魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
◆
「まだ見てるか?」
「ええ。もう少し」
館内を一周した後、僕たちは大水槽の前へ戻ってきていた。
ルシャはベンチに腰を下ろし、目の前に広がる青をぼんやりと眺めている。
頭上を、大きな影が横切った。
ジンベエザメがゆっくりと身を傾け、その下を小さな魚の群れが流れていく。
最初に見た時にはあれほどはしゃいでいたルシャも、今は顔を上げたまま、静かにその姿を追っていた。
「それなら、飲み物でも買ってくるよ」
「甘いの」
「はいはい」
すっかり注文が短くなった。
それで通じるようになっている自分も、どうかと思う。
ベンチを離れ、少し先の休憩スペースへ向かう。
自動販売機の前で財布を開きながら、何となく、さっきのルシャの顔を思い出した。
――全然違うわ。
そう言った時の、柔らかな表情。
連れてきて、よかったのだろう。
少なくとも、彼女は楽しんでいる。
僕だって、思っていたよりずっと――視界の端を、蒼いものが掠めた。
「ルシャ? 何だ、ここまで来たのか――」
振り返った言葉が、途中で止まる。
少し離れた通路に、一人の男が立っていた。
真っ黒なロングコート。
背筋の伸びた、長身の男。
そして、その両目を覆うようにつけられた黒い仮面。
舞踏会にでも向かうような格好だった。
けれど、そこに華やかさはない。
装飾らしいものはほとんどなく、目の位置に開いた細い切れ込みも、その奥は影に沈んでいる。
視線も、瞳の色さえ読み取れなかった。
奇妙なのは、その男だけではない。
すぐそばを人が通り過ぎているのに、誰一人として彼へ目を向けない。
見えていないかのように。
あるいは、そこにいるのが当たり前であるかのように、ごく自然に男を避けて歩いていく。
小銭を握った指に、力が入った。
「随分と、アレに入れ込んでいるようだな」
低く、静かな声だった。
声を張られたわけでもない。
それなのに、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「……あなたは誰ですか。僕に何か用ですか」
「知る必要はない」
男が、わずかに顎を上げる。
「貴様が、貴様のまま生きるのならばな」
魔術士。
その言葉が、真っ先に脳裏をよぎった。
右足を、半歩だけ後ろへ引く。
眼鏡越しに男を見る。
その周囲に漂う色が分かった。
最初にルシャだと思ったのは、この蒼のせいだったのだろう。
けれど、似ているのは色だけだ。
男の周囲は、異様なほど静かだった。
普通なら絶えず揺れ、形を変えるはずの魔力の靄が、風のない水面のようにぴたりと留まっている。
男が、わずかに顔を動かした。
その先には、大水槽の前に座るルシャがいる。
「ルシャに、何の用だ」
自分でも驚くくらい、硬い声が出た。
仮面の下で、男の口元がわずかに歪む。
「何の用、か」
喉の奥で、押し殺すような笑いが鳴った。
「それはこちらが聞きたいところだが――まあいい」
「……何が」
「一つ、忠告をしておこうと思ってな」
「忠告?」
男が、こちらへ顔を向ける。
仮面の奥にあるはずの目は見えない。
なのに、真っ直ぐ見透かされているような気がした。
「平穏を望むのならば、これ以上アレに近づかぬことだな」
平穏。
その言葉だけが、妙にはっきりと耳へ残った。
どうして、この男が。
僕が何を望んでいるかなんて、知っているはずもないのに。
「それは、どういう――」
館内放送が流れた。
次の催しを知らせる声に合わせて、近くの扉から人が溢れ出してくる。
僕と男の間を、いくつもの肩と背中が横切った。
「待ってください」
人の隙間を覗き込む。
黒いコートを探して一歩踏み出し、通りかかった人へぶつかりそうになった。
「すみません。……あの!」
声を上げた時には、もう遅かった。
人波の向こうに、男の姿はない。
通路の先にも、出口へ向かう人たちの中にも、それらしい影は見つからなかった。
握っていた手を開く。
掌には、小銭の跡が赤く残っていた。
僕はしばらく、その場から動けなかった。
◆
水族館を出た時、時計は十五時を少し回ったところだった。
曇り空の下へ出ると、館内の青に慣れた目には、外の景色がやけに白く見えた。
隣ではルシャが、土産物売り場で買ったクラゲのキーホルダーを眺めている。
透き通った丸い傘を空へかざし、揺れる足を指先でつついていた。
「シヲリ」
「……何?」
「次はどこへ行くの?」
すぐには答えられなかった。
ルシャが、ようやくキーホルダーから顔を上げる。
「もう帰るつもり?」
「いや。思ったより、時間が余ったなって」
「だったら、どこかに寄っていきましょう」
少しも疲れを感じさせない声だった。
僕は携帯電話をポケットへ戻し、駅へ続く道を見る。
「じゃあ、戻ってから駅の近くでも見ていくか。昨日、入らなかった店もあっただろ」
「ええ。行くわ」
即答だった。
僕が歩き出すより先に、ルシャが階段を下りていく。
「返事だけは早いな」
「時間は逃げるのよ、シヲリ」
「……気に入ったのか、その言い方」
振り返った彼女が、楽しそうに笑った。
その顔を見ているのに、耳の奥には別の声が残っている。
――これ以上アレに近づかぬことだな。
僕は口を開きかけて、閉じた。
追手なのかと聞けば、ルシャは何か知っているかもしれない。
けれど、もし知っていたとして。
今のルシャなら、そのまま相手を探しに戻ろうとしかねない。
ここへ来るまでも、追ってきた連中は蹴散らしてきた。
昨日の言葉を思い出し、喉元まで出かかった問いを飲み込む。
まずは、マミさんに話そう。
少なくとも、ここでルシャを焚きつけるよりは、その方がいい。
そう決めても、胸の奥の落ち着かなさは消えなかった。
◆
地元の駅へ戻り、駅前の雑貨屋へ入る頃には、空が少しずつ暗くなり始めていた。
店内は暖かく、入口近くの棚には冬向けの小物が並んでいる。
マグカップや膝掛け、手のひらに収まる置物。
用途の分からないものまであって、ルシャは早速、棚の前で足を止めた。
「これは何?」
「砂時計」
「それは分かるわよ。どうして、こんなに大きいのかって聞いてるの」
彼女が指さしたのは、随分と立派な砂時計だった。
青い砂が、細いくびれを通って落ち続けている。
「長い時間を計るんじゃないか」
「どれくらい?」
「……三十分だって」
「ふうん」
値札の説明を読んで答えると、ルシャは膝を少し曲げ、落ちる砂と目線を合わせた。
「全部落ちるまで見てるつもりじゃないだろうな」
「それもいいわね」
「時間が逃げるんじゃなかったのか」
「見ている時間は、逃げていないわ」
妙な理屈だった。
けれど、楽しそうに砂を眺める横顔を見ると、急かす気にもなれない。
結局、全部が落ちるより先に別のものへ気を取られ、ルシャは隣の棚へ移っていった。
今度は、動物の形をした小さな置物を手に取る。
僕の方へ見せてきたのは、眠そうな顔をした猫だった。
「昨日の子の隣に置いたら、いいと思わない?」
「ベッドが狭くなるぞ」
「小さいから平気よ」
もう、あのベッドは完全に自分のものらしい。
僕の寝床については、少しも考えていない顔だった。
その後、食器の並ぶ棚で、ルシャが一つのマグカップを手に取った。
白い地に、小さな青い魚が描かれている。
取っ手に指をかけ、側面の模様を確かめるようにゆっくりと回した。
「これ、紅茶を入れてもいいの?」
「カップなんだから、いいに決まってるだろ」
「じゃあ、これがいいわ」
「それで飲みたいってことか?」
「ええ」
僕は値札を見る。
これくらいなら、まあ、買えなくはない。
「割るなよ」
「割らないわよ。子供じゃないんだから」
そう言いながら、ルシャは両手で持ち直した。
棚の角へぶつけないように気をつける仕草が、昨日、皿を運んでいた時と重なる。
――アレ。
仮面の男の声が、また頭の中で響いた。
僕は彼女のことを、何も知らない。
どこから来たのか。
誰に追われているのか。
どうして、あんな傷を負っていたのか。
知っているのは、甘いものが好きで、妙なぬいぐるみを欲しがること。
勝手で、偉そうで、それでも見たことのないものの前では、驚くほど素直な顔をすること。
今だって、ただのマグカップを大事そうに抱えている。
あの男の言葉と、目の前の姿が、どうしてもうまく重ならなかった。
「シヲリ?」
顔を上げると、ルシャが僕を見ていた。
「さっきから、何をぼうっとしているの?」
「……別に。少し疲れただけ」
「えー。もう疲れたの? 私なんか、もう一回水族館へ行けるわよ」
「勘弁してくれ」
想像しただけで、乾いた笑いが漏れた。
けれど、ルシャは笑わなかった。
カップを持ったまま、少し首を傾げて僕を見る。
「……何だよ」
「何でもないわ」
そう答えた彼女は、レジへ向かう途中で、小さな袋に入ったクッキーを一つ手に取った。
◆
店を出ると、通りの看板には灯りが入っていた。
冷たい風にコートの前を寄せていると、横からクッキーの袋が差し出される。
「食べる?」
「……何で」
「お腹が空いているのかと思って」
真顔で言われて、思わず吹き出した。
「お前じゃないんだから、腹が減ったくらいで機嫌悪くなったりしないよ」
「――っな!? どういう意味よ、それ。私がお腹を空かせてわがままを言う女みたいじゃない」
「違ったのか?」
「違うわよ!」
ルシャはクッキーを引っ込め、袋の口を乱暴に折り畳んだ。
口元を緩めたままでいると、彼女がますます眉を吊り上げる。
「こっちは心配してあげたのに。もう知らない」
そう言って、先に歩き出す。
僕はその横へ追いつき――気づけば、彼女の頭に手を置いていた。
「ありがとな。心配してくれて」
ルシャの足が止まる。
銀灰色の瞳が、まん丸になってこちらを向いた。
「……どうした?」
「頭」
短く言われて、ようやく自分の手に気づいた。
柔らかな髪の感触が、指先に残っている。
「わ、悪い」
慌てて手を離す。
何故そんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。
「嫌だったか。いや、そりゃ急に触られたら嫌だよな」
「別に、そこまで言ってないでしょう」
ルシャは視線を外し、僕が触れていたあたりへ自分の手を乗せた。
怒っているのかどうか、顔を覗き込もうとしたところで。
「黒上君?」
聞き覚えのある声が、後ろからした。
振り返ると、見知った顔がこちらへ歩いてくる。
茶色いポニーテールが、足取りに合わせて揺れていた。
「宮本さん」
淡いベージュのボアジャケットに、くすんだ桃色のニット。
濃紺のロングスカートの下から、焦げ茶色のショートブーツが覗いている。
制服姿を見慣れているせいか、それだけでいつもとは少し違う人に見えた。
……こういう服を着るんだな。
そんなことを考えている間に、宮本さんが目の前で足を止める。
「こんばんは。こんなところで奇遇ですね」
「うん。僕の家、この辺なんだ。宮本さんは?」
「私は、その、ちょっとバイトで。今日はたまたま、こちらの方に用事があって」
聞いていないところまで説明してから、宮本さんは言葉を切った。
その視線が、僕の隣へ移る。
「……そちらの方は、お友達ですか?」
「あなたこそ誰。シヲリの何なの?」
僕が答えるより先に、ルシャが口を開いた。
いつの間にか腕を組み、宮本さんをじっと見ている。
「ルシャ。学校の友達の、宮本さん」
「私は黒上君と同じ学校に通っています。あなたは?」
宮本さんは笑顔だった。
ただ、さっきより少しだけ声がはっきりしている。
「こっちはルシャっていうんだ。事情があって、今――」
「それと、シヲリは私のだから。手を出さないでくれる?」
「お前は一回、人の話が終わるまで待て」
ルシャの方へ向き直る。
けれど、その向こうで宮本さんの表情が固まったので、すぐにそちらへ顔を戻す羽目になった。
「……私の、とは?」
「私とシヲリは契約したの。だから、私のなのよ」
「宮本さん、今のは違うから。言い方の問題というか、こいつが勝手にそう言ってるだけで」
説明すればするほど、余計に怪しく聞こえる気がする。
ルシャは満足そうに胸を張っていた。
何がそんなに誇らしいのか、少しも分からない。
「黒上君」
「はい」
「説明してもらっても、いいですか」
反射的に背筋が伸びた。
魔術のことを話すわけにはいかない。
僕自身、まだ理解しきれていない話を、こんな道端で説明できるはずもなかった。
「その……しばらく、街を案内する約束をしてるんだ。こっちに来たばかりで、知り合いもあまりいないから」
「それが、契約ですか?」
「うん。本人が大げさに呼んでるだけ。今日は水族館に行って、その帰り」
嘘ばかりではない。
けれど、大事なところだけを綺麗に抜いた説明だった。
顎へ伸びかけた手を、コートのポケットへ押し込む。
宮本さんはルシャを見て、それから僕へ目を戻した。
「……そういうことでしたか」
「変な言い方をして、ごめん」
「いえ。黒上君にも、ご予定はあるでしょうし」
そう言って微笑んだ宮本さんへ、ルシャが僕の腕を抱くように身を寄せた。
「あなた、もしかしてシヲリに構ってもらいたいの?」
「おい、ルシャ」
制止するより早く、宮本さんの耳が赤くなる。
「ち、違います。私は、黒上君が困っているように見えたので」
「困っていないわよ。ね、シヲリ?」
「今まさに困ってるよ」
心からそう答えたのに、二人とも僕を見なかった。
「あまり無理なお願いばかりするのは、よくないと思います」
「シヲリに何を頼むかは、私とシヲリの話でしょう」
「そういう態度のことを言っているんです」
「二人とも。ここ、店の前だから」
ようやく二人の視線がこちらへ向いた。
僕は入口を塞がないように数歩移動し、長く息を吐く。
僕とルシャが言い合っている時、マミさんもこんな気持ちだったのだろうか。
昨日のため息を、今なら少し理解できる気がした。
宮本さんは何か言いかけたけれど、携帯電話で時刻を確かめると、口を閉じた。
肩に掛けていたバッグを持ち直し、こちらへ向き直る。
「すみません。私、そろそろ行かないと」
「うん。引き止めてごめん」
「いえ。……その前に、一つだけ」
彼女の目が、真っ直ぐ僕へ向いた。
さっきまでの言い合いとは、少し違う声だった。
「最近、身の回りで何か変わったことはありませんでしたか?」
返事が、一拍遅れた。
変わったこと。
そう聞かれて、隣のルシャを見ることさえできなかった。
雪の中の血も。
蒼い光も。
契約も。
そして、ついさっき水族館で会った男のことも。
「……どうして?」
「何となくです。少し、気になったので」
宮本さんは穏やかに笑っていた。
その顔から、質問の理由は読み取れない。
「特には、ないよ」
また一つ、誤魔化した。
口に出してしまえば簡単だったけれど、その後に続ける言葉が見つからない。
宮本さんは、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、ほんの少しだけ顎を引く。
「そうですか。それなら、よかったです」
声は、いつもの宮本さんに戻っていた。
「それでは、また。こんなところで会えるとは思っていなかったので、驚きました」
「僕も。……それじゃあ、よいお年を」
「はい。黒上君も」
律儀に頭を下げ、彼女は駅の方へ歩いていった。
ポニーテールが人波に紛れるまで、僕はその背中を見送っていた。
「……あの女、シヲリの何なの?」
横からの声に、顔を戻す。
ルシャが目を細め、こちらを見ていた。
「さっきから言ってるだろ。学校の友達だって」
「ふうん。シヲリに友達なんていたのね」
「いるよ、友達くらい。お前は僕を何だと思ってるんだ」
歩き出すと、ルシャも隣へ並んだ。
ただし、顔はこちらへ向けない。
「鈍感で、意地悪で、ひねくれ者。それとケチで、分からずやの石頭」
「多いな」
「あと、馬鹿よ」
「付け足す必要あったか、それ」
ルシャは答えず、マグカップの入った袋を持ち直した。
揺れた持ち手にクラゲのキーホルダーが触れ、小さな音が鳴る