「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」 作:ゆゞきノ君
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。
黄昏の寺院――。
その門前に辿り着いた瞬間、先生たちの足は、その場に縫い止められた。
目の前に広がっていたのは、惨状としか呼びようのない光景であった。
数百年を数えたであろう巨木の数々が、まるで紙細工のように断ち切られ、無残に倒れ伏している。断面は不気味なほど滑らかで、そこから滲み出た樹液が、朱色の斑となって地面を濡らしていた。本殿は既に半ば崩れ落ち、傾いだ柱が今にも折れんばかりに軋みを上げている。
そして――その瓦礫の只中で。
九尾の狐の刃が、預言者クズノハの胸へと、深く突き立てられようとしていた。
「ナグサ!」
「わかってる――ッ!」
先生の声に呼応し、ナグサの放った百蓮が、白銀の軌跡を描いて疾走する。
閃光。
クズノハに迫っていた狐の剣が、甲高い金属音とともに宙へと弾き飛ばされた。
「ようやく来たか、先生ども」
九尾の狐が、忌々しげに振り返る。
「クズノハから離れろッ!!」
百花繚乱の面々は、瞬時に散開してクズノハを救出すると、そのまま九尾の狐との戦闘へと突入した。
*
「其方らが、無理な出血を強いることはない――」
先生の腕に抱えられながら、クズノハは静かにそう告げた。その声は、驚くほどに穏やかだった。
「全ては、これでよかったのじゃ」
「クズノハの言っている意味は分からないけど――」
先生は、彼女の体を強く抱き寄せた。
「目の前で傷ついている生徒を、ほったらかしになんて、私にはできないよ」
「……まったく、其方ってやつは」
クズノハの口元が、僅かに緩んだ。
その傍らで――戦況は、急速に傾いていた。
ナグサを庇いながら前へ出たアヤメとキキョウが、狐の一撃をまともに受け、崩れかけた本殿の柱へと叩きつけられる。轟音とともに、本殿は完全に倒壊した。舞い上がった白い埃が、朝を待つ薄闇の中に、霧のように立ち込める。
ナグサもまた、次の一撃で百蓮を取り落とした。ユカリとレンゲが必死に抗戦を試みるも――その圧倒的な力の前に、次々と膝を折っていく。
だが。
九尾の狐は、彼女たちにとどめを刺さなかった。
「黄昏の門が開いた時――」
その唇が、酷薄に歪む。
「中で飢えている怪異の、餌になってもらう」
そう言い残し、狐はゆっくりと黄昏の門へと歩み寄っていった。
「先生、よう見ておれ」
クズノハだけが、その一部始終を、静かな眼差しで見つめていた。
*
九尾の狐の手が、黄昏の門に触れる。
その瞬間――門を封じていたありとあらゆるものが、糸の切れる音を立てて、一斉に断ち切られた。
重々しい軋みとともに、門が開く。
その奥から溢れ出したのは、黄昏色の――赤とも紫ともつかぬ、粘るような光であった。
「さあ怪異ども、我が名のもとに」
九尾の狐が、両腕を大きく広げる。
「このキヴォトスを、真の百鬼夜行に染め上げてやろうではないか――ッ!!」
その哄笑が響き渡った、まさにその時。
「へぇ。怪異も、人の上に立つことを好むのですね」
――静かな声が、門の奥から返ってきた。
「この声は――ッ!?」
黄昏の光を背に、一つの人影が、ゆっくりと歩み出てくる。
雪崩に呑まれ、この世を去ったはずの――武者小路ツツジであった。
「ツツジ、先輩……?」
瓦礫の下から、アヤメが呆然とその姿を見上げる。
――違う。
首元を覆っていたはずの、あの醜いびらん剤の傷痕が、跡形もなく消えていた。あれほど深く刻まれていた外傷の一つとして、今の彼女には見当たらない。
「――ッ、今更、貴様なぞ恐ろしくないわ」
九尾の狐が、虚勢を張るように吠えた。
「そもそも貴様は、鷹の目や人の殺気を感知せねば、まともに戦うことすらできぬ」
「前、妾に負けたのも――百蓮以前に、妾に殺気がなかったからじゃ」
その言葉を聞くと、ツツジは、静かに手を上げた。
そして――目に巻かれた包帯を、するりと解き放つ。
解けた白布が、風に乗って舞い落ちた。
「そうか」
露わになった双眸が、ゆっくりと開かれる。
二年ぶりに光を捉えたその瞳は、驚くほど澄んでいた。
「君は――そんな面をしていたのか」
そして、ツツジは鼻で笑う。
「どうりで、獣臭が臭いわけだ」
「――ッ!」
九尾の狐が、その隙を突いて跳んだ。爪が空気を裂き、ツツジの喉元へと一直線に伸びる。
だが。
ツツジの体が、紙一重で滑るように傾いだ。爪は、彼女の頬の横を虚しく切り裂いただけだった。
「何――ッ!?」
「ははっ」
ツツジは、笑った。心の底から可笑しくて堪らないというように。
「目って、いいなあ」
「お前の悔しそうな顔が、スゲェ――よく見えるぜッ!」
「小賢しい――ッ!」
九尾の狐が、背後へと手を伸ばす。
「讃――ッ!!」
その名を叫んだ。
――だが。
何も、出てこなかった。
「なぜじゃ」
狐の顔から、血の気が引いていく。
「なぜ、出てこない――」
ツツジは、笑みを浮かべたまま、ゆっくりと黄昏の門の方へと向き直った。
そして、大きく息を吸い込み――
「
その瞬間。
九尾の狐の背筋が、目に見えて凍りついた。
「どうです」
ツツジは、静かに告げる。
「もう、陰謀で殺そうなんて――できませんよ」
「正々堂々、戦ってくださいね」
「ま、まだ妾には、アヤメから奪った黄昏の能力が――」
狐の言葉は、そこで途切れた。
黄昏の門の奥から、ずしり、ずしりと。
地を踏み鳴らす、重い足音が近づいてくる。
讃の誉田オキミ。珍の
かつて九尾の狐に取り込まれ、その神秘を奪われた五人が、今、黄昏の光を背にして立っていた。
九尾の狐の顔から、あらゆる表情が抜け落ちる。
――絶望であった。
「これはこれは。誰かと思ったら――お主か」
「我らを弄んだ分、たっぷりと、貴様の立場を分からせてやる」
「オキミ殿、
「良いな! タケルも、たまには良いことを言うものだな!」
「たまに、とはなんですか」
和気藹々と言葉を交わす五人に、まるで首根を掴まれた仔猫のように引きずられて――九尾の狐は、抵抗する術もなく、黄昏の門の中へと連れ込まれていった。
その断末魔の叫びは、門の奥へと吸い込まれ、やがて聞こえなくなった。
*
「ツツジ、これは一体どういう――」
先生は、呆然と立ち尽くしたまま呟いた。
「もしかして――君、最初から」
ツツジは、ニコッと笑ってみせた。
「私は元作戦参謀ですよ」
「勝てるからこそ、戦うのです。負けると分かっていて、戦いませんよ」
「じゃあ、クズノハもそれを知って――」
「九尾の狐の封印が解かれてから」
クズノハは、静かに答えた。
「ナグサに対して神託を渡すことは、なかったじゃろ」
「おそらく九尾の狐の結末は、どの時制であっても変わらんかった。だからこそ、あえてそうしなかったのじゃ」
そして彼女は、キッとツツジを睨みつけた。
「だが、武者小路ツツジ。貴様が妾の大事な百花繚乱をめちゃくちゃにした責任は――取ってもらうからな」
「こんなちっちゃくて可愛い子の責任を、私が取っていいんですか!」
ツツジが、悪びれもせずそう言い放つ。
「私がツツジの責任を取る!」
先生までもが、便乗した。
「ああ、キヴォトスには、まともな大人がおらんのか――ッ!!」
クズノハが、頭を掻きむしって叫んだ。
その滑稽なやり取りに、瓦礫の中から、誰かの小さな笑い声が漏れた。
張り詰めていた空気が、ようやく、ほんの少しだけ緩んだ瞬間だった。
*
その時、黄昏の門の中から、一人の生徒が駆け寄ってきた。
「ツツジ参謀、今にも黄昏の門から怪異が溢れ出しそうです」
「阿弖ルイの奉行所の生徒が頑張っていますが――もう、数分だけかと」
「分かった。ありがとう、安東トカチ生徒会長」
それは――二年前、消息を絶ったはずの、エビス分校生徒会長・安東トカチであった。
ツツジは、静かに頷いた。
そして――瓦礫に埋もれたアヤメのもとへと歩み寄り、その手をそっと取る。
「あなたの顔を見たのは、ちょうど二年ぶりかな」
彼女の声は、驚くほどに柔らかかった。
その瞳が、アヤメの顔を、一つ一つ確かめるようにゆっくりと辿っていく。
「ほんと、変わってないね」
ツツジは、アヤメの手を持ち上げると――その掌の上に、ずしりと重い負い紐を、静かに載せた。
「アヤメ、これを――」
「これって――」
それは、ツツジ自身の銃であった。
「これは、ツツジ先輩の――」
「横を見て」
アヤメが、震える指で銃身を返す。
そこに彫り込まれていたのは――『百蓮』の、模様。
「そこにいるクズノハに、さっき無理を言って描いてもらったんだ」
ツツジは、悪戯っぽく笑った。
「そのせいで、九尾の狐から逃げるのが遅れて、大変なことになっちゃったんだけどね」
クズノハの鋭い視線が、ツツジへと突き刺さる。
「あはは……」
彼女は、僅かに肩をすくめてから、静かに続けた。
「まあ、これで怪異は倒せないけど――」
その声に、微かな熱が籠もる。
「私は、あなたが本当にしたいって言ってた『人助け』を――応援してる」
「百花繚乱紛争調停委員会委員長、七稜アヤメとして」
「ツツジ、先輩――ッ!」
アヤメが、その胸へと飛び込んだ。
ツツジの制服が、みるみるうちに涙で濡れていく。ツツジは、何も言わずにその頭を撫でた。
そして――『百鬼』と記された白い襷を、アヤメの首へと静かにかける。
アヤメは今度こそ、何も言わずに、それを受け取った。
*
ふと。
ツツジの指先に、小さな蛍が止まった。
薄闇の中で、その尾が、ぽう、と淡い黄緑色に灯る。
ツツジは、その光を見つめながら、先生へと語りかけた。
「詩人ピエル・パオロ・パゾリーニは、かつて存在した人々の固有の文化や、素朴な生命力のあった時代を――『蛍が大量に飛んでいた時代』と呼びました」
蛍の光が、明滅する。
「そして、世界大戦後。消費主義という新しいファシズムの浸透と、それを無自覚に甘受した権力の虚しさの時代を――『蛍の消滅した時代』と、そう呼んだのです」
その光に照らされ、ツツジの双眸が、深い翠に輝いた。
彼女は、そっと指先を振る。
蛍は、ふわりと宙に舞い――やがて、先生の指先へと、静かに止まった。
その時、黄昏の門から、幾つもの人影が姿を現した。
物部シシカ。大伴コガネ。安東トカチ。阿弖ルイ――。
既にこの世を去った者たちが、先生の目を、まっすぐに見つめていた。
「その蛍の光こそ」
ツツジの声が、静かに響く。
「私たちが守ろうとした、光です」
「どうか――その光を、絶やさないでください」
*
ツツジは、そっとアヤメの体を離した。
そして、皆が見守る中――黄昏の門へと。死んでいった者たちのもとへと、歩み出す。
「それと、土生さん」
門をくぐる直前、彼女はふと足を止め、アザミを呼び止めた。
「あなたが提案してくれた、文章経国学院と――その旗」
ツツジは、僅かに微笑んだ。
「本当に、美しい」
「私が、もらっても?」
「ええ」
アザミは、静かに頷いた。
「いいですよ」
ツツジは、その旗の端を静かに握り締めると――ゆっくりと、黄昏の門へ向かって歩き出した。
*
門の前で。
ツツジは、最後にもう一度、先生たちの方へと振り返った。
その瞳が、一人ひとりの顔を、確かめるように見渡していく。
――そして、その時だった。
彼女の背後。遠く連なる山の稜線から、一条の光が差し込んだ。
夜が、明けたのだ。
崩れ落ちた本殿の瓦礫を、断ち切られた巨木を、そして倒れ伏した少女たちを――朝日が、端から順に、金色に染め上げていく。
ツツジの立つその場所にも、光が届いた。
彼女は、目を細めた。
まぶしさに顔を背けるでもなく。ただ、その光をまっすぐに受け止めながら。
「最後の最後に、最高の朝日が見られて――」
その声が、僅かに掠れる。
「本当に、良かった」
ツツジは、袖で顔を拭った。
――その頭に、そっと手が置かれる。
物部シシカ。そして、大伴コガネ。
よくやった、と。
言葉にはならないその労いを込めて、二人は幾度も、ツツジの頭を撫でた。
彼女は、されるがままだった。
やがて――ツツジたちの姿は、黄昏の門の中へと、完全に消えた。
*
クズノハが封印の儀式を執り行う。
重い軋みとともに、門は静かに閉ざされていった。
――二度と、開かれることのない静寂の中へと。
【百蓮】
ツツジが遺した銃に刻まれた模様。ナグサの持つ百蓮のように怪異を倒す力はありませんが、だからこそ意味を持つ贈り物でした。