魔法使いの冬 ― Magic Winter ―   作:木乃実なぎ

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第二章「染み出した雪は、もう白には戻れない」 五日目(上)

 

 コーヒーを注ぐと、白いカップから細い湯気が立ち昇った。

 ソーサーにスプーンを添え、砂糖とミルクを確かめてから盆を持ち上げる。

 窓際の席では、常連の女性が読みかけの本へ栞を挟むところだった。

 

「お待たせしました」

「ありがとう。今日は忙しそうね」

「年内最後なので。皆さん、飲み納めに来てくださってるみたいです」

「それじゃあ、私もそういうことにしておこうかしら」

 

 微笑んだ女性へ軽く頭を下げ、カウンターへ戻る。

 すれ違いざま、マスターからサンドイッチの皿を渡された。受け取った盆を持ち直し、そのまま奥の席へ向かう。

 店内には挽いた豆の香りと、控えめな音量の音楽が満ちていた。

 食器の触れ合う音。客同士の穏やかな話し声。

 聞き慣れたそれらに囲まれていると、ここ数日の出来事まで、どこか遠く感じられる。

 注文を聞いて、料理を運び、空いた皿を下げる。

 やるべきことが分かっている、というだけで随分と気が楽だった。

 魔術も契約も、この店には関係ない。

 少なくとも、客の飲み終えたカップを洗っている間くらいは、そんなことを考えずに済んだ。

 もっとも、家を出るまではそうもいかなかったのだけれど。

 

『今日は出かけないの?』

 

 朝食の皿を下げた途端、ルシャがそう聞いてきた。

 昨日買ったマグカップを両手で包み、当然のように僕の返事を待っている。

 

『昨日も言っただろ。今日はバイト』

『それ、私も行っていい?』

『遊ぶところじゃないんだよ』

『邪魔はしないわ』

『昨日の服屋でも、そんなこと言ってた気がするな』

 

 しばらく押し問答をした末、何とか留守番を承諾してもらった。

 食事を用意しておくこと。

 本棚の本は好きに読んでいいこと。

 そして、なるべく早く帰ってくること。

 どうして自分の家から仕事へ出るだけで、こんな交渉が必要なのだろう。

 考えてみても、答えは出なかった。

 休憩中に携帯電話を確認した時には、特に連絡は来ていなかった。

 マミさんからの新しい連絡もない。

 昨夜、水族館で会った男については伝えてある。

 何か分かれば知らせると言われたけれど、今のところ、あの男が誰なのかは分からないままだった。

 ――何かあれば、すぐに連絡すること。

 重ねて念を押された言葉を思い出し、携帯電話をポケットへ戻す。

 まずは、今日の仕事だ。

 閉店まで、まだ少し時間があった。

 

 ◆

 

 最後の客を見送り、入口の札を裏返した頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 テーブルを拭き、椅子を戻してから、ようやくエプロンの紐を解く。

 肩を回すと、ほどよい疲労が身体の奥に残っていた。

 

「お疲れ様、黒上君。悪いね、最終日に」

 

 カウンターの向こうで、マスターが洗い終えたカップを拭いている。

 高校一年の頃から世話になっている店主は、いつもの優しげな笑みを浮かべていた。

 

「いえ。もともと入る予定でしたし」

「おかげで助かったよ。今日は思ったよりお客さんが来てくれたからね」

 

 使い終わった布巾を片づけ、店内を見回す。

 あれだけ人のいた席も、今は綺麗に空いている。

 カウンターの照明だけになると、いつもの店が少しだけ広く見えた。

 

「この後は、真っ直ぐ帰るのかい?」

「はい。家で待ってるやつがいるので」

 

 言ってから、余計なことを口にしたと気づいた。

 マスターの手が止まり、こちらへ顔が向く。

 

「へぇ」

「……そういうのじゃないですよ」

「まだ何も言っていないけれど」

 

 楽しそうに笑われた。

 こうなると、下手に説明する方が面倒になる。

 そう分かっていたはずなのに、家を出るまでの苦労を話しているうち、結局、少しだけ愚痴までこぼしてしまった。

 

「なるほど。それじゃあ、早く帰ってあげないとね」

「遅くなるとは言ってあるんですけどね。理解してるかどうかは、また別の話なので」

「サンドイッチでも持っていくかい?」

 

 思わず顔を上げる。

 マスターは厨房へ目を向けながら続けた。

 

「二人分くらいなら、すぐ作れるよ。どうせ年内最後だし、残った食材を無駄にするよりいい」

「……いいんですか?」

「もちろん。君もまだ食べていないだろう?」

 

 断ろうかと一瞬考えて、家にいるルシャを思い浮かべた。

 この店のサンドイッチは美味しい。

 あいつなら、きっと喜ぶだろう。

 

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

「うん。少し座って待っていなさい」

 

 カウンターへ腰を下ろすと、ほどなくコーヒーが出てきた。

 礼を言って、カップを持ち上げる。

 厨房からは包丁がまな板を叩く音と、何かを焼く小さな音が聞こえていた。

 明日から店もしばらく休みになる。

 年末はどう過ごすのか。宿題は終わったのか。

 そんな世間話に答えながらコーヒーを飲んでいると、十分も経たないうちに紙袋がカウンターへ置かれた。

 中には、丁寧に包まれたサンドイッチが二人分。

 手に取ると、まだ少し温かい。

 

「帰ったら、二人で食べなさい」

「ありがとうございます。……それでは、よいお年を」

「よいお年を、黒上君。気をつけてね」

 

 扉を開けると、冬の空気が頬を撫でた。

 一度振り返って頭を下げ、僕は駅へ向かって歩き出す。

 袋の中から、微かに焼いたパンの香りがした。

 

 ◆

 

 地元の駅へ着いた時には、二十二時近くになっていた。

 改札を抜けながら携帯電話を確かめる。

 帰る前に送った連絡に、新しい返事はなかった。

 怒っているのか。

 それとも、本でも読んでいて気づいていないだけなのか。

 どちらもありそうで、判断がつかない。

 少なくとも、帰ってからサンドイッチを見せれば、少しは機嫌もよくなるだろう。

 そんなことを考えている時点で、随分と毒されている気がした。

 駅前を離れ、いつもの河川敷沿いへ入る。

 道路の明かりが背後へ遠ざかり、川面には細く引き延ばされた月が揺れていた。

 道の端には、溶け残った雪がまだ白く残っている。

 一人で歩くのは、こんなに静かだっただろうか。

 この数日は、何を見ても隣から声が飛んできた。

 あれは何。こっちは何。

 お腹が空いた。次はどこへ行くの。

 いないならいないで楽なはずなのに、返事をする必要のない道が、少しだけ手持ち無沙汰に感じられる。

 

 ……たった数日なのにな。

 

 袋を持ち直し、歩調を少し速める。

 もう少し行けば、彼女を見つけた場所だった。

 雪の中に広がっていた赤。

 あの日の景色を思い出し、無意識に川の方へ目を向ける。

 今日は誰も倒れていない。

 当たり前のことを確かめてから、僕は小さく息を吐いた。

 道の向こうから、一人の男が歩いてきた。

 黒いコートに、無造作にかき上げられた金髪。

 こちらへ向かっている以外、特におかしなところはない。

 僕は少し端へ寄り、そのまますれ違おうとした。

 けれど、男も同じ側へ足を運んだ。

 足を止め、顔を上げる。

 男は笑っていた。

 見知らぬ相手へ向けるには妙に親しげで、それでいて少しも好意を感じない笑みだった。

 

「少し、聞きたいことがあるんだが」

「……何ですか」

「お前のところに、銀髪の女がいるだろ」

 

 袋の持ち手が、掌へ食い込んだ。

 昨日見た仮面が、脳裏をよぎる。

 けれど、この男に仮面はない。

 声も、立ち方も、昨日の男とは違っていた。

 

「誰のことですか」

「とぼけなくていい。こっちも、何も知らずに声かけてるわけじゃねぇんだよ」

 

 男が一歩近づく。

 僕は、その分だけ後ろへ下がった。

 携帯電話はコートのポケットにある。

 手を入れて、連絡を――。

 そう考えた瞬間、男の視線が僕の腕へ落ちた。

 

「そいつを差し出せ。そうすりゃ、死ぬほど痛い目は見なくて済むぞ」

 

 脅しだ。

 そう理解しても、すぐには現実味が湧かなかった。

 知らない男が、知り合いを引き渡せと言っている。

 河川敷には僕たち以外、誰もいない。

 遠くの道路を車が走っているはずなのに、その音さえやけに遠かった。

 

「……あなたは、ルシャの何なんですか」

「何だ。知ってるじゃねぇか」

 

 男が笑った。

 その瞬間。

 男の右腕を覆っていた靄が、急激に流れを変えた。

 背筋が冷える。

 

「――っ!」

 

 考えるより先に、上体を後ろへ反らした。

 鼻先を何かが走る。

 硬い衝撃と同時に眼鏡が弾け飛び、遅れて頬に焼けるような痛みが走った。

 背後で、何かが地面を穿つ音がする。

 振り向く余裕はなかった。

 目の前の男が、わずかに眉を上げていた。

 

「ほぉ。運がいいな」

 

 頬へ触れる。

 指先に、赤いものがついていた。

 足元には、片方のレンズが砕けた眼鏡が転がっている。

 

「……っ」

 

 拾おうと身を屈めかけて、視界が大きく揺れた。

 目の奥を針で刺されたような痛みが走る。

 次の瞬間、世界が一変した。

 暗闇に沈んでいたはずの景色へ、無数の色が溢れ出す。

 足元の草を流れる淡い靄。

 川辺の木々から滲み出す色。

 そして目の前の男の全身を巡る、濃く、淀んだ流れ。

 一度に押し寄せてくる情報に、頭の芯が揺さぶられる。

 

「な、何を……」

「聞こえなかったか? 銀髪の女を出せって言ったんだよ」

「だから、誰なんだよ、あんたは」

 

 声が震えた。

 男はそれを面白がるように、口の端を吊り上げる。

 

「――魔術士、って言えば分かるか?」

 

 その右手へ、再び色が集まり始めた。

 

 ◆

 

 

 

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