魔法使いの冬 ― Magic Winter ― 作:木乃実なぎ
コーヒーを注ぐと、白いカップから細い湯気が立ち昇った。
ソーサーにスプーンを添え、砂糖とミルクを確かめてから盆を持ち上げる。
窓際の席では、常連の女性が読みかけの本へ栞を挟むところだった。
「お待たせしました」
「ありがとう。今日は忙しそうね」
「年内最後なので。皆さん、飲み納めに来てくださってるみたいです」
「それじゃあ、私もそういうことにしておこうかしら」
微笑んだ女性へ軽く頭を下げ、カウンターへ戻る。
すれ違いざま、マスターからサンドイッチの皿を渡された。受け取った盆を持ち直し、そのまま奥の席へ向かう。
店内には挽いた豆の香りと、控えめな音量の音楽が満ちていた。
食器の触れ合う音。客同士の穏やかな話し声。
聞き慣れたそれらに囲まれていると、ここ数日の出来事まで、どこか遠く感じられる。
注文を聞いて、料理を運び、空いた皿を下げる。
やるべきことが分かっている、というだけで随分と気が楽だった。
魔術も契約も、この店には関係ない。
少なくとも、客の飲み終えたカップを洗っている間くらいは、そんなことを考えずに済んだ。
もっとも、家を出るまではそうもいかなかったのだけれど。
『今日は出かけないの?』
朝食の皿を下げた途端、ルシャがそう聞いてきた。
昨日買ったマグカップを両手で包み、当然のように僕の返事を待っている。
『昨日も言っただろ。今日はバイト』
『それ、私も行っていい?』
『遊ぶところじゃないんだよ』
『邪魔はしないわ』
『昨日の服屋でも、そんなこと言ってた気がするな』
しばらく押し問答をした末、何とか留守番を承諾してもらった。
食事を用意しておくこと。
本棚の本は好きに読んでいいこと。
そして、なるべく早く帰ってくること。
どうして自分の家から仕事へ出るだけで、こんな交渉が必要なのだろう。
考えてみても、答えは出なかった。
休憩中に携帯電話を確認した時には、特に連絡は来ていなかった。
マミさんからの新しい連絡もない。
昨夜、水族館で会った男については伝えてある。
何か分かれば知らせると言われたけれど、今のところ、あの男が誰なのかは分からないままだった。
――何かあれば、すぐに連絡すること。
重ねて念を押された言葉を思い出し、携帯電話をポケットへ戻す。
まずは、今日の仕事だ。
閉店まで、まだ少し時間があった。
◆
最後の客を見送り、入口の札を裏返した頃には、外はすっかり暗くなっていた。
テーブルを拭き、椅子を戻してから、ようやくエプロンの紐を解く。
肩を回すと、ほどよい疲労が身体の奥に残っていた。
「お疲れ様、黒上君。悪いね、最終日に」
カウンターの向こうで、マスターが洗い終えたカップを拭いている。
高校一年の頃から世話になっている店主は、いつもの優しげな笑みを浮かべていた。
「いえ。もともと入る予定でしたし」
「おかげで助かったよ。今日は思ったよりお客さんが来てくれたからね」
使い終わった布巾を片づけ、店内を見回す。
あれだけ人のいた席も、今は綺麗に空いている。
カウンターの照明だけになると、いつもの店が少しだけ広く見えた。
「この後は、真っ直ぐ帰るのかい?」
「はい。家で待ってるやつがいるので」
言ってから、余計なことを口にしたと気づいた。
マスターの手が止まり、こちらへ顔が向く。
「へぇ」
「……そういうのじゃないですよ」
「まだ何も言っていないけれど」
楽しそうに笑われた。
こうなると、下手に説明する方が面倒になる。
そう分かっていたはずなのに、家を出るまでの苦労を話しているうち、結局、少しだけ愚痴までこぼしてしまった。
「なるほど。それじゃあ、早く帰ってあげないとね」
「遅くなるとは言ってあるんですけどね。理解してるかどうかは、また別の話なので」
「サンドイッチでも持っていくかい?」
思わず顔を上げる。
マスターは厨房へ目を向けながら続けた。
「二人分くらいなら、すぐ作れるよ。どうせ年内最後だし、残った食材を無駄にするよりいい」
「……いいんですか?」
「もちろん。君もまだ食べていないだろう?」
断ろうかと一瞬考えて、家にいるルシャを思い浮かべた。
この店のサンドイッチは美味しい。
あいつなら、きっと喜ぶだろう。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「うん。少し座って待っていなさい」
カウンターへ腰を下ろすと、ほどなくコーヒーが出てきた。
礼を言って、カップを持ち上げる。
厨房からは包丁がまな板を叩く音と、何かを焼く小さな音が聞こえていた。
明日から店もしばらく休みになる。
年末はどう過ごすのか。宿題は終わったのか。
そんな世間話に答えながらコーヒーを飲んでいると、十分も経たないうちに紙袋がカウンターへ置かれた。
中には、丁寧に包まれたサンドイッチが二人分。
手に取ると、まだ少し温かい。
「帰ったら、二人で食べなさい」
「ありがとうございます。……それでは、よいお年を」
「よいお年を、黒上君。気をつけてね」
扉を開けると、冬の空気が頬を撫でた。
一度振り返って頭を下げ、僕は駅へ向かって歩き出す。
袋の中から、微かに焼いたパンの香りがした。
◆
地元の駅へ着いた時には、二十二時近くになっていた。
改札を抜けながら携帯電話を確かめる。
帰る前に送った連絡に、新しい返事はなかった。
怒っているのか。
それとも、本でも読んでいて気づいていないだけなのか。
どちらもありそうで、判断がつかない。
少なくとも、帰ってからサンドイッチを見せれば、少しは機嫌もよくなるだろう。
そんなことを考えている時点で、随分と毒されている気がした。
駅前を離れ、いつもの河川敷沿いへ入る。
道路の明かりが背後へ遠ざかり、川面には細く引き延ばされた月が揺れていた。
道の端には、溶け残った雪がまだ白く残っている。
一人で歩くのは、こんなに静かだっただろうか。
この数日は、何を見ても隣から声が飛んできた。
あれは何。こっちは何。
お腹が空いた。次はどこへ行くの。
いないならいないで楽なはずなのに、返事をする必要のない道が、少しだけ手持ち無沙汰に感じられる。
……たった数日なのにな。
袋を持ち直し、歩調を少し速める。
もう少し行けば、彼女を見つけた場所だった。
雪の中に広がっていた赤。
あの日の景色を思い出し、無意識に川の方へ目を向ける。
今日は誰も倒れていない。
当たり前のことを確かめてから、僕は小さく息を吐いた。
道の向こうから、一人の男が歩いてきた。
黒いコートに、無造作にかき上げられた金髪。
こちらへ向かっている以外、特におかしなところはない。
僕は少し端へ寄り、そのまますれ違おうとした。
けれど、男も同じ側へ足を運んだ。
足を止め、顔を上げる。
男は笑っていた。
見知らぬ相手へ向けるには妙に親しげで、それでいて少しも好意を感じない笑みだった。
「少し、聞きたいことがあるんだが」
「……何ですか」
「お前のところに、銀髪の女がいるだろ」
袋の持ち手が、掌へ食い込んだ。
昨日見た仮面が、脳裏をよぎる。
けれど、この男に仮面はない。
声も、立ち方も、昨日の男とは違っていた。
「誰のことですか」
「とぼけなくていい。こっちも、何も知らずに声かけてるわけじゃねぇんだよ」
男が一歩近づく。
僕は、その分だけ後ろへ下がった。
携帯電話はコートのポケットにある。
手を入れて、連絡を――。
そう考えた瞬間、男の視線が僕の腕へ落ちた。
「そいつを差し出せ。そうすりゃ、死ぬほど痛い目は見なくて済むぞ」
脅しだ。
そう理解しても、すぐには現実味が湧かなかった。
知らない男が、知り合いを引き渡せと言っている。
河川敷には僕たち以外、誰もいない。
遠くの道路を車が走っているはずなのに、その音さえやけに遠かった。
「……あなたは、ルシャの何なんですか」
「何だ。知ってるじゃねぇか」
男が笑った。
その瞬間。
男の右腕を覆っていた靄が、急激に流れを変えた。
背筋が冷える。
「――っ!」
考えるより先に、上体を後ろへ反らした。
鼻先を何かが走る。
硬い衝撃と同時に眼鏡が弾け飛び、遅れて頬に焼けるような痛みが走った。
背後で、何かが地面を穿つ音がする。
振り向く余裕はなかった。
目の前の男が、わずかに眉を上げていた。
「ほぉ。運がいいな」
頬へ触れる。
指先に、赤いものがついていた。
足元には、片方のレンズが砕けた眼鏡が転がっている。
「……っ」
拾おうと身を屈めかけて、視界が大きく揺れた。
目の奥を針で刺されたような痛みが走る。
次の瞬間、世界が一変した。
暗闇に沈んでいたはずの景色へ、無数の色が溢れ出す。
足元の草を流れる淡い靄。
川辺の木々から滲み出す色。
そして目の前の男の全身を巡る、濃く、淀んだ流れ。
一度に押し寄せてくる情報に、頭の芯が揺さぶられる。
「な、何を……」
「聞こえなかったか? 銀髪の女を出せって言ったんだよ」
「だから、誰なんだよ、あんたは」
声が震えた。
男はそれを面白がるように、口の端を吊り上げる。
「――魔術士、って言えば分かるか?」
その右手へ、再び色が集まり始めた。
◆