「百花繚乱」編|第3章「心ざし潜む綾目髪の散る惜しむ間に」   作:ゆゞきノ君

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・原作「百花繚乱」編第二章終了後の独自解釈です。
・オリジナルキャラクターが主軸になります。
・政治・軍事描写が多めです。苦手な方はご注意ください。


第四話「参と商の如し」

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 

 ぱち、ぱち、と。何かが爆ぜる、乾いた音。

 

 次に戻ってきたのは、熱。左の頬だけを、じりじりと炙るような感触。そして、鼻腔を満たす、燻した木の匂い。

 

 ――焚き火だ。

 

 武者小路ツツジは、そう理解する。

 

 だが、瞼を持ち上げてみたところで、そこに炎の姿はない。彼女の世界には、光も、色も、輪郭も、何一つとして返ってこない。ただ、熱と、音と、匂いだけが、この夜の形を教えてくれる。

 

 やがて、布の擦れる音に気づいて、アザミが顔を上げた。

 

「ようやく目を覚まされましたか、武者小路さん」

 

 その声には、どこか芝居がかった丁重さが滲んでいる。舞台の上から客席へ投げかけられる台詞のような、間の取り方だった。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

「土生さんか」

 

 ツツジは、軋む体を押して身を起こす。折れた骨の一つ一つが、動作のたびに鈍く抗議の声を上げた。

 

「今日はコクリコさんとは、一緒じゃないのか」

 

「まあ、少し。仲違いしましてね」

 

 アザミは、事もなげに肩をすくめてみせた。――もっとも、その仕草が相手に届くことはない。

 

「というか、よく覚えていましたね。私たちの名前」

 

「ああ」

 

 ツツジの喉から、乾いた笑いが零れる。

 

「なんせ私が現役だった頃は、しょっちゅう君たちの対応をしなければならなかったからな」

 

「当時の百花繚乱の中で、一番あなたに会いたくありませんでしたよ」

 

「だから土生さんは、九尾の狐に私を誘拐させたのか」

 

「僭越ながら」

 

 悪びれる様子など微塵もなく、アザミは軽く頭を垂れた。

 

「ところで、九尾の狐は今どこにいる?」

 

「今、クミホさんはこの森の中でお休みになられています。怪書のモデルとなった山の神の名残、といったところでしょうか」

 

「まあ、そんなところでしょうね」

 

 薪を一本、炎へとくべながら、アザミは続けた。爆ぜた火の粉が、黒い枝葉の天蓋へと吸い上げられていく。

 

「なんせ、三十年分の力を、先ほどの戦闘で使い果たしてしまいましたから。到底、二、三日は動けませんよ」

 

「とはいえ」

 

 彼女は舞い上がる火の粉を目で追ったまま、静かに付け加える。

 

「あなたのおかげで、少しはこちらと協力する気になったようです」

 

「そういえば、怪我は大丈夫ですか?」

 

「怪我ですか? 別に大した怪我じゃありませんよ」

 

「大した怪我ですよ」

 

 アザミの声に、僅かな呆れが混じる。

 

 事実、それは大した怪我であった。左手の骨と肋骨数本が折れ、加えて数箇所に深い外傷。九尾の狐との戦闘が、彼女の体にそっくりそのまま刻み込まれている。にもかかわらず、ツツジの口ぶりには、痛みを他人事のように扱う淡々とした調子があった。

 

「まあいいじゃないか」

 

 話を打ち切るように、ツツジは言った。

 

「それより、私をここへ呼んだ理由を話してほしい。私は、焦らされるのはあまり好きじゃないんです」

 

「ええ、もちろんです」

 

 アザミは、炎に照らされた顔を、静かにツツジへと向けた。

 

「では時に、武者小路さん。画家マネの『フォリー・ベルジェールのバー』という作品は、ご存知ですか」

 

「ああ、知ってるよ」

 

 記憶を手繰るように、ツツジの声が僅かに遠くなる。

 

「デウス・ウルト講和会議の後だったか。その開催場所であったワイルドハント芸術学院で、見た覚えがあります」

 

「私は、あれほどまでに成熟した作品を、他に見たことがありませんでしたね」

 

 ――見た。

 

 その言葉を、彼女は何の澱みもなく口にした。まだ、目が光を拾っていた頃の話だ。

 

 だが、とツツジは続けた。

 

 あの絵の前で足を止める者は、主催のワイルドハント芸術学院においてすら、今やめっきり少ないのだという。なぜかと尋ねたツツジに、案内に立った生徒は、思いもよらぬ答えを返した。

 

「最近の文化が、私たちを幼児的であることを強制してきたから――だ、そうだ」

 

 その言葉は、ツツジの中で、長く据わりの悪い塊であり続けていた。正しい数式は理解していながら、その証明だけがどうしても導き出せない数学者の心境に、酷く似通っていた。

 

「その証明なら、私——できるかもしれません」

 

 そう言って、アザミが口にしたのは、フィリップ・アリエスという歴史家の名だった。

 

「『死を禁忌視することは、生を放棄すること』の人だね」

 

「ええ、そうです」

 

 中世以前の絵画に描かれた子どもたちは、みな大人の顔をしている。「子ども」という概念そのものが、近代になって初めて生まれたものだ――アザミの語りは、そこから始まった。以降の文学が幼年期という主題に取り憑かれていったこと。そして、その幼児期の体験こそが、大人の制御の届かぬ無意識の奥へと潜り込み、密やかに生き延びてしまうのだということ。

 

 薪が爆ぜる。

 

 ツツジは口を挟まず、ただ聞いていた。瞼を伏せたその顔は、闇の中でどこか彫像めいて見えた。

 

「私は、ウィリアム・ワーズワスの『ルーシー詩篇』が好きだね」

 

「ふふっ」

 

 アザミの口元が、この夜初めて緩んだ。

 

「良い趣味をお持ちのようですね」

 

「私は、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』ですね」

 

「ははっ」

 

 ツツジが、微かに口角を上げる。

 

「怪芸家の口からフロイトが出てくるとは、驚いたな。てっきり、幽霊の話でもするのかと思っていたよ」

 

「別に、私は怪芸家であって、怪談家ではありませんよ」

 

「まあ、要するに土生さんは」

 

 ツツジは腕を組み、言葉を選ぶように続けた。

 

「幼児期の体験が、心の薄暗い領域に、人目につかない形で住み続ける感覚こそが――先の私の発言の原型になっていそうだと、そう言いたいわけだね」

 

「ここまで理解がお早いと、語り甲斐がなくなってしまいますね」

 

 それから、とアザミは話を継いだ。

 

 密室で神父に罪を告白する懺悔の秘蹟も、今日のカウンセリングも、構造そのものは何一つ変わらない。相談する側は、自ら「教えを乞う未熟者」の椅子に腰を下ろす。そうすることでしか、その場は成立し得ないのだと。

 

「まるで、演劇的な役割分担が――そこには存在するのです」

 

「ああ」

 

 ツツジは、静かに頷いた。

 

「私にも、なんとなく、あなたの言いたいことが分かってきたよ」

 

「まあ、とはいえ」

 

 僅かに首を傾げる。

 

「それは一時的な演技に過ぎないだろうし、実際にそれを信じ込んだり、言われた通りにするかどうかは、また別の問題なんじゃないのか?」

 

「たとえそうであったとしても」

 

 アザミは、静かに、しかし確信を持って言い切った。

 

「一度その椅子に座った者は、座ったこと自体を忘れてしまうものですよ」

 

「……ああ」

 

 ツツジは、深く息を吐いた。

 

「だから私たちは、そういった関係性を、常に強いられているというわけか」

 

「まあ、これはあくまで、私の意見に過ぎませんがね」

 

「いや」

 

 ツツジは、静かに首を振った。

 

「いい考えだと思う。少なくとも、私には随分と腑に落ちたよ」

 

「それは、それは。光栄です」

 

「っで」

 

 ツツジは、話の矛先を変えた。

 

「君の、先の考えで言うと――彼はどうなんだい」

 

「彼?」

 

「土生さんが、シャーレの先生に対して抱いている意見を、聞かせてほしい」

 

「ええ、そうですね……」

 

 アザミは、しばし言葉を選ぶように間を置いた。

 

「そういえば、武者小路さんは、今の作戦参謀の姿を、直接ご覧になったことは?」

 

「いや、ないね」

 

 ツツジは首を振る。

 

「なんせ、先々週まではゲヘナにいたからな」

 

 ――もっとも、と彼女は胸の内で付け加えた。今となっては、目の前に立たれたところで、何一つ見えはしないのだが。

 

「土生さんは、今の作戦参謀に、どんな印象を抱いた?」

 

「まあ」

 

 アザミは、静かに語り始める。

 

「表面上は、随分と気の強い性格に見えますが――そこに裏打ちされる咄嗟の決断力と、忍耐強さには、目を見張るものがあります」

 

「ですが、私の前では……」

 

「実践の場では、そういった側面を、あまり見せません」

 

「重要な作戦においては、まるっきり先生の指揮下で動いています」

 

「つまりは」

 

 ツツジは、腕を組んだまま結論づけた。

 

「先生が熟達者で、彼女はその陰で、未熟者の立場に身を置いているというわけだ」

 

「そうです」

 

 アザミは頷いた。

 

「それに加えて――おそらく彼女自身は、そのことに気づいていないのだと思います」

 

「……そうか」

 

  *

 

 それだけ呟くと、ツツジはポケットを探った。

 

 指先が、封も切っていない煙草の、硬いプラスチックカバーを探り当てる。爪でそれを裂き、一本を抜き出して、迷いなく口に咥えた。続けて同じポケットから、マッチ箱を引き出す。

 

「吸っても大丈夫なのですか?」

 

 アザミの声が、僅かに硬さを帯びた。

 

「肺がかなりやられていると聞きますが……」

 

「肺がボロボロなだけだ。まだまだ吸えるさ」

 

「――ここで死なれたら困りますよ」

 

「それに――」

 

 言いかけて、アザミは口を噤んだ。

 

 視線で示そうとして、それが何の意味も持たないことに、遅れて気づいたのだ。

 

 ――だが、その必要もなかった。

 

 ツツジの指先が、既にそれを捉えていたからだ。マッチ箱の厚紙は、すっかり水を吸って柔らかく波打っている。擦るべき側面の薬剤は、指の腹をどれだけ滑らせても、ざらつき一つ返してこない。とうに、流れ落ちてしまっていた。

 

「――土生さん、火あるかい」

 

 ツツジは、それだけを返す。

 

「生徒に火をつけさせるなんて」

 

 アザミが、呆れたように息を吐いた。

 

「あなた、大人の風上にも置けませんね」

 

「どの口が言うんですか」

 

「……それもそうですね」

 

 二人が、小さく笑い合った。

 

 差し出された火の気配――その微かな熱を頬に感じ取って、ツツジは咥えた煙草をそちらへ寄せる。

 

 だが、その寸前。

 

 彼女は、静かに手でそれを制した。

 

「未成年者が、いるからな」

 

「私は、気にしていただかなくて結構ですよ」

 

 アザミが、僅かに眉を上げる。

 

「とっくに、未成年は過ぎていますから」

 

「いや、違う」

 

 ツツジの顔が、焚き火の脇――炎の熱が届かぬ、薄闇の一角へと、ゆっくりと向けられた。

 

 見えているはずがない。それなのに、彼女の首は、寸分違わずその方角を捉えていた。

 

「そこで横になってる子のことだよ」

 

「ああ、あの子ですか」

 

 アザミは、事もなげに答える。

 

「これは、九尾の狐が擬態ではなく人間として歩けるようにと、保管していた子です」

 

「保管?」

 

「ええ」

 

 アザミの声色に、僅かな変化もなかった。

 

「二年前、エビス分校ネコヤナギ区にて死亡した――万里小路(までのこうじ)ツツネという人物です」

 

「あなたなら、よくご存知でしょう?」

 

「ですがもう、こんな有様では。着ぐるみとしては、使い物になりませんね」

 

 ツツジは、答えなかった。

 

「だから私の攻撃が九尾の狐に通じたのか――」

 

 焚き火の爆ぜる音だけが、その静寂を埋めていく。梢を渡る風が、遠くで低く鳴った。

 

 やがて。

 

「土生さん」

 

 ツツジが、静かに口を開いた。

 

「やっぱり、火を貸してくれ」

 

「ええ、ここに」

 

 アザミは、迷うことなく火を差し出した。ツツジは咥えた煙草の先を、その小さな熱へと沈める。じり、と紙の焦げる音がして、赤い点がひとつ灯った。

 

 そして彼女は、ゆっくりと立ち上がる。

 

 地面を手探りしながら、辺りに散らばる落ち葉を、両手いっぱいにかき集め始めた。

 

 折れた左手を庇いながら、幾度も、幾度も。

 

 かき集めた葉を、横たわる少女の周りへと、丁寧に敷き詰めていく。指先で亡骸の輪郭をそっと辿り、その縁に沿って、一枚ずつ。

 

 その手つきは、布団を掛けてやる者のそれに、酷く似ていた。

 

「自信過剰な奴だったが、お前もあの戦争の被害者だ」

 

 ツツジの声は、低く、掠れていた。

 

「安らかに眠ってくれ――」

 

 やがて彼女は、指で灰の温度を確かめると、微かに火種の残るその灰を、葉の上へと静かに落とした。

 

 小さな火種は、瞬く間に周囲の枯葉を呑み込み、闇の中へと橙色の光を広げていく。

 

 新たな熱が、ツツジの正面から押し寄せてきた。

 

 その熱を、まるで炎の色を見つめるかのように顔で受け止めながら――ツツジは問いかけた。

 

「土生さんは――作戦参謀という立場にあってすら、『継承戦』は必要だと思うか?」

 

「アルノルト・ファン・ヘネップ曰く」

 

 燃え広がる炎に目を細めながら、アザミは答えた。

 

「古い状態から脱する『分離』、不安定な『移行』、そして新しい身分への『統合』――それらの段階を担う『通過儀礼』は、人間にとって必要不可欠なものである、と言います」

 

「『分離』は、やるべきだと思いますよ」

 

「なるほどな……」

 

 ツツジは、静かに煙を吐き出した。白い糸が、二つの炎の間で揺らめいて、消える。

 

「それに――彼女にも」

 

「……そうだな」

 

 ツツジは、遠くを見るように目を細めた。その瞳が何も映していないことなど、もはやどうでもいいことのように。

 

「あの子にも、カウンセラーは必要だな」

 

「期待しています、武者小路ツツジさん」

 

「ええ、任せてください」

 

 燃え上がる二つの炎を背に、ツツジは静かに、しかし確かな決意を込めて答えた。

 

「私が――松井須磨子として、土生さんの戯曲を、完璧に演じ切って見せますよ」




【題名について】
杜甫「贈衛八処士」の冒頭、人生の別れを参星(オリオン)と商星(さそり座アンタレス)に喩えた一節から。二つの星は天の東西にあり、決して同時に空へ現れません。第三話の題「さそり座の沈黙」とも対になっています。

【マネ『フォリー・ベルジェールのバー』】
1882年、マネ晩年の代表作。背後の鏡像の位置が現実とずれており、その解釈が長く議論されてきた絵です。

【フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』】
中世には「子ども」という観念が存在せず、近代になって発見されたものだと論じた歴史書。

【ワーズワス「ルーシー詩篇」/フォークナー『響きと怒り』】
前者は少女ルーシーの死を巡る連作詩。後者は幼年期の意識と崩壊を描いた小説です。

【アルノルト・ファン・ヘネップ】
『通過儀礼』の著者。分離・過渡・統合の三段階という枠組みを提示しました。

【松井須磨子】
日本の新劇女優。イプセン『人形の家』のノラを演じ、旧来の女性像を打ち破った人物です。アザミを劇作家に、自らを俳優に喩えたツツジの台詞は、第一話のイプセンと呼応しています。
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