魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
「シヲリー?」
朝食を終え、使った皿を流しへ運んでいる最中。リビングから一度目の催促が飛んできた。
振り返れば、ルシャがカウンターに両手をついて、こちらを眺めている。
「ねぇシヲリー、まだー?」
「まだ」
顔を洗って歯を磨いていると、二度目。
鏡越しに、ルシャが洗面所を覗き込んでいた。
「シヲリー?」
「だからまだだって」
着替えを済ませ、財布と携帯を確認しているところで三度目。
「……お前、朝から何回呼ぶんだよ」
呆れながら部屋を出ると、ルシャはとっくに出かける準備を終えていた。
コートまでしっかり着込み、玄関の前で待ちきれないように身体を揺らしている。
朝起きた時から、ずっとこの調子だった。
僕が朝食を作っている間は今日どこへ行くのかと何度も聞かれ、食べている最中には何時に出るのかと急かされ、食べ終わったと思えば誰より早く支度を済ませて玄関をうろうろしている。
遠足前の子どもでも、もう少し落ち着きがあるんじゃないだろうか。
「もう、随分と遅かったわね、シヲリ」
僕の姿を見つけるなり、ルシャは腰に手を当てて小さく息をついた。
随分と待たされた、とでも言いたげな顔をしている。
「遅くないって。むしろ予定より早いくらいだよ」
時計を見れば、まだ八時半だ。
玄関の段差に腰を下ろし、靴紐を結ぶ。その横では、ルシャが扉へ視線をやったり、僕の手元を覗き込んだりと、相変わらず落ち着きがない。
「そんなに急がなくても、水族館は逃げないよ」
そう言うと、ルシャはすぐさまこちらを振り返った。
銀灰色の瞳をぱちりと瞬かせ、それから何を当たり前のことを、とでも言いたげに胸を張る。
「でも、時間は逃げるわ」
「……それはそうだけど」
軽く宥めるつもりが、妙にもっともなことを返されてしまった。
ルシャは僕の返事を待つこともなく、再び扉へ向き直る。
今にも先に出ていきそうな背中を見ていると、今日という日をどれだけ楽しみにしていたのかは、聞くまでもなさそうだった。
昨日の夜、どこかへ連れていってほしいと言い出したのはルシャの方だ。そのせいで僕は寝る直前まで行き先を調べる羽目になり、少しばかり寝不足になっている。
まあ、ここまで楽しみにされているなら、調べた甲斐くらいはあったのかもしれない。
最後に忘れ物がないことを確かめ、玄関の鍵を手に取る。
「ほら、行くぞ」
待ってましたと言わんばかりにルシャの顔が明るくなり、扉が開くより早く僕のすぐ横まで寄ってくる。
冷たい冬の空気が部屋へ流れ込んだ。
その中へルシャが真っ先に踏み出し、僕も後を追って部屋を出た。
◆
電車に揺られること、およそ三十分。
駅からさらに十分ほど歩いたところで、目的の水族館へ辿り着いた。
入口へ続く階段を上りながら、ルシャが建物を見上げる。
昨日買ったコートの襟元から、白い息がふわりと逃げていった。
「ここ?」
「ああ。ここ」
返事を聞くや否や、ルシャは僕を置いて階段を上っていく。
「おい、そんな急がなくても――」
「早く、シヲリ」
「はいはい」
まったく、誰が連れてきたんだか分からない。
けれど、入館してものの数分で。
楽しんでもらえるだろうか、なんて心配は、すっかり必要なくなっていた。
「わぁ……」
通路の先に広がる青を前に、ルシャが足を止めた。
両側の大きな水槽には、岩場や海藻の間を縫うように魚が泳いでいる。
頭上から差し込む光が水に揺らぎ、その影が床にも、僕たちの服にも淡く映っていた。
「海の中って、こんな感じなのかしら」
ルシャは水槽へ近づき、顔を上げた。
目の前を横切った魚を追って、銀灰色の瞳がゆっくりと動く。
「あ、見て、シヲリ。この子、とても可愛いわ」
「どれ?」
「ほら、あそこ。岩のところにいる子」
「……あの、しかめっ面の?」
「可愛いでしょう」
昨日のぬいぐるみといい、どうやら好みには一貫性があるらしい。
僕が返事を考えている間に、彼女はもう別の魚を見つけていた。
最初の通路だけで、随分と時間を使った。
そろそろ次へ行かないかと声をかけても、ルシャは水槽から目を離さない。
「もうちょっと見ていきましょう。ほら、あそこ。あの隙間にもいるわ」
「分かったから、そんなに引っ張るなって」
袖を掴まれるまま隣へ寄る。
指さされた岩の陰を覗き込むと、小さな魚がこちらへ顔を向けていた。
見つけたことが嬉しいのか、ルシャが得意げに僕を見る。
……まあ、楽しんでいるなら何よりだ。
先を急ぐ理由もない。
僕は館内案内を畳み、コートのポケットへしまった。
そこから先も、ルシャの足は忙しかった。
水槽の前ではなかなか動かないくせに、次の展示を見つけると、今度は僕を置いて先へ行こうとする。
見失わないようについていくだけでも、なかなか大変だった。
ペンギンの展示では、一羽が段差を下りようとしているところに出くわした。
足を出しかけては引っ込め、下を覗き込んでは、また迷っている。
「あはは。ねぇ、見て。あの子、なんだかシヲリに似ているわ」
「どこが」
「考えすぎて、なかなか動かないところ」
やがて、後ろから来た一羽に急かされるように、そいつは段差を下りた。
隣でルシャが、ほら、と笑う。
何が、ほら、なのか。
「それなら、あそこで座ってるのがマミさんか?」
「どれ?」
「奥の、全然動かないやつ」
群れから少し離れた岩の上で、一羽だけが目を細めていた。
騒がしい周囲など気にも留めず、どこか気怠そうに佇んでいる。
「……確かに、似てるかも」
ルシャが口元を押さえた。
僕もつられて笑いながら、本人には聞かせられない話だな、と思った。
その後は、ちょうど開始時刻の近かったシャチのショーへ向かった。
前の方がよく見えると言い張るルシャに付き合い、結局、水飛沫がかかると注意書きのある席へ座ることになる。
ポンチョを被りながら、もう一度だけ確認した。
「本当にここでいいのか?」
「ええ。よく見えるもの」
「濡れても知らないからな」
その忠告を、彼女が思い出したかどうかは分からない。
「きゃあっ!」
大きな身体が水面へ戻り、白い飛沫が客席まで押し寄せる。
慌てて顔を伏せた僕の隣で、ルシャは声を上げて笑っていた。
「あはは! 見て、シヲリ。少し濡れちゃったわ」
「だから、もっと後ろに座ろうって言ったじゃないか」
「でも、凄かったでしょう?」
頬についた水滴を拭いながら、彼女が僕を見る。
文句を返そうとして、またプールの方から歓声が上がった。
二人揃って顔を向けると、水中の大きな影が勢いよく浮かび上がってくるところだった。
ルシャが、僕の袖を掴む。
今度は僕も、その手を気にせず、同じようにプールを見上げた。
◆
深海の展示室へ入ると、辺りは急に静かになった。
照明を落とした通路に、小さな水槽が点々と光っている。
さっきまで遠くに聞こえていた歓声も届かず、水の音と、抑えた話し声だけが耳に残った。
ルシャは案内板へ目を落とし、それから水槽を覗き込む。
ガラスへ触れそうなくらい顔を寄せるので、僕も隣へ並んで中を見た。
「そんなに近づかなくても見えるだろ」
「暗いんだから仕方ないでしょう。ほら、あそこ」
指さされた先へ目を凝らす。
薄暗い水槽の底に、黒っぽい魚がじっとしていた。頭から細長い突起が伸び、その先だけが淡く光っている。
「チョウチンアンコウか」
「知ってるの?」
「それくらいは。本で見たことあるし」
「じゃあ、雄がどうなるかも?」
「雄?」
聞き返すと、ルシャの口元が少し持ち上がった。
どうやら、知らないと踏んだらしい。
「雄はね、雌よりずっと小さいのよ」
「へえ」
「それで雌を見つけると、身体に噛みつくの」
「……いきなり怖い話になったな」
「最後まで聞きなさい」
ルシャが不満そうにこちらを見る。
「種類によっては、そのまま離れなくなるの。噛みついたところから身体が繋がって、血管まで一緒になって――最後には、雌の身体の一部みたいになるのよ」
「…………」
思っていたより、だいぶ怖い話だった。
「何、その顔」
「いや。想像してた豆知識と違った」
「そう?」
「だってそれ、もう結婚とかそういう次元じゃないだろ」
何気なく言うと、ルシャは一度きょとんとしてから、水槽へ視線を戻した。
「でも、ずっと一緒にいられるわ」
「物は言いようだな……」
「離れたくても離れられないんでしょう?」
「なおさら怖いだろ」
僕がそう返すと、ルシャは小さく笑った。
「シヲリって、案外夢がないのね」
「この話から夢を見つけられるお前が凄いよ」
まったく納得できない。
けれど、僕が呆れている間にも、ルシャは楽しそうに水槽を眺めていた。
「それにしても、意外と物知りなんだな、お前」
「本で読んだもの」
「こういう本もあったのか」
「ええ。本くらいしか、やることがなかったから」
何でもないことのように言って、ルシャはまた水槽へ目を戻した。
淡い光が頬へ映り、銀髪の輪郭が暗がりに浮かんでいる。
それ以上を訊こうとして、やめた。
「じゃあ、別に来なくてもよかったか?」
代わりに軽くそう言うと、ルシャがこちらを見る。
「馬鹿ね」
柔らかく笑っていた。
「全然違うわ」
返事が、一拍遅れた。
見慣れてきたはずの顔なのに、なぜか一瞬、目を逸らすのを忘れた。
僕をからかう時とも、何かを自慢する時とも違う。
水槽の光を受けた瞳が静かに細められ、その口元だけが柔らかく緩んでいる。
「……そっか」
それだけ答えて、水槽へ目を戻した。
ガラスの中では、チョウチンアンコウが僕たちの会話など知らないように、暗い水の底でじっとしている。
ルシャも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、さっきより少し近いところから、同じ水槽を眺めていた。
◆