「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」 作:ゆゞきノ君
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。
最初に戻ってきたのは、音だった。
ぱち、ぱち、と。何かが爆ぜる、乾いた音。
次に戻ってきたのは、熱。左の頬だけを、じりじりと炙るような感触。そして、鼻腔を満たす、燻した木の匂い。
――焚き火だ。
武者小路ツツジは、そう理解する。
だが、瞼を持ち上げてみたところで、そこに炎の姿はない。彼女の世界には、光も、色も、輪郭も、何一つとして返ってこない。ただ、熱と、音と、匂いだけが、この夜の形を教えてくれる。
やがて、布の擦れる音に気づいて、アザミが顔を上げた。
「ようやく目を覚まされましたか、武者小路さん」
その声には、どこか芝居がかった丁重さが滲んでいる。舞台の上から客席へ投げかけられる台詞のような、間の取り方だった。
「どうぞ、こちらへ」
「土生さんか」
ツツジは、軋む体を押して身を起こす。折れた骨の一つ一つが、動作のたびに鈍く抗議の声を上げた。
「今日はコクリコさんとは、一緒じゃないのか」
「まあ、少し。仲違いしましてね」
アザミは、事もなげに肩をすくめてみせた。――もっとも、その仕草が相手に届くことはない。
「というか、よく覚えていましたね。私たちの名前」
「ああ」
ツツジの喉から、乾いた笑いが零れる。
「なんせ私が現役だった頃は、しょっちゅう君たちの対応をしなければならなかったからな」
「当時の百花繚乱の中で、一番あなたに会いたくありませんでしたよ」
「だから土生さんは、九尾の狐に私を誘拐させたのか」
「僭越ながら」
悪びれる様子など微塵もなく、アザミは軽く頭を垂れた。
「ところで、九尾の狐は今どこにいる?」
「今、クミホさんはこの森の中でお休みになられています。怪書のモデルとなった山の神の名残、といったところでしょうか」
「まあ、そんなところでしょうね」
薪を一本、炎へとくべながら、アザミは続けた。爆ぜた火の粉が、黒い枝葉の天蓋へと吸い上げられていく。
「なんせ、三十年分の力を、先ほどの戦闘で使い果たしてしまいましたから。到底、二、三日は動けませんよ」
「とはいえ」
彼女は舞い上がる火の粉を目で追ったまま、静かに付け加える。
「あなたのおかげで、少しはこちらと協力する気になったようです」
「そういえば、怪我は大丈夫ですか?」
「怪我ですか? 別に大した怪我じゃありませんよ」
「大した怪我ですよ」
アザミの声に、僅かな呆れが混じる。
事実、それは大した怪我であった。左手の骨と肋骨数本が折れ、加えて数箇所に深い外傷。九尾の狐との戦闘が、彼女の体にそっくりそのまま刻み込まれている。にもかかわらず、ツツジの口ぶりには、痛みを他人事のように扱う淡々とした調子があった。
「まあいいじゃないか」
話を打ち切るように、ツツジは言った。
「それより、私をここへ呼んだ理由を話してほしい。私は、焦らされるのはあまり好きじゃないんです」
「ええ、もちろんです」
アザミは、炎に照らされた顔を、静かにツツジへと向けた。
「では時に、武者小路さん。画家マネの『フォリー・ベルジェールのバー』という作品は、ご存知ですか」
「ああ、知ってるよ」
記憶を手繰るように、ツツジの声が僅かに遠くなる。
「デウス・ウルト講和会議の後だったか。その開催場所であったワイルドハント芸術学院で、見た覚えがあります」
「私は、あれほどまでに成熟した作品を、他に見たことがありませんでしたね」
――見た。
その言葉を、彼女は何の澱みもなく口にした。まだ、目が光を拾っていた頃の話だ。
だが、とツツジは続けた。
あの絵の前で足を止める者は、主催のワイルドハント芸術学院においてすら、今やめっきり少ないのだという。なぜかと尋ねたツツジに、案内に立った生徒は、思いもよらぬ答えを返した。
「最近の文化が、私たちを幼児的であることを強制してきたから――だ、そうだ」
その言葉は、ツツジの中で、長く据わりの悪い塊であり続けていた。正しい数式は理解していながら、その証明だけがどうしても導き出せない数学者の心境に、酷く似通っていた。
「その証明なら、私——できるかもしれません」
そう言って、アザミが口にしたのは、フィリップ・アリエスという歴史家の名だった。
「『死を禁忌視することは、生を放棄すること』の人だね」
「ええ、そうです」
中世以前の絵画に描かれた子どもたちは、みな大人の顔をしている。「子ども」という概念そのものが、近代になって初めて生まれたものだ――アザミの語りは、そこから始まった。以降の文学が幼年期という主題に取り憑かれていったこと。そして、その幼児期の体験こそが、大人の制御の届かぬ無意識の奥へと潜り込み、密やかに生き延びてしまうのだということ。
薪が爆ぜる。
ツツジは口を挟まず、ただ聞いていた。瞼を伏せたその顔は、闇の中でどこか彫像めいて見えた。
「私は、ウィリアム・ワーズワスの『ルーシー詩篇』が好きだね」
「ふふっ」
アザミの口元が、この夜初めて緩んだ。
「良い趣味をお持ちのようですね」
「私は、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』ですね」
「ははっ」
ツツジが、微かに口角を上げる。
「怪芸家の口からフロイトが出てくるとは、驚いたな。てっきり、幽霊の話でもするのかと思っていたよ」
「別に、私は怪芸家であって、怪談家ではありませんよ」
「まあ、要するに土生さんは」
ツツジは腕を組み、言葉を選ぶように続けた。
「幼児期の体験が、心の薄暗い領域に、人目につかない形で住み続ける感覚こそが――先の私の発言の原型になっていそうだと、そう言いたいわけだね」
「ここまで理解がお早いと、語り甲斐がなくなってしまいますね」
それから、とアザミは話を継いだ。
密室で神父に罪を告白する懺悔の秘蹟も、今日のカウンセリングも、構造そのものは何一つ変わらない。相談する側は、自ら「教えを乞う未熟者」の椅子に腰を下ろす。そうすることでしか、その場は成立し得ないのだと。
「まるで、演劇的な役割分担が――そこには存在するのです」
「ああ」
ツツジは、静かに頷いた。
「私にも、なんとなく、あなたの言いたいことが分かってきたよ」
「まあ、とはいえ」
僅かに首を傾げる。
「それは一時的な演技に過ぎないだろうし、実際にそれを信じ込んだり、言われた通りにするかどうかは、また別の問題なんじゃないのか?」
「たとえそうであったとしても」
アザミは、静かに、しかし確信を持って言い切った。
「一度その椅子に座った者は、座ったこと自体を忘れてしまうものですよ」
「……ああ」
ツツジは、深く息を吐いた。
「だから私たちは、そういった関係性を、常に強いられているというわけか」
「まあ、これはあくまで、私の意見に過ぎませんがね」
「いや」
ツツジは、静かに首を振った。
「いい考えだと思う。少なくとも、私には随分と腑に落ちたよ」
「それは、それは。光栄です」
「っで」
ツツジは、話の矛先を変えた。
「君の、先の考えで言うと――彼はどうなんだい」
「彼?」
「土生さんが、シャーレの先生に対して抱いている意見を、聞かせてほしい」
「ええ、そうですね……」
アザミは、しばし言葉を選ぶように間を置いた。
「そういえば、武者小路さんは、今の作戦参謀の姿を、直接ご覧になったことは?」
「いや、ないね」
ツツジは首を振る。
「なんせ、先々週まではゲヘナにいたからな」
――もっとも、と彼女は胸の内で付け加えた。今となっては、目の前に立たれたところで、何一つ見えはしないのだが。
「土生さんは、今の作戦参謀に、どんな印象を抱いた?」
「まあ」
アザミは、静かに語り始める。
「表面上は、随分と気の強い性格に見えますが――そこに裏打ちされる咄嗟の決断力と、忍耐強さには、目を見張るものがあります」
「ですが、私の前では……」
「実践の場では、そういった側面を、あまり見せません」
「重要な作戦においては、まるっきり先生の指揮下で動いています」
「つまりは」
ツツジは、腕を組んだまま結論づけた。
「先生が熟達者で、彼女はその陰で、未熟者の立場に身を置いているというわけだ」
「そうです」
アザミは頷いた。
「それに加えて――おそらく彼女自身は、そのことに気づいていないのだと思います」
「……そうか」
*
それだけ呟くと、ツツジはポケットを探った。
指先が、封も切っていない煙草の、硬いプラスチックカバーを探り当てる。爪でそれを裂き、一本を抜き出して、迷いなく口に咥えた。続けて同じポケットから、マッチ箱を引き出す。
「吸っても大丈夫なのですか?」
アザミの声が、僅かに硬さを帯びた。
「肺がかなりやられていると聞きますが……」
「肺がボロボロなだけだ。まだまだ吸えるさ」
「――ここで死なれたら困りますよ」
「それに――」
言いかけて、アザミは口を噤んだ。
視線で示そうとして、それが何の意味も持たないことに、遅れて気づいたのだ。
――だが、その必要もなかった。
ツツジの指先が、既にそれを捉えていたからだ。マッチ箱の厚紙は、すっかり水を吸って柔らかく波打っている。擦るべき側面の薬剤は、指の腹をどれだけ滑らせても、ざらつき一つ返してこない。とうに、流れ落ちてしまっていた。
「――土生さん、火あるかい」
ツツジは、それだけを返す。
「生徒に火をつけさせるなんて」
アザミが、呆れたように息を吐いた。
「あなた、大人の風上にも置けませんね」
「どの口が言うんですか」
「……それもそうですね」
二人が、小さく笑い合った。
差し出された火の気配――その微かな熱を頬に感じ取って、ツツジは咥えた煙草をそちらへ寄せる。
だが、その寸前。
彼女は、静かに手でそれを制した。
「未成年者が、いるからな」
「私は、気にしていただかなくて結構ですよ」
アザミが、僅かに眉を上げる。
「とっくに、未成年は過ぎていますから」
「いや、違う」
ツツジの顔が、焚き火の脇――炎の熱が届かぬ、薄闇の一角へと、ゆっくりと向けられた。
見えているはずがない。それなのに、彼女の首は、寸分違わずその方角を捉えていた。
「そこで横になってる子のことだよ」
「ああ、あの子ですか」
アザミは、事もなげに答える。
「これは、九尾の狐が擬態ではなく人間として歩けるようにと、保管していた子です」
「保管?」
「ええ」
アザミの声色に、僅かな変化もなかった。
「二年前、エビス分校ネコヤナギ区にて死亡した――
「あなたなら、よくご存知でしょう?」
「ですがもう、こんな有様では。着ぐるみとしては、使い物になりませんね」
ツツジは、答えなかった。
「だから私の攻撃が九尾の狐に通じたのか――」
焚き火の爆ぜる音だけが、その静寂を埋めていく。梢を渡る風が、遠くで低く鳴った。
やがて。
「土生さん」
ツツジが、静かに口を開いた。
「やっぱり、火を貸してくれ」
「ええ、ここに」
アザミは、迷うことなく火を差し出した。ツツジは咥えた煙草の先を、その小さな熱へと沈める。じり、と紙の焦げる音がして、赤い点がひとつ灯った。
そして彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
地面を手探りしながら、辺りに散らばる落ち葉を、両手いっぱいにかき集め始めた。
折れた左手を庇いながら、幾度も、幾度も。
かき集めた葉を、横たわる少女の周りへと、丁寧に敷き詰めていく。指先で亡骸の輪郭をそっと辿り、その縁に沿って、一枚ずつ。
その手つきは、布団を掛けてやる者のそれに、酷く似ていた。
「自信過剰な奴だったが、お前もあの戦争の被害者だ」
ツツジの声は、低く、掠れていた。
「安らかに眠ってくれ――」
やがて彼女は、指で灰の温度を確かめると、微かに火種の残るその灰を、葉の上へと静かに落とした。
小さな火種は、瞬く間に周囲の枯葉を呑み込み、闇の中へと橙色の光を広げていく。
新たな熱が、ツツジの正面から押し寄せてきた。
その熱を、まるで炎の色を見つめるかのように顔で受け止めながら――ツツジは問いかけた。
「土生さんは――作戦参謀という立場にあってすら、『継承戦』は必要だと思うか?」
「アルノルト・ファン・ヘネップ曰く」
燃え広がる炎に目を細めながら、アザミは答えた。
「古い状態から脱する『分離』、不安定な『移行』、そして新しい身分への『統合』――それらの段階を担う『通過儀礼』は、人間にとって必要不可欠なものである、と言います」
「『分離』は、やるべきだと思いますよ」
「なるほどな……」
ツツジは、静かに煙を吐き出した。白い糸が、二つの炎の間で揺らめいて、消える。
「それに――彼女にも」
「……そうだな」
ツツジは、遠くを見るように目を細めた。その瞳が何も映していないことなど、もはやどうでもいいことのように。
「あの子にも、カウンセラーは必要だな」
「期待しています、武者小路ツツジさん」
「ええ、任せてください」
燃え上がる二つの炎を背に、ツツジは静かに、しかし確かな決意を込めて答えた。
「私が――松井須磨子として、土生さんの戯曲を、完璧に演じ切って見せますよ」
【題名について】
杜甫「贈衛八処士」の冒頭、人生の別れを参星(オリオン)と商星(さそり座アンタレス)に喩えた一節から。二つの星は天の東西にあり、決して同時に空へ現れません。第三話の題「さそり座の沈黙」とも対になっています。
【マネ『フォリー・ベルジェールのバー』】
1882年、マネ晩年の代表作。背後の鏡像の位置が現実とずれており、その解釈が長く議論されてきた絵です。
【フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』】
中世には「子ども」という観念が存在せず、近代になって発見されたものだと論じた歴史書。
【ワーズワス「ルーシー詩篇」/フォークナー『響きと怒り』】
前者は少女ルーシーの死を巡る連作詩。後者は幼年期の意識と崩壊を描いた小説です。
【アルノルト・ファン・ヘネップ】
『通過儀礼』の著者。分離・過渡・統合の三段階という枠組みを提示しました。
【松井須磨子】
日本の新劇女優。イプセン『人形の家』のノラを演じ、旧来の女性像を打ち破った人物です。アザミを劇作家に、自らを俳優に喩えたツツジの台詞は、第一話のイプセンと呼応しています。