「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」   作:ゆゞきノ君

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・原作「百花繚乱」編第二章終了後の独自解釈です。
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。


第八話「心を発す者は多かれど」――其の②

「あれは、ちょうど二年前のことでした」

 

 ニヤは、そう前置きしてから、記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を継いでいった。

 

 私はただ、その一言一言に、耳を傾けるほかなかった。

 

  *

 

 百鬼夜行連合学院から海峡を挟んで北方に位置する、レッドウィンター連邦学園。

 

 かの学園が成立する以前、そこにはホワイトウィンター学園という、一般的な生徒会運営の学園が存在していたのだという。かつてはトリニティ総合学園や、最盛期のアビドス高等学校と肩を並べるほどの大学園であった。

 

 だが二年前、雷帝率いるゲヘナ学園、そしてハーデス゠シェオル二重学園軍の侵攻を受け、疲弊した兵士や労働者たちによって臨時生徒会が発足。のちに、その臨時生徒会もまた赤色革命によって打倒され、レッドウィンター連邦学園が成立した――と、ニヤは語った。

 

 その後、ゲヘナとの間で講和会議が開かれ、『グレイ゠カーディナル条約』が締結される。その条項の中で、ゲヘナ学園は賠償金と――かつて『神聖タータロス王立学園』の旧領であったとされる地域の割譲を要求したのだという。

 

「神聖タータロス王立学園……?」

 

 私は、思わず問い返した。

 

「今あるゲヘナ学園や、ゲヘナ゠ハーデス共和学園、シェオル学園、ペルセフォネ王立学園――」

 

 ニヤは、静かに説明を続けた。

 

「それらを中核州としたとされる、伝説上の超巨大学園です」

 

「雷帝は、この神聖タータロス王立学園の復活を志し、キヴォトス各地で戦争を続けてきました」

 

「最盛期には、キヴォトスの三分の一を支配下に置いたとも言われています」

 

 だが、と彼女は続けた。

 

 レッドウィンター連邦学園側は、ゲヘナ学園に支払うべき賠償金を持ち合わせていなかった。代わりに、百鬼夜行近海に接続するシュネーバル軍港を、ハーデス゠シェオル二重学園へと安値で売却し、それを賠償金に充てたのだという。

 

 ――だが、これが後に、大きな災いを招くこととなった。

 

 新たにハーデス゠シェオル二重学園の学区となったシュネーバル軍港。だが、そのわずか数日後、ハーデス゠シェオル二重学園そのものが、東漸(とうぜん)艦隊を残して崩壊してしまう。

 

 その東漸艦隊の保護を名目に進駐してきたゲヘナ学園は、艦隊の吸収を果たすと――次なる標的を、海を挟んだ先にある百鬼夜行連合学院へと定めたのだという。

 

 トリニティ総合学園との覇権争いを強いられていたゲヘナ学園にとって、不凍港の確保は、学園の命運そのものを左右する問題であった。シュネーバル軍港は春から夏にかけては問題なく使用できるものの、秋から冬にかけては水面が凍りつき、他学園との貿易が完全に停止してしまう。

 

 トリニティとの争いに勝ち抜くためには、重商主義――すなわち、不凍港の確保が何よりも必要だったのだと、ニヤは語った。

 

 そして、その情勢の危うさに、誰よりも早く気づいたのが――武者小路ツツジであった。

 

 彼女はこの時、初めて『軍師大権』を発動し、陰陽部へ緊急の公卿会議の開催を要請したのだという。

 

「陰陽部がそれを了承し、百花繚乱の幹部を集めた公卿会議が始まりました」

 

 ニヤは、静かに続けた。

 

「私はその時、陰陽部副部長・中臣ヒイナの従者として、その場に居合わせていたのです」

 

  *

 

 当時、陰陽部と百花繚乱は、激しい政治的対立の渦中にあった。

 

 陰陽部の専制政治を志向する部長・蘇我オンマ率いる『崇陰派』と、従来通り百花繚乱主導の政治を守ろうとする委員長・物部ミコシ率いる『排陰派』。両者の対立は、先の『ツクシ分校の乱』を経て、さらに先鋭化していたのだという。

 

 あの反乱鎮圧において、ツツジやナオハら一部の委員を除き、ほとんどまともに動けなかった百花繚乱。それに代わって全体の指揮を執ったのは、陰陽部だった。

 

 その発言力は、蘇我オンマの縁者である雨之宮イルカを百花繚乱副委員長の座に据え、さらに彼の妹・蘇我エミコを一般委員として送り込むまでに、着実に拡大していたのだという。

 

 その会議の場で、まず口火を切ったのは、武者小路ツツジであった――と、ニヤは語った。

 

 「まずは、この度はお集まりいただき、誠にありがとうございます」

 

 彼女はそう切り出すと、静かに語り始めたのだという。

 

 「皆様ご存知の通り、昨日、ホワイトウィンター学園が崩壊しました」

 

 「とはいえ、かの学園は十年以上前から革命の機運が高く、赤色革命が起こったこと自体は、驚くには値しないでしょう。逸話として、マスゲームへの反発から、生徒らによってクーデターが発生したほどですから」

 

 「もっとも、これ自体は、あまり我々には関係のない話です」

 

 ツツジがそう話を先へ進めようとした、その時――蘇我オンマが、鋭く割って入ったのだという。

 

 「関係のない話ですか? 本当に?」

 

 「我々の学園と、新しくできたレッドウィンター連邦学院の学区は、海を挟んですぐそばなんですよ」

 

 それに対し、ツツジは静かに――しかし、揺るぎない口調で反論したのだという。

 

 この時のツツジの瞳は、輝いていたそうだ。まるで、この先に続く道筋の全てが、彼女の目にははっきりと見えているかのように。

 

 「百鬼夜行における共産主義思想の拡大は、確かに懸念すべき問題ではあります。ですが、今の段階では、そこまで危険視するほどのものではありません」

 

 「そもそも、まともな資本家の育っていない我が学院で、かの学園のようにマルクス・レーニン主義を掲げる学生が革命を起こすなど、到底あり得ません」

 

 「私たちが真に恐るべき相手は――百鬼夜行に最も近いシュネーバルの港を領有する、雷帝率いるゲヘナ学園ではないでしょうか」

 

 蘇我オンマは、なおもツツジに食い下がったのだという。

 

 「だが、前まで内陸の学園だったゲヘナに、東側で海軍を創設するだけの力があるとは思えんが」

 

 「既に東側の海軍戦力は、ハーデス君主学園海軍の東漸艦隊を、崩壊したハーデス学園から買い取っています」

 

 「そもそも、未だ家内制手工業が主体である我が学園では、陸上決戦はおろか――海上ですら、到底勝ち目はありません」

 

 「噂には聞いていたが……ふむ」

 

 蘇我オンマは、値踏みするような目でツツジを見据えたという。

 

 「君が、先のツクシ分校の乱の首謀者、伊牟田スゞランを捕らえた作戦参謀さんか」

 

 ――ニヤは、この一言に含まれた含意を、私に説明した。

 

 蘇我オンマは、武者小路ツツジに対し、根深い憎悪を抱いていたのだという。

 

 先の『ツクシ分校の乱』は、陰陽部が主導して鎮圧したものであった。にもかかわらず、首謀者・伊牟田スゞランの捕縛という手柄そのものは、百花繚乱――ひいてはツツジ個人のものとされてしまった。既に息も絶え絶えだった物部ミコシ率いる『排陰派』に、最後のとどめを刺す好機を、まさにツツジによって奪われた形になったのである。

 

 蘇我オンマは、この場でツツジに恥をかかせ、その失権を画策していたのだと、ニヤは語る。

 

 「武者小路ツツジ作戦参謀」

 

 蘇我オンマは、静かに問いを重ねたという。

 

 「仮に、我が百鬼夜行にゲヘナが侵攻してきたとして――近隣の山海経は勿論、なんといっても連邦生徒会が、黙って見過ごすわけがなかろう?」

 

 「私としては、キヴォトス中央、草原の広がるステップ地域を南下し、不凍港を確保する方が、彼女らにとっても賢明に思えるが?」

 

 「いいえ」

 

 ツツジは、迷いなく即答したという。

 

 「私は、そうは思いません」

 

 「それは、どういった理由で?」

 

 「仮にゲヘナが中央キヴォトスを南下する場合、オデュッセイアも、アビドスも、トリニティも――一斉に、南下を許すはずがありません」

 

 「これは最悪、キヴォトス中を巻き込む世界大戦に発展しかねません」

 

 「ゲヘナは、いまだそのような世界大戦を戦い抜く準備を、整えていないように思われます」

 

 そして、とニヤは言った。

 

 そこからのツツジは、まるで手元の紙を読み上げるかのように、澱みがなかったのだという。

 

 ゲヘナの総兵力と、そのうち百鬼夜行の北方に展開する東漸軍の頭数。山海経が動かせる一万八千に対し、それを統制する連邦生徒会防衛室のFOX小隊はわずか四名。百鬼夜行の常備兵力に至っては、百花繚乱の十八名きり。連邦生徒会が潜在的な戦力を集結させるまでに要する日数。艦隊が各地の軍港を出てから、この海へ辿り着くまでの航路と、その日数――。

 

 誰一人、口を挟めなかったのだという。

 

 「連邦生徒会が然るべき対抗策を講じるまでに、およそ二ヶ月」

 

 「そして、艦隊が無事に百鬼夜行へ到着するまでには――四ヶ月。いえ、一年は要するでしょう」

 

 「一年は、流石に暴論じゃないか?」

 

 蘇我オンマが、苦言を呈したという。

 

 だが、ツツジの声に、揺らぎはなかった。

 

 オデュッセイアから百鬼夜行へと続く海峡で、多数のゲヘナのUボートと機雷敷設艦の通行が確認されていること。その海峡を管理するアビドス高等学校が、砂漠化による財政危機の末に、ゲヘナの資金援助の前に門を開けざるを得なかったこと。そして、その行先が――ここ、百鬼夜行であること。

 

 「おそらくは、開戦と同時に、機雷敷設艦が百鬼夜行近海のシーレーンを封鎖し、その隙に南下してくるでしょう」

 

 「我々は必ず粉砕され、わずか数日のうちに百鬼夜行は崩壊します」

 

 「連邦生徒会は当然、戒厳令を布告するでしょう。しかし、その時点で既にシーレーンは封鎖されている。圧倒的な戦力差を前にした生徒会は、本土侵攻を恐れ――どのような形であれ、ゲヘナ学園に百鬼夜行を明け渡すでしょう」

 

 そして、彼女は静かに言い切ったのだという。

 

 「その時になれば、陰陽部も、我々百花繚乱でさえも――チラ裏一枚として残ることはないでしょうね」

 

 ニヤは、あの時の空気を、今でも鮮明に覚えていると言った。

 

 ツツジのその一言に、蘇我オンマの目元が、微かに、しかし確かに痙攣した。こめかみに、青筋が浮かび上がったのを、ニヤは見たのだという。

 

 「……では、どうするというのかね」

 

 「私に、考えがあります」

 

 ツツジが取り出したのは、一枚のチラシだった。

 

 そこには『キヴォトス・エニグマ暗号解読大会 暗号募集中!』の文字。

 

 それは一週間後にミレニアムで開催される、暗号解読の難易度を競う大会であった。上位に選ばれた暗号は、クロノス報道部を通じてキヴォトス中に発表されることになっているのだという。

 

 「これで、どうやってゲヘナ学園の雷帝を打ち破るというのかね」

 

 「我々が打ち破るのは、雷帝ではありません」

 

 ツツジは、静かに、しかし確信を持って答えたという。

 

 「雷帝を支える基盤です」

 

 「というと?」

 

 ニヤの語るところによれば、ツツジはこう続けたのだという。

 

 今のゲヘナ学園は、輝かしい功績の裏で、雷帝生徒会による独裁が続いている。粛清や暴力は当たり前で、命令に背いた者は近くの山へ連れて行かれ、そのまま帰ってこないという噂すらある。

 

 ツツジは、その脆さを――突くのだと言った。

 

 「ゲヘナ軍がエビス分校に上陸してきた際、私は東漸艦隊の旗艦セント・イシュトヴァーンに潜入し――とある暗号文を、奪取します」

 

 「とある暗号文とは?」

 

 「D.U地区に対する、攻撃命令書です」

 

 その場にいた全員が、息を呑んだという。

 

 連邦生徒会の影響下にあるD.U地区への、攻撃命令。

 

 それは、連邦生徒会を先に下したことを前提としてのみ成り立つ計画であり――もし連邦生徒会が健在のまま、その命令が世に出れば。

 

 トリニティも、オデュッセイアも、レッドウィンターも、黙ってはいない。ゲヘナが最も恐れる泥沼の世界大戦が、雷帝自身の名の下から始まることになる。

 

 その一枚を、キヴォトス中の目が集まるあの大会へ――ツツジは、そう言ったのだという。

 

 蘇我オンマは、しばし黙考した後、ようやく口を開いたという。

 

 「分かった。その作戦実施を、陰陽部は支持しよう」

 

 その言葉に、蘇我オンマを支持する『崇陰派』の生徒たちは驚きを隠せず、物部ミコシを支持する『排陰派』は、安堵の色を浮かべたという。

 

 「はっ。誠にありが――」

 

 「ただし」

 

 蘇我オンマは、ツツジの言葉を、静かに遮った。

 

 「もし、この作戦が成功した暁には――この功績を、百花繚乱ではなく、陰陽部の功績にすること。これが条件です」

 

 その瞬間――ニヤは、はっきりと見たのだという。

 

 ツツジの瞳から、あの輝きが、急速に色を失っていくのを。

 

 まるで、今まで見えていたはずの道筋が、霧に覆われていくかのように。掠れた、色褪せた青――それが、その時のツツジの目の色だった。

 

 場の空気が、明らかに変わった。

 

 「私は、この学院を守るために」

 

 ツツジの声は、僅かに掠れていたという。

 

 「作戦参謀の御曹司を、大伴コガネ部長より賜りました」

 

 「功績の所在は――あなた方の、お好きなように」

 

 その瞬間、百花繚乱の幹部の先頭にいた、百花繚乱紛争調停委員長・物部ミコシが、怒鳴り声を上げたのだという。

 

 「駄目だ――ッ!」

 

 「末端の分校生徒から、ここまでのし上がれたのは――誰のおかげだと思っている!」

 

 「ツツジ、貴様、物部家の恩を忘れたか!」

 

 「私が感謝しているのは」

 

 ツツジの声は、静かなままだったという。

 

 「物部家ではなく――物部シシカ委員長です」

 

 「この、恩知らずが――ッ!」

 

 ツツジは、ミコシ委員長に殴られかけたが、それを蘇我オンマが制止したのだという。

 

 「物部ミコシ委員長。後輩に対して暴力を振るうのは――あまり、よろしくありませんよ」

 

 「何を言うか、人殺し! 物部シシカ姉貴を殺したくせに!」

 

 「それを言うならば」

 

 ツツジは、静かに、しかし刃のように鋭く言い返したという。

 

 「大伴コガネを毒殺したのは、誰でしたっけ?」

 

 「な――ッ!」

 

 その後、ツツジとヒイナを除く全員――蘇我オンマ率いる『崇陰派』と、物部ミコシ率いる『排陰派』との間で、激しい怒号の応酬が繰り返されたのだという。

 

 ニヤは、その最中、ふとツツジの目を見た。

 

 そこにはもう、先ほどの、輝きはなかった。

 

 ただ、どこまでも虚ろな、漆黒の瞳が――そこにあったのだという。

 

  *

 

 その中で、ツツジは静かに筆を取り、一枚の紙を取り出した。

 

 その目に、光は灯っていなかった。

 

 ――所司、四職、一色。

 

 ツツジの手元に、三八式騎兵銃が顕現した。

 

 それを目撃した雨之宮イルカが、鋭く咎めたという。

 

 「おい、ツツジ! 公卿会議に武器の持ち込みは禁止と言われていたはずだ!」

 

 だが――応答は、なかった。

 

 その時、ニヤの隣に座っていた中臣ヒイナ副部長が、突然彼女の手を引き、会議室から陰陽部の別の部屋へと連れ出した。

 

 閉められた障子の向こうから、それが誰の声かも判別できないほどの、阿鼻叫喚の悲鳴が響いてきたのだという。

 

 ヒイナは、ニヤをその部屋に置くと、自らも武器を手に取り、元来た道を戻っていった。

 

 数分後。

 

 弱々しい音とともに、部屋の障子が開け放たれた。

 

 そこに立っていたのは――全身に返り血を浴びた、武者小路ツツジだった。

 

 ニヤは、その光景を目にした瞬間、あまりの恐ろしさに、声を上げることすらできなかったという。

 

 やがて、奥から中臣ヒイナが駆け寄り、ツツジへと報告した。

 

 「雨之宮イルカが気絶しているが……どうする。他の者と合わせて、沈めるか?」

 

 「いいや」

 

 ツツジの声は、静かだったという。

 

 「彼女は継承戦の標的として――七稜アヤメのために、残しておいてくれ」

 

 「蘇我エミコも、御陵ナグサのために残しておけ」

 

 「……分かった」

 

 「作戦参謀は、当然お前が続投するんだろ」

 

 「私はもう」

 

 ツツジは、静かに首を振ったという。

 

 「作戦参謀を、続けられそうにないよ」

 

 「馬鹿を言うな。お前以外に、一体誰が適任だと言うんだ」

 

 「政治は、私に任せろ。だから君は――」

 

 「もう」

 

 ツツジの声は、微かに震えていたという。

 

 「私には――シシカ先輩の見ていたはずの、その先の未来が、見えなくなってしまったんだ」

 

 「生徒が平和に青春を謳歌する――争いのない、この学院の姿が――」

 

 「きっと、七稜さんは、私のせいで不幸になる。きっと、多くの生徒が、私のせいで傷ついてしまうと思う」

 

 「シシカ先輩……私は、どこで道を――」

 

 その言葉を最後に、ツツジは膝から崩れ落ちたのだという。

 

 それを、ヒイナが咄嗟に支えた。

 

 ――その拍子に。

 

 ヒイナの服の内側から、一冊の調査資料が、音もなく滑り落ちた。

 

 「ツツジ、しっかりしろ!」

 

 「……お前は、この学院を、何度も救ってきただろう。そしてこれからも、それは変わらない」

 

 「いいえ……」

 

 ツツジは、自らの両手を静かに見つめながら――口角を、微かに吊り上げたのだという。

 

 「中臣さん。私はどうやら――人の命の重さが、分からなくなったようです」

 

 「それどころか、それを奪うことに、なんの躊躇もなくなった。それどころか――少し、愉快な気持ちすら、あるんです」

 

 そう言って、掠れた声で、ツツジは笑ったのだという。

 

 ニヤは、その笑い声が、今でも耳の奥に焼きついていると言った。

 

 「荒野には、やがて花が芽吹き、咲きます」

 

 「しかし、それは繰り返す業を連れたまま――シシカ先輩も、私も、その因果を断ち切ることが、できなかった」

 

 「七稜さんも、ただその先の未来を覗いただけで――いずれ、私のように、壊れていく」

 

 「私たちはただ、この地獄の連鎖を、無責任に繋いでいるだけなのかもしれません」

 

  *

 

 ツツジはその後、ヒイナから新たな百花繚乱の制服を受け取ると、本館を後にし、馬をエビス分校へと向けたのだという。

 

 その別れ際、ヒイナはツツジへ、静かに声をかけたという。

 

 「……ツツジ。これだけは、約束してくれ」

 

 「君が背負った役割だけは――なんとしても、真っ当してほしい」

 

 「ええ、それは大丈夫ですよ、中臣さん」

 

 「役割は――全うします」

 

  *

 

 ニヤは、床に落ちたままのあの調査資料へと、そっと手を伸ばしたのだという。

 

 だが――その指先が紙に触れる寸前。

 

 横から伸びた手が、それを静かに攫っていった。

 

 部屋を出ようとしていた、ツツジの手だった。

 

 そして彼女は、資料を懐へ収めながら――ニヤの目を、まっすぐに見つめたのだという。

 

 その目は、相変わらず黒く、虚ろだった。

 

 だが――ニヤには、その奥に、確かな光が、微かに見えたのだという。

 

 それは、まるで。

 

 明日の夜明けに絶望しながらも――それでもなお、その日の出だけを望むような、そんな目だった。

 

  *

 

 ここで、ニヤの話は終わった。

 

 彼女は最後に、私の目を、まっすぐに見つめた。

 

「先生」

 

「彼女を――彼女たちの因果を、止めてください」

 

「そして、彼女に夜明けを――朝日を、見せてあげてください」

 

 私は、その言葉が意味するものを、痛いほど理解した。

 

 そして――ただ、重く、深く、頷くことしかできなかった。

 

  *

 

 会議室の障子を閉めた、その時だった。

 

 薄暗い渡り廊下。もう陽は落ちかけていて、板張りの床には、格子窓の影だけが細く伸びている。

 

 その壁際に、人の気配があることに――私はようやく気づいた。

 

 ――七稜アヤメ。

 

 彼女は壁に背を預けたまま、膝を抱えるようにして、そこに座り込んでいた。

 

 いつから、そこにいたのだろう。

 

 私は、迷わず駆け寄った。

 

「アヤメ――」

 

 膝をつき、その顔を覗き込む。

 

 伏せられた睫毛の下、彼女の瞳は、どこか遠くの一点を見つめたまま、動かなかった。

 

「先生。おそらくツツジ先輩は――キキョウに」

 

 私が声をかけるよりも早く、アヤメの唇が動いた。

 

「自身と、全く同じ試練を与えたんだ」

 

 その声は、驚くほど落ち着いていた。

 

 だからこそ――恐ろしかった。

 

「でも……ははっ」

 

 乾いた笑いが、薄闇の廊下に、ぽつりと溶けていく。

 

「ツツジ先輩は、最初から分かってたんだ」

 

「私が委員長になって――重荷に耐えきれなくなって、黄昏と交わって――」

 

 膝を抱える指先に、白くなるほどの力が籠もった。

 

 その先の言葉が、震え始める。

 

「じゃあ、あの言葉は嘘だったの――? ツツジ先輩」

 

「『君なら、いい委員長になれる』って……」

 

 沈黙が、落ちた。

 

 やがて――それは、腹の奥底から絞り出されるようにして、彼女の喉を裂いた。

 

「答えてよ、ツツジ先輩――ッ!」

 

  *

 

 私は、彼女の頭に、そっと手を置いた。

 

 撫でることしか、できなかった。

 

 それでも――言わなければならないことがあった。

 

「アヤメ」

 

 私は、静かに口を開く。

 

「私には、ツツジが何を考えているのか、分からない」

 

 嘘は言えなかった。この子には。

 

「きっと、アヤメもそうだと思う」

 

 髪の下で、小さく肩が震えた。

 

「けど――彼女には、何かしっかりとした考えがあるのだと、私は思う」

 

「だからアヤメ――」

 

 私は、その顔を上げさせるように、静かに続けた。

 

「みんなと一緒に、ツツジのところへ行こう」

 

「一緒に、ツツジの真意を聞きに行こう」

 

 アヤメの睫毛が、僅かに揺れる。

 

「大丈夫。ツツジは、まだ生きているんだ」

 

「今から行っても――遅くはないよ」

 

 ――その言葉に。

 

 彼女は、初めて強く反応した。

 

「ツツジ先輩はもう」

 

 顔を上げたアヤメの目が、まっすぐに私を射抜く。

 

「長くは、生きられない――」

 

「……それって、どういう」

 

 息が、詰まった。

 

 あまりにも唐突で、あまりにも確信に満ちたその一言に、私は完全に動揺していた。

 

 その意味を問い返す声が、みっともなく掠れる。

 

 だが――アヤメは、答えなかった。

 

 答えないことが、答えだった。

 

  *

 

 薄暗い廊下に、沈黙が横たわる。

 

 遠くで、鴉が一声、鳴いた。

 

 ――それでも。

 

 私は、彼女の肩に置いた手に、力を込めた。

 

「それでも、遅くはないよ」

 

 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

 

 根拠などない。

 

 ただ――ここで頷いてしまえば、この子は本当に、あの人に一生縛られてままだ。それだけは、確かに分かっていた。

 

 私は、強い確信を持って、アヤメにそう告げた。




【神聖タータロス王立学園】
神聖ローマ帝国がモチーフ。タータロスはギリシア神話における奈落の名です。

【グレイ゠カーディナル】
「灰色の枢機卿」は、リシュリューの側近フランソワ・ルクレールの異名。表に立たず実権を握る者を指す言葉として今も使われます。

【二段階革命論/重商主義/不凍港】
いずれも近代政治経済史の概念。特に不凍港の確保は、冬に港が凍る国家にとって死活問題であり続けました。

【エニグマ】
第二次大戦期にドイツが用いた暗号機。連合国側による解読が戦局を大きく左右しました。
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