魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
しばらくは、食器の触れ合う音だけが食卓に落ちていた。
隣ではルシャがトーストを頬張り、向かいではマミさんがコーヒーに口をつけている。
こうして改めて見ると、マミさんも随分と整った容姿をしていた。
肩口で揃えられた、赤みを帯びた真っ直ぐな黒髪。カップの縁越しにこちらを眺める赤い瞳には、どこか気怠げな色がある。
白いワイシャツにジーンズという簡素な格好なのに、不思議と目を引く人だった。
隣の銀髪といい、向かいの黒髪といい、二人並べばそれだけで絵になる。
これで僕が抜ければ、さぞ完璧な食卓になることだろう。
「助かったよ、シヲリ君。料理はよくするのかい?」
「一人暮らしなので、それなりには」
「なるほどね。どうりで手際がいいわけだ」
マミさんは皿へ目を落とし、残っていたトーストを切り分ける。
その隣で、ルシャが何故か少しだけ胸を張った。
パンを皿に乗せた功績だろうか。
別に否定するつもりもないので、僕は黙ってコーヒーを口へ運んだ。
「さて。食べながらで構わないから、昨夜の話をしておこうか」
カップを口元へ運びかけた手が止まる。
マミさんは食器を置くと、改めて僕へ向き直った。
「その前に、私のことを少し説明しておこう。名前は、もういいか」
「マミさん、ですよね」
「ああ。そして私は――魔術士だ」
聞き慣れない響きだった。
いや、言葉そのものなら知っている。
本の中や画面の向こうでなら、何度だって目にしたことがある。
ただ、朝食を挟んで向かい合っている相手から、まるで職業でも名乗るように告げられるとは思っていなかった。
「……魔術士」
「魔術を学び、それを扱う者。今のところは、そう思ってくれていい」
「魔術って、あの……魔法とか、そういう話ですか」
「厳密には似て非なるものだが……まぁ、今の君の理解としては、それで構わないよ」
あまりにも当然のように頷かれて、次の言葉に困った。
冗談を言っている顔ではない。
だからといって、真面目な顔で言われれば納得できるというものでもない。
そんな僕の反応を眺めてから、マミさんは食卓の上へ片手を差し出した。
「言葉で説明するより、見てもらった方が早いだろうね」
その指先へ、淡い靄が流れ始めた。
……なんだ?
思わず目を細める。
普段は曖昧に漂っているだけのものが、今は明確な意思を持ったように動いていた。
マミさんの腕を伝い、人差し指の先へ集まり、重なっていく。
僕がそこを見つめていると、彼女の口元に薄い笑みが浮かんだ。
「やはり、視えているんだね」
「え――」
問い返すより先に、指先へ小さな炎が灯った。
火種はなかった。
何かを擦ったわけでも、道具を使ったわけでもない。
何もなかったはずの場所で、橙色の炎だけが静かに揺れている。
「これが魔術。そして、今ここに集めたものが魔力だ」
炎とマミさんの顔を交互に見る。
手品だと言ってくれれば、まだ笑えた。
けれど、炎が生まれる前から見えていたものまで、仕掛けの一言で片づけていいのか分からなかった。
「君は火が灯る前から、ここを見ていたね。魔力の動きを追っていたんだろう?」
「……何のことですか」
「無理に隠さなくてもいい。少なくとも私は、それをおかしなことだと笑ったりはしないよ」
マミさんは、僕の目を真っ直ぐに見る。
「むしろ私たちからすれば、喉から手が出るほど欲しいものなんだが……今はいい」
かえって、何も言えなくなった。
僕の目に何が見えているのかなんて、この人には一度も話していない。
それなのに、知っている。
眼鏡の位置を直すふりをして指を顔へ運ぶと、マミさんはその仕草まで静かに見ていた。
「その眼鏡越しでも分かるんだね。なるほど」
独り言のような言葉に、指が止まる。
「……これが、魔力なんですか」
否定する代わりに、そんな問いが口をついた。
マミさんは小さく頷き、立てていた指を曲げる。
炎は跡形もなく消えた。
けれど、そこへ集まっていた色が散っていく様子は、まだ見えている。
小さい頃から、当たり前の景色に混じっていたもの。
誰も気に留めないから、自分だけがおかしいのだと思っていたもの。
なるべく見ないようにしてきたそれに、この人はあっさりと名前をつけた。
「マミさんのほかにも、いるんですか」
「魔術士が、という意味なら、もちろん」
返事は、ひどくあっさりしていた。
「学ぶ場所もある。守るべき決まりもある。君が知らなかっただけで、私たちはずっと魔術を扱ってきたんだよ」
魔術士。
目の前の人がそうであるように、ほかにも当たり前の顔をして暮らしているのだろうか。
僕の知らない決まりに従い、僕の知らない力を使って。
昨夜だけの異常な出来事。
そう思いたかったものの向こうに、知らない世界がずっと続いている。
しかも、その入り口は――ずっと僕の目の中にあったらしい。
「君の見え方については、私も詳しく聞いてみたい。いつから見えるのか、その眼鏡を外した場合はどうなるのか――」
「すみません」
言葉を遮ると、マミさんが口を閉じた。
膝の上で手を握り、できるだけ平静な声を作る。
「そろそろ、帰ってもいいですか」
隣で、食器の音が止まった。
そちらは見ないまま、言葉を続ける。
「昨日は、本当に助かりました。でも僕は……そういう話には、関わらずにいたいです」
正体さえ分かれば、少しは安心できると思っていた。
けれど、違った。
続きを聞くのが怖い。
話を聞けば聞くほど、自分までその知らない世界の一部にされていく気がした。
自分の部屋へ帰りたい。
本を開いて、コーヒーを飲んで、明日の予定を考える。
そんな、何もおかしなことのない時間に戻りたかった。
椅子を引きかけた僕を見て、マミさんが頬を掻く。
「あー、そのことなんだが」
先ほどまでとは打って変わって、歯切れの悪い声だった。
何故か僕から目を逸らし、それから隣のルシャを見る。
……嫌な予感がした。
「どこへ行くつもりなのよ」
ルシャは紅茶のカップを置き、当然のように僕を見上げた。
「どこって、自分の家だけど」
「駄目に決まってるでしょう。契約はどうするのよ」
「だから、その契約って何なんだよ」
ルシャは、まだ分かっていないの、とでも言いたげに眉を寄せる。
説明された覚えがないので、そんな顔をされても困る。
「昨日の夜、契約をしましょうって言ったでしょう。シヲリは頷いたじゃない」
「……言った気はするけど」
血に濡れた顔と、途切れそうな声。
確かに、そんなやり取りはあった。
けれど、あの時は目の前の彼女を助けることで精一杯で、言葉の意味まで考える余裕なんてなかった。
「その約束を果たすまでは、勝手に帰られても困るわ」
ルシャは襟元を少し引き下げた。
首元に、黒い紋様が刻まれている。
タトゥーにも似たそれを指先で示し、彼女は得意げに胸を張った。
「これが、契約の証よ」
「いや、見せられても分からないって」
助けを求めるようにマミさんを見る。
彼女は困ったように笑い、座るよう手で促した。
「順を追って話そう。まず昨夜、君たちの間に魔術による契約が成立した。それは間違いない」
「僕が、何も知らなくてもですか」
「ああ。そこが厄介なんだよ」
僕は浮かせかけていた腰を、椅子へ戻した。
納得したわけではない。
立っていても、この話が終わりそうになかっただけだ。
「……その契約って、何をするものなんですか」
「願いの交換よ」
答えたのはルシャだった。
紅茶のカップへ指を添えたまま、真っ直ぐに僕を見る。
「片方の願いが叶ったら、今度はもう片方の願いを叶える。私たちが交わしたのは、そういう契約なの」
「恩返しみたいなものか?」
「ええ。そう思ってもらっていいわ」
それなら、話は分かる。
僕は彼女を助けた。
だから彼女も、僕に何かを返そうとしているわけだ。
「なんだ。そういうことなら、早く言ってくれよ」
少しだけ肩の力が抜けた。
何をさせられるのかと、身構えて損をした気分だ。
「別に、お礼が欲しくて助けたわけじゃないんだ。何もしてくれなくていいよ」
ルシャが首を傾げた。
伝わっていないらしい。
「怪我が治ったなら、それでいいってこと。僕は何もいらないから」
もし、それでは契約が終わらないというのなら、何か簡単なお願いでもすればいい。
食器を洗ってもらうとか、コーヒーを一杯淹れてもらうとか。
それで帰れるなら、別に何だってよかった。
そう考えていた僕の向かいで、マミさんがそっと目を伏せた。
何故か、見てはいけない勘違いを見てしまったような顔だった。
「何を言っているの。願いを叶えてもらったのは、シヲリの方でしょう」
笑いかけたまま、顔が止まった。
「……は?」
「私はシヲリに、私を助けさせてあげたのよ。今度はシヲリが、私の願いを叶える番じゃない」
しばらく、彼女の顔を見つめた。
母国語を喋っているはずなのに、うまく意味を受け取れない。
聞き間違いであってほしいと願ったけれど、ルシャは当然のことを言った顔で僕の返事を待っている。
「その説明では、納得できるものもできなくなるよ、ルシャ君」
マミさんが額へ手を当てた。
僕はすぐさま、そちらへ向き直る。
「シヲリ君。君はあの時、彼女を助けたいと願ったんだろう?」
「……はい」
「契約は、その願いを拾った。そしてルシャ君は助かった。つまり、まず君の願いが叶えられたことになる」
「……」
「だから今度は、君が彼女の願いに応える側に残っている」
隣でルシャが、ほら、と頷いた。
「私の言った通りでしょう」
「言い方には、随分と問題があったけれどね」
「仕組みにもあると思うんですが」
助けた相手から、助けさせてあげた恩を返せと言われる。
しかも、それを大真面目に説明されている。
魔術というものは、理不尽をもっともらしく言い換えるための技術なのだろうか。
「……断れないんですか」
「成立した契約を、君一人の都合で取り消すことはできない」
「じゃあ、無視して帰ったら?」
マミさんの表情から、笑みが消えた。
「それは、勧められないね」
静かな声だった。
その変化に、僕も口を閉じる。
「契約魔術は、『約束を守ろう』と思わせる術じゃない。『約束が果たされる』という結果そのものを、先に世界へ固定する」
「……結果を?」
「ああ。そして成立した契約を当事者が放棄すれば、固定された結果との間に矛盾が生じる。その負担は、契約を結んだ本人へ返ってくる」
知らない理屈だった。
けれど、続きを聞きたくないことだけは分かった。
「負担って、どれくらいの……」
「命に関わる。最悪の場合は、死ぬ」
膝の上で、指先が強張った。
冗談ですよね、と言いたかった。
けれど、マミさんは笑っていない。
「帰っただけで、ですか」
「家へ帰ること自体が問題なんじゃない。契約を放棄することが危険なんだよ」
背中を、冷たいものが伝った。
いつ、何をすれば放棄になるのかさえ、僕には分からない。
自分が交わした約束なのに、自分の知っている約束とは、何もかもが違っている。
「そんなもの、使っていいんですか」
「よくない」
返事は即答だった。
「だからこそ、魔術士の間でも禁忌とされている。少なくとも、軽々しく行使していい類の術ではないよ」
「え、そうなの?」
隣から、素っ頓狂な声が上がった。
ゆっくりと顔を向ける。
ルシャは目を丸くして、マミさんを見ていた。
「なんでお前が知らねぇんだよ!?」
「仕方ないじゃない。そんなこと、本には書いてなかったんだから」
「本?」
「私のいたところにあったのよ。そこに方法が書いてあったから、覚えて使っただけ」
何が悪いの、とでも言いたげな顔だった。
僕は額を押さえる。
言いたいことが多すぎて、どこから口に出せばいいのか分からない。
「なんで禁忌の術が、そんな普通に本に書いてあるんだよ」
「知らないわよ。書いてあったものは仕方ないでしょう」
「使う前に疑問に思えよ、少しは」
「だから、使っちゃ駄目だなんて知らなかったんだってば!」
声を張り上げたルシャが、ふん、と顔を背ける。
僕は一度口を閉じ、鼻から長く息を吐いた。
言い合ったところで、契約とやらが消えるわけではない。
今は、ほかに確かめることがある。
「……ちなみに、お前のいたところって?」
「私が逃げ出してきたところよ」
ますます分からなくなった。
「逃げ出してきた?」
「ええ。ずっとあんなところにいるつもりなんてなかったもの」
あまりにも軽い口調だったので、一瞬聞き流しそうになる。
けれど、昨夜の血まみれの姿が脳裏を過り、背筋が冷えた。
「……それ、大丈夫なのか」
「何が?」
「何がって、連れ戻しに来たりとか。追われてるんじゃないのか」
ルシャはカップを持ち上げ、少し考えるように目を上へ向けた。
「まぁ、追っては来るでしょうね」
「そんな他人事みたいに」
「大丈夫よ。ここへ来るまでも、追ってきた連中は蹴散らしてきたもの」
安心させるつもりなのか、得意げな顔をされる。
僕は彼女の腹の辺りへ視線を落とした。
服に隠れているそこには、昨夜、確かに穴が開いていた。
「……あんな怪我をしてたのに?」
「今は治ったでしょう」
答えになっていない。
少なくとも、僕の心配には一つも答えていなかった。
「その辺りは、私も詳しく聞かせてもらうつもりだよ」
マミさんが口を挟む。
一度ルシャを見てから、僕へ視線を戻した。
「そして、シヲリ君。君にも、もう一つ話がある」
「……まだあるんですか」
これ以上、何を聞かされるのだろう。
身構えた僕の前で、マミさんがすっと指を三本立てた。
「三百万」
「……何がですか」
「昨夜の治療と、保護の代金だよ」
僕は、彼女の指と顔を交互に見た。
「誰に言ってます?」
「君に」
「なんで?」
敬語が抜けた。
戻す余裕なんて、なかった。
「彼女を助けてほしいと頼んだのは、君だからね」
「いや、確かに頼みましたけど、三百万って……」
「傷を治すだけの話ではなかったんだよ」
マミさんは、立てた指を一本折る。
「まず、あの状態の彼女を治療したこと。普通の処置で済む怪我ではなかったのは、君も見ただろう」
もう一本。
「次に、追われている彼女を匿うこと。追手がここを突き止めれば、私も無関係ではいられない」
最後の一本を折る前に、その指先が僕へ向けられた。
「そして、一般人である君をこの件に関わらせること。君には何が危険なのかも、誰を頼ればいいのかも分からない。事情を説明し、必要なら守るところまで、私が引き受ける」
最後の指が畳まれた。
「治療と保護、それに伴う危険まで含めれば――まぁ、それくらい請求しても罰は当たらないだろうね」
「そんな説明、昨日はありませんでしたけど」
「値段の相談をしている余裕は、なかったからね」
確かに、なかった。
なかったけれど。
だからといって三百万を請求されては、たまったものではない。
僕が一体どれだけ働けば払えるのか。考えることすら嫌になる金額だった。
「お金のことなら、僕じゃなくて、治してもらった本人に言ってください」
隣を示すと、ルシャはあっさり首を振った。
「私、お金なんて持っていないわ」
「少しは申し訳なさそうに言えよ」
胸を張るようなことではない。
僕はもう一度、マミさんを見る。
「僕だって、三百万なんて払えません」
「だろうね」
「だろうね、じゃなくてですね」
マミさんはコーヒーを一口飲み、カップを置く。
それから、僕の反応を確かめるように少しだけ身を乗り出した。
「そこで、相談だ」
嫌な予感しかしなかった。
「君がルシャ君との契約を無事に終えてくれるなら、この代金はなかったことにしてあげてもいい」
「……何で、そこで契約の話になるんですか」
「途中で投げ出されて、君に何かあっても困るからね。事情を知った以上、私も放ってはおけない」
穏やかな声だった。
けれど、言っていることは少しも穏やかではない。
「契約が終わるまで、私も力を貸そう。君はルシャ君の願いを叶える。そうすれば契約は終わるし、私も一つ厄介事を片づけられる。三百万の支払いも不要だ」
「……」
「悪い話ではないと思うけれど?」
「選択肢があるように聞こえないんですが」
「そうかい?」
とぼけるのが、妙に上手い人だった。
この人に助けられた。
それは間違いない。
そのはずなのに今は、助けを求められる相手が一人もいないような気がした。
魔術士。
独自の決まりがあると、この人は言った。
その決まりの中では、約束を破れば命を落とすことがあり、人を助けてほしいと頼めば三百万を請求されるらしい。
ついさっきまで、同じ朝食を食べていた。
コーヒーを飲んで、他愛ない話をしていたはずだった。
なのに今は、食卓の向こう側だけが、僕の知っている世界ではなくなっていた。
「……契約トラブルの相談窓口って、あります?」
「君の事情をそのまま話せる場所は、そう多くないだろうね」
「クーリングオフは」
「ないね」
即答だった。
僕は椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
帰りたい。
さっきよりも、ずっと切実に。
「ようやく分かった?」
ルシャの声に視線を戻す。
彼女は腕を組み、ようやく話が通じたとばかりに頷いた。
「勝手に帰るなんて、最初から無理なのよ。ちゃんと契約を果たしてもらうから」
「……分かったよ」
分かっただけだ。
納得したわけでも、許したわけでもない。
けれど、ここで言い合いを続けたところで、借金も契約も消えてはくれないらしい。
なら、終わらせるしかない。
できるだけ早く。
できるだけ余計なことに関わらずに。
そう思うことにした。
「それで、お前は何をしてほしいんだ」
ルシャが僕を見る。
「何をすれば、その契約は終わる? 先に言っておくけど、僕にできることにしてくれよ」
空を飛べだの、追手を倒せだのと言われても困る。
こちらは、朝食を作るくらいしかできない一般人なのだ。
ルシャは満足そうに頷いた。
その顔には、やっと話が通じたわね、と書いてある。
何故、僕が分からずやだったことになっているのか。
喉まで出かかった文句を、残っていたコーヒーと一緒に飲み込む。
――我慢だ。
これさえ終われば、帰れる。
そう自分に言い聞かせる僕の前で、ルシャは自分の胸へ手を当てた。
ぱっと表情を明るくし、どこか誇らしげに顎を上げる。
「私を、楽しませなさい!」
一瞬、食卓が静まり返った。
――我慢など、できるはずもなかった。