「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」   作:ゆゞきノ君

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・原作「百花繚乱」編第二章終了後の独自解釈です。
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。


第一話「怪芸の始まり」

 その時代の道徳と、真っ向から刃を交えた芸術家の作品は、数え切れぬほど存在する。中でもヘンリック・イプセンの『幽霊』は、その筆頭に挙げるべきものだろう。彼はあの戯曲を通じて、既成の倫理を、宗教という名の欺瞞を、そして時代そのものに巣食う偽善を白日の下に晒そうとした。

 

 だが、私が語りたいのは、イプセンの功績などではない。彼の言う「幽霊」――その存在そのものについてだ。

 

 今の百鬼夜行には、確かに市民社会と呼べるだけの体裁が整いつつある。しかし、その内実を覗き込めば分かる。宗教的な因習と、腐りかけた伝統とを後生大事に抱えた封建的な共同体が、いまだにこの学園の政の全てを牛耳っているのだ。百花繚乱、陰陽部――彼女たちは、数百年前の価値観をそのまま国是に据え、それを賢明で理にかなったものだと嘯く。だが、イプセンの目から見れば、それはとうに形骸と化した、ただの遺物に過ぎない。

 

 農本主義の時代を生きぬ我々は、今、封建から市民への過渡期に立たされている。市民たちは、口には出さずとも、既成の道徳という名の幽霊を、密かに祓い除けたいと願っているのだ。彼らは今、再びイプセンを――除霊者を求めている。

 その熱望が、巡り巡って私をここへ導いた。

 

 イプセンが、自らの半身を戯曲の主人公に投影したように――私もまた、私だけの主人公を、この手で創り上げよう。

 

 さあ、怪芸の幕開けだ。

 

  *

 

 雪山の稜線を、白い燐光のような雪の粒が舞い落ちていく。まるで手折られた花弁のように、音もなく、しかし確実に、私の体温を一片ずつ奪い取っていった。

 

 凍えた躯。水を吸って鉛のように重くなったインナー。剥き出しの素肌が、大きく震えている。

 

 だが、これは恐怖ゆえではない。

 

 これは――勇み立つ静かなる魂の鳴動なのだ。

 

 さあ、見給え。私の人生の転落を。さあ、笑い給え。私の人生の醜態を。花鳥風月部に見切りをつけられ、コクリコ様にすら見限られた、この惨めな転落劇を。

 

 だが、今に見ていろ。起・承・「転」・結――私の逆転劇は、まさにここから、再び幕を開けるのだ。

 

「ふふっ……ここら辺り、か」

 

 声に出せば、白い息が夜気に溶けて消える。数時間もの時をかけ、私が思い描いていたのは幾千里の彼方だった。だが実際のところ、その距離はせいぜい数百メートル程度に過ぎないことも、しばしばだった。人の想像力とは、かくも当てにならないものらしい。

 

 それでも、私は見つけた。

 

 あれほど執拗に私を苛んでいた雪の粒が、この一帯だけは、まるで嘘のように止んでいる。地熱とでも呼ぶべき熱波が、雪に覆われていたはずの岩肌をあらわに晒し、あたりには鼻腔を貫くほどの強烈な刺激臭が立ち込めていた。

 

 その臭気の源――そこに鎮座する巨岩には、地面と水平に、太いしめ縄が幾重にも巻きつけられている。それはまるで、この岩そのものが、何か途方もないものを封じ込める蓋であるかのようだった。

 

 私は、確信した。

 

 これだ。これこそが、私の探し求めていた、本物の怪芸なのだ。

 

 背に負ったガンソックスから、小銃を静かに取り出す。銃口を覆う、鹿の皮を裁って自作したマズル保護用のサック。ボルトカバーの布も、忘れずに剥ぎ取っておく。

 

 弾倉に込めるのは、たった一発。

 

 もはや私に、百怪談(かいだん)も、怪書も、そんなものへの未練は要らない。必要なのは、この一発――そして、この一発から始まる、行く末の見えぬ物語だけだ。

 

 シナリオがあって怪芸家が生まれるのではない。怪芸家があって、初めてシナリオが生まれるのだ。だからこそ、私が紡ぐこの物語には――どこまでも深く、どこまでも黒々とした、人智を超えた単純明快な『悪』を持つ君こそを、主人公に据えたい。

 

 銃を構え、私は静かに息を吸い込んだ。

 

「さあ、目覚めよ」

 

 冷えた指先が、引き金にそっと触れる。

 

「かつて百鬼夜行を大乱の渦へと突き落とし、預言者クズノハをもってしても、なお殺し得なかった――まごうことなき大妖怪よ」

 

 心臓の鼓動が、耳の奥で大きく鳴った。

 

「今再び、腐敗極まるこの学園に、終止符を打ち給え」

 

 ――バンッ!!

 

 乾いた銃声が、雪山の静寂を切り裂いた。狙いを違えることなく、弾丸はしめ縄の結び目を正確に討ち抜く。加えて貫通した弾頭は、そのまま巨岩の表面を微塵に打ち砕いた。

 

 次の瞬間、私を取り囲むようにして、濃密な霧が這い上がってくる。まるで、長い眠りから目覚めたばかりの獣の吐息のように。

 

 その霧の奥、淡い影の中から――一人の少女が、ゆっくりと姿を現した。

 

「其方が――九尾の狐、クミホ――」

 

 私がそう言いかけた、まさにその刹那。

 

「讃――」

 

 少女は、たったそれだけを口にすると同時に、鋭い一撃を私へと放った。その隙をつくように、彼女は身を翻し、凍てつく雪山の斜面を、風のように駆け下りていった。




【ヘンリック・イプセン『幽霊』】
1881年発表のノルウェーの戯曲。受け継がれた古い道徳や信念を「幽霊」と呼びます。発表当時は不道徳だと激しい非難を浴びた作品でした。

【九尾の狐/クミホ】
朝鮮半島の伝承に登場する妖狐。人に化けるとされます。

【マズル・ガンソックスなど】
全て銃に関連する用語です。マズルは銃の銃口のことです。サック/ガンソックスは銃を保護する筒状の袋です。ボルトカバーはボルトアクションライフルなどのボルトハンドルや機関部を保護するカバーです。
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