魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
違和感と共に、意識がゆっくりと浮上してきた。
甘い柑橘系の匂い。いつもとは違う布団の固さ。寝ぼけた頭はまだここを自分の部屋だと思い込んでいるのに、鼻や肌を刺激する感覚だけが、それを静かに否定していた。
「ん、んー……」
妙に寝苦しい。
風邪でも引いただろうか。寝返りを打つことさえ億劫になるような手足の重さ。それに、熱い。
まるで、お腹の上に何かが乗っているような――
「おはよう。寝坊助さんなのね、シヲリ」
重たい瞼をどうにか持ち上げて、すぐに閉じた。
……なんだ、今の。
寝ぼけた頭の中で、ほんの一瞬だけ見えた光景をもう一度再生する。
目を覚ましたら、銀髪の女に馬乗りにされていた。
言葉にしてみると、自分でも笑えてくるくらい意味が分からない。
……まだ夢なのだろうか。
だとすれば、随分と心臓に悪い夢だ。
恐る恐る、もう一度瞼を開く。
結論。夢ではなかった。
「まだ寝るの?」
目を開けば、今度は銀髪の女の顔が文字通り目と鼻の先まで迫っていた。
眉をひそめ、不思議そうに僕を覗き込んでいる。
少しでも動けば、鼻先が触れてしまいそうなほど近い。
「――っんな!? ななな、何してるんだ、お前はぁ!?」
反射的に身体を跳ねさせ、その下から抜け出した。
そのまま壁際まで後退し、背中を預ける。
眠気なんて、もう欠片も残っていない。
「何って、シヲリがいつまで経っても起きないから、起こしに来たんじゃない」
彼女は不思議そうに首を傾げて、僕の顔を見返していた。
どうやら、こっちが慌てている理由すら分かっていないらしい。
何か言い返そうとしたものの、うまく言葉にならない。
ひとまず大きく息を吐き、彼女から視線を外した。
朝っぱらから全力で働かされている心臓を押さえながら、改めて部屋の中を見回す。
そこでようやく、ここが自分の家ではないことを思い出した。
木目の目立つ天井と壁。時代錯誤な裸電球。埃を被った古いデスク。そして、僕がさっきまで寝ていた、妙に高そうなベッド。
……脳裏を過ったのは、昨日の光景だった。
降り積もる雪と、そこへ広がっていた血の赤。
そして――目を疑うような、蒼い光。
目を閉じても瞼の裏に残っていそうなほど鮮烈な光が、見慣れていたはずの景色を、まるで知らない世界のものに変えていた。
あまりにも現実離れしていて、今こうして思い返しても、自分の記憶なのにどこか他人事のように感じる。
その後、目の前の女は意識を失った。
どうしたらいいかも分からず立ち尽くしていた僕を助けてくれたのが、マミさんだった。
あの人が現れてくれなければ、きっと僕は今もどうしていいか分からないままだっただろう。
ともかく、彼女の助けを借りて、この家で一晩を明かすことになった。
……そうだ。
だから僕は、自分の部屋とは似ても似つかない場所で寝ていたわけで。
そこまで思い出してから、改めてベッドの上の女を見る。
昨夜、あれだけ血に濡れていた彼女は、今は何事もなかったような顔で僕を見返していた。
「お前、怪我は……」
「怪我? あぁ、お腹の穴? あんなの大丈夫に決まってるじゃない。ほら」
「ば――っ!? お前、何して!
」
いきなり服の裾を捲り上げられ、咄嗟に目を逸らしかける。
けれど、露わになった腹部を見て、そのまま目を見開いた。
もちろん、やましい意味ではない。
「傷が……ない?」
そんな馬鹿な。
昨夜は、間違いなく腹に穴が開いていた。
あれだけ血を流していた怪我が、一晩で治るはずがない。
ない、はずなのに。
目の前にある腹部には傷痕ひとつなく、彼女の言う通り綺麗な肌があるだけだった。
信じられずに腹と顔を交互に見ていると、彼女は得意げに鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの」
「知らないよ。ほとんど初対面だろ、僕たち」
思わず声を張ると、彼女は何食わぬ顔で服の裾を元に戻した。
……というか。
「本当に誰なんだ、あんた」
よいしょ、とベッドから降りた彼女の背中を、僕はぼんやりと眺める。
腰まで伸びた、雪のように白い髪。
透き通るような肌。そして――僕を映す、銀灰色の瞳。
およそ人間離れした容姿に加えて、昨夜のあの怪我。
関わるな。
僕の本能が、頭の中でけたたましく警鐘を鳴らしていた。
「そういえば、自己紹介してなかったわね」
彼女がくるりと振り返る。
「私はルシャよ。ルシャ=ルシアーデ。これからよろしくね、シヲリ」
語尾に音符でもついていそうな軽快な声。
おまけに、完璧なウィンクまでついてきた。
……決して可愛いなんて思っていない。
僕が聞きたかったのは、そういうことではない。
とはいえ、これはこれで好都合だった。
下手に深掘りして、取り返しのつかないことに巻き込まれたら、それこそたまったものではない。
三十六計逃げるに如かず。
そう決めて、僕は軽く右手を挙げた。
「じゃあ、僕はここら辺で。怪我が治ってるならよかったよ」
扉へ向かって歩く。
「失礼します」
そう言ってドアノブへ手を伸ばした、その時だった。
「待ちなさい」
肩に何かが乗った。
「……なんだよ」
振り向けば、ルシャが僕の肩を片手で掴んでいた。
痛い。
いや、痛い痛い痛い。
なんつー力だ。ゴリラか、こいつ。
「なんだよ、じゃないわよ。どこへ行くつもり?」
「どこって、自分の家に決まってるだろ」
肩に食い込む指を引き剥がそうとする。
びくともしない。
……か、固い。
「そんなの許されるわけないでしょ」
「なんで許されないんだよ。いいから、は、な、せ」
指を一本ずつ外そうとするほど、肩を掴む力が強くなっていく。
勘弁してほしい。
どうしてそこまでして、僕を引き留める必要があるんだ。
片手で彼女の腕を押さえながら、もう片方を扉へ伸ばす。
ようやくドアノブを掴み、それを支えに踏ん張った――その時だった。
扉が、廊下側から勢いよく押し開けられた。
「うわっ!?」
「きゃっ」
突然開いた扉に体勢を崩し、そのまま二人揃って床へ転がる。
「いったぁ……何すんのよ!」
「あ、ごめ――じゃなくて、お前が引っ張ってなければこんなことには」
腰をさすりながら振り向くと、すぐ後ろでルシャが眉を吊り上げていた。
こっちにも言い分はある。
睨まれたくらいで引き下がるつもりはない。
「これは契約なんだから、勝手に帰ろうとするシヲリの方がおかしいでしょ!」
「なんだよ契約って! 助けてやったんだから、それでいいだろ!」
売り言葉に買い言葉。
助けたことを持ち出すのも我ながら情けないけれど、どうにも彼女が相手だと口が先に動く。
床に座り込んだまま、互いに一歩も譲らない。
声だけ聞けば小学生の喧嘩と間違えられそうな言い争いに、大きなため息が割って入った。
「やれやれ。朝から元気だねぇ、君たちは」
僕たちはぴたりと口を閉ざし、揃って扉の方を向く。
開いた扉の向こうには、煙草を咥えたマミさんが立っていた。
片手を額に当て、気怠そうな目で、床に座り込んだ僕たちを見下ろしている。
◆
火にかけたフライパンへ油を垂らし、軽く傾けて全体へ馴染ませる。
ベーコンを並べれば、じゅう、と小気味よい音が鳴った。
空いた場所に卵を落とし、白身の縁が固まり始めたところで少量の水を加える。
蓋をして火を弱めれば、あとはしばらく待つだけだ。
「なんで僕が、こんなことを……」
人の家の台所に立ち、三人分の朝食を作っている。
ついさっきまで帰ろうとしていたはずなのに、一体どこで間違えたのだろう。
いや。
どこも何も、原因ははっきりしている。
『昨日から何も食べていなくてね。空腹では、まとまる話もまとまらないだろう?』
『それは、まぁ……』
『食材は冷蔵庫にあるものを使ってくれて構わないから。頼めるかい?』
構わないと言われても、こちらには大いに構う余地がある。
とはいえ、昨夜あれだけ助けてもらった相手に、腹が減っているなら勝手にしてくださいとも言いづらい。
結局、僕自身も空腹だったこともあり、こうして朝食を引き受けることになったわけだ。
「これが社会の圧力か」
随分と身近なところに潜んでいたものだ。
小さく息を吐き、洗ったレタスの水気を切る。
一口大に千切って皿へ盛り、ミニトマトを添えたところで、横から注がれている視線が気になった。
ルシャが、僕の手元をじっと見つめている。
銀灰色の瞳が、皿からまな板へ。まな板からフライパンへと、忙しなく動いていた。
尻尾でも生えていたら、さっきから振りっぱなしなんじゃないだろうか。
「あっちで待っててもいいんだぞ。見てて面白いものでもないだろ」
「そんなことないわ」
返事は早かった。
それからすぐ、蓋の隙間から昇る湯気へと視線を戻す。
そんなに真剣に見られてしまうと、こちらもそうか、としか返しようがない。
なるべく気にしないように皿を並べる。
僕が動けば、それに合わせてルシャも少しだけ場所を移した。
一応、邪魔にならないようにはしているらしい。
ただし、視線だけはずっとついてくる。
どうにも落ち着かない。
やがて、チン、とトースターが鳴った。
横を見れば、ルシャがこちらを見上げる。
目が合っても逸らさず、何かを待つようにその場に立っていた。
「……そこのトースト、皿に乗せてくれないか?」
「――っ! も、もちろんよ。任せなさい!」
ぱっと表情を明るくしたルシャへ、トングを渡す。
「熱いから気をつけろよ」
「分かってるわよ」
その割には、パンを挟む手つきが妙に慎重だった。
一枚ずつ皿へ移し、何やら角度まで細かく調整してから、彼女は僕を見る。
「ど、どう?」
「……完璧。センスあるな」
「当たり前よ」
得意げに鼻を鳴らしながらも、視線はもう次の皿へ向いている。
どうやら、本当にやってみたかったらしい。
あまりにも分かりやすくて、思わず少しだけ笑ってしまった。
「何よ」
「別に。そっちの皿も頼む」
「最初からそう言いなさいよね」
文句を言いつつ、ルシャはまた慎重にトングを動かす。
僕はフライパンの蓋を取り、白身が固まったのを確認して火を止めた。
香ばしく焼けたベーコンをトーストに乗せ、その上から目玉焼きを移す。
黄身を潰さないよう慎重にフライ返しを抜くと、隣から小さな声が漏れた。
「……わぁ」
聞こえなかったふりをして、残りの二皿も仕上げていく。
そんな反応をされるほど、手の込んだものではない。
ないのだけれど。
少なくとも、悪い気はしなかった。
「飲み物、お前は紅茶だっけ?」
「……」
返事がない。
ルシャは出来上がった皿を見つめたまま、すっかり動かなくなっていた。
「おーい。紅茶でいいのか?」
少し顔を寄せて尋ねると、彼女の肩がびくりと跳ねた。
「な、何よ! 急に近くで喋らないでくれる!?」
「二回目なんだけどな。聞くの」
「……紅茶でいいわ」
耳元に手を添えたまま、ルシャは皿へ視線を戻した。
朝っぱらから人の顔をあれだけ近くで覗き込んでいたのは、どこの誰だっただろうか。
言いかけたが、また話が長くなりそうなので飲み込んだ。
沸かしておいた湯を使い、紅茶と二人分のコーヒーを用意する。
湯気の立つカップを盆へ乗せる頃には、ルシャが当然のように皿の前で待っていた。
「運ぶのも頼んでいいか?」
「それくらい、言われなくてもできるわ」
そう言って、彼女は両手で大事そうに皿を持ち上げた。
僕は残りの皿を手に取り、その後を追った。
◆