魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第一章『雪の上には朱が残る』 四日目(下)

 ◆

 

「まだ見てるか?」

「ええ。もう少し」

 

 館内を一周した後、僕たちは大水槽の前へ戻ってきていた。

 ルシャはベンチに腰を下ろし、目の前に広がる青をぼんやりと眺めている。

 頭上を、大きな影が横切った。

 ジンベエザメがゆっくりと身を傾け、その下を小さな魚の群れが流れていく。

 最初に見た時にはあれほどはしゃいでいたルシャも、今は顔を上げたまま、静かにその姿を追っていた。

 

「それなら、飲み物でも買ってくるよ」

「甘いの」

「はいはい」

 

 すっかり注文が短くなった。

 それで通じるようになっている自分も、どうかと思う。

 ベンチを離れ、少し先の休憩スペースへ向かう。

 自動販売機の前で財布を開きながら、何となく、さっきのルシャの顔を思い出した。

 ――全然違うわ。

 そう言った時の、柔らかな表情。

 連れてきて、よかったのだろう。

 少なくとも、彼女は楽しんでいる。

 僕だって、思っていたよりずっと――視界の端を、蒼いものが掠めた。

 

「ルシャ? 何だ、ここまで来たのか――」

 

 振り返った言葉が、途中で止まる。

 少し離れた通路に、一人の男が立っていた。

 真っ黒なロングコート。

 背筋の伸びた、長身の男。

 そして、その両目を覆うようにつけられた黒い仮面。

 舞踏会にでも向かうような格好だった。

 けれど、そこに華やかさはない。

 装飾らしいものはほとんどなく、目の位置に開いた細い切れ込みも、その奥は影に沈んでいる。

 視線も、瞳の色さえ読み取れなかった。

 奇妙なのは、その男だけではない。

 すぐそばを人が通り過ぎているのに、誰一人として彼へ目を向けない。

 見えていないかのように。

 あるいは、そこにいるのが当たり前であるかのように、ごく自然に男を避けて歩いていく。

 小銭を握った指に、力が入った。

 

「随分と、アレに入れ込んでいるようだな」

 

 低く、静かな声だった。

 声を張られたわけでもない。

 それなのに、胸の奥へ冷たいものが落ちた。

 

「……あなたは誰ですか。僕に何か用ですか」

「知る必要はない」

 男が、わずかに顎を上げる。

「貴様が、貴様のまま生きるのならばな」

 

 魔術士。

 その言葉が、真っ先に脳裏をよぎった。

 右足を、半歩だけ後ろへ引く。

 眼鏡越しに男を見る。

 その周囲に漂う色が分かった。

 最初にルシャだと思ったのは、この蒼のせいだったのだろう。

 けれど、似ているのは色だけだ。

 男の周囲は、異様なほど静かだった。

 普通なら絶えず揺れ、形を変えるはずの魔力の靄が、風のない水面のようにぴたりと留まっている。

 男が、わずかに顔を動かした。

 その先には、大水槽の前に座るルシャがいる。

 

「ルシャに、何の用だ」

 

 自分でも驚くくらい、硬い声が出た。

 仮面の下で、男の口元がわずかに歪む。

 

「何の用、か」

 喉の奥で、押し殺すような笑いが鳴った。

「それはこちらが聞きたいところだが――まあいい」

「……何が」

「一つ、忠告をしておこうと思ってな」

「忠告?」

 

 男が、こちらへ顔を向ける。

 仮面の奥にあるはずの目は見えない。

 なのに、真っ直ぐ見透かされているような気がした。

 

「平穏を望むのならば、これ以上アレに近づかぬことだな」

 

 平穏。

 その言葉だけが、妙にはっきりと耳へ残った。

 どうして、この男が。

 僕が何を望んでいるかなんて、知っているはずもないのに。

 

「それは、どういう――」

 

 館内放送が流れた。

 次の催しを知らせる声に合わせて、近くの扉から人が溢れ出してくる。

 僕と男の間を、いくつもの肩と背中が横切った。

「待ってください」

 人の隙間を覗き込む。

 黒いコートを探して一歩踏み出し、通りかかった人へぶつかりそうになった。

 

「すみません。……あの!」

 

 声を上げた時には、もう遅かった。

 人波の向こうに、男の姿はない。

 通路の先にも、出口へ向かう人たちの中にも、それらしい影は見つからなかった。

 握っていた手を開く。

 掌には、小銭の跡が赤く残っていた。

 僕はしばらく、その場から動けなかった。

 

 ◆

 

 水族館を出た時、時計は十五時を少し回ったところだった。

 曇り空の下へ出ると、館内の青に慣れた目には、外の景色がやけに白く見えた。

 隣ではルシャが、土産物売り場で買ったクラゲのキーホルダーを眺めている。

 透き通った丸い傘を空へかざし、揺れる足を指先でつついていた。

 

「シヲリ」

「……何?」

「次はどこへ行くの?」

 

 すぐには答えられなかった。

 ルシャが、ようやくキーホルダーから顔を上げる。

 

「もう帰るつもり?」

「いや。思ったより、時間が余ったなって」

「だったら、どこかに寄っていきましょう」

 

 少しも疲れを感じさせない声だった。

 僕は携帯電話をポケットへ戻し、駅へ続く道を見る。

 

「じゃあ、戻ってから駅の近くでも見ていくか。昨日、入らなかった店もあっただろ」

「ええ。行くわ」

 

 即答だった。

 僕が歩き出すより先に、ルシャが階段を下りていく。

 

「返事だけは早いな」

「時間は逃げるのよ、シヲリ」

「……気に入ったのか、その言い方」

 

 振り返った彼女が、楽しそうに笑った。

 その顔を見ているのに、耳の奥には別の声が残っている。

 ――これ以上アレに近づかぬことだな。

 僕は口を開きかけて、閉じた。

 追手なのかと聞けば、ルシャは何か知っているかもしれない。

 けれど、もし知っていたとして。

 今のルシャなら、そのまま相手を探しに戻ろうとしかねない。

 ここへ来るまでも、追ってきた連中は蹴散らしてきた。

 昨日の言葉を思い出し、喉元まで出かかった問いを飲み込む。

 まずは、マミさんに話そう。

 少なくとも、ここでルシャを焚きつけるよりは、その方がいい。

 そう決めても、胸の奥の落ち着かなさは消えなかった。

 

 ◆

 

 地元の駅へ戻り、駅前の雑貨屋へ入る頃には、空が少しずつ暗くなり始めていた。

 店内は暖かく、入口近くの棚には冬向けの小物が並んでいる。

 マグカップや膝掛け、手のひらに収まる置物。

 用途の分からないものまであって、ルシャは早速、棚の前で足を止めた。

 

「これは何?」

「砂時計」

「それは分かるわよ。どうして、こんなに大きいのかって聞いてるの」

 

 彼女が指さしたのは、随分と立派な砂時計だった。

 青い砂が、細いくびれを通って落ち続けている。

 

「長い時間を計るんじゃないか」

「どれくらい?」

「……三十分だって」

「ふうん」

 

 値札の説明を読んで答えると、ルシャは膝を少し曲げ、落ちる砂と目線を合わせた。

 

「全部落ちるまで見てるつもりじゃないだろうな」

「それもいいわね」

「時間が逃げるんじゃなかったのか」

「見ている時間は、逃げていないわ」

 

 妙な理屈だった。

 けれど、楽しそうに砂を眺める横顔を見ると、急かす気にもなれない。

 結局、全部が落ちるより先に別のものへ気を取られ、ルシャは隣の棚へ移っていった。

 今度は、動物の形をした小さな置物を手に取る。

 僕の方へ見せてきたのは、眠そうな顔をした猫だった。

 

「昨日の子の隣に置いたら、いいと思わない?」

「ベッドが狭くなるぞ」

「小さいから平気よ」

 

 もう、あのベッドは完全に自分のものらしい。

 僕の寝床については、少しも考えていない顔だった。

 その後、食器の並ぶ棚で、ルシャが一つのマグカップを手に取った。

 白い地に、小さな青い魚が描かれている。

 取っ手に指をかけ、側面の模様を確かめるようにゆっくりと回した。

 

「これ、紅茶を入れてもいいの?」

「カップなんだから、いいに決まってるだろ」

「じゃあ、これがいいわ」

「それで飲みたいってことか?」

「ええ」

 

 僕は値札を見る。

 これくらいなら、まあ、買えなくはない。

 

「割るなよ」

「割らないわよ。子供じゃないんだから」

 

 そう言いながら、ルシャは両手で持ち直した。

 棚の角へぶつけないように気をつける仕草が、昨日、皿を運んでいた時と重なる。

 ――アレ。

 仮面の男の声が、また頭の中で響いた。

 僕は彼女のことを、何も知らない。

 どこから来たのか。

 誰に追われているのか。

 どうして、あんな傷を負っていたのか。

 知っているのは、甘いものが好きで、妙なぬいぐるみを欲しがること。

 勝手で、偉そうで、それでも見たことのないものの前では、驚くほど素直な顔をすること。

 今だって、ただのマグカップを大事そうに抱えている。

 あの男の言葉と、目の前の姿が、どうしてもうまく重ならなかった。

 

「シヲリ?」

 顔を上げると、ルシャが僕を見ていた。

「さっきから、何をぼうっとしているの?」

「……別に。少し疲れただけ」

「えー。もう疲れたの? 私なんか、もう一回水族館へ行けるわよ」

「勘弁してくれ」

 

 想像しただけで、乾いた笑いが漏れた。

 けれど、ルシャは笑わなかった。

 カップを持ったまま、少し首を傾げて僕を見る。

 

「……何だよ」

「何でもないわ」

 

 そう答えた彼女は、レジへ向かう途中で、小さな袋に入ったクッキーを一つ手に取った。

 

 ◆

 

 店を出ると、通りの看板には灯りが入っていた。

 冷たい風にコートの前を寄せていると、横からクッキーの袋が差し出される。

 

「食べる?」

「……何で」

「お腹が空いているのかと思って」

 真顔で言われて、思わず吹き出した。

「お前じゃないんだから、腹が減ったくらいで機嫌悪くなったりしないよ」

「――っな!? どういう意味よ、それ。私がお腹を空かせてわがままを言う女みたいじゃない」

「違ったのか?」

「違うわよ!」

 

 ルシャはクッキーを引っ込め、袋の口を乱暴に折り畳んだ。

 口元を緩めたままでいると、彼女がますます眉を吊り上げる。

 

「こっちは心配してあげたのに。もう知らない」

 

 そう言って、先に歩き出す。

 僕はその横へ追いつき――気づけば、彼女の頭に手を置いていた。

 

「ありがとな。心配してくれて」

 

 ルシャの足が止まる。

 銀灰色の瞳が、まん丸になってこちらを向いた。

 

「……どうした?」

「頭」

 

 短く言われて、ようやく自分の手に気づいた。

 柔らかな髪の感触が、指先に残っている。

 

「わ、悪い」

 

 慌てて手を離す。

 何故そんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。

 

「嫌だったか。いや、そりゃ急に触られたら嫌だよな」

「別に、そこまで言ってないでしょう」

 

 ルシャは視線を外し、僕が触れていたあたりへ自分の手を乗せた。

 怒っているのかどうか、顔を覗き込もうとしたところで。

 

「黒上君?」

 

 聞き覚えのある声が、後ろからした。

 振り返ると、見知った顔がこちらへ歩いてくる。

 茶色いポニーテールが、足取りに合わせて揺れていた。

 

「宮本さん」

 

 淡いベージュのボアジャケットに、くすんだ桃色のニット。

 濃紺のロングスカートの下から、焦げ茶色のショートブーツが覗いている。

 制服姿を見慣れているせいか、それだけでいつもとは少し違う人に見えた。

 ……こういう服を着るんだな。

 そんなことを考えている間に、宮本さんが目の前で足を止める。

 

「こんばんは。こんなところで奇遇ですね」

「うん。僕の家、この辺なんだ。宮本さんは?」

「私は、その、ちょっとバイトで。今日はたまたま、こちらの方に用事があって」

 

 聞いていないところまで説明してから、宮本さんは言葉を切った。

 その視線が、僕の隣へ移る。

 

「……そちらの方は、お友達ですか?」

「あなたこそ誰。シヲリの何なの?」

 

 僕が答えるより先に、ルシャが口を開いた。

 いつの間にか腕を組み、宮本さんをじっと見ている。

 

「ルシャ。学校の友達の、宮本さん」

「私は黒上君と同じ学校に通っています。あなたは?」

 

 宮本さんは笑顔だった。

 ただ、さっきより少しだけ声がはっきりしている。

 

「こっちはルシャっていうんだ。事情があって、今――」

「それと、シヲリは私のだから。手を出さないでくれる?」

「お前は一回、人の話が終わるまで待て」

 

 ルシャの方へ向き直る。

 けれど、その向こうで宮本さんの表情が固まったので、すぐにそちらへ顔を戻す羽目になった。

 

「……私の、とは?」

「私とシヲリは契約したの。だから、私のなのよ」

「宮本さん、今のは違うから。言い方の問題というか、こいつが勝手にそう言ってるだけで」

 

 説明すればするほど、余計に怪しく聞こえる気がする。

 ルシャは満足そうに胸を張っていた。

 何がそんなに誇らしいのか、少しも分からない。

 

「黒上君」

「はい」

「説明してもらっても、いいですか」

 

 反射的に背筋が伸びた。

 魔術のことを話すわけにはいかない。

 僕自身、まだ理解しきれていない話を、こんな道端で説明できるはずもなかった。

 

「その……しばらく、街を案内する約束をしてるんだ。こっちに来たばかりで、知り合いもあまりいないから」

「それが、契約ですか?」

「うん。本人が大げさに呼んでるだけ。今日は水族館に行って、その帰り」

 

 嘘ばかりではない。

 けれど、大事なところだけを綺麗に抜いた説明だった。

 顎へ伸びかけた手を、コートのポケットへ押し込む。

 宮本さんはルシャを見て、それから僕へ目を戻した。

 

「……そういうことでしたか」

「変な言い方をして、ごめん」

「いえ。黒上君にも、ご予定はあるでしょうし」

 

 そう言って微笑んだ宮本さんへ、ルシャが僕の腕を抱くように身を寄せた。

 

「あなた、もしかしてシヲリに構ってもらいたいの?」

「おい、ルシャ」

 

 制止するより早く、宮本さんの耳が赤くなる。

 

「ち、違います。私は、黒上君が困っているように見えたので」

「困っていないわよ。ね、シヲリ?」

「今まさに困ってるよ」

 

 心からそう答えたのに、二人とも僕を見なかった。

 

「あまり無理なお願いばかりするのは、よくないと思います」

「シヲリに何を頼むかは、私とシヲリの話でしょう」

「そういう態度のことを言っているんです」

「二人とも。ここ、店の前だから」

 

 ようやく二人の視線がこちらへ向いた。

 僕は入口を塞がないように数歩移動し、長く息を吐く。

 僕とルシャが言い合っている時、マミさんもこんな気持ちだったのだろうか。

 昨日のため息を、今なら少し理解できる気がした。

 宮本さんは何か言いかけたけれど、携帯電話で時刻を確かめると、口を閉じた。

 肩に掛けていたバッグを持ち直し、こちらへ向き直る。

 

「すみません。私、そろそろ行かないと」

「うん。引き止めてごめん」

「いえ。……その前に、一つだけ」

 

 彼女の目が、真っ直ぐ僕へ向いた。

 さっきまでの言い合いとは、少し違う声だった。

 

「最近、身の回りで何か変わったことはありませんでしたか?」

 

 返事が、一拍遅れた。

 変わったこと。

 そう聞かれて、隣のルシャを見ることさえできなかった。

 雪の中の血も。

 蒼い光も。

 契約も。

 そして、ついさっき水族館で会った男のことも。

 

「……どうして?」

「何となくです。少し、気になったので」

 

 宮本さんは穏やかに笑っていた。

 その顔から、質問の理由は読み取れない。

 

「特には、ないよ」

 

 また一つ、誤魔化した。

 口に出してしまえば簡単だったけれど、その後に続ける言葉が見つからない。

 宮本さんは、しばらく僕の顔を見ていた。

 それから、ほんの少しだけ顎を引く。

 

「そうですか。それなら、よかったです」

 

 声は、いつもの宮本さんに戻っていた。

 

「それでは、また。こんなところで会えるとは思っていなかったので、驚きました」

「僕も。……それじゃあ、よいお年を」

「はい。黒上君も」

 

 律儀に頭を下げ、彼女は駅の方へ歩いていった。

 ポニーテールが人波に紛れるまで、僕はその背中を見送っていた。

 

「……あの女、シヲリの何なの?」

 

 横からの声に、顔を戻す。

 ルシャが目を細め、こちらを見ていた。

 

「さっきから言ってるだろ。学校の友達だって」

「ふうん。シヲリに友達なんていたのね」

「いるよ、友達くらい。お前は僕を何だと思ってるんだ」

 

 歩き出すと、ルシャも隣へ並んだ。

 ただし、顔はこちらへ向けない。

 

「鈍感で、意地悪で、ひねくれ者。それとケチで、分からずやの石頭」

「多いな」

「あと、馬鹿よ」

 

「付け足す必要あったか、それ」

 ルシャは答えず、マグカップの入った袋を持ち直した。

 揺れた持ち手にクラゲのキーホルダーが触れ、小さな音が鳴る

 

 

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