魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
四月九日。
大学の入学式を終えた僕は、その足でマミさんの屋敷へ向かった。
まだ着慣れないスーツは肩の辺りが妙に窮屈で、どうにも落ち着かない。駅を出たところでネクタイを少し緩めると、ようやくまともに息ができたような気がした。
あの冬から、一年と三か月。
高校を卒業して、今日から僕も大学生になった。
そう言ってしまえば随分と大きな変化に聞こえるけれど、少なくとも今日の予定に限れば、以前とそれほど変わらない。
『昼過ぎに来るように』
昨夜届いた、たったそれだけの連絡に従って、僕はすっかり見慣れた門をくぐった。
「……また開いてるし」
玄関の鍵の話だ。
この家の主人には、未だに施錠という習慣が根付いていない。本人に言わせれば、わざわざ鍵を掛ける必要などないらしいが、それならそれで、せめて一般人にも理解できるような防犯設備を用意してほしい。
少なくとも、僕の心の平穏のために。
「お邪魔します。マミさーん?」
靴を脱ぎながら、少し大きめの声で呼びかける。
返事はなかった。
まあ、予想はしていた。
わざわざ時間を指定して人を呼び出したのだから、きちんと起きて待っているはずだ――そんな常識は、この家へ通い始めて一か月もしないうちに捨てている。
二階へ上がり、廊下の奥にある扉を叩く。
「マミさん。来ましたよ」
返事はない。
「起きてます?」
やっぱり、ない。
五秒ほど待ち、念のためもう一度だけ扉を叩いた。
「起きてる人は返事してください。……はーい」
自分で答えた。
虚しかった。
「入りますからね」
一応そう断ってから、ドアノブを回す。
扉の向こうに広がった光景を目にして、僕はしばらくその場から動けなくなった。
本に、紙に、用途の分からない器具。中身を確かめる気にもならない瓶まで、足の踏み場もないほど床へ散乱している。
その奥。
椅子の上には、白い毛布の塊が一つ載っていた。
「……三日前、片づけましたよね」
誰に聞いたわけでもない。
ただ、自分の記憶に間違いがないことを確かめたかっただけだ。
足元の書類を踏まないよう慎重に避けながら奥へ進み、毛布越しに肩らしき場所へ手を置く。
「マミさん。起きてください」
「……ん」
「もう昼ですよ」
「……そうかい」
僕の言葉を理解したのかしていないのか、毛布がもぞりと動き、今度は頭まですっぽりと覆われた。
「寝直さないでください」
「私は、ついさっき寝たばかりなんだが」
「今日、この時間に来いって言ったのは誰ですか」
「……誰だろうね」
携帯を取り出し、昨夜届いたメッセージを画面いっぱいに表示して突きつける。
毛布の隙間から赤い片目だけが覗き込み、その短い文章を確認すると、ようやく観念したらしい。小さなため息とともに、細い腕がこちらへ伸びてきた。
起こせ、ということなのだろう。
「はいはい」
その手を掴んで引っ張ると、毛布の中からずるずるとマミさんが姿を現した。
赤みを帯びた黒髪はあちらこちらへ跳ね、白いシャツの襟も片方だけ折れている。どうやら昨夜も服を着たまま、ここで寝落ちしたらしい。
「おはよう、シヲリ君」
「おはようございます。昼ですけど」
「随分と手荒い目覚ましだ」
「玄関から数えれば、結構呼びましたよ」
まだ眠いのか、大きな欠伸を噛み殺しながら背筋を伸ばしたマミさんは、そこでようやく僕の格好へ気づいたらしい。
赤い瞳が、頭から足元までゆっくりと動く。
「おや。似合うじゃないか」
「どうも」
「七五三みたいで」
「帰りますね」
「冗談だよ」
喉の奥で楽しそうに笑いながら立ち上がり、椅子へ引っかけていた毛布を当たり前のようにこちらへ渡してくる。
何故、僕が受け取っているのだろう。
「顔を洗ってくる。居間で待っていてくれ」
「この部屋は?」
改めて、惨状としか呼びようのない室内を見回す。
「そのうち頼むよ」
「やっぱり僕が片づけるんじゃないか」
返事の代わりに、廊下へ出ていく背中からひらひらと手だけが振られた。
九条マミ。
僕が魔術というものを知るきっかけになった人であり、あの冬以降も何だかんだと僕の面倒を見続けてくれている人。
もっとも、最近ではどちらがどちらの面倒を見ているのか、時々分からなくなる。
それが、僕のちょっとした悩みだった。
◆
居間へ下り、二人分のコーヒーを淹れる。
挽いた豆の上へゆっくりと湯を注げば、ぷくりと表面が膨らみ、香ばしい匂いが立ち上る。その香りを胸いっぱいに吸い込んで、ようやく身体から力が抜けた。
どうやら、自分で思っていた以上に入学式では緊張していたらしい。
知らない人間ばかりの中で、知らない教授の話を聞いて。
これから始まる生活を想像しようとしても、まだいまいち実感は湧かない。
それでも、少しだけ楽しみだと思えた。
そんなことを考えられるくらいには、僕も無事に暮らしている。
あの事件のあと、僕はマミさんの仕事を手伝うようになった。
とはいっても、魔術士になったわけではない。
相変わらず僕自身には魔力なんて一滴もないし、正規の教育を受けたわけでもない。術式だって多少読めるようになった程度で、この世界について知らないことの方が圧倒的に多かった。
普段やっているのは、書類の整理や調べもの。それから、この屋敷の片づけ。
時折、僕の眼が必要だと言われて仕事へ連れ出されることもある。
何事もなく終わる日もあれば、どうしてこんなことになったのかと帰り道で頭を抱える日もあった。
後者の割合については、あまり深く考えないようにしている。
それでも高校は卒業できた。
喫茶店のバイトも続けている。
今朝、義母さんには入学式へ向かう前に写真を送った。式が始まるより先に返ってきた長いメッセージを読んで、嬉しいような照れくさいような、何ともいえない気持ちになった。
望んでいた生活から、何もかもが遠ざかってしまったわけではない。
ただ。
何も知らなかった頃と、同じではいられなかった。
淹れたばかりのコーヒーを一口飲む。
傷は、もうとっくに塞がっていた。
けれど時々、掌に残ったあの感触を思い出す。
刃を通して伝わった、生きた人間の身体へ沈んでいく感触。
指の間を濡らした、温かな血。
今でも忘れてはいないし、忘れようとも思っていなかった。
あれは、僕がしたことだ。
それをなかったことにしてしまう方が、きっと間違っている。
カップを置き、窓の外へ目を向ける。
庭に植えられた木々の枝には、若い緑が芽吹いていた。
ルシャがこの街を離れたのは、あの事件の後始末が一段落してからだった。
契約は、成立した。
彼女は世界律でも、その器でもなく、ルシャ=ルシアーデとして今も生きている。
けれど、長い年月をかけて身体へ組み込まれた術式まで、一晩ですべて消えてなくなったわけではない。
残った影響を調べなければならない。
新しく結んだ契約が、本当に安定しているのかも確認する必要がある。
クロイツの一件に関する後始末も残っていた。
マミさんの伝手を頼って、しばらくこの街を離れる。
そう決まった。
今度は、ルシャ自身が僕に話してくれた。
だから僕も、ちゃんと話を聞いた。
言いたかったことを全部言えたかと聞かれれば怪しい。怒っていたはずがいつの間にか言い返されて、最後にはどちらが悪いのか分からなくなるような言い合いにもなった。
それでも。
あの時とは違った。
僕の知らないところで、一人でいなくなるのではなかった。
行ってくる、と言ったルシャを僕はちゃんと、見送ることができた。
最初のうちは、マミさんを通して近況を聞いていた。
甘いものばかり食べて怒られたとか。
相変わらず言うことを聞かないとか。
料理を覚えようとして、台所をひどいことにしたとか。
聞かされるのは、どれも実にルシャらしい話ばかりだった。
生きている。
僕の知らない場所でも、あいつらしく生きている。
そう分かるたびに安心して。
その度に、少しだけ寂しくなった。
けれど、ここ数か月。
マミさんは、ルシャのことをほとんど話さなくなった。
『あとは本人に任せるよ』
尋ねるたび、決まってそう答える。
あいつが今、何をしているのか。
何を考えているのか。
知りたくないわけがなかった。
それでも、無事でいることだけは分かっている。
なら、僕の方から急かすようなことではないのだろう。
そう、自分に言い聞かせていた。
「や、お待たせ」
聞き慣れた声に顔を上げる。
いつの間にか戻ってきたマミさんが、僕の向かいへ腰を下ろした。
寝癖はすっかり直り、赤みを帯びた黒髪もいつもの形へ戻っている。白いシャツにジーンズ姿で、眠そうな目だけが先ほどとあまり変わっていなかった。
「コーヒー、そこです」
「ありがとう」
カップを手に取ったマミさんは、一口飲むと満足そうに息を吐いた。
「……うん。やっぱり君に任せるのが一番だ」
「それはどうも。それで、今日は何ですか?」
「ん?」
「わざわざ入学式の日に呼び出したんですから、何かあるんでしょう」
僕がそう言えば、マミさんはカップ越しに口元を緩める。
嫌な予感がした。
「少し、頼みたいことがあってね」
「嫌です」
「まだ内容も言っていないだろう」
「その切り出し方をした時に、ろくな目に遭った覚えがないので」
以前、探しものを頼まれて山の中を半日歩かされた。
届けものを頼まれた時など、届け先へ着くより先に、その荷物から襲われた。
以来。
この人の口から出る『少し』と『簡単』という言葉を、僕は信用しないことにしている。
「今回は本当に簡単だよ」
「前回も聞きました」
「人を一人、迎えに行ってほしいだけさ」
マミさんが、机の上へ一枚の紙を滑らせる。
白杜市の地図だった。
見覚えのある河川敷の一角に、小さな丸がつけられている。
「ここへ行って、待っている人を迎えてきてくれ」
「ここに連れてくればいいんですか?」
「ああ。もっとも、先方に別の希望があるなら、そちらでも構わないよ」
「……名前は?」
「行けば分かる」
「見た目は?」
「それも行けば分かる」
「僕は何を目印に探せばいいんですか」
「大丈夫。見れば分かるさ」
即答だった。
地図から顔を上げる。
マミさんは、相変わらず楽しそうにコーヒーを飲んでいた。
何か隠している。
それだけは間違いない。
もう一度、地図へ目を落とす。
そこに付けられた印を見ているうちに、胸の奥が僅かに騒いだ。
河川敷。
それも、あの場所からそう遠くない。
頭の中に、一瞬だけ銀色が過る。
けれど。
期待して違った時が怖くて、それ以上考えるのを止めた。
「……分かりました。行ってきます」
「ああ」
地図を折って鞄へ入れ、椅子から立ち上がる。
居間を出ようとしたところで、不意に背中へ声がかかった。
「シヲリ君」
「何です?」
振り返る。
マミさんは、こちらを見ていた。
普段の人を食ったような笑みではなく、ほんの少しだけ目元を柔らかくして。
「入学、おめでとう」
予想していなかった言葉に、すぐには返事ができなかった。
「……ありがとうございます」
「ああ」
それ以上は何も言わず、マミさんはまたコーヒーを口へ運ぶ。
「行っておいで」
その言葉に背中を押されるように。
僕は屋敷を出た。
◆
春だった。
そんな当たり前のことを、歩くたびに思った。
冬には頬を切るように冷たかった風も、今日は触れたところで少しも痛くない。家々の庭先には色とりどりの花が咲き、いつまでも雪が残っていた道端にも、もう白いものはどこにも見当たらなかった。
代わりに。
薄桃色の花びらが、歩道の上を転がっている。
靴の先へ一枚が張りつき、それも数歩歩けば春風にさらわれていった。
あの冬から、街を歩くことが増えた。
もともと散歩は嫌いではなかったけれど、以前よりも少しだけ、寄り道をすることが多くなった。
知らない店を見つければ、たまには入ってみる。
食べたことのないものがあれば、気が向いた時には買ってみる。
ゲームセンターの前を通ると、クレーンゲームの中身を何となく確認してしまうこともあった。
あの変な鳥は、今も僕の部屋に置いてある。
別に捨てる理由もないから置いているだけだ。
誰に聞かれたわけでもないのに、時々そんな言い訳を考えている自分がいる。
「…………」
手にしていた地図を折り畳み、鞄へ仕舞う。
もう、道は分かっていた。
河川敷へ続く坂を上る。
風が吹き抜け、緩めたネクタイが僅かに浮いた。
川沿いに並ぶ桜は、今がちょうど満開だった。
雪に覆われていた土手には青々とした草が生え、並木道には春休みを終えたばかりらしい学生たちの姿も多い。
真新しい鞄を肩へ掛けた男。
まだ少し着慣れていない様子のスーツ姿。
数人で集まり、これからどこへ行こうかと楽しそうに話している大学生たち。
僕も今日から、あちら側なのだと思うと、何とも妙な気分だった。
あの日とは、まるで違う景色だ。
それなのに。
僕は覚えている。
あの日、自分がどこで足を止めたのか。
白い雪の中に残っていた、血の赤。
その真ん中に広がっていた、銀色の髪。
僕を見上げた、名前も知らなかった少女の瞳。
あの場所へ向かい、一歩踏み出した。
その時。
強い春風が、桜並木を駆け抜けた。
枝から離れた無数の花びらが舞い上がり、視界いっぱいを薄桃色に染める。
その向こうに。
一人の少女が立っていた。
「――――」
足が止まった。
銀色の髪が、春風に揺れている。
けれど。
一瞬だけ、それが誰なのか分からなかった。
短い。
あの頃、腰まで届いていた銀色の髪が、今は肩口で綺麗に揃えられている。風に揺られるたび、雪色の毛先が頬の横で軽く跳ねた。
着ている服も、あの冬とは違う。
淡い色合いの上着に、柔らかな布地のスカート。
髪も。
服も。
僕が知らないものになっていた。
ただ、その姿は、良くも悪くも周囲へ溶け込むようなものではなかった。
ちょうど近くを歩いていた大学生の集団が、彼女の横を通り過ぎたところで急に声を落とす。
「え、すご……」
「髪、あれ地毛かな」
「外国人?」
聞こえてくる小声。
少し離れたところを歩く男子学生たちも、会話を続けながら何度も振り返っている。そのうちの一人は連れに何かを囃し立てられ、行けよ、とでも言われたのか肩を押されていた。
無理もない。
春の日差しを浴びた銀色の髪は、桜の中にあってなお目立つ。
それに。
僕が言うのも何だけれど。
ルシャは、元々人目を引く容姿をしていた。
けれど本人は、そんな視線に気づいていないのか。
それとも、気づいたところで興味がないのか。
誰の方を見ることもなく。
ただ、こちらを見ていた。
銀灰色の瞳が、真っ直ぐ僕を映す。
その目が、少しだけ大きくなった。
「あら」
そして。
ゆっくりと、その口元へ笑みが浮かぶ。
得意げで。
少し意地悪そうで。
一年と三か月が経った今でも、少しも忘れることのできなかった笑い方。
周囲では、まだ大学生たちの賑やかな声が聞こえている。
けれど。
ルシャは、その誰でもなく。
僕だけを見ていた。
「驚いた。貴方、私の事が見えてるのね」
一瞬。
雪が降ったような気がした。
桜も。
春の風も。
道行く人たちの話し声も。
何もかもが遠ざかっていく。
白い雪の中。
血に濡れて倒れていた、一人の少女が脳裏に重なった。
『私の事が見えてるのね』
あの夜と。
同じ言葉だった。
けれど。
目の前の少女は、血に濡れていない。
雪の上へ倒れてもいない。
誰かに与えられた役目に、命を奪われようともしていない。
春の日差しの中。
短くなった銀髪を風に揺らして。
自分の足で立っている。
僕を見て。
笑っている。
「……ルシャ」
「ええ」
返事があった。
あの夜のような、今にも消えてしまいそうな声ではない。
はっきりと。
僕の耳へ届いた。
それだけで。
ようやく足が動いた。
◆
「ルシャ!」
気づけば、駆け出していた。
僕が勢いよく近づいてきたからか、ルシャが僅かに身体を引く。
「ちょっと。何よ、急に」
目の前まで行ったところで、足を止める。
顔を見る。
銀灰色の瞳。
肩の辺りで揺れている、短くなった銀髪。
手も。
服も。
ちゃんとそこにあることを、まるで確かめるように順番に目で追っていた。
「……本物だよな?」
ルシャの眉が、ぴくりと動く。
あ。
まずい。
「シヲリ」
「はい」
「一年以上ぶりに会った私へ、言うことがそれ?」
「いや、だって何も聞いてなかったから」
「だからって、偽物だとでも思ったの?」
「そういうわけじゃ――」
言い終わるより早く、ずい、とルシャが距離を詰めてきた。
鼻先が触れそうになる。
反射的に身体を引くと、銀灰色の瞳がさらに細くなった。
「私を誰だと思ってるのかしら」
「ルシャ=ルシアーデさんです」
「分かってるじゃない」
「すみません」
反射的に謝る。
その直後。
何だか、急におかしくなった。
「……何よ」
「いや」
口元に浮かんだ笑みを隠すように、首を横へ振る。
何をどう言っても、気づけば僕の方が怒られている。
この感じ。
本当に。
何も変わっていない。
「笑うところだった?」
「違うよ。ただ」
今度は、ちゃんとルシャを見る。
「久しぶりだなって、思って」
僕の言葉に、ルシャは一瞬だけ黙った。
近づいていた顔が、ゆっくりと離れていく。
「……ええ」
そして。
さっきまでとは違う、柔らかな笑みを浮かべた。
「久しぶりね、シヲリ」
その顔を見た瞬間。
胸の中でずっと何かに引っかかっていたものが、ゆっくりと解けていく。
聞きたいことは、いくらでもあった。
いつ戻ってきたのか。
どうして教えてくれなかったのか。
身体は、本当に大丈夫なのか。
それでも。
そのどれより先に。
言わなければならないことがあった。
「おかえり」
ルシャの目が、僅かに見開かれる。
ほんの数秒。
僕を見つめたあと。
彼女は、少しだけ顎を上げた。
「ただいま」
照れたように見えたのは、きっと気のせいではない。
けれど、それを確かめるより早く、ルシャが僕のネクタイを指でつまんだ。
「それで? その格好は何?」
「大学の入学式」
「へぇ」
僕の頭から足元までを、遠慮なく眺める。
そんなふうに見られると、何となく背筋を伸ばしてしまう。
「少しは大人っぽくなったじゃない」
「少しは、かよ」
「褒めてあげてるのよ」
「ありがとうございます」
投げやりに答えると、ルシャは満足そうに頷いた。
少し離れた場所から、まだこちらを気にしていた大学生たちの声が聞こえる。
「あの男、知り合いだったのか」
「彼氏じゃね?」
余計なお世話だ。
聞こえないふりをしていると、すぐ近くを自転車を押した人が通りかかった。
ルシャは何でもないように一歩脇へ避け、その人へ道を譲る。
ただ、それだけのことだった。
ただ、それだけのことを。
僕は、しばらく見ていた。
「何?」
視線に気づいたルシャが、不思議そうに首を傾げる。
「……別に」
何でもないふりをして、首を横へ振る。
人の目を避ける必要もない。
誰かから逃げる必要もない。
こうして当たり前のように。
春の河川敷で、誰かへ道を譲っている。
それが。
どうしようもなく嬉しかった。
「少し、歩くか」
「ええ」
今度は。
僕の隣から、返事があった。
◆
桜並木の下を、二人でゆっくりと歩いた。
いざ話し始めてしまえば、聞きたいことは次から次へと出てくる。
向こうでは何をしていたのか。
どんなところに住んでいたのか。
ちゃんと食事はしていたのか。
最後の質問については、随分と失礼ね、と怒られた。
僕も大学の話をした。
喫茶店のバイトを続けていること。
マミさんに相変わらずこき使われていること。
高校を無事に卒業できたこと。
ルシャはそれを楽しそうに聞きながら、時折当然のように口を挟んでは、僕の言い方がおかしいと笑う。
そのたびに。
肩口までになった銀色の髪が、小さく揺れていた。
「そういえば」
「何?」
僕は、さっきから気になっていた彼女の髪へ目を向ける。
「髪、切ったんだな」
ルシャは一度だけ瞬きをして。
それから、自分の毛先へ指を触れた。
「ええ」
「随分、思い切ったな」
「そう?」
「腰まであっただろ」
そう言うと、ルシャは短くなった銀髪を指先へ絡める。
以前なら、同じ仕草をするだけで長い髪が腕を滑り、腰の辺りまで零れ落ちていた。
今はもう。
指の間から、僅かに毛先が覗くだけだ。
「必要なくなったから」
「必要?」
思わず聞き返した僕に、ルシャは少しだけ考えるように黙った。
やがて、視線を前へ戻す。
「昔の私はね。あの髪を、一度も自分で切ったことがなかったの」
「……そうなのか」
「伸ばしたかったわけでもないし、長い髪が好きだったわけでもない。ただ、そうするものだと言われていたから」
何でもないことを話すように。
ルシャは静かに言った。
「だから、切ったの」
肩口の毛先を摘まみ。
そして、笑う。
「もう、必要ないでしょう?」
世界律を降ろすための器として生まれたことも。
誰かに決められた生き方も。
クロイツの悲願も。
きっと。
彼女は、その全部を口にしているわけではない。
だから。
僕も、それ以上は聞かなかった。
「……似合ってるよ」
代わりに、そう言った。
ルシャの瞳が、少しだけ大きくなる。
「何よ、急に」
「いや。まだ言ってなかったから」
「…………」
彼女は何も答えない。
少しだけ間を置いてから、ぷいと前を向いた。
「当然でしょう」
「そこは素直にありがとうでよくないか?」
「褒めるのが遅いのよ」
「会ってからまだ一時間も経ってないんだけど」
「十分遅いわ」
そう言いながら。
短くなった髪の隙間から覗く耳が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
僕は、それについては何も言わないことにした。
「そういえば、料理を覚えたって聞いたぞ」
「ええ。もう、貴方に教わらなくても作れるわ」
「台所を壊したって話も聞いたけど」
「……マミ、余計なことばっかり言って」
露骨に口元が尖る。
どうやら本当だったらしい。
「やっぱり壊したんだな」
「失敗は誰にでもあるでしょう」
「程度によるだろ」
「最後はちゃんと作れたもの」
「何を?」
聞くと。
ルシャは、僅かに僕から目を逸らした。
「……フレンチトースト」
その答えに、思わず笑いが零れた。
「何よ」
すぐさま睨まれる。
「いや。最初に作ったのも、それだったなって」
「あの時より、ずっと上手になったわよ」
「じゃあ、今度食べさせてくれ」
「…………」
何気なく言った言葉だった。
けれど、ルシャは少しだけ目を見開き、何かを考えるように口を閉ざした。
やがて。
何でもないことのように、耳へかかった髪を払う。
「……仕方ないわね」
風が吹く。
二人の間を、無数の花びらが流れていった。
ルシャはそれを目で追い、届くはずもないのに一枚へ手を伸ばして。
それから、楽しそうに笑った。
その顔を見て、ふと冬の水族館でのことを思い出す。
本で知っているのと。
実際に自分の目で見るのは、全然違う。
そう言った。
あの時の顔と、今、桜を見上げる顔はよく似ていた。
「身体は、もう大丈夫なのか」
ずっと聞きたかったことを口にする。
ルシャはこちらへ顔を向け、軽く自分の身体を見下ろした。
「ええ。まだ時々診てもらう必要はあるけれど、こうして歩くくらい何ともないわ」
「そっか」
「何度も確かめたのよ。大丈夫だって言われるまで、随分かかったんだから」
少し不満げな声音だった。
けれど。
その不満が、ただ待たされたことへ向けられたものなのだと分かって。
ようやく、胸の奥から息を吐くことができた。
「なら、よかった」
「…………」
「何だよ」
「別に」
ルシャはそれ以上何も言わず、また歩き始める。
以前のように、僕の数歩先を歩くのではなかった。
すぐ隣にいる。
僕が少しだけ歩く速度を落とせば、彼女も当たり前のように足を緩める。
それが何だか嬉しくて。
今度は僕の方から、彼女へ歩幅を合わせた。
「それで」
しばらく歩いてから、口を開く。
「これから、どうするんだ?」
ルシャがこちらを見る。
「どれくらい、この街にいられるんだ?」
「……それを聞くのね」
「そりゃ気になるだろ」
「本当に分からない?」
「分からないから聞いてるんだけど」
大きなため息をつかれた。
久しぶりに再会したというのに、もう何度呆れられただろう。
ルシャは足を止める。
そして僕の前へ回り込み、後ろで両手を組むと、少し屈むようにしてこちらを覗き込んできた。
「シヲリ」
「何だよ」
「あの時、言ったでしょう」
銀灰色の瞳が。
真っ直ぐに僕を見る。
「私に、生きていてほしいって」
胸の奥が、僅かに痛んだ。
頭に浮かぶ。
あの教会で。
腕の中にいた、冷たい少女。
消えないでくれと願いながら。
必死に握りしめた、細い指。
「……言ったな」
「その先も。僕と一緒にいてほしいって」
「言ったよ」
忘れるはずがない。
あの日。
あの場所で。
僕が彼女へ渡せた。
たった一つの、願いだったのだから。
「だったら」
ルシャは、そんなことは当たり前だと言わんばかりに笑った。
「帰ってくるでしょう」
「…………」
「ずっと、帰ってくるつもりだったわ」
春風が吹く。
肩口までになった銀色の髪が揺れ、頬を撫でる。
そこへ。
薄桃色の花びらが、一枚だけ舞い落ちた。
「……契約だから?」
思わずそう尋ねる。
するとルシャは、呆れたように眉を持ち上げた。
「馬鹿ね」
そして。
楽しそうに笑った。
「私が、そうしたかったからよ」
言葉が出なかった。
ルシャは、少し得意げに胸を張る。
「貴方のいるところへ帰りたかったの。それじゃ、理由にならない?」
「……なるよ」
何とか声を絞り出す。
「十分だ」
彼女の髪へついた花びらへ、手を伸ばした。
肩口で揺れる銀色へ指先が触れかけ、ほんの一瞬だけ躊躇う。
ルシャは、そんな僕を見て目を瞬かせた。
けれど。
避けようとはしなかった。
そっと花びらを摘まみ、手を離す。
薄桃色の一枚が、春風に乗って遠くへ飛んでいった。
――もう。
帰る日を数えなくていいのだろうか。
明日は何をするのか。
明後日はどこへ行くのか。
そんなことを。
当たり前のように、彼女へ聞いてもいいのだろうか。
「さ、行きましょう」
そんなことを考えていると、不意にルシャが僕の手を取った。
「行くって、どこへ?」
「決まってるでしょう」
そのまま、ぐいと引かれる。
「シヲリの家よ」
「……待て」
思わず足を止めた。
「何よ」
「マミさんのところへ連れてこいって言われてるんだけど」
「あとでいいわ。まずは荷物を置きたいもの」
「荷物?」
言われて辺りを見回し。
そこで初めて、少し離れたベンチの脇に置かれている旅行鞄に気づいた。
大きい。
明らかに。
ちょっと遊びに来た人間が持つような荷物ではない。
「お前、まさか」
「今日から、よろしくね」
「何がよろしくなのか、まず説明してもらっていいか」
「一緒にいてほしいって言ったの、シヲリでしょう」
「それは言ったけど、いろいろ順序ってものがあるだろ」
「嫌なの?」
僕の手を握ったまま。
ルシャが聞いた。
声は、いつもと同じだった。
けれど。
繋いだ指先に、僅かに力が入る。
僕は、彼女を見る。
返事を待っている。
あの日。
何も言わず、一人で出ていった少女が。
今は。
僕の言葉を、待っている。
「……嫌じゃないよ」
その瞬間。
銀灰色の瞳が、僅かに揺れた。
「でも、相談はしろ。住むところの話なんだから」
「してるじゃない。今」
「もう少し早めにお願いします」
ルシャが笑う。
僕も、つられて笑った。
まったく。
変わったのか。
変わっていないのか。
「とりあえず、マミさんには連絡するぞ」
「ええ」
「あと、僕の部屋、そんなに広くないからな」
「知ってるわよ」
「今度は僕がベッドで寝る」
「それは、あとで相談しましょう」
「そこは即答しないのかよ」
僕の抗議など聞こえていないふりをして、ルシャが旅行鞄へ手を伸ばす。
その前に。
僕が、取っ手を掴んだ。
「持つよ」
「……そう?」
「ああ」
少し意外そうに僕を見たあと。
ルシャは素直に手を離した。
「じゃあ、お願いするわ」
普通に渡されてしまうと。
それはそれで、何となく調子が狂う。
旅行鞄を引きながら、並木道へ戻る。
すると。
僕の隣から、また手が伸びてきた。
今度は。
どこかへ引っ張られるわけではなかった。
ただ。
僕の手を握っていた。
◆
平穏な人生が欲しかった。
昨日と似た今日を過ごして。
今日と似た明日を迎える。
そんな。
どこにでもあるような普通の人生が。
僕の望みだった。
あの雪の夜に。
一人の少女を見つけ、足を止めてから。
随分と遠くまで来てしまった気がする。
魔術を知った。
人を傷つけた。
取り返せなかったものもある。
僕が奪ったものだってある。
隣にルシャがいるからといって、その全部が綺麗になくなるわけではない。
それでも。
あの日。
僕が彼女へ手を伸ばしたことを。
なかったことには、したくなかった。
「シヲリ」
呼ばれて、横を見る。
ルシャが、道の向こうを指さしている。
「あれ、まだあったのね」
指の先にあったのは、見覚えのあるキッチンカーだった。
色とりどりの果物が描かれた看板の前に、何人かが列を作っている。
「……食うのか?」
「食べたいわ」
「さっき、荷物を置きたいって言ってなかったか?」
「少しくらい、いいでしょう」
あまりにも覚えのあるやり取りに、堪えきれず笑いが零れた。
「何よ」
ルシャが不思議そうにこちらを見る。
「何でもない」
旅行鞄の向きを変える。
「行こうか」
「ええ」
ルシャは嬉しそうに頷いた。
それから、ほんの少しだけこちらへ身体を寄せる。
「今日は、一口あげるわよ」
「今日は、って何だよ」
「いらないの?」
「……もらう」
「素直でよろしい」
いつものように。
偉そうに笑う。
その横顔を見ながら。
ふと、明日は何をしよう、と考えた。
何のためらいもなく。
何の不安もなく。
明日が来ることを、当たり前のように。
桜が舞っている。
雪に覆われていた道を、二人で歩いていく。
僕が望んでいた普通とは、随分違うものになってしまった。
けれど。
隣で笑う少女を見る。
繋いだ手から伝わってくる体温を感じる。
――ああ。
きっと、こういうものなのだ。
僕が本当に欲しかったものは、普通そのものではなく。
明日も。
今日と同じように。
大切な誰かが、生きていることだったのかもしれない。
隣にある手は、温かい。
だから。
今度は僕から。
その手を、握り返した。