「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」 作:ゆゞきノ君
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。
オデュッセイア海洋高等学校、旗艦『オリュンポス号』艦長室――。
舷窓の外には、凪いだ夜の海が広がっていた。月光を一面に浴びた水面は、磨き上げられた黒曜石のごとく、青ざめた光沢を湛えている。艦内に響くのは、機関の低い唸りと、遠く舷側を洗う波の音だけ。それは、この夜がまだ何事もなく明けるのだと、誰もが信じて疑わないほどの静けさだった。
「艦長」
控えめなノックの後、灯下アミが姿を見せる。だが、その顔からは、常の落ち着いた色が失われていた。
艦長を務める海路ミナトは、海図から視線を上げる。
「シュネーバル軍港より、緊急信です」
アミは、僅かに息を整えてから続けた。
「旧ハーデス゠シェオル二重学園の賠償艦隊――その乗組員らが、突如として反旗を翻したとのこと」
ミナトの手から、ペンが静かに滑り落ちた。
「率いているのは、元ハーデス二重学園提督――
「……何かの間違いじゃないか?」
ミナトは、思わず問い返さずにはいられなかった。
「宇津保コトネは、元ハーデス君主学園海軍の提督とはいえ――内陸の、シェオル学園の副生徒会長だぞ」
「そもそも、かの学園に艦隊を停泊させる港なんて存在しない」
「実は数日前」アミは、静かに答えた。「シェオル学園にて、汎タータロス主義を掲げる右派によるクーデターが成功しております。宇津保コトネは、その煽りを受けて国外追放されていたようです」
艦長室に、重い沈黙が落ちた。舷窓の外では、変わらず月が海を照らしている。だがその銀の光は、今やどこか、刃のような冷たい青みを帯びて見えた。
「……ということは」ミナトが、低く呟く。「奴らも、海賊団に堕ちるということか」
「いえ」アミは、静かに首を振った。「その可能性は、低いかと」
「どういうことだ」
「既に――停泊する港の目星が、ついているようです」
「どこだ、それは」
アミは、一拍の間を置いてから、その名を口にした。
「百鬼夜行連合学院、ヤマセ分校の――トサミナト港です」
ミナトは、しばし目を閉じた。そして、静かに、しかし一切の迷いなく命じる。
「今すぐ、連邦生徒会に連絡を」
「はっ!」
アミが踵を返し、扉の向こうへ消えていく。一人残されたミナトは、ゆっくりと席を立ち、舷窓へと歩み寄った。
月明かりに照らされた海面は、あくまで美しく、あくまで静かだった。だが、この海を長く生きてきた彼には分かる。これほどまでの凪は――決まって、嵐の前触れなのだ。
「この海が……また、油で満ちるのか」
黒い油膜が、この銀の水面を覆い尽くす日。その光景を、二年前に彼女は一度、この目で見ている。
呟きは、誰の耳に届くこともなく、夜気の中へと溶けて消えた。
*
百鬼夜行、ヤマセ分校トサミナト港――。
夕暮れの気配が、水平線を薄墨色に染め始めていた。潮風は肌を刺すほどに冷たく、港に漂う空気には、鉄と油と、そして人の熱気とが混然と入り混じっている。
その港に――東漸艦隊、その全艦艇が集結していた。鈍色の巨躯が、乳白の朝靄の中に幾重にも影を落としている。
旗艦セント・イシュトヴァーンから下ろされた一艘の端艇が、静かに桟橋へと近づいてくる。乗っているのは、東漸艦隊を率いる宇津保コトネ、その人であった。
「全員傾注――ッ!」
源ヨシゑの号令が、港の隅々にまで響き渡る。
「シェオル学園副生徒会長に対し、敬礼ッ!」
エビス分校、ヤマセ分校、イサワ分校、ヒガキ分校、ダイコク分校――百鬼夜行の各分校から集った生徒たちが、一斉に姿勢を正した。無数の靴底が石畳を打つ音が、揃って一つの響きとなる。
桟橋に降り立った宇津保コトネは、肘を前に張り、手のひらを相手に見せぬよう、ハーデス君主学園海軍の軍帽の庇へと人差し指を当てた。海の上で幾度も繰り返してきた、彼女の敬礼だった。
そして彼女は、真っ直ぐに武者小路ツツジのもとへと歩み寄ると――ツツジが動くよりも早く、深く敬礼を切る。
「旧ハーデス君主学園軍の最高顧問であり、そして何より――我がシェオル学園生徒会長、万里小路ツツネ」
その名を呼ばれ、ツツジの口角が微かに上がった。
「シュネーバル水兵反乱の際は、我が海軍に尽力していただき、誠にありがとうございました」
「いえ」ツツジは、静かに首を振る。「私の尽力なんて、微々たるものです」
朝靄の中、その声はいつもよりも低く、掠れて聞こえた。
「しかし――デウス・ウルト講和会議で、ハーデス゠シェオル二重学園の崩壊を阻止できなかったことは、本当に申し訳ない」
「いいんです」コトネは、穏やかに、しかし乾いた諦観を込めて答えた。「かの学園は、いずれ内部分裂によって崩壊していたんですから」
「……それとなんだが、コトネ提督」
「いいんです」彼女は、ツツジの言葉を遮るように微笑んだ。「なんやかんや、海のない学園の提督で、尚且つ生徒会長のいない学園の長というのも――悪くはなかったですよ」
――海のない学園の、提督。生徒会長のいない学園の、長。
その二つの奇妙な肩書きは、いずれも武者小路ツツジという一人の少女に由来している。
万里小路ツツネの名でゲヘナの参謀本部に潜み、ハーデス君主学園軍の最高顧問として崩壊寸前の二重学園を支え、最後にはシュネーバル軍港の水兵反乱を主導して、一連の戦争そのものを終わらせた少女。その実績ゆえにシェオル学園で絶大な人気を博した彼女は、本人の与り知らぬところで生徒会長に立候補させられ、そのまま就任させられてしまった。だが当のツツジの身柄はゲヘナにあり、周辺の学園はどこも、彼女がシェオル学園の門を潜ることを認めなかった。
残されたのは、長のいない学園と――その席を空けたまま守り続けた、副生徒会長ひとりである。
「ペルセフォネもハーデスも、我が学園に対し戦争の構えを取っていましたし」コトネは、遠くを見るように目を細めた。「ゲヘナも、雷帝の卒業後はツツネを戦犯扱いする風潮がありましたからね」
「万里小路ツツネもとい、武者小路ツツジ作戦参謀が、無理にシェオル学園へ入学していたり――はたまた、ゲヘナ学園にそのまま滞在していたら、もっと悲惨なことになっていたでしょう」
「百鬼夜行に帰られたのは、良い判断だったと思います」
そして彼女は、静かに笑みを深めた。
「それに――こうして、私とも会えませんでしたしね」
それもそうだな、と二人は静かに笑い合う。
だが、その和やかな空気を裂くように――頭上から、重々しい爆音が近づいてきた。
見上げれば、茜と紺の混じり合う暁の空を、数十機の航空機が編隊を組んで飛来している。先導するのは東漸艦隊所属の飛行艇『ローナーL』。それに続くのは『メッサーシュミットBf109』、そして『フォッケウルフFw190』の群れ。その翼が、沈み始めた陽光を受け、鈍い銀色に閃いた。
宇津保コトネによれば、この航空戦力は、ウラーノス航空宇宙高等学校へ編入した旧知の伝手を頼って用意したものだという。
ツツジら一同は、港からほど近い滑走路へと足を向けた。
「紹介します、彼女は――」
コトネがそう切り出そうとした、その時だった。
「武者小路ツツジって誰かと思って来てみたら――まさか、ツツネ大将だったとは驚きだ」
滑走路に立っていた二番機の隊員が、豪快な笑みとともにそう言い放った。
「久しぶりです、
「今は少尉ではなく大尉だ」彼女は、胸元の階級章を指で弾いてみせた。「この第一〇八戦術戦闘飛行隊ウォードッグ隊も、今は名を改めて――ラーズグリーズ戦闘機部隊に昇格している」
「第一次アスリート攻勢、第二次メイン・アスリート攻勢、
「武者小路ツツジでも、万里小路ツツネでもどちらでも良いですよ、ナガセ大尉」ツツジは、静かに答えた。
「なるほどな……」ナガセは全てを察したような様子でツツジを見つめる「東漸の役の後、人が変わったみたいに有能になっていたが……そういうことだったのか」
二人は、固く握手を交わした。その傍らで、宇津保コトネが呆然と立ち尽くしている。
「お二人は……お知り合いだったんですか?」
「ああ」ナガセは、可笑しくてたまらないというように笑った。「西漸事変の際、当時のゲヘナの空軍大臣が、私たちの部隊を使って体当たり攻撃をしようなんて、ふざけたことを言ってきてな」
「んで、こいつは雷帝が見ている中で、その空軍大将をボコボコにしてな!」
あの時は凄かった――と、桐壺ナガセは高らかに笑い声を上げた。一方のツツジは、苦笑いを浮かべるほかない。
「はは……まあ、そのせいで私は中央から、ハーデスに飛ばされたんですけどね……」
桐壺ナガセは、もともと西漸事変においてD.U地区を担当するゲヘナ航空隊の二番機であった。デウス・ウルト講和会議の後、その航空隊はゲヘナ学園の賠償としてウラーノス航空宇宙高等学校へと編入されている。
「我が航空隊は、貴方に恩がある」ナガセの声から、笑いの色が消えた。「いくらでも協力しよう」
「我が艦隊もだ」
再び、三者は固く手を取り合う。
その時――もう一人、そっと手を差し出す者があった。
「私も、いいかな? 武者小路ツツジ」
「ホワイトウィンター学園、清浦ケアキ大元帥殿」ツツジは、深く頭を垂れた。「お待ちしておりました」
かつてゲヘナ学園の侵攻によって崩壊したホワイトウィンター学園。レッドウィンター連邦学園の成立後、多くのホワイトウィンターの生徒たちが、密かに百鬼夜行へと亡命してきていた。清浦ケアキも、その一人である。
「またあの時のように、貴官と共に戦えること――光栄に思う」
「ああ」ツツジは、静かに応じた。「私もだ」
*
そんな彼女たちのもとへ、源ヨシゑと、エビス分校副生徒会長・
「エビス分校、ヤマセ分校、タライ分校、ヒガキ分校、ダイコク分校の生徒ら、及び旧ゲヘナ学園の生徒らの再編が、完了いたしました」
「ご苦労だった、源ヨシゑ陸軍奉行、蠣崎オタル政友会会長」ツツジは、静かに頷いた。「ひとまず陸軍戦力の指揮官は、清浦ケアキに一任してもらう」
「やっと――」
オタルの声が、微かに震えた。
「
ツツジは、それに対し、ただ僅かに頷いた。
続いて、清原ヒラメが息を切らして駆け寄ってくる。
「ツツジ軍総、先の文書のお返事が、陰陽部より届いております」
「彼女たちは、なんと?」
「『諸君らの送った文書は、学園間で行われるような公的なものではなく、ゆえに法的効力を持たない。またこれ以上の脅迫を行った場合は、連邦生徒会とともに然るべき対応を――』」
「ああ、もういい」
ツツジは、片手を上げてそれを制した。
「全く……今の陰陽部は、文字も読めないのか?」
そして、諦めたように小さく息を吐く。
「まあ、昔も変わらんか……」
水平線に沈む夕立の光が、彼女の横顔を赤く染めていた。包帯に覆われたその目が何を見ているのか――誰にも、分かる者はいなかった。
「シャーレの先生に代わって、我々が教育してやらんとな」
やがてツツジは、静かに顔を上げた。そして――集結した全ての将兵へ向けて、朗々と声を張り上げる。
「聞きたまえ、我が連合学院、帝政ゲヘナ、王政ハーデス、ホワイトウィンター学園の生徒たちよッ!」
潮風が、彼女の三つ編みを大きく揺らした。
「今こそ、シャーレの仕事を肩代わりしてやろうではないか!」
「我ら将兵のあるうちは――我々が、先生に取って代わるのだ!」
「奴らに戦争とはなんたるか、それ相応の対価と共に、叩き込んでやれッ!」
その言葉が響き渡った瞬間、港に集った全ての者が、一斉にツツジへと敬礼を捧げた。
水平線の彼方で、太陽が完全に沈んだ。松明の光、装甲車のライト、艦隊から放たれる照明、数十頭もの馬の鼻音。まさに宴のような光の集合体は、これから始まる戦争という名の宴を、静かに予告しているかのようだった。
「では戦友諸君――」
ツツジは、その光の中で、静かに告げた。
「戦っ争の時間だっ!」
【題名について】
在原業平の歌から。月も春も昔のままなのに、自分ひとりだけが元のままではない――という嘆きを詠んだ一首です。二年ぶりに旧知の者たちと再会するツツジの状況に重ねています。
【セント・イシュトヴァーン/ローナーL】
いずれもオーストリア=ハンガリー帝国海軍の艦艇・飛行艇。
【メッサーシュミットBf109/フォッケウルフFw190】
第二次大戦期のドイツ戦闘機。
【ウォードッグ隊・ラーズグリーズ】
『エースコンバット5』へのオマージュです。桐壺ナガセ、バートレット大尉、ブービーといった呼称も同作に由来します。