魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
地下へ続く階段は、こんなにも長かっただろうか。
壁へ手をつき、一段ずつ足を下ろしていく。靴底が石へ触れるたび、胸の奥に残った痛みが鈍く全身へ広がった。
傷は塞がらない。
止血も、肉体の補修も試みた。けれど、切断された刻印へ魔力を通すたびに流れは途中で途切れ、行き場を失った魔力が虚しく散っていく。
あの刃が断ったのは、儀式だけではなかったらしい。
「……厄介なものを、持たせたものだ」
声にすると、喉の奥へ血の味が上がってきた。
口元を拭う。
指先についた赤を見ても、もう何も思わなかった。
階段を下りきった先に、一枚の扉がある。
コートの内側から鍵を取り出し、錠へ差し込む。一度では上手く合わず、金属の擦れる音が狭い通路へ響いた。
指に、力が入らない。
それでも二度目には鍵が回った。
重い扉を押し開ける。
白百合の香りがした。
窓のない、小さな墓室だった。
壁際に置かれた灯りに照らされ、白い花が静かに咲いている。その中央に据えられた墓石だけは、初めてここへ置いた日から、何一つ変わっていなかった。
エレナ=ルシアーデ。
刻まれた名へ目を向ける。
あと数歩。
それだけの距離を進むのに、随分と時間がかかった。
「……遅くなったな」
墓石へ手をつき、ゆっくりと身体を下ろす。
背を預けると、石の冷たさがコート越しに伝わってきた。
「すまない、エレナ」
返事はない。
当然だった。
その声を聞けなくなってから、もう長い年月が過ぎている。
それでも、ここへ来るたびに何かを言わずにはいられなかった。
今日こそは、報告することがあるはずだった。
長く続けてきた研究が、ようやく終わる。
我々は、人の身で世界の理へ手を届かせる。
そのために、お前も。
あの娘も――。
「……いや」
最後まで口にする前に、息が漏れた。
終わったことだ。
今さら、叶うはずだった未来を並べたところで何の意味もない。
瞼を閉じかけて、足音に気づいた。
階段を下りてくる者がいる。
ゆっくりとした、迷いのない足取りだった。
顔を上げる。
この場所を知る者は限られている。儀式に関わる者たちにさえ、ここまで立ち入ることは許していなかった。
警戒しようとして。
思わず笑いが零れた。
今の身体で、一体何ができるというのか。
せめて、この場所だけは荒らされたくなかったが――。
「……それも、今さらか」
扉が開いた。
入ってきた人影を見て、私は僅かに目を細める。
肩口で揃えられた、赤みを帯びた黒髪。
こちらを見つけた赤い瞳が、一度だけ私の傷へ落ちる。
女は扉を閉じ、それから静かに頭を下げた。
「お久しぶりです。先生」
その呼び方を聞くのも、随分と久しぶりだった。
「……九条か」
九条マミは顔を上げた。
羽織ったコートの裾には雪が残り、片方の袖口が僅かに焦げている。
外に置いていた者たちとも、一悶着あったのだろう。
それでも、その程度で済ませたか。
「手紙は、読んでいたのだな」
「ええ。返事を差し上げず、申し訳ありません」
「構わん。来たのなら、それでよい」
九条は墓石へ目を向けた。
刻まれた名を確かめるように、しばらく黙っている。
その視線を見てから、私は口を開いた。
「見てのとおりだ。世界律をお前に渡すことは、叶わなくなった」
「……そのようですね」
「私の研究を邪魔するために来たわけではあるまい」
「最初から、そのつもりだったわけではありませんよ」
九条がこちらへ歩いてくる。
昔から、そういう女だった。
目的は持っている。
けれど、その途中で別のものを見つければ、何の躊躇もなくそちらへ手を伸ばす。
教えた道を素直に歩くより、自分で横道を見つけることを好んだ。
「思わぬ拾い物をしたもので」
「あの男か」
「ええ」
黒上シヲリ。
魔力を持たず、それでいて魔力の流れを見る男。
傷つきながら、それでも前へ出てきた姿を思い出す。
技術は拙かった。
魔術への理解も浅い。武器の扱いさえ、まともに身についてはいなかった。
それなのに、時折、奇妙な動きをした。
こちらが術を組み上げる、その一瞬前へ踏み込んでくる。
自分が何をしているのか、本人さえ理解していないような顔で。
「……お前の好みそうな相手だ」
「否定はしません」
「あの刃も、お前が?」
九条は頷いた。
隠そうともしないところは、昔から変わらない。
私は胸元を見下ろす。
コートに染みた血は、既に黒くなり始めていた。
「よく作ってある」
「お褒めに預かり、光栄です」
「褒めてはいるが、感謝はしておらんぞ」
「それは分かっています」
九条は私の前へ膝をついた。
傷へ手を伸ばしかけて。
途中で止める。
「……治しましょうか」
その顔を見る。
冗談ではないらしい。
今からでも、この女なら幾らかは延ばせるのだろう。
切れたものを繋ぎ。
壊れたものを、別の何かで補って。
そうして、また息をさせる。
「要らん」
首を振る。
九条は伸ばしかけた手を、そのまま下ろした。
「そうですか」
「思いのほか、あっさり引くのだな」
「先生は、一度決めたら聞きませんから」
少しだけ笑った。
言い返す気力は、もう残っていない。
墓石へ背を預け直す。
「この私に、生きる理由は残されていない」
九条は何も言わなかった。
白百合へ一度目を向け、それから、もう一度こちらを見る。
「それなら、一つだけ」
「何だ」
「どうして、彼女を逃がしたのですか」
私は黙って、その顔を見た。
「先生ほどの人が、彼女が外へ出る可能性を考えていなかったとは思えません。あのまま閉じ込めておけば、彼に出会うこともなかった」
声は静かだった。
責めているわけでも、答えを迫っているわけでもない。
ただ、自分が疑問に思ったことを口にしている。
それが、昔からこの女の厄介なところだった。
「……止めてほしかったのではありませんか」
思わず笑った。
胸へ痛みが走り、途中で咳に変わる。
口元へ滲んだ血を拭ってから、九条を見る。
「随分と、都合のいい物語を考えるようになったな」
「違いますか」
「違う」
答えに迷いはなかった。
「私が何を捨ててきたか、お前も多少は知っているだろう」
九条は黙っている。
私は背後の墓石へ、僅かに肩を寄せた。
「この女を失った。娘を依り代にした。そのうえで、なお研究を続けた」
指先が、冷たい石へ触れる。
「今さら誰かに止めてほしいなどと願うくらいなら、もっと早く膝を折っている」
九条は私から目を逸らさない。
その眼差しに、少しだけ苛立つ。
私よりも私を理解したような顔をするな。
そう言いかけて。
やめた。
「私は、儀式を成し遂げるつもりだった」
ただ、それだけを告げる。
「最後までな」
「……ええ」
「あの娘が外へ出たことも、取り返せる範囲の逸脱だと判断した。それが誤りだった」
自力で戻ってきた時点で、もう問題はないと思っていた。
残された時間は僅か。
世界との結びつきも薄れ、外へ留まり続けるだけの力も残ってはいない。
何より。
あの娘自身が、自分の役目を知っていた。
だから私は、それを疑わなかった。
「見誤ったのは、あの男だ」
九条の口元が、僅かに動いた。
「普通に生きたいと言っていた男が、その普通を自分から壊しに来るとはな」
「本人も、驚いていると思いますよ」
「そうだろうな」
最後に見た顔を思い出す。
刃を握る手は震えていた。
怖いと、はっきり口にしていた。
それでも、止まらなかった。
正しいことをしに来たわけではないと言いながら、こちらのすべてを否定した。
あの娘に、生きていてほしい。
ただ、それだけの望みで。
「……だから、この結末は受け入れることにした」
私は墓石の傍らへ手を伸ばした。
置かれていた一冊の本を引き寄せ、九条へ差し出す。
持ち上げた腕は、途中までしか上がらなかった。
九条が、その下へ手を添える。
「これは」
「お前なら、読めるだろう」
受け取った本の表紙へ、赤い瞳が落ちる。
何かを言おうとしたのが分かった。
私は先に口を開いた。
「もう、私には不要なものだ」
「……いいのですか」
「構わん。好きに使え」
指を離す。
本の重みがなくなっただけで、腕がひどく軽く感じられた。
「用が済んだなら、行け」
九条は、しばらく動かなかった。
やがて本を閉じ、静かに立ち上がる。
「分かりました」
それ以上、問いかけてはこなかった。
何もかも分かったような顔もしなかった。
そのことには、少しだけ感謝した。
扉へ向かう背中を眺めながら、昔のことを思い出す。
理解だけは、異様に早い生徒だった。
そのくせ、教えたとおりにはやらない。完成した術式へ勝手に手を加え、危険だから触れるなと言ったものほど、嬉々として調べ始める。
問題を起こすたびに呼び出した。
そのたび、もっともらしい理屈を並べてはこちらを困らせた。
今も、何一つ変わっていない。
「九条」
呼ぶと、女が振り返った。
「何ですか、先生」
後を頼む。
そんな言葉が、一度だけ頭を過った。
口にはしなかった。
研究も。
世界律も。
あの娘も。
もう、私が行き先を決めるものではない。
「……達者でな」
代わりに出たのは、ありふれた言葉だった。
九条の目が、ほんの少しだけ開く。
それから、いつもの掴みどころのない笑みが浮かんだ。
「先生も」
「皮肉か」
「いいえ」
九条は首を横に振り、本を抱え直した。
「――さようなら、先生」
「ああ」
扉が閉まった。
階段を上る足音が遠ざかり。
やがて、聞こえなくなった。
墓室には、白百合の香りだけが残った。
◆
随分と、喋った。
息を吸っても、胸の奥まで空気が届かない。
指先の感覚はもうほとんどなく、膝へ置いた手が、自分のものではないように見えた。
死ぬのだろう。
その事実に、ようやく身体の方が追いついてきた。
「……エレナ」
墓石へ手を伸ばす。
刻まれた名を、指先でなぞった。
何度も触れた名前だった。
年月が過ぎても、ここだけは変わらない。
私が老い。
研究が進み。
あの娘が成長しても。
この名の持ち主だけが、ずっと同じ場所に留まっていた。
「結局、何一つ思いどおりにはならなかったな」
掠れた笑いが漏れる。
お前を失った。
娘を器として育てた。
世界の理へ手を伸ばし、そのために積み重ねてきたものは、最後には一人の少年に壊された。
何も手に入らなかった。
そう言ってしまえば、随分と滑稽な人生だった。
けれど。
失敗したからといって、歩いてきた道まで間違いだったことにはならない。
私は、知りたかった。
人の手が届かないとされるものへ、手を届かせたかった。
目の前に可能性があって。
そこへ至る道が見えた。
だから、進んだ。
代償を知らなかったわけではない。
知らなかったのなら、どれほど楽だっただろう。
「……すまないな」
謝罪は、静かな墓室へ落ちた。
許してほしいのかと問われれば、違う。
悔いているのかと問われても、きっと違う。
失ったものを惜しく思わないわけではない。
あの日へ戻れるのなら、と考えたことがないわけでもない。
けれど。
もし本当に戻れたとして。
私は別の道を選ぶだろうか。
お前の手を取って。
研究を捨て。
娘を抱いて。
何でもない暮らしを始めるだろうか。
考えるまでもなかった。
私は、きっとまた同じものへ手を伸ばす。
お前を失うと知っていても。
その先で、この結末が待っていると知っていても。
そういう人間だった。
「私は、最後まで変われなかった」
墓石へ触れていた手が、ゆっくりと滑り落ちる。
拾い上げる力は、もう残っていなかった。
そのまま目を閉じかけて。
ふと、銀灰色の瞳を思い出す。
娘のものではない。
仮面の取れた私を見た、あの男の顔だった。
何かに気づいたように、言葉を失っていた。
逃げない、と言った。
今度は、ちゃんと話すのだと。
「……できるものなら、やってみせろ」
声になったかどうかは、分からなかった。
祝福ではない。
託したつもりもない。
ただ。
私の手から奪ったのなら、その先を生きてみせればいいと思った。
私が選ばなかったものを。
私には、最後まで選べなかったものを。
白百合が、薄暗い視界の中で揺れていた。
その向こうに。
ふと、お前の顔が浮かぶ。
若い頃の顔だった。
私の話に呆れながら、それでも最後まで聞いていた。
難しいことは分からないと言いながら、こちらが黙れば続きを促してきた。
声を思い出そうとする。
もう、はっきりとは聞こえなかった。
けれど。
笑った顔だけは分かった。
「……悪くない人生だったよ」
息を吐く。
もう一度吸おうとして。
胸は、動かなかった。
それを確かめる間もなく。
白い花が、見えなくなった。
◆
閉ざされた墓室で、灯りが静かに揺れていた。
ヴァルター=クロイツは、エレナ=ルシアーデの墓石へ背を預けたまま、もう動かなかった。
膝へ落ちた手も。
僅かに傾いた頭も。
そのままだった。
口元には、笑みともつかないものが僅かに残っている。
白百合の香りに包まれて。
彼は最後まで、自分の選んだ道を否定しなかった。