分の熱が少しでも伝わるように。
「その先も――僕と一緒にいてほしい」
瞬間。
蒼い光が、弾けた。
強烈な光に、思わず目を細める。
足元の幾何模様が砕けるようにほどけ、無数の光となって礼拝堂へ舞い上がっていく。
雪のようだった。
十一日前。
初めて出会った、あの夜みたいだった。
あの時は。
名前すら知らなかった。
今は、知っている。
好きなものも。
笑い方も。
怒るとすぐ顔に出ることも。
泣く時だけ、こっちを見なくなることも。
だから。
今度は。
僕自身の意思で、この手を取った。
「……ルシャ」
握った手へ、力を込める。
その指が。
僅かに、動いた。
「――」
気のせいかと思って、息を止める。
もう一度。
冷たかった指先が、ゆっくりと僕の指へ絡む。
ほんの僅かな力だった。
それでも。
確かに。
ルシャが。
僕の手を、握り返していた。