魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
頬を、何かがつついていた。
一度、二度。少し間を置いて、今度は額。
鬱陶しくて顔を背けると、それを追いかけるように、甘い柑橘系の匂いが近づいてくる。
「シヲリ。朝よ」
聞き覚えのある声に、嫌な予感がした。
できれば、もう少しだけ寝ていたい。
そう思って毛布を引き上げようとしたけれど、何かに押さえられているのか、胸のあたりから動かなかった。
「……起きてる」
「目が開いてないじゃない」
「閉じてるだけだ」
「それを寝てるって言うのよ」
正論だった。
言い返す気力もなく、重たい瞼を持ち上げる。
銀髪の女が、僕の顔を覗き込んでいた。
「……近い」
「おはよう、シヲリ」
「だから、近いって」
額を押して遠ざけようとした手を、あっさりと掴まれる。
そのまま上へ引かれ、僕は半ば無理やり身体を起こすことになった。
「いっ……」
首の後ろから肩にかけて、鈍い痛みが走る。
ついでに、曲げたままだった膝まで少し痛い。
そもそも、このソファは人間が一晩眠るためのものではない。
座って本を読む分には不満もないけれど、横になるには、どうしたって長さが足りなかった。
首をさすりながら、部屋の奥へ目を向ける。
見慣れた本棚に、小さな机。
その横では、昨夜まで僕が使っていたベッドの掛け布団が、無造作にめくれ上がっている。
……そうだった。
ここは、僕の部屋だ。
そして、その僕の部屋に、何故かこいつがいる。
「何よ。まだ眠いの?」
「誰かさんと違って、寝心地がよくなかったからな」
ルシャは首を傾げた。
本当に何のことか分かっていないらしい顔だったので、説明する気も失せる。
昨日、マミさんの家で、僕は散々な話を聞かされた。
魔術。魔術士。破れば命に関わる契約。
おまけに、三百万。
どれか一つでも十分だったのに、まとめて押しつけられたのだから、たまったものではない。
そして、ようやく帰れることになったと思ったら。
『じゃあ、私も行くわ』
ルシャが、さも当然のように言い出したのだった。
『……どこへ』
『シヲリの家に決まってるでしょう』
『決まってない。何一つ決まってない』
帰宅することと契約を放棄することは違う。
その点はマミさんにも確認したし、翌日また会えば済む話だ。
そう説明したのだけれど、ルシャはまるで聞く耳を持たなかった。
『私を楽しませるんでしょう? だったら、一緒にいた方がいいじゃない』
『僕は、よくないんだよ』
『留守番なんて嫌よ。私も行くわ』
結局、最後まで言い張ったこいつが勝った。
マミさんにも、連絡を取れるようにしておくこと。それから、何かあればすぐに知らせることを念押しされ、僕はルシャを連れて帰宅した。
帰ってからも、平穏とはいかなかった。
部屋を見れば狭いと言い、本棚を見つければ勝手に覗き、コーヒーを出せば苦いと顔をしかめる。
そのくせ、ベッドだけは気に入ったらしい。
気づけば端に腰を下ろし、ここで寝るのね、と当然のように確認してきた。
床で寝ろと言えるわけもなく、結果、部屋の主である僕がソファへ追いやられた。
「……お前は、よく眠れたか」
「ええ。なかなか悪くなかったわ」
「それは何より」
こちらの首の痛みも、少しは報われるというものだ。
そういうことにしておこう。
机の上に置いていた眼鏡をかけ、毛布を畳む。
その間も、ルシャは僕のそばを離れず、何かを待つように立っていた。
「何だよ」
「今日は、出かけるんでしょう?」
「……朝ごはんを食べてからな」
「それから?」
「僕が着替える」
「それから?」
「それから出かけるから、少し待ってろ」
ルシャは満足そうに頷いた。
朝から随分と元気なことである。
窓の向こうは、薄い雲に覆われていた。
カーテンを開けると、冬の白っぽい光が狭い部屋へ入り込んでくる。
その光の中で銀髪を揺らし、ルシャはもう本棚を覗き始めていた。
どうして、こうなった。
昨日から何度目になるか分からない言葉を胸中で吐き、僕は台所へ向かった。
◆
「シヲリ、あれは何?」
ルシャが指さした先には、キッチンカーが停まっていた。
看板には色とりどりの果物と、生クリームをたっぷり詰めたクレープの写真が並んでいる。
「クレープ屋」
「食べてみたいわ」
「……朝ごはん、食べたばかりだろ」
「それとこれとは、別の話よ」
そう言って、ルシャは迷いなくキッチンカーへ向かっていく。
僕はその背中を追いながら、今日何度目かのため息を吐いた。
結局、契約をどうすれば終えられるのか、はっきりした答えは出ていない。
彼女の願いは、『私を楽しませなさい』。
意味だけなら分かる。
むしろ、単純すぎるくらいだ。
問題は、何を、どの程度すれば達成したことになるのか、さっぱり分からないことだった。
マミさんにも、まずは本人の望むことをしてみるしかないと言われた。
そうして最初に挙がったのが、街を見て回りたい、という要望だったのだ。
そんなわけで、僕たちは白杜市の商店街を歩いている。
半端に都会で、半端に田舎。
大きな百貨店こそないけれど、一通りの買い物には困らない、僕にとっては見慣れた場所だった。
もっとも、ルシャにとっては違うらしい。
看板を見つけては足を止め、店先の品物を覗いては僕を呼ぶ。
この調子では、商店街を端まで歩くだけで日が暮れてしまいそうだった。
「んーっ。これ、なかなか美味しいわね!」
早速手に入れた苺のクレープを頬張り、ルシャが目を細める。
一口食べるたび、口の中のものがなくなるまで幸せそうに味わって、それからまた次の一口へ進んでいた。
……まぁ、楽しそうではある。
少し毒気を抜かれながら、僕もついでに買った自分の分へ口をつけようとする。
その手が、横から感じる視線に止まった。
「……一口いるか?」
「いいの? ありがとう、シヲリ!」
僕の返事を待つまでもなく、ルシャが顔を寄せてくる。
差し出したクレープを一口齧ると、今度はそちらの味を確かめるように、ゆっくりと頷いた。
「こっちも美味しいわね」
「そりゃよかった」
多分、悪い奴ではないのだろう。
常識がないのと、人の話を聞かないのと、態度がでかいのを除けば。
……除くものが多すぎる気もするが。
「私のも一口あげるわ」
目の前にクレープが差し出される。
横を見ると、ルシャが満面の笑みで僕を見ていた。
こういうところだけ見ていると、あれこれ警戒している自分の方が馬鹿らしくなってくる。
「……ありがとう」
差し出されたクレープへ顔を寄せた、その瞬間だった。
ひょい、と目の前から遠ざかる。
「うっそーん」
空を齧りかけた僕の前で、ルシャは自分のクレープを美味しそうに頬張った。
前言撤回。
こいつは、間違いなく悪い奴だ。
「シヲリ、変な顔」
「誰のせいだと思ってる」
「もう一回いる?」
「今度やったら、お前の分も全部食うからな」
クレープを守るように胸元へ抱えたルシャが、楽しそうに笑う。
……本当に、朝から元気な奴だ。
◆
その後も、ルシャは気になるものを見つけるたびに足を止めた。
雑貨店の窓を覗き、店先に並んだ食器を眺め、何故か花屋の鉢植えにまで真剣な顔をする。
物珍しいのは分かるけれど、そのたびに銀髪を大きく揺らして方向を変えるので、こちらは人にぶつからないか気が気ではなかった。
昼食を済ませたところで、僕は通りに面した服屋を指さす。
「次、ここに寄っていいか?」
「服?」
ルシャは店先を見上げ、すぐに興味を失ったような顔をした。
「私は別にいいわ。着られれば何でもいいもの」
「僕がよくないんだよ。その格好、結構目立つぞ」
髪や顔立ちだけでも、十分すぎるほど人目を引く。
そこへ、この辺りではまず見かけない格好まで加わるのだから、隣を歩く身にもなってほしかった。
追われているという話も、まだ頭の隅に残っている。
せめて服くらい、周囲に馴染むものへ変えておいた方がいいだろう。
けれど、ルシャは不思議そうに僕を見返した。
「大丈夫よ。私のことをちゃんと分かる人なんて、そう多くないもの」
「……何だよ、それ。知り合いが少ないってことか?」
「まぁ、似たようなものね」
何でもないことのように言って、彼女は隣の店へ目を向ける。
僕は、その横顔を見つめた。
そういえば、これだけ目立つ見た目をしているのに、振り返る人間は思ったほど多くなかった。
単に僕が気にしすぎているだけなのかもしれない。
けれど、それと服を用意しなくていいことは、また別の話だ。
「どっちにしても、替えの服は必要だろ。ずっと同じものを着てるわけにもいかないし」
「……それもそうね」
ようやく納得したらしく、ルシャは僕について店へ入った。
暖房の利いた店内には、冬物の服が所狭しと並んでいる。
入口の近くにはコート。その奥には、ニットやシャツ。
僕は値札を確かめながら、なるべく普段使いできそうなものを探していく。
ルシャはというと、僕の後ろで袖口についていた飾りを弄っていた。
先ほどまでの、店という店を覗き込む勢いはどこへ行ったのか。
「色の好みとか、ないのか?」
「特にないわ」
「形は?」
「動きにくくなければ」
「本当に興味ないんだな」
「だから言ったじゃない」
もっともだった。
僕は手に取ったニットを一度戻し、その隣にあった淡い青のものを引き出す。
ルシャの前へかざしてみる。
雪のような銀髪とも、色が喧嘩しない。
少なくとも悪くはなさそうだった。
「これ、どうだ?」
「シヲリは、それがいいの?」
「僕に聞かれてもな。着るのはお前だろ」
「シヲリが選ぶって言ったんじゃない」
そういう意味で言ったつもりはないのだけれど。
反論しかけて、やめた。
ここで押し問答をしていても、服は決まらない。
サイズを確かめ、合わせられそうな濃い色のスカートと、厚手のタイツを探す。
最後に、飾りの少ないチャコールグレーのコートを選んだ。
自分の服ならすぐに済むのに、人のものとなると、途端に正解が分からなくなる。
「ひとまず、着てみてくれ」
「ええ」
ルシャは差し出した服を受け取ると、その場で自分の襟元へ手をかけた。
「待て待て待て」
「何よ」
「着替えるところがあるから。こっち」
手首を押さえ、試着室へ連れていく。
昨日のお腹といい、こいつには場所を選ぶという発想がないのだろうか。
近くにいた店員へ声をかけると、女性は僕の持っていた服へ目を落とした。
「……ご試着ですか?」
「はい。彼女の分なんですけど」
隣のルシャを示す。
けれど、店員の視線は一度、僕の肩越しを素通りした。
一拍遅れて戻り、ようやくルシャの姿を捉える。
「あ……失礼いたしました。こちらをお使いください」
僕は軽く頭を下げ、ルシャへ服を渡した。
ルシャは何も気にした様子もなく、案内された試着室へ入っていく。
カーテンが閉まるのを見届けてから、何となく店員の方を振り返った。
彼女はもう別の棚へ移り、何事もなかったように服を整えている。
……気づかなかったのか?
すぐ隣にいたのに。
ほんの少し引っかかったものの、忙しかっただけだろうと考え直した。
「シヲリ」
しばらくして、カーテンの向こうから呼ばれる。
「着替え終わったか?」
「ええ。これでいいのかしら」
カーテンが開いた。
淡い青のニットに、落ち着いた色のスカート。
コートはまだ羽織らず、片腕に掛けている。
ただ服が変わっただけなのに、印象まで少し違って見えた。
見慣れない格好をした、得体の知れない女。
ついさっきまでそう見えていたルシャが、今は休日に買い物へ来た、同年代の女の子に見える。
「……どう?」
ルシャがわずかに眉を寄せた。
黙っていたことに気づき、僕は慌てて頷く。
「いいと思う。似合ってる」
「そう」
彼女は鏡へ向き直った。
興味がないと言っていた割には、少し身体の向きを変えたり、袖を引いたりしている。
それから鏡越しに、もう一度僕を見た。
「さっきのより?」
「ああ。街を歩くなら、こっちの方が自然だと思う」
「ふうん」
返事はそっけなかった。
けれど、鏡の前からなかなか動こうとしない。
「きついところとか、ないか?」
「ないわ。これでいい」
「じゃあ、決まりだな」
「ええ」
そう言って、彼女はもう一度だけ鏡の中の自分へ目を向けた。
会計を済ませ、元の服は袋へ入れてもらう。
着替えたまま店を出たルシャは、コートの袖から手を出したり引っ込めたりしながら、僕の少し前を歩いていた。
「歩きにくくないか?」
「大丈夫よ」
「ならよかった」
返事をして、手元の袋を見る。
財布は、随分と軽くなった。
三百万に比べれば安いものだと、一瞬でも考えてしまった自分が怖かった。
◆
夕方に差しかかる頃、ルシャの足がまた止まった。
今度は、商店街の端にあるゲームセンターだった。
開いた入口から、電子音と賑やかな音楽が溢れている。
ルシャはそれを聞き分けるように少し首を傾げ、ガラス越しに店内を覗き込んだ。
「あれは?」
指の先には、クレーンゲームが並んでいる。
透明な箱へ顔を近づけ、彼女はまじまじと中を見つめていた。
「景品を取るゲームだよ」
「取ったら、もらえるの?」
「取れればな」
そう答えながら隣へ並び、僕も箱の中を見る。
変なぬいぐるみがいた。
丸い鳥のような身体に、不釣り合いに短い脚。
半分閉じた目と、何かに不満がありそうな口元。
頭には申し訳程度に、毛が三本だけ生えている。
可愛いかと聞かれれば、少し考える。
少なくとも、愛想は悪い。
「これがいいわ」
「……これ?」
「ええ」
即答だった。
ルシャはガラスへ指先を添え、ぬいぐるみと目線を合わせている。
「欲しいのか」
「欲しいわ」
僕はぬいぐるみを見る。
ぬいぐるみも、不服そうな顔でこちらを見ていた。
どことなく、隣の女に似ている気がする。
「今、変なこと考えたでしょう」
「何も」
鋭いところまで似ていた。
取り方を確かめ、硬貨を入れる。
こういうものが特別得意なわけではない。
けれど、台の端へ引っかかるように置かれたぬいぐるみは、少し動かせば落ちそうに見えた。
そう思わせること自体が店の狙いなのかもしれないけれど。
「このボタンで横に動かして、こっちで奥へ動かす」
「それだけ?」
「それだけ。ただし、狙ったところで止めないといけない」
ルシャが僕の手元へ顔を寄せる。
近い、と言う前に、彼女の視線はクレーンへ移った。
一回目は、頭の辺りを狙った。
降りてきた爪が丸い身体を挟み、わずかに持ち上げる。
ルシャが息を止める。
その直後。
ぬいぐるみは、ぽとりと元の場所へ落ちた。
「……離したわよ」
「そういうものなんだよ」
「ちゃんと掴んでたじゃない」
「最後まで掴んでてくれるとは限らないんだ」
納得できないらしく、ルシャは機械を睨むように見上げた。
その目が、少しだけ険しくなる。
「私がやるわ」
「はいはい」
場所を譲ると、彼女は真剣な顔でボタンへ指を乗せた。
クレーンを横へ動かし、今度は奥へ。
止める直前に迷ったせいか、爪はぬいぐるみの向こう側へ降りていった。
「あ」
「あー……」
閉じた爪が、虚しく空中を掴んだまま戻ってくる。
ぬいぐるみは微動だにしなかった。
「……もう一回」
「待て。そうやって続けると、きりがないから」
僕は残りの小銭を確かめた。
服を買った後だ。
熱くなって際限なく使うわけにはいかない。
「あと二回。それで駄目なら、今日は諦めよう」
「でも」
「あと二回」
ルシャは口を尖らせた。
けれど、しばらくぬいぐるみを見つめた後、小さく頷く。
「……分かったわ」
僕はもう一度、ガラスの向こうを確かめた。
最初の一回で、身体が少し斜めになっている。
持ち上げるより、端へ押した方がよさそうだった。
次の一回では、頭の横へ爪を落とした。
閉じる爪に押されて、丸い身体がわずかに回る。
短い脚が、台の端からはみ出した。
「動いた」
「見えてる」
「もう少しよ、シヲリ」
「見えてるって」
肩のすぐ横で、ルシャが身を乗り出している。
僕よりも、よほど真剣だった。
その様子がおかしくて、笑いそうになるのを堪える。
最後の硬貨を入れた。
さっきよりも少しだけ手前へ、爪の位置を合わせる。
ボタンから指を離すと、クレーンがゆっくりと降り始めた。
爪の先が、ぬいぐるみの頭を押す。
丸い身体が傾き、台の縁で一度止まった。
「……いけ」
どちらが言ったのか、分からなかった。
爪が閉じる。
その動きに引っかけられた身体が、もう少しだけ前へずれた。
次の瞬間、ぬいぐるみが取り出し口へ転がり落ちる。
「取れた!」
ルシャが僕の袖を掴んだ。
そのまま腕を引かれ、僕は少し体勢を崩す。
「見た? 今、落ちたわよ!」
「見てたよ。僕がやったんだから」
「早く、早く取って」
急かされながら屈み、取り出し口へ手を入れる。
引っ張り出したぬいぐるみは、思っていたよりも柔らかかった。
間近で見ても、相変わらず不満そうな顔をしている。
「ほら」
差し出すと、ルシャは両手で受け取った。
丸い身体を指先で押し、短い脚を摘まみ、正面から顔を覗き込む。
そうして一通り確かめた後、胸元へぎゅっと抱き寄せた。
「……ふふ」
こぼれた笑いは、小さかった。
さっきまで騒いでいた時とは違う、ひどく柔らかな顔だった。
「ありがとう、シヲリ。大切にするわ」
思いがけない言葉に、返事が遅れる。
僕は目を逸らし、空になった取り出し口を何となく眺めた。
「……取れてよかったな」
「ええ」
どうにも、調子が狂う。
僕はただ、契約を果たすために付き合っているだけだ。
そう言おうと思えば、言えたはずなのに。
嬉しそうにぬいぐるみを抱いている姿を見ていると、わざわざ口にする気にはなれなかった。
◆
ゲームセンターを出る頃には、空はすっかり薄暗くなっていた。
商店街の看板に灯りが入り、店先から漏れる暖色の光が、歩道をまだらに照らしている。
昼間より冷たくなった風に、僕はコートの襟元を寄せた。
隣ではルシャが、ぬいぐるみを抱えて歩いている。
服の入った袋を持とうかと聞いても、それは僕が持つものだと言われた。
どうやら、この変な鳥だけは自分で運ぶらしい。
「……これで満足ですか、姫」
少し皮肉を込めて尋ねる。
ルシャは顔を上げ、あっさりと頷いた。
「ええ。なかなか楽しい一日だったわ」
即答だった。
こうも素直に言われると、こちらまで少し嬉しくなってしまう。
……待て。
今、楽しいと言ったか。
「それじゃあ、これで契約は終了ということで?」
ルシャは僕の顔を見る。
それから、何を言っているのか分からないというように首を傾げた。
「明日は何をするの、シヲリ」
「人の話、聞いてたか?」
「聞いていたわよ。まだ終わっていないでしょう」
襟元から覗く黒い紋様を、彼女が指先で示す。
そこには、昨日と何一つ変わらない印が残っていた。
「……楽しかったんじゃないのか」
「楽しかったわ」
「じゃあ、何で」
「私に聞かれても困るわよ。消えていないものは、消えていないんだもの」
僕は頭を抱えた。
一日付き合って、服を買って、クレーンゲームまでした。
それでまだ足りないとなると、一体どれだけ楽しませればいいのだろう。
ルシャはそんな僕を置いて、数歩先へ出る。
新しいコートの裾を揺らしながら、腕の中のぬいぐるみへ目を落としていた。
その背中を眺めながら、僕は今日一日のことを思い返す。
大変だった。
金も使ったし、振り回されたし、クレープだってまともに食べさせてもらえなかった。
これだけ付き合っても契約が終わらないことには、大いに不満がある。
けれど。
……案外、悪くなかったな。
そんなことを考えた自分に、少しだけ驚いた。
魔術だの、禁忌だの、命に関わる契約だの。
昨日は聞くだけで気が重くなるような話ばかりだった。
なのに今日したことといえば、街を歩いて、服を選んで、ぬいぐるみを取っただけだ。
いつも通りではない。
それでも、どれも僕の知っている日常の中でできることだった。
「シヲリ、遅いわよ」
振り返ったルシャが、不満そうに僕を呼ぶ。
胸に抱えた鳥と、よく似た顔だった。
思わず笑うと、彼女はますます眉を寄せる。
「何よ」
「いや。そいつ、お前に似てるなって」
「どこが?」
「目のあたり」
「私、こんな変な顔してないわよ」
そう言いながら、ルシャはぬいぐるみを持ち上げ、真剣な顔で見比べ始めた。
どうせ、契約を果たすまでは付き合うしかない。
それなら、ずっと嫌な顔をしているより、自分も楽しんでしまった方がいいのかもしれない。
僕は手にした袋を持ち直し、彼女の隣へ並ぶ。
雲の切れ間には、薄い月が顔を覗かせていた。
冬の夜の冷たい空気を吸い込み、少しだけ歩幅を緩める。
「帰ったら、晩ごはんね」
「……お前、今日どれだけ食うつもりだよ」
「何にするの?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、私が考えてあげるわ」
頼んでもいないのに、ルシャが楽しそうに言った。
僕はため息をつきながらも、その続きを聞いていた。
◆