「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」 作:ゆゞきノ君
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。
「九尾の狐は、あと数時間後に目を覚ます」
ツツジの声が、薄暮の森に静かに落ちた。
蠣崎オタル、源ヨシゑ、清原ヒラメ――彼女たちに拘束された百花繚乱の面々と、先生。その縄目の中から、不破レンゲが唾を吐くように叫んだ。
「貴様は、そんな九尾の狐の時間稼ぎか。無様だなッ!」
ツツジは、答えなかった。
代わりに口を開いたのは、先生だった。
「ツツジは本当に――九尾の狐の言う、百鬼夜行の世界を望むの?」
その問いに、ツツジは静かに顔を上げた。包帯に覆われた目が、見えるはずのない先生の方角へと、まっすぐに向けられる。
「逆に聞くが」
彼女の声は、酷く平坦だった。
「君たちが生きている今の世の中――仮に、
「その
風が、木々の梢を鳴らす。
「百鬼夜行とは、スピリチュアル的な要素はあれど――根本的には、悪人が跋扈する様を言っている」
「天地ニヤから、私の話は聞いていると思うが。私は、もとい私たちは――その悪人側だ」
「どこに帰属するかは、明白だと思うが」
「でも」
先生の声が、静かに、しかし確かに響いた。
「君は。武者小路ツツジは――そんな彼女たちの青春を、守ったんでしょ」
ツツジの足が、止まった。
落ち葉を踏む音が消え、森が一瞬、完全な静寂に沈む。
「……それが、私の望まれた役割だったからだ」
その声は、どこまでも乾いていた。
「それ以上でも、それ以下でもない」
「――ツツジ先輩が、私に対して言ってくれた言葉も」
アヤメが、叫んだ。声は震え、掠れ、そして裂けていた。
「その役割を、ツツジ先輩が任されたからなの――ッ!」
「ツツジ先輩の言葉は――嘘だったの――ッ!」
一拍の、間。
「そうだ――ッ!!」
ツツジは、叩きつけるようにそう答えた。
「君が雨之宮イルカから庇ったのも、君から黄昏の汚濁を取り払うよう九尾の狐に取り計らったのも」
「将来、君が物部シシカの意思を告げるように――」
だが、その言葉を紡ぐツツジの口元は――誰の目にも分かるほどに、震えていた。
アヤメは、俯いた。透明な滴が、次から次へと、足元の土へと吸い込まれていく。
「だったら――ッ!」
その時だった。
二人の間へ、割って入る声があった。
「ツツジ先輩」
桐生キキョウだった。
「私はあなたに、もう一度――継承戦を持ちかけるわ」
その一言に、その場の空気が変わった。
「これはあなたの軍師大権を継承するものじゃない。あなたの――役割をかけた、継承戦よ」
「だから、特例として。陰陽部の代わりに、連邦捜査部シャーレを立会人として、行う」
ツツジは、しばし黙考した。
やがて――
「分かった」
その返答を聞くと、キキョウはアヤメと先生の方を振り返った。アヤメはしばらく迷うように唇を噛んでいたが、やがて、こくり、と小さく頷く。先生もまた、静かにそれを了承した。
ツツジもまた、源ヨシゑと清原ヒラメへと顔を向ける。両者ともに、無言で頷いた。
互いの短い自己紹介を経て――蠣崎オタルの合図とともに、戦端は開かれた。
以前の戦いを目の当たりにしていた先生、レンゲ、ユカリは、拭いきれぬ不安を宿した眼差しで、その背中を見送るほかなかった。
*
戦いは、瞬く間に森の奥深くへと移っていった。
夜の帳が、完全に降りていた。月明かりすら枝葉に遮られ、一寸先すら見通せぬ、墨を流したような闇。空気は湿り、土と腐葉の匂いが濃く立ち込めている。
その闇の中を、先生たちは駆けた。
「ははっ、ツツジが敗走してる」
レンゲが、勝ち誇ったように笑う。
「キキョウは夜でも目が見えるし、耳も人一倍いい」
「ツツジ先輩は目も見えなければ、耳もキキョウには及ばない」
「この勝負は――キキョウの勝ちだな」
だが、ただ一人。
その光景を見つめるアヤメだけが、青ざめた顔で呟いた。
「――誘い込まれてる」
その声は、誰にも届かなかった。
*
闇の中で、銃口が咲いた。
放たれた火花が、一瞬だけ木々の輪郭を橙色に浮かび上がらせては、再び闇へと呑まれていく。銃声が幹に反響し、どこから撃たれたのか、その方向すら曖昧になっていった。
キキョウは、駆けた。匂いを、音を、空気の揺らぎを、全神経で拾い上げながら。
――捉えた。
銃火の残光。硝煙の匂い。そのすべてが、確かに前方を指している。
だが、次の瞬間。
目の前から――ツツジの気配が、完全に消えた。
キキョウは足を止め、息を殺す。心臓の鼓動が、耳の奥で不快なほど大きく鳴っていた。
闇。静寂。そして――
ぐるるる、と。
地の底から響くような、低い唸り。
キキョウは、ゆっくりとその方向へ顔を向けた。
闇の中に、闇よりも濃い塊が、そこにいた。
――巨大なヒグマだった。
濡れた鼻先が、白い息を吐く。腐肉と獣脂の混じった生臭さが、鼻腔を灼いた。丸太のような前肢が、湿った落ち葉を踏み締めながら――少しずつ、少しずつ、間合いを詰めてくる。
三日月刀のような爪が、闇の中で、鈍く光った。
その時、頭上の木の枝から、静かな声が降ってきた。
「チェックメイトだな、桐生キキョウ」
ツツジの口角が、ゆっくりと吊り上がる。
「キキョウ! 早く逃げろ!」
「キキョウ――ッ!」
先生、ナグサ、レンゲ、ユカリ――遠くから、悲鳴じみた声が次々と飛んだ。
だが。
その渦中にありながら、キキョウの顔には――余裕の色が、確かにあった。
「いいえ、違うわよ、ツツジ先輩」
彼女は、まっすぐに枝上の影を見上げた。
「それは――私のセリフよ」
その言葉が、闇に響いた瞬間。
遥か遠く、雪山の頂で――巨大な爆発が起こった。
「――ッ!?」
ツツジが、初めて動揺の声を漏らした。
轟音が、数瞬遅れて森を揺るがす。ヒグマがその音に怯え、金切り声のような唸りを上げて、闇の奥へと逃げ去っていった。
――だが。
それは、あまりにも巨大すぎた。
キキョウが仕掛けたものは、彼女たちの生命を脅かさぬ程度の、ごく小規模な爆薬だったはずだ。それが今、山肌全体を白く崩落させている。
鈍い地響き。空気そのものが震え、木々の葉が一斉に散った。
白い壁が――迫っていた。
「どういうこと――ッ!?」
キキョウが叫ぶ。
目を凝らせば、月光を浴びた雪山の頂に、影が一つ、静かに鎮座していた。
――九つの尾を持つ、少女。
その輪郭は、まるでこの惨劇を鑑賞するかのように、微動だにしなかった。
白い津波が、轟音とともに斜面を駆け下ってくる。行く手の樹木を、岩を、すべてを噛み砕きながら。
その時、ツツジが叫んだ。
「蠣崎オタル、源ヨシゑ、清原ヒラメ、そしてその他の生徒に次ぐ」
枝上から、彼女の声が、雷鳴のように轟いた。
「これは、私の最後の命令だ。先生たちを、急いで安全な場所へ避難させなさい」
「そして、全員は――あの作戦参謀についていきなさい」
「蠣崎オタル、源ヨシゑ、清原ヒラメ――」
「最後の命令――」オタルの声が、裏返る。「あなた、まさかッ!」
「どうしてです、あんなガキよりも、あなたの方がよっぽど作戦参謀に――ッ!」
「――百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」
迫り来る轟音の中で、ツツジの声だけが、不思議なほど澄んで響いた。
「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」
「これは――孫子『謀攻篇』の一節です。あなた達なら、この意味が分かるはずです」
「私は、彼女に継承戦で――作戦参謀としての資格において、負けたのです」
「ですが――ッ!」
「これは、軍師大権を持つ私の命令です」
その声に、一切の揺らぎはなかった。
「これ以上、無駄な具申をするのであれば、軍規をもって、君たちを処罰します」
三人は、その言葉に凍りついた。
そしてツツジは――キキョウたちのいる方角へと顔を向け、静かに、はにかんだ。
*
オタル、ヨシゑ、ヒラメらは、一斉に馬へと跨った。その中には、ツツジの愛馬・大夫黒の姿もあった。
雪崩に呑まれる、その刹那。
彼女たちの馬が、拘束されていた先生たちを掬い上げ、そのまま安全な高台へと駆け出していく。
その最中――大夫黒だけが、幾度も、幾度も、首を巡らせて後方を窺っていた。
そして。
ツツジの姿が、白い奔流に呑み込まれた、その瞬間。
空を旋回する磐手から。地を駆ける大夫黒から。そして――アヤメの喉の奥から。
三つの、悲痛としか言いようのない叫びが、同時に夜の森を裂いた。
「ツツジ先輩――ッ!!」
*
雪崩が収まった後の世界は、恐ろしいほどに静かだった。
月明かりを浴びた新雪が、一面を青白く覆っている。ついさっきまでそこにあった木々も、岩も、何もかもが、その白の下に沈んでいた。あまりにも美しく、あまりにも残酷な、完全な静寂。
アヤメは、ふらつく足で、ツツジが埋まっているであろう場所へと歩み出した。
清原ヒラメが、その腕を掴んで止める。だがアヤメは、その手を乱暴に振り払った。
――そして、柔らかい雪に足を取られ、前のめりに崩れ落ちる。
「アヤメ――!」
先生が、咄嗟にその体を支えた。
ツツジ先輩は。
そのまま、雪崩に呑み込まれてしまったのだ。
アヤメの目から零れた滴が、まだ薄く積もったばかりの氷雪の上へ、ぽつり、ぽつりと落ちていく。その一粒ずつが、白い表面に小さな穴を穿っていった。
「また、勝手にいなくなった」
掠れた声が、震えながら漏れる。
「私はまだ、あなたに――クソッタレの一言も――」
「私はまだ、百花繚乱の委員長に――」
その時。
アヤメの脳裏に、一つの記憶が、鮮明に呼び起こされた。
――もし、まだ自分が委員長に相応しくないと思うなら、黄昏の寺院に来なさい。私はそこにいるから――
アヤメは、ゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れたその瞳に、微かな光が戻る。
「黄昏の寺院に――行かないと――」
*
その傍らで、源ヨシゑが、キキョウの前に一本の襷を差し出した。
馬上で、ツツジから最後に手渡されたもの。『軍師』と記された、あの白い襷だった。
キキョウは、無言のままそれを受け取り――強く、強く、握りしめた。
「源ヨシゑさん」
彼女は、俯いたまま尋ねた。
「ツツジの――最後の言葉は、なんと?」
あの轟音の中、ツツジは確かに、彼女へ手信号を送っていたのだ。
ヨシゑは、一瞬言い淀んでから、静かに答えた。
「『長生きしろよ、源氏のデカけつ』――です」
キキョウの喉から、掠れた笑いとも嗚咽ともつかぬ音が漏れた。
「……ここまで笑えない冗談も、初めてね」
彼女は、荒々しく目元を拭うと、顔を上げた。その瞳には、既に迷いはなかった。
「では、あなた達は、そのように」
「私たちは引き続き――黄昏の寺院に向かいます」
東の空が、僅かに白み始めていた。
「九尾の狐を、討伐します――」
先生、アヤメ、レンゲ、ユカリ、ナグサ、そしてキキョウ。
六つの影は、新雪を踏み締め、再び黄昏の寺院へと歩み出した。
背後には――何一つ、残されてはいなかった。
【百戦百勝は善の善なる者に非ず】
孫子・謀攻篇の一節。百度戦って百度勝つのは最善ではなく、戦わずして相手を屈服させることこそが最善である、と説きます。ツツジがこの言葉を最後の命令に選んだ理由は、部下たちには通じていました。