魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

21 / 23
第四章 「それでも雪は、白く降る」 十二日目

 

 崩れた天井から、雪が降っていた。

 夜空から落ちてきた雪片は、月明かりの差し込む礼拝堂をゆっくりと舞い、その間を縫うように、淡い蒼色の光が漂っている。昨夜の魔術が残したものなのだろう。風に揺られ、落ちるでもなく昇るでもなく、ひとつ、またひとつと宙を流れていた。

 割れた窓。砕けた長椅子。ひび割れた床には薄く雪が積もり、その白を汚すように、まだ乾ききっていない血が点々と残っている。

 酷い有様だった。

 それなのに、どういうわけか綺麗だった。

 まるで、この場所だけが世界から切り離されてしまったような、そんな現実味のない静けさが教会を満たしている。

 身体中が痛かった。

 息をするだけで脇腹の奥が軋み、少しでも姿勢を変えようとすれば、傷という傷が存在を主張する。頭も重い。気を抜けば、すぐにでも意識を手放してしまいそうだった。

 それでも、腕の中にある温もりだけは離さなかった。

 ルシャ。

 白銀色の髪に月明かりと蒼い光を映しながら、彼女は僕の胸元に身体を預けていた。

 先ほどから、何度も呼吸を確かめている。

 胸が上下している。

 温かい。

 生きている。

 分かっているはずなのに、何度確かめても足りなかった。

 やがて、閉じていた睫毛が僅かに揺れた。

 ゆっくりと瞼が持ち上がり、ぼんやりとした銀灰色の瞳が宙を彷徨う。まだ意識が現実へ追いついていないのか、しばらく何も映していなかったその瞳は、やがて僕の姿を捉えた。

 

「……シヲリ」

「おはよう」

 

 掠れた声でそう返す。

 こんな場所でする挨拶でもない気がしたけれど、他に適当な言葉が思いつかなかった。

 ルシャは何も言わず、じっと僕を見つめていた。僕の顔を見て、血で汚れた服を見て、それから自分を抱いている腕へと視線を落とす。

 何かを確かめているようだった。

 やがて、もう一度僕の顔を見て。

 

「……ばかね」

 消え入りそうな声で、そう言った。

「起きて最初がそれかよ」

「だって……馬鹿なんだもの」

「まあ、それは否定しないけど」

 

 そう返すと、ほんの僅かに彼女の口元が緩んだ。

 けれど、その笑みもすぐに消えた。

 ルシャは僕の腕の中でゆっくりと自分の手を持ち上げる。指を握り、開き、それを何度か繰り返してから、信じられないものでも見るように掌を見つめた。

 

「……私、生きてるのね」

「ああ」

「本当に」

「ああ」

 

 短く答える。

 嬉しそうには見えなかった。

 悲しんでいるようにも見えない。

 ただ、困っていた。

 これから何をすればいいのか分からない子供のように、自分の手を見つめたまま黙り込んでいる。

 その横顔を見ているうちに、胸の奥に鈍い痛みが生まれた。

 

「……悪いな」

 ルシャがこちらを見る。

「全部、壊した」

 

 一瞬だけ、銀灰色の瞳が揺れた。

 彼女が何のために生きて、何のためにここまで来て、最後にどうなるつもりだったのか。

 僕は、それを全部壊した。

 彼女が望んでいたかどうかなんて関係なく。

 ただ僕が嫌だったから。

 ルシャに死んでほしくなかった。

 そんな、あまりにも身勝手な理由で。

 

「……本当よ」

 

 ルシャは静かに答えた。

 怒っているような口調ではなかった。ただ、僕の言葉をそのまま肯定するように、小さく息を吐く。

 

「本当に、全部壊してくれたわね」

「うん」

「否定しないのね」

「できないだろ」

「それもそうね」

 

 それから、少しだけ間が空いた。

 雪が舞い込む。

 蒼い光が、その横を漂っていく。

 

「私ね」

「ん?」

「全部、聞こえてたわ」

 

 何の話か分からず、僅かに眉を寄せる。

 

「全部って?」

「あなたと、あの人が話してたこと」

 

 思わず、口を閉じた。

 ヴァルター。

 昨日、僕の前に立ちはだかった男。

 そして、もしかすると――そこまで考えて、やめる。

 何も確かなことはない。

 

「……意識あったのか?」

「意識があった、とは少し違うわね」

 

 ルシャは言葉を探すように視線を伏せた。

 

「夢を見ている時みたいだったの。身体は動かせないし、目も開けられない。自分がどこにいるのかも、何が起きているのかも、ぼんやりとしか分からなかった」

 それでも。

「声だけは、聞こえてた」

 

 遠くから。

 水の底に沈んだまま、地上の音を聞いているように。

 

「全部を覚えてるわけじゃないけど、あなたが何を言ったのかも、あの人が何を言ったのかも、ちゃんと聞こえてた」

「……そっか」

「ええ」

 

 ルシャの指が、僕の服を僅かに掴んだ。

 

「だから、分かってるの」

 小さな声だった。

「あなたが、どうしてあんなことをしたのかも」

 

 僕は答えない。

 

「私が死ぬのが嫌だったんでしょう?」

「ああ」

「それだけ?」

「それだけ」

 

 少しも迷わず答えると、ルシャは困ったように眉を下げた。

 

「本当に、馬鹿ね」

「またそれか」

「だって、それ以外に何て言えばいいのよ」

 

 呆れたように言う。

 でも、その声はどこか柔らかかった。

 

「私だって、あなたには随分好き勝手したものね」

「自覚あったんだな」

「失礼ね。当然でしょう」

「契約だって嘘だったし」

「それは……」

 

 僅かに言葉が詰まる。

 ルシャは少しだけ目を逸らしてから、小さく呟いた。

 

「……悪かったと思ってるわよ」

「今さらだな」

「うるさいわね」

 

 ほんの少しだけ。

 いつものやり取りだった。

 それが妙に懐かしく感じて、僕は小さく笑う。

 けれど、ルシャの表情はすぐに沈んだ。

 

「だから」

 

 自分の手へ視線を落とす。

「あなたを責めたいわけじゃないの」

 怒っているわけでもない。

 恨んでいるわけでもない。

 ただ。

 

「……困ってるの」

 

 その一言が。

 たぶん、一番正しかった。

 

「これから、どうすればいいのか分からない」

 

 ルシャは静かに続ける。

 

「今までは、考えなくてもよかったのよ。何のために生きるのかも、最後に何をするのかも、最初から全部決まってたから」

「……うん」

「それしか知らなかったから、別に怖くもなかった。自分で何かを決める必要なんて、なかったもの」

 

 だけど。

 もう、それはない。

 

「あなたが、なくしちゃったから」

「ああ」

「明日も、その次の日も」

 

 ルシャは自分で確かめるように口にする。

 

「私、生きるのよね」

「ああ」

「何のために?」

 答えなかった。

「何をして?」

 

 それにも、答えられない。

 ルシャはそんな僕を見つめた。

 

「私には、もう生きる理由がないのよ」

「……知るか、そんなもの」

「……え?」

 

 ルシャの眉が僅かに寄った。

 

「ちょっと」

「知らないものは知らない」

「あなたね……」

 呆れたように息を吐く。

「もう少し、言い方ってものがあるでしょう」

「そう言われてもな」

「私は真面目に話してるのよ」

「僕も真面目だよ」

 

 そう返すと、ルシャは暫く黙って僕を見つめていた。

 

「……あなたに何が分かるのよ」

 

 責めるような声ではなかった。

 少しだけ苛立って。

 それ以上に、困っている。

 

「ずっとそうやって生きてきたの。それが私にとっては普通だった。なのに急に、それはもう終わりです、これからは好きに生きてくださいなんて言われても……」

「分からないよ」

 

 言葉を重ねた。

 ルシャが僅かに目を見開く。

 

「お前がどんな気持ちなのかなんて、僕には分からない」

「だったら――」

「でも」

 

 そこで言葉を切る。

 

「今日までのお前は、僕が殺した」

 ルシャの表情が止まった。

「……なに?」

「死ぬために生きてきたお前は、昨日、僕が殺したんだ」

 

 酷い言い方だと思う。

 彼女の人生を壊しておいて、そのことをまるで当然のように口にしている。

 それでも。

 僕はそう思っていた。

 

「だから、もういない」

 

 死ぬために生きてきたルシャは。

 昨日で終わった。

 

「今日からのお前は、生きていい」

 

 ルシャは何も言わなかった。

 ただ、僕を見ている。

 

「何のために生きるだとか、生きるための目的だとか、そんな大層なものは僕には分からない」

 

 僕だって、自分が何のために生きているのかなんて知らない。

 何かを成し遂げるために毎朝目を覚ましているわけでもなければ、立派な使命があるわけでもない。

 学校へ行って。

 バイトをして。

 本を読んで。

 腹が減れば飯を食べて、眠くなれば眠る。

 そして朝になれば、また起きる。

 今まで、ただそうやって生きてきた。

 

「だから僕は、生きることに理由なんていらないんじゃないかと思う」

「……いらない?」

「ああ」

 

 理由があるから生きる。

 目的があるから生きる。

 そんな風に生きられるほど、人間はきっと強くない。

 

「生きて、歩いて、迷って、間違えて。色んなものを選んで、色んなものを捨てて」

 

 それを繰り返して。

 いつか終わりが来た時。

 

「それでもどうか、自分の人生には意味があってほしいって思うんじゃないか」

 

 振り返った道に。

 何か意味があったのだと。

 そう思いたいから。

 

「最後になって、自分が歩いてきた人生に名前をつけるだけなんだよ。きっと」

 

 あれが自分の生きた理由だった。

 そんな人生だった。

 そうやって。

 終わる時になって初めて、自分の人生を説明するのだと思う。

 

「だから、最初から理由なんてなくてもいいだろ」

 

 これから見つかるかもしれない。

 最後まで見つからないかもしれない。

 それでも。

 生きてはいける。

 ルシャは何も言わず、僕の話を聞いていた。

 銀灰色の瞳が、戸惑うように揺れている。

 

「……そんなの」

「ん?」

「怖いじゃない」

 

 小さな声だった。

 

「何も決まってないなんて。これから先、自分で決めなきゃいけないなんて」

 

 何をするのか。

 どこへ行くのか。

 誰といるのか。

 

「何を選んでもいいなんて……私は、そんな生き方知らないわ」

 

 そこで初めて。

 少しだけ、彼女の気持ちが分かったような気がした。

 自由というものは。

 誰にとっても、最初から希望というわけではない。

 決められた道しか歩いたことのない人間にとって、道のない場所へ放り出されることは、ただ怖いだけなのだ。

 

「私、一人でそんなの……」

 

 最後まで言葉にはならなかった。

 けれど。

 それで十分だった。

 僕は腕の中のルシャを見て、少しだけ笑う。

 

「それなら」

 

 彼女が顔を上げる。

 

「どうしても君が、生きていくことに理由が必要だというなら――」

 

 そこまで言って。

 少しだけ躊躇った。

 これから言おうとしていることは、とても勝手で。

 とても傲慢で。

 もしかすると、彼女がこれまで背負っていたものとは別の、新しい枷になるのかもしれない。

 それでも。

 

「僕のために生きていてくれ」

 

 ルシャの瞳が大きく見開かれた。

 

「……え?」

「僕が、君に生きていてほしい」

 

 それだけだった。

 彼女が生きることで世界が救われるとか。

 誰かの役に立つとか。

 そんな立派な理由なんてない。

 ただ。

 僕がそう願っている。

 

「僕が生きていてほしいから、君は生きるんだ」

 

 我ながら、酷い理屈だった。

 昨日は世界に契約を押しつけて。

 今度は彼女の人生に、自分を勝手に押し込もうとしている。

 契約よりも。

 きっと、ずっと質が悪い。

 

「それじゃ、駄目か?」

 

 ルシャは答えなかった。

 ただ。

 呆けたように僕を見ていた。

 月明かりと、宙を漂う蒼い光が、銀灰色の瞳の中で揺れている。

 やがて。

 その目元から、一筋の涙が零れた。

 

「……ばかね」

 

 最初に目を覚ました時と。

 同じ言葉だった。

 

「そうかもな」

「本当……ばか」

「ああ」

 

 また一筋。

 頬を伝って、涙が落ちる。

 それなのに。

 ルシャは笑っていた。

 泣きながら。

 困ったように。

 それでも。

 今まで見たことがないくらい、柔らかく笑っていた。

 その顔を見て。

 ようやく僕は。

 ほんの少しだけ。

 彼女を救えたのかもしれないと思った。

 

 ◆

 

 思えば。

 僕とルシャの呪いは、きっとこの時から始まったのだろう。

 魔術でもなければ、契約でもない。

 世界に強制されたわけでも、破れば罰を受けるわけでもない。

 もっと単純で。

 もっと身勝手で。

 だからこそ、ずっと厄介なもの。

 ――生きろ。

 僕が彼女にかけた、たったそれだけの呪いだった。

 彼女はその言葉を、あまりにも律儀に抱えて。

 そして僕もまた、その言葉に縛られていくことになる。

 あの日。

 僕は、死ぬために生きてきた彼女を殺した。

 そうして。

 生きるための彼女を、この世界に残した。

 あの時の僕は。

 その言葉がどれほど重いものになるのかなんて、まだ知らなかった。

 それでも。

 もし、すべてを知った上でもう一度あの夜へ戻れたとして。

 きっと僕は。

 同じ言葉を彼女に贈ったのだと思う。

 ただ。

 生きていてほしい。

 そんな、どうしようもなく身勝手な願いを込めて。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。