魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第一章『雪の上には朱が残る』 一日目(下)

 

◆

 

 家に帰り着いた頃には、十九時を少し回っていた。

 玄関で靴を脱ぎ、コートとマフラーをまとめて壁際のハンガーへ掛ける。暖房をつければ、しばらくして冷え切っていた部屋に少しずつ温気が戻ってきた。

 ようやく冬休みだ。

 明日は学校もない。バイトも昼からだったはずなので、今夜くらいは夜更かししても問題ない。

 本棚に積んである本から一冊を抜き取り、テレビをつける。そのままキッチンへ向かい、いつものようにコーヒー豆を入れている缶へ手を伸ばした。

 蓋を開ける。

 

「げ、切らしてたんだった」

 

 見事に空だった。

 そういえば、一昨日辺りから残り少なかった気がする。

 今日の帰りに買おうと思って、そのまま忘れていたらしい。

 

「……ついてないな」

 

 ようやくひと段落して、ここからゆっくり本でも読もうと思っていたところなのに。

 しばらく空になった缶を眺める。

 別に水でもお茶でもいい。

 いいのだけれど、せっかく明日から冬休みなのだ。暖かい部屋で本を読みながら、ブラックコーヒーでも飲んで夜更かしする。

 それくらいの小さな贅沢は許されてもいい気がする。

 コンビニに買いに行くか、否か。

 数秒悩んで、結局コートへ手を伸ばした。

 

「ついでに何か食べるものも買ってくるか」

 

 少しくらい菓子があってもいい。

 ここから一番近いコンビニまでは多少歩くが、音楽でも聴いていればすぐだろう。

 そう思いながら机の上に置いた携帯を手に取って――ため息をついた。

 

「本当、ついてないな」

 

 画面の右上では、バッテリーの表示が真っ赤になっている。

 これでは行きの途中で切れるのが関の山だ。

 別に携帯がなければ外へ出られないわけでもない。

 仕方なく充電器へ繋ぎ、財布だけをコートのポケットへ突っ込む。

 玄関を出る直前、ふと振り返った。

 いつもの部屋。暖房の音とテレビの声だけが響いている。

 まぁ、たまにはこんな夜があってもいいだろう。

 そんなことを考えながら玄関の鍵を閉めた。

 冬休み初日の前夜に、わざわざ雪の中へ買い物に出かける。

 それだけのことが妙に楽しくて、少し子供みたいに浮き足立っている自分に苦笑しながら、僕は夜の街へ出た。

 

◆

 

「あっしたぁー」

 

 最初と最後しか合っていない店員の挨拶を背中に受けながら、自動ドアをくぐる。

 途端、暖房で温まった身体を冬の空気が容赦なく冷やした。

 

「さむ……」

 

 買ったばかりのホットコーヒーを袋から取り出し、両手で包む。

 缶から伝わってくる熱が、悴んだ指先をじんわりと解いていった。

 空を見上げる。

 夕方から降り始めた雪は、いつの間にか街全体を白く染め上げていた。

 屋根も道路も、停められた車も。

 見慣れた景色なのに、色が一つ変わるだけで随分と違って見える。

 冬は好きだ。雪も嫌いじゃない。

 だからといって、寒さまで好きなわけではないけれど。

 吹きつける風は刺すように冷たく、靴へ入り込んだ雪のせいで足先の感覚まで怪しくなっている。

 首をすくめ、コーヒーの缶を片手に歩き出す。

 買い物袋にはコーヒー豆と、ついでに買った菓子がいくつか。

 これさえ持ち帰れば、あとは暖かい部屋でのんびり本を読むだけだ。

 そんな、何でもない夜になるはずだった。

 

◆

 

 帰り道。

 住宅街を抜け、河川敷へ続く道へ入る頃には、人通りもすっかりなくなっていた。

 吐き出した息が白く染まる。

 意味もなくそれを目で追いながら歩いているうちに、ふと辺りの景色へ目を向けた。

 雪はまだ降り続いている。

 人もいない。

 街中を漂っている、いつものあれも、今夜は白の向こうへ随分と霞んで見えた。

 ……これだけ雪が降っていれば、少しくらいは大丈夫だろう。

 眼鏡のフレームへ指を掛ける。

 一瞬だけ迷って、それからゆっくりと外した。

 途端、世界の輪郭がぼやけた。

 視力が落ちたから――というだけではない。

 眼鏡越しには抑えられていた情報が、一気に視界へ押し寄せてくる。

 人の周囲に漂う半透明の靄。

 空気の中を流れる、色を帯びた細い筋。

 水のように揺らぎ、ときには煙のように漂う、正体の分からない何か。

 僕には、人には見えないものが見える。

 それが何なのかは、今でも知らない。

 十三歳より前の記憶がない以上、昔から見えていたのかさえ分からない。

 初めて自覚したのは、事故のあとに目を覚ました夏の病室だった。

 人の身体を包む色の靄が見えた。

 部屋の中を、訳の分からない光が流れていた。

 当時は随分と気味悪がったものだ。

 医者にも義母さんにも言えず、見えていないふりをすることを覚えた。

 その後、病院で作ってもらったこの眼鏡を掛けている限りは、ほとんど気にならなくなった。

 四年も付き合えば、嫌でも慣れる。

 とはいえ、眼鏡なしで長く見続ければ頭が痛くなるし、目眩もする。

 だから普段は外さない。

 けれど今夜は、降りしきる雪が街中の色を薄く覆い隠していた。

 

「……うん。これくらいなら」

 

 眼鏡を畳み、コートの内ポケットへしまう。

 たまにはこうして、何も隔てずに雪を見るのも悪くない。

 広く開けた河川敷沿い。

 左手には田畑が広がり、右手には僅かなせせらぎと共に川が流れている。

 街灯なんて気の利いたものはない。

 遠くの住宅や建物から漏れる明かりだけが頼りの道だ。

 普段なら闇ばかりが広がる場所なのに、今夜は積もった雪が僅かな光を反射して、いつもより少しだけ明るく見えた。

 人影はない。

 車の音も聞こえない。

 雪が音まで吸い込んでしまったみたいに、辺りは静まり返っている。

 道路も、屋根も、草木も、何もかも同じ白に塗り潰されていた。

 境界が曖昧になる。

 普段なら嫌でも目につく色の靄さえ、今夜はその白に薄く溶けている。

 世界から情報が少しだけ減って、頭の中まで静かになったような気がした。

 こういう時間が、僕は好きだ。

 高架下を抜け、河川敷沿いを歩いていく。

 だから、この夜に外へ出たこと自体には何の意味もなかった。

 何となくコーヒーが欲しくて。

 何となく、少し贅沢な夜を過ごしたくて。

 何となく雪の降る街を歩いてみようと思った。

 ただ、それだけだった。

 だから最初は、それが何なのか分からなかった。

 白いカーテンのように降りしきる雪。

 その向こうに、何かがいた。

 

「……?」

 

 足が止まる。

 目を凝らす。

 人影だった。

 河川敷から少し外れたところに、誰かが一人、座り込んでいる。

 こんな時間に。

 こんな雪の中で。

 その時点で、十分におかしかった。

 なのに、胃の底へ冷たいものが沈んだのは別の理由だった。

 白銀の髪。

 腰まで流れる長い髪が、降りしきる雪の中で揺れている。

『もしかしたら、本当にいるかもしれませんね。雪女』

 数十分前に聞いた宮本さんの声が、不意に頭の中で蘇った。

 

「……まさか」

 

 馬鹿らしい。

 偶然だ。

 そう思ったはずなのに、足はその場から動かなかった。

 遠目では、俯いた横顔しか見えない。

 けれど、その姿だけが周囲の景色から切り取られたように浮いて見えた。

 白い雪。

 白い肌。

 白銀の髪。

 綺麗だと思った。

 同時に、どうしようもなく気味が悪いとも思った。

 その二つが、まるで矛盾せず同時に存在している。

 気づけば、手にしていた買い物袋が雪の上へ落ちていた。

 足が動く。

 一歩。

 また一歩。

 近づくにつれて、胸の奥で違和感が膨らんでいく。

 引き返した方がいい。

 頭のどこかでは、そう警告している。

 それでも足は止まらなかった。

 何かに呼ばれているわけでもない。

 なのに、確かめなければいけないような気がした。

 距離が縮まる。

 輪郭がはっきりする。

 そこでようやく、違和感の正体に気づいた。

 

「……血?」

 

 雪が、赤い。

 彼女の身体の下。

 白一色だった景色に、不自然なほど鮮烈な赤が広がっている。

 思考が一気に現実へ引き戻された。

 

「おい!」

 

 さっきまで感じていた不気味さも忘れて、駆け寄る。

 僕の足音に気づいたのか、少女がゆっくりと振り返った。

 ――粘つくような怖気が、背骨を撫でた。

 一瞬、呼吸を忘れる。

 銀灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。

 数秒。

 お互いに何も言わず、ただ見つめ合う。

 間近で見る彼女は、さらに現実味がなかった。

 腰まで伸びた雪色の髪は、降り積もる雪よりもなお白い。血の気を失った肌も青白く、その中で銀灰色の瞳だけが妙にはっきりと存在している。

 細い輪郭に、すっと通った鼻筋。

 整いすぎている、と言ってしまえばそれまでなのだろう。

 けれど綺麗だと思うより先に、どこか人ではないものを見ているような恐ろしさを感じた。

 その沈黙を破ったのは、彼女だった。

 

「驚いた。貴方、私が見えてるの?」

 

 銀灰色の瞳が僅かに丸くなる。

 驚きはほんの一瞬だった。

 すぐにそこへ、こちらを観察するような好奇心めいた光が宿る。

 

「見えてるって……どういう」

 

 意味の分からない質問に眉を寄せる。

 けれど、その意味を考えている場合ではなかった。

 腹部から流れた血が、今も雪へ赤い染みを広げ続けている。

 

「そんなことより、お前、それ大丈夫なのか」

 

 少女の前へ回り込む。

 近くで見ると、思っていた以上に酷い。

 白い服は腹部を中心に赤黒く染まり、そこから流れ出た血が雪へぽたぽたと落ちていた。

 

「大丈夫に見える?」

「見えないから聞いてるんだよ」

 

 こんな状態で、よくそんな返事ができるものだ。

 少なくとも、このまま放っておいていい状態ではない。

 どうする。

 救急車――駄目だ。携帯は家に置いてきた。

 さっきのコンビニまで戻るか。

 いや、この出血量で一人にするのはまずい。

 歩かせるなんてもっと無理だ。

 誰か通らないか。

 周囲を見回す。

 人影はない。

 最悪だ。

 

「ねぇ。あなた、名前は?」

「……は?」

 思考をぶった切るような問いに、顔を戻す。

「名前よ。あなたの」

「いや、今それ聞く?」

「聞いているのは私よ」

 

 こんな状況だというのに、少女は当然のことのような顔をしている。

 むしろ答えない僕の方がおかしいとでも言いたげだった。

 一体なんなんだ、この人は。

 けれど、ここで言い争って体力を使わせるのも馬鹿らしい。

 

「……シヲリ。黒上シヲリ」

「シヲリ」

 

 確かめるように、僕の名前を口の中で転がす。

 そして、ほんの僅かに目を細めた。

 

「そう。ねぇ、シヲリ」

「何」

「貴方は、私を助けたい?」

「……何言ってるんだよ」

 

 質問の意図が分からず、眉をひそめる。

 

「見れば分かるだろ。助けたいからこうしてるんだ」

「どうして?」

「どうしてって……」

 

 今度こそ言葉に詰まった。

 そんなこと、考えてもいなかった。

 目の前に血まみれの人間がいる。

 放っておけば死ぬかもしれない。

 それなら助ける。

 理由なんて、それだけで十分だと思っていた。

 

「人を助けるのに、何か理由が必要か」

 

 銀灰色の瞳が、大きく開かれた。

 初めてだった。

 さっきまで何を言ってもどこか余裕のあった彼女の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。

 僕を見つめる瞳が、何かを探すように揺れる。

 それから、ゆっくりと目を細めた。

 

「……そう」

 

 小さな声だった。

 どこか懐かしいものでも見つけたみたいな、妙に柔らかい声。

 けれど次の瞬間には、いつもの余裕めいた笑みへ戻っていた。

 

「ふふ。そういうことなら、ちょうどいいわ」

「何が」

「手っ取り早く私を助ける方法がある」

「手っ取り早く?」

 

 少女は答えず、雪の上へ片手をついた。

 直後。

 指先から、淡い蒼が滲み出した。

 

「契約をしましょう、シヲリ」

「……契約?」

「私と、貴方で」

 言葉と同時に、足元が光った。

「な――」

 

 思わず一歩下がりかける。

 僕たちを囲むように、円形の蒼い光が雪の上へ描かれていた。

 その内側を、見たこともない幾何模様と文字列が幾重にも埋め尽くしていく。

 

「なんだ、これ……」

 

 反射的に周囲を見渡す。

 人はいない。

 闇と雪に閉ざされた河川敷で、僕たちのいる場所だけが蒼く照らされている。

 その光景は、現実からそこだけを切り取ったみたいだった。

 そして何より。

 見えていた。

 光の中心から、膨大な何かが流れている。

 普段目にする色の靄とは比べものにならないほど濃く、鮮明で、複雑な流れ。

 少女を中心に渦巻き、足元の紋様へ吸い込まれていく。

 

「これ……」

 

 僕が普段見ているものと、同じなのか。

 考える間もなく、少女が口を開いた。

 

「――|Ἴσον πρὸς ἴσον. Θέλημα πρὸς θέλημα. Δέσμευσον ἡμᾶς, κόσμε《イソン・プロス・イソン。テレーマ・プロス・テレーマ。デスメウソン・ヘーマース、コスメ》」

 

 聞いたことのない言葉。

 その声へ呼応するように、足元の紋様が一つ、また一つと蒼く灯っていく。

 何かが、形を作っている。

 意味は分からない。

 けれど、それだけははっきりと見えた。

 

「おい。何してるんだ」

 目の前の少女が、嫌そうに眉を顰める。

「ちょっと。今集中してるから話しかけないで」

「話しかけないでって……何なんだよこれ。何が起きてる」

「言ったでしょう。契約をするの」

「だから、その契約って何なんだよ。なんでそんなもの――」

「私を助けたいんでしょう?」

 

 その一言に、言葉が詰まった。

 確かに助けたい。

 だからこんな訳の分からないことに首を突っ込んでいる。

 けれど、それとこれとは話が別だ。

 足元では、青白い光が心臓みたいに脈打っている。

 少女が言葉を紡ぐたびに、円の中の線が一本、また一本と繋がっていく。

 見たこともない文字。

 意味の分からない図形。

 ただの光ではないことだけは、嫌というほど分かった。

 肌の上を何かが撫でていく。

 目には見えているのに、触れられている感覚だけが妙に曖昧だ。

 気味が悪くなって、一歩下がろうとした。

 

「動かないで」

 ぴしゃりと言われ、足が止まる。

「……いや、だから説明を」

「後でするわ」

「後って」

「するの、しないの?」

「は?」

「契約。早く決めて」

 

 まるでコンビニのレジで支払い方法でも聞くような口調だった。

 こっちは訳の分からない光の中心に立たされ、そのうえ今にも死にそうな女から正体不明の契約を迫られている。

 頭がおかしくなりそうだ。

 

「――っ、だぁーっ、くそ!」

 

 髪を乱暴に掻き上げる。

 考えろ。

 いや、考えたところで分かるはずがない。

 目の前で起きていることの何一つ、僕には理解できていない。

 なら、確認するべきことは一つだけだ。

 

「その契約とやらをすれば、お前は助かるんだな」

 

 少女が黙る。

 ほんの一瞬。

 銀灰色の瞳が、こちらを真っ直ぐ見つめた。

 それが何を意味していたのか、この時の僕には分からなかった。

 

「えぇ」

 

 あまりにもあっさりした返事だった。

 視線を落とす。

 今も血は、雪の上へ落ち続けている。

 迷っている時間なんて、最初から残されていなかった。

 

「……分かった」

 一度、息を吐く。

「してやるよ。その契約とやらを」

 

 その瞬間だった。

 足元の紋様が、大きく脈打つ。

 青い光が一際強く輝き、幾何模様がゆっくりと回転を始めた。

 円の縁を走っていた文字列が次々と灯り、その光が細い糸のように立ち上っていく。

 

「それで、僕は何をすればいい」

 

 光の一本が、足元へ絡みついた。

 触れているはずなのに、熱くも冷たくもない。

 ただ皮膚の下まで何かに覗き込まれているような、妙な不快感がある。

 思わず身体を引く。

 

「何もしなくていいわ。ただ、そこでじっとしていて」

「……本当に大丈夫なんだろうな」

「しつこいわね。少しは私を信用しなさい」

「今会ったばかりの血まみれの女を信用しろって方が無理あるだろ」

「失礼ね」

 

 その返しだけは妙に元気だった。

 少女は小さく息を吐くと、目を閉じた。

 途端、空気が変わる。

 降り続けていた雪が、僕たちの周囲だけ時間を忘れたようにゆっくりと落ち始める。

 足元の蒼が濃くなった。

 僕と少女とを結ぶように、何本もの光の糸が伸びる。

 そして。

 

「――|Τὴν ἐμὴν ζωὴν αἰτεῖ· κἀγὼ ἴσον ἀντάλλαγμα αἰτῶ.《テーン・エメーン・ゾーエーン・アイテイ。カゴー・イソン・アンタッラグマ・アイトー》」

 

 先ほどまでとは違う、やけに澄んだ声だった。

 意味なんて一つも分からない。

 けれど、その声へ呼応するように幾何模様が次々と輝きを増していく。

 少女から伸びた光が、こちらへ流れ込んでくる。

 同時に。

 胸の奥から、何かを引き出されるような感覚がした。

 ――助けたい。

 それだけだった。

 この少女が誰なのかも知らない。

 何をしているのかも分からない。

 それでも、目の前で死んでほしくない。

 その思いだけが、異様なほど鮮明になる。

 少女が目を開いた。

 銀灰色の瞳が僕を捉える。

 その奥で、一瞬だけ。

 僕には理解できない何かが揺れた。

 驚きとも、戸惑いとも違う。

 もっと切実な――何か。

 そして光が、僕たちの間を繋いだ。

 

「――っ」

 

 首元が焼けるように熱を持つ。

 咄嗟に手を伸ばした、その瞬間。

 蒼い光が弾けた。

 視界が、一色に染まる。

 音が消えた。

 雪も。

 風も。

 世界そのものが、一瞬だけ止まったような気がした。

 そして次の瞬間。

 すべてが元に戻る。

 

「……は?」

 

 瞬きをする。

 足元にあった紋様は、綺麗さっぱり消えていた。

 あれほど濃密に漂っていた光も、もうない。

 ただ雪だけが、何事もなかったみたいに降り続けている。

 

「……終わった、のか?」

 

 尋ねる。

 少女は答えず、自分の手のひらをじっと見つめていた。

 ほんの一瞬。

 本当に一瞬だけ、その銀灰色の瞳が訝しげに細められる。

 何かがおかしい。

 そう言いたげな顔だった。

 

「おい?」

 

 声をかける。

 少女は我に返ったように顔を上げると、何事もなかったように小さく笑った。

 

「えぇ。これで契約成立よ」

「……そ、そうか」

 

 何がどう成立したのか、さっぱり分からない。

 それよりも。

 

「それで、本当に助かったんだろうな」

 

 少女の腹部を見る。

 そこでようやく、気づいた。

 

「……血」

 

 止まっている。

 あれだけ絶え間なく雪へ落ちていた血が、いつの間にか止まっていた。

 傷そのものが消えたわけではない。

 顔色だって酷いままだ。

 けれど、確かに何かが変わっている。

 少なくとも、このまま血を流し続けて死ぬという状態からは抜け出したらしい。

 胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩んだ。

 

「本当に……助かったのか」

「だから言ったでしょう」

 

 どこか得意げに少女が笑う。

 その顔を見て、ようやく息を吐いた。

 

「だったら最初から、もう少し説明してくれよ……」

「そんな暇なかったもの」

「契約を迫る暇はあっただろ」

「細かい男ね」

「誰のせいだと思ってるんだ」

 

 どうやら口喧嘩をする程度の元気はあるらしい。

 なら、とりあえず最悪の事態は避けられた。

 そう思った直後だった。

 

「それじゃあ、シヲリ」

 少女がこちらを見る。

「これからよろしく――」

 

 最後まで言い切るより早く。

 身体が、ぐらりと傾いた。

 

「お、おい!」

 

 慌てて腕を伸ばす。

 力の抜けた身体を抱き止め、その重さに危うく僕まで雪へ倒れ込みそうになった。

 

「ちょ、待て! 助かったんじゃなかったのかよ!」

 返事はない。

「おい!」

 

 頬を軽く叩く。

 反応はない。

 慌てて耳を口元へ近づける。

 か細い。

 けれど呼吸はしている。

 胸も、僅かに上下している。

 腹部を見れば、血も止まったままだ。

 死んだわけではない。

 どうやら単純に、限界が来て気を失ったらしい。

 

「……勘弁してくれよ」

 

 盛大なため息が、白い息となって夜へ消えていく。

 腕の中を見る。

 目を閉じた少女は、こうしていれば本当にただの女の子にしか見えなかった。

 雪女でもなければ、得体の知れない何かでもない。

 血まみれで倒れていた、一人の少女。

 そして今や、訳も分からないまま僕と何かの契約まで交わしてしまった少女だ。

 

「……これ、どうするんだよ」

 

 当然、答えは返ってこない。

 降り続ける雪を見上げる。

 つい数時間前。

 僕は宮本さんに、自分の理想の未来について話した。

 普通に勉強して。

 普通に働いて。

 普通に誰かと暮らして。

 ただ、普通に幸せに生きていたい。

 それだけだったはずなのに。

 ――これが、二千二十年十二月二十五日の出来事だった。

 ただ普通に、平穏に生きていたかった僕は、この夜――一人の少女と、魔術の契約を交わした。

 

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