魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
崩れた天井から、雪が降っていた。
夜空から落ちてきた雪片は、月明かりの差し込む礼拝堂をゆっくりと舞い、その間を縫うように、淡い蒼色の光が漂っている。昨夜の魔術が残したものなのだろう。風に揺られ、落ちるでもなく昇るでもなく、ひとつ、またひとつと宙を流れていた。
割れた窓。砕けた長椅子。ひび割れた床には薄く雪が積もり、その白を汚すように、まだ乾ききっていない血が点々と残っている。
酷い有様だった。
それなのに、どういうわけか綺麗だった。
まるで、この場所だけが世界から切り離されてしまったような、そんな現実味のない静けさが教会を満たしている。
身体中が痛かった。
息をするだけで脇腹の奥が軋み、少しでも姿勢を変えようとすれば、傷という傷が存在を主張する。頭も重い。気を抜けば、すぐにでも意識を手放してしまいそうだった。
それでも、腕の中にある温もりだけは離さなかった。
ルシャ。
白銀色の髪に月明かりと蒼い光を映しながら、彼女は僕の胸元に身体を預けていた。
先ほどから、何度も呼吸を確かめている。
胸が上下している。
温かい。
生きている。
分かっているはずなのに、何度確かめても足りなかった。
やがて、閉じていた睫毛が僅かに揺れた。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、ぼんやりとした銀灰色の瞳が宙を彷徨う。まだ意識が現実へ追いついていないのか、しばらく何も映していなかったその瞳は、やがて僕の姿を捉えた。
「……シヲリ」
「おはよう」
掠れた声でそう返す。
こんな場所でする挨拶でもない気がしたけれど、他に適当な言葉が思いつかなかった。
ルシャは何も言わず、じっと僕を見つめていた。僕の顔を見て、血で汚れた服を見て、それから自分を抱いている腕へと視線を落とす。
何かを確かめているようだった。
やがて、もう一度僕の顔を見て。
「……ばかね」
消え入りそうな声で、そう言った。
「起きて最初がそれかよ」
「だって……馬鹿なんだもの」
「まあ、それは否定しないけど」
そう返すと、ほんの僅かに彼女の口元が緩んだ。
けれど、その笑みもすぐに消えた。
ルシャは僕の腕の中でゆっくりと自分の手を持ち上げる。指を握り、開き、それを何度か繰り返してから、信じられないものでも見るように掌を見つめた。
「……私、生きてるのね」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
短く答える。
嬉しそうには見えなかった。
悲しんでいるようにも見えない。
ただ、困っていた。
これから何をすればいいのか分からない子供のように、自分の手を見つめたまま黙り込んでいる。
その横顔を見ているうちに、胸の奥に鈍い痛みが生まれた。
「……悪いな」
ルシャがこちらを見る。
「全部、壊した」
一瞬だけ、銀灰色の瞳が揺れた。
彼女が何のために生きて、何のためにここまで来て、最後にどうなるつもりだったのか。
僕は、それを全部壊した。
彼女が望んでいたかどうかなんて関係なく。
ただ僕が嫌だったから。
ルシャに死んでほしくなかった。
そんな、あまりにも身勝手な理由で。
「……本当よ」
ルシャは静かに答えた。
怒っているような口調ではなかった。ただ、僕の言葉をそのまま肯定するように、小さく息を吐く。
「本当に、全部壊してくれたわね」
「うん」
「否定しないのね」
「できないだろ」
「それもそうね」
それから、少しだけ間が空いた。
雪が舞い込む。
蒼い光が、その横を漂っていく。
「私ね」
「ん?」
「全部、聞こえてたわ」
何の話か分からず、僅かに眉を寄せる。
「全部って?」
「あなたと、あの人が話してたこと」
思わず、口を閉じた。
ヴァルター。
昨日、僕の前に立ちはだかった男。
そして、もしかすると――そこまで考えて、やめる。
何も確かなことはない。
「……意識あったのか?」
「意識があった、とは少し違うわね」
ルシャは言葉を探すように視線を伏せた。
「夢を見ている時みたいだったの。身体は動かせないし、目も開けられない。自分がどこにいるのかも、何が起きているのかも、ぼんやりとしか分からなかった」
それでも。
「声だけは、聞こえてた」
遠くから。
水の底に沈んだまま、地上の音を聞いているように。
「全部を覚えてるわけじゃないけど、あなたが何を言ったのかも、あの人が何を言ったのかも、ちゃんと聞こえてた」
「……そっか」
「ええ」
ルシャの指が、僕の服を僅かに掴んだ。
「だから、分かってるの」
小さな声だった。
「あなたが、どうしてあんなことをしたのかも」
僕は答えない。
「私が死ぬのが嫌だったんでしょう?」
「ああ」
「それだけ?」
「それだけ」
少しも迷わず答えると、ルシャは困ったように眉を下げた。
「本当に、馬鹿ね」
「またそれか」
「だって、それ以外に何て言えばいいのよ」
呆れたように言う。
でも、その声はどこか柔らかかった。
「私だって、あなたには随分好き勝手したものね」
「自覚あったんだな」
「失礼ね。当然でしょう」
「契約だって嘘だったし」
「それは……」
僅かに言葉が詰まる。
ルシャは少しだけ目を逸らしてから、小さく呟いた。
「……悪かったと思ってるわよ」
「今さらだな」
「うるさいわね」
ほんの少しだけ。
いつものやり取りだった。
それが妙に懐かしく感じて、僕は小さく笑う。
けれど、ルシャの表情はすぐに沈んだ。
「だから」
自分の手へ視線を落とす。
「あなたを責めたいわけじゃないの」
怒っているわけでもない。
恨んでいるわけでもない。
ただ。
「……困ってるの」
その一言が。
たぶん、一番正しかった。
「これから、どうすればいいのか分からない」
ルシャは静かに続ける。
「今までは、考えなくてもよかったのよ。何のために生きるのかも、最後に何をするのかも、最初から全部決まってたから」
「……うん」
「それしか知らなかったから、別に怖くもなかった。自分で何かを決める必要なんて、なかったもの」
だけど。
もう、それはない。
「あなたが、なくしちゃったから」
「ああ」
「明日も、その次の日も」
ルシャは自分で確かめるように口にする。
「私、生きるのよね」
「ああ」
「何のために?」
答えなかった。
「何をして?」
それにも、答えられない。
ルシャはそんな僕を見つめた。
「私には、もう生きる理由がないのよ」
「……知るか、そんなもの」
「……え?」
ルシャの眉が僅かに寄った。
「ちょっと」
「知らないものは知らない」
「あなたね……」
呆れたように息を吐く。
「もう少し、言い方ってものがあるでしょう」
「そう言われてもな」
「私は真面目に話してるのよ」
「僕も真面目だよ」
そう返すと、ルシャは暫く黙って僕を見つめていた。
「……あなたに何が分かるのよ」
責めるような声ではなかった。
少しだけ苛立って。
それ以上に、困っている。
「ずっとそうやって生きてきたの。それが私にとっては普通だった。なのに急に、それはもう終わりです、これからは好きに生きてくださいなんて言われても……」
「分からないよ」
言葉を重ねた。
ルシャが僅かに目を見開く。
「お前がどんな気持ちなのかなんて、僕には分からない」
「だったら――」
「でも」
そこで言葉を切る。
「今日までのお前は、僕が殺した」
ルシャの表情が止まった。
「……なに?」
「死ぬために生きてきたお前は、昨日、僕が殺したんだ」
酷い言い方だと思う。
彼女の人生を壊しておいて、そのことをまるで当然のように口にしている。
それでも。
僕はそう思っていた。
「だから、もういない」
死ぬために生きてきたルシャは。
昨日で終わった。
「今日からのお前は、生きていい」
ルシャは何も言わなかった。
ただ、僕を見ている。
「何のために生きるだとか、生きるための目的だとか、そんな大層なものは僕には分からない」
僕だって、自分が何のために生きているのかなんて知らない。
何かを成し遂げるために毎朝目を覚ましているわけでもなければ、立派な使命があるわけでもない。
学校へ行って。
バイトをして。
本を読んで。
腹が減れば飯を食べて、眠くなれば眠る。
そして朝になれば、また起きる。
今まで、ただそうやって生きてきた。
「だから僕は、生きることに理由なんていらないんじゃないかと思う」
「……いらない?」
「ああ」
理由があるから生きる。
目的があるから生きる。
そんな風に生きられるほど、人間はきっと強くない。
「生きて、歩いて、迷って、間違えて。色んなものを選んで、色んなものを捨てて」
それを繰り返して。
いつか終わりが来た時。
「それでもどうか、自分の人生には意味があってほしいって思うんじゃないか」
振り返った道に。
何か意味があったのだと。
そう思いたいから。
「最後になって、自分が歩いてきた人生に名前をつけるだけなんだよ。きっと」
あれが自分の生きた理由だった。
そんな人生だった。
そうやって。
終わる時になって初めて、自分の人生を説明するのだと思う。
「だから、最初から理由なんてなくてもいいだろ」
これから見つかるかもしれない。
最後まで見つからないかもしれない。
それでも。
生きてはいける。
ルシャは何も言わず、僕の話を聞いていた。
銀灰色の瞳が、戸惑うように揺れている。
「……そんなの」
「ん?」
「怖いじゃない」
小さな声だった。
「何も決まってないなんて。これから先、自分で決めなきゃいけないなんて」
何をするのか。
どこへ行くのか。
誰といるのか。
「何を選んでもいいなんて……私は、そんな生き方知らないわ」
そこで初めて。
少しだけ、彼女の気持ちが分かったような気がした。
自由というものは。
誰にとっても、最初から希望というわけではない。
決められた道しか歩いたことのない人間にとって、道のない場所へ放り出されることは、ただ怖いだけなのだ。
「私、一人でそんなの……」
最後まで言葉にはならなかった。
けれど。
それで十分だった。
僕は腕の中のルシャを見て、少しだけ笑う。
「それなら」
彼女が顔を上げる。
「どうしても君が、生きていくことに理由が必要だというなら――」
そこまで言って。
少しだけ躊躇った。
これから言おうとしていることは、とても勝手で。
とても傲慢で。
もしかすると、彼女がこれまで背負っていたものとは別の、新しい枷になるのかもしれない。
それでも。
「僕のために生きていてくれ」
ルシャの瞳が大きく見開かれた。
「……え?」
「僕が、君に生きていてほしい」
それだけだった。
彼女が生きることで世界が救われるとか。
誰かの役に立つとか。
そんな立派な理由なんてない。
ただ。
僕がそう願っている。
「僕が生きていてほしいから、君は生きるんだ」
我ながら、酷い理屈だった。
昨日は世界に契約を押しつけて。
今度は彼女の人生に、自分を勝手に押し込もうとしている。
契約よりも。
きっと、ずっと質が悪い。
「それじゃ、駄目か?」
ルシャは答えなかった。
ただ。
呆けたように僕を見ていた。
月明かりと、宙を漂う蒼い光が、銀灰色の瞳の中で揺れている。
やがて。
その目元から、一筋の涙が零れた。
「……ばかね」
最初に目を覚ました時と。
同じ言葉だった。
「そうかもな」
「本当……ばか」
「ああ」
また一筋。
頬を伝って、涙が落ちる。
それなのに。
ルシャは笑っていた。
泣きながら。
困ったように。
それでも。
今まで見たことがないくらい、柔らかく笑っていた。
その顔を見て。
ようやく僕は。
ほんの少しだけ。
彼女を救えたのかもしれないと思った。
◆
思えば。
僕とルシャの呪いは、きっとこの時から始まったのだろう。
魔術でもなければ、契約でもない。
世界に強制されたわけでも、破れば罰を受けるわけでもない。
もっと単純で。
もっと身勝手で。
だからこそ、ずっと厄介なもの。
――生きろ。
僕が彼女にかけた、たったそれだけの呪いだった。
彼女はその言葉を、あまりにも律儀に抱えて。
そして僕もまた、その言葉に縛られていくことになる。
あの日。
僕は、死ぬために生きてきた彼女を殺した。
そうして。
生きるための彼女を、この世界に残した。
あの時の僕は。
その言葉がどれほど重いものになるのかなんて、まだ知らなかった。
それでも。
もし、すべてを知った上でもう一度あの夜へ戻れたとして。
きっと僕は。
同じ言葉を彼女に贈ったのだと思う。
ただ。
生きていてほしい。
そんな、どうしようもなく身勝手な願いを込めて。