魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第四章「それでも雪は、白く降る」 十一日目(下)

 

 ◆

 

 耳鳴りがしていた。

 自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえる。

 手を見る。

 赤かった。

 擦れば落ちるような気がして、コートへ押しつける。それでも指の間に残った生温い感触までは、どうしても消えてくれなかった。

 

「……ルシャ」

 

 名前を呼んで、顔を上げる。

 祭壇に、彼女がいた。

 まだ、そこにいる。

 僕は壊れた長椅子へ手を伸ばし、それを支えに身体を引き上げた。

 立ち上がった途端、膝が折れかける。

 

「っ……」

 

 息を止めて、どうにか堪えた。

 あと少しだった。

 あと少しで、手が届く。

 足を引きずりながら、一歩進む。

 その時。

 背後で、何かが床を擦った。

 身体が強張った。

 ゆっくりと振り返る。

 ヴァルターが、立っていた。

 

「……嘘だろ」

 

 胸元を片手で押さえている。

 指の間から溢れた血が、黒いコートをさらに濃く染めていた。

 それでも。

 男は、立っていた。

 こちらへ向いた仮面を見て、息が詰まる。

 もう一度。

 戦えるだろうか。

 腕を持ち上げようとした。

 上がらなかった。

 ヴァルターが胸元へ手を伸ばす。

 肉の内側から引き抜かれた短刀が、燭台の明かりを拾った。

 男の身体が、僅かに揺れる。

 けれど、倒れない。

 

「これは、お前のものだろう」

 

 短刀が投げられた。

 僕から少し離れた床へ落ち、乾いた音を立てながら滑ってくる。

 拾うこともできず、僕はただ男を見た。

 

「過信するな」

 掠れた声だった。

「お前ごときに、容易く殺される私ではない」

 

 言い終えたところで、仮面から小さな破片が落ちた。

 戦いのどこで傷ついたのか。

 表面には、一本の亀裂が走っている。

 ヴァルターがそこへ指をかけた。

 割れた仮面が、その手の中で外れる。

 露わになった瞳を見て、息を呑んだ。

 銀灰色。

 その色を、僕は知っていた。

 怒っている時も。

 笑っている時も。

 呆れたようにこちらを見る時も。

 何度も、何度も。

 僕を真っ直ぐに見返してきた瞳と、同じ色だった。

 

「……あなたは」

「黒上シヲリ」

 問いかけを遮るように、男が僕の名前を呼ぶ。

「認めよう。儀式は破れた」

 

 その口元から、一筋の血が零れた。

 反射的に足が動きかける。

 しかし、ヴァルターは片手を上げてそれを制した。

 

「最後まで、責任を取れるか」

「…………」

 

 何に対する責任なのか。

 ルシャをここから連れ出すことなのか。

 この人が積み重ねてきたものを壊したことなのか。

 それとも。

 その両方なのか。

 僕には、全部は分からなかった。

 ただ。

 連れ戻して、それで終わりではない。

 そのことだけは、分かっていた。

 

「……逃げません」

 掠れた声で答える。

「連れ帰って、それで終わりにはしません。今度は、ちゃんとあいつと話します」

 

 ヴァルターは、黙って僕を見ていた。

 やがて、小さく息を吐く。

 

「そうか」

 

 それ以上は何も言わず、男は踵を返した。

 

「待ってください」

 咄嗟に呼び止める。

「その傷――」

「私へ構っている時間があるのか」

 

 足を止めたまま、ヴァルターが言う。

 

「流れを止めただけだ。器へ刻まれたものまで、消えたわけではない」

 

 頭が、一瞬で冷えた。

 祭壇を見る。

 ルシャの輪郭は。

 まだ、蒼い光の中で曖昧なままだった。

 僕は、この人と戦うために来たんじゃない。

 ルシャを助けに来た。

 ここで止まっている場合じゃない。

 床から短刀を拾い上げる。

 血で濡れた柄が滑り、両手で握り直した。

 祭壇へ向かう僕の足音と、遠ざかっていくヴァルターの足音が、静かな礼拝堂の中で重なる。

 段差へ足をかけたところで、一度だけ振り返った。

 ヴァルターの姿は。

 もう、どこにもなかった。

 

◆

 

「ルシャ」

 

 すぐ近くで呼んでも、返事はなかった。

 銀灰色の瞳は開いたまま、何も映していない。

 僕は短刀を持ち上げ、彼女の手首を縛るものへ目を凝らした。

 金属の鎖へ、細い魔力が幾重にも絡みついている。

 その結び目へ刃を当てる。

 光が切れた。

 張り詰めていた鎖が、力を失ったように緩む。

 一つずつ。

 片方ずつ。

 焦らないように、拘束を外していく。

 最後の一つが解けた瞬間。

 ルシャの身体が、前へ傾いた。

 

「――っ」

 

 慌てて抱きとめる。

 傷ついた腕に鋭い痛みが走り、危うく取り落としそうになった。それでも離さず、そのまま祭壇の段差へ腰を落とす。

 腕の中のルシャは。

 冷たかった。

 そして、ひどく軽かった。

 最初に見つけた夜のことを、嫌でも思い出す。

 

「……迎えに来たぞ」

 

 銀色の髪を払う。

 頬へ触れる。

 動かない。

 

「お前、約束破っただろ」

 

 声が震えた。

 

「明日、二人で考えるって言ったじゃないか」

 

 返事はなかった。

 僕は一度だけ唇を噛む。

 怒るのは、あとだ。

 文句だって、いくらでも言ってやる。

 だから。

 まずは、帰ってきてもらわなければならない。

 マミさんから教わったことを思い出す。

 この短刀は、術式を切るためだけのものではない。

 刀身に刻まれた文字。

 その内側へ、あらかじめ込められた魔力。

 僕にはないものを、マミさんが用意してくれた。

 あとは。

 僕が、使うだけだ。

 ルシャの首元へかかった髪を、そっと避ける。

 白い肌へ、短刀の先を触れさせた。

 

「……少しだけ、我慢してくれ」

 

 刃を引く必要はなかった。

 触れた場所から、淡い光が滲み出す。

 それはルシャの身体を伝って床へ落ち、僕たちを中心に円を描き始めた。

 見覚えがあった。

 十一日前。

 雪の上で見たものと、同じだった。

 幾何的な紋様が、足元いっぱいに広がっていく。

 一つ。

 また一つ。

 淡い文字列が円環を埋め、やがて蒼い光が脈を打った。

 僕は、教えられた言葉を口にする。

 

「――|Ἐγώ εἰμι ἡ μήτηρ σου, ἡ ἄνασσά σου, ἡ δέσποινά σου. Ἡ ζωή σου ἐμή· μηδὲ ὁ θάνατός σου ἄνευ τῆς ἐμῆς βουλῆς.《エゴー・エイミ・ヘー・メーテール・スー、ヘー・アナッサ・スー、ヘー・デスポイナ・スー。 ヘー・ゾーエー・スー・エメー。メーデ・ホ・タナトス・スー・アネウ・テース・エメース・ブーレース》」

 

 瞬間。

 蒼が、弾けた。

 

「っ……」

 

 足元の紋様が一斉に輝き、そこから伸びた細い光が、僕とルシャの身体へ絡みつく。

 まるで糸だった。

 僕の首元から伸びた光と。

 ルシャの首元から伸びた光。

 二本は宙で触れ合い、一本へと結ばれる。

 ――同じだ。

 あの日と。

 何も知らなかった僕の目の前で、ルシャが起こした光景と。

 雪が降っていた。

 いつもの帰り道だった。

 少し寒くて、早く帰ってコーヒーでも飲もうと思っていた。

 その先に、銀色の髪が見えた。

 白い雪に広がる赤と、その真ん中で僕を見上げた少女。

 

『あなた、私を助けたい?』

 

 随分と偉そうな聞き方だった。

 助けてほしいなら、素直にそう言えばいい。

 今なら、きっと文句の一つくらい言ったと思う。

 それでも。

 あの時の僕は、答えた。

 助けたい、と。

 僕は腕の中のルシャを見る。

 冷たい手を取り、その指へ自分の指を絡めた。

 自分の手が血で汚れていることに、その時になって気づく。

 拭ってから触れればよかった。

 こんな手で触るなと、怒られるかもしれない。

 でも。

 怒ってくれれば、それでよかった。

 

「……なあ、ルシャ」

 細い指を、握り直す。

「昨日買った本、まだ読んでないだろ」

 返事はない。

「感想、まだ聞いてないんだよ」

 光の糸が、淡く脈打った。

「お前の本も、服も、ぬいぐるみも。全部、置いたままだから」

 

 ルシャは答えない。

 それでも、話しかける。

 

「学校もバイトもあるから、毎日は付き合えないぞ。飯だって、たまにはお前が作れよ。フレンチトースト以外も、教えるから」

 

 喉が詰まる。

 笑おうとしたのに、息が震えた。

 

「だから……勝手に終わりにするなよ」

 

 ここまで来て。

 ようやく分かった。

 僕が欲しかったものは、もっと大層な何かじゃない。

 朝、目を覚ましたら、あいつがいる。

 何を食べるかで揉めて。

 くだらないことで言い合って。

 明日はどうしようかと、また話をする。

 そんな。

 何でもない続きを。

 僕は、なくしたくなかった。

 あの夜。

 僕は何も知らなかった。

 契約のことも。

 何を差し出すのかも。

 目の前にいる少女が、どんな人間なのかさえ。

 何一つ知らないまま、ただ助けたいと願った。

 でも。

 今は知っている。

 ルシャのことを。

 あの夜より、ずっと。

 そのうえで。

 今度は、僕が選ぶ。

 

「――|Τὸ αἷμά σου ἐμόν· ἡ ζωή σου ἐμή. Οὐδὲ ὁ θάνατος δύναταί σε ἀφελέσθαι ἄνευ τῆς ἐμῆς γνώμης. Ὦ κόσμε, τὸν δεσμὸν δεσπότου καὶ δούλου ἐνθάδε χάραξον.《ト・ハイマ・スー・エモン。ヘー・ゾーエー・スー・エメー。ウーデ・ホ・タナトス・デュナタイ・セ・アフェレスタイ・アネウ・テース・エメース・グノーメース。オー・コスメ、トン・デスモン・デスポトゥー・カイ・ドゥールー・エンタデ・カラクソン》」

 

 光が、一際強く輝いた。

 足元から立ち上った蒼が、僕とルシャの身体を包み込む。

 首筋が、熱を持った。

 

「っ……!」

 

 焼けるような感覚。

 十一日前にも感じた、あの熱だった。

 ルシャの白い首元にも、蒼い光が集まっていく。

 僕は腕の中へ、彼女を強く抱き寄せた。

 

「お前に、生きていてほしい」

 

 声にしてしまえば。

 もう、止められなかった。

 

「ルシャのままで。笑って、怒って、好きなことをして」

 

 額を寄せる。

 冷たい肌へ、自分の熱が少しでも伝わるように。

 

「その先も――僕と一緒にいてほしい」

 

 瞬間。

 蒼い光が、弾けた。

 強烈な光に、思わず目を細める。

 足元の幾何模様が砕けるようにほどけ、無数の光となって礼拝堂へ舞い上がっていく。

 雪のようだった。

 十一日前。

 初めて出会った、あの夜みたいだった。

 あの時は。

 名前すら知らなかった。

 今は、知っている。

 好きなものも。

 笑い方も。

 怒るとすぐ顔に出ることも。

 泣く時だけ、こっちを見なくなることも。

 だから。

 今度は。

 僕自身の意思で、この手を取った。

 

「……ルシャ」

 

 握った手へ、力を込める。

 その指が。

 僅かに、動いた。

 

「――」

 

 気のせいかと思って、息を止める。

 もう一度。

 冷たかった指先が、ゆっくりと僕の指へ絡む。

 ほんの僅かな力だった。

 それでも。

 確かに。

 ルシャが。

 僕の手を、握り返していた。

 

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