祖母の家は、線香の匂いがまだ抜けきっていなかった。
葬儀からもう三日が経つ。参列者は皐月(さつき)を入れて七人しかいなかった。親戚はほとんど疎遠で、祖母の友人も皆、鬼籍に入るか施設に入るかしていた。焼香の煙が細く立ち上るのを見ながら、皐月は「これで、私を知っている人間がまた一人減った」と、悲しみよりも先にそんな乾いた感慨を覚えたことを、誰にも言えずにいた。
もともと友人と呼べる人間はいない。職場は在宅ワーク中心の校正の仕事で、顔を合わせるのは月に一度あるかないかの打ち合わせだけだ。両親は幼い頃に離婚し、母親は皐月が七歳の時に家を出て行った。父親もその数年後、再婚相手の家庭に吸収されるように連絡を絶った。以来、皐月にとって「家族」という言葉が意味するものは、ただ一人――この家に住む祖母だけだった。
盆と正月、それから理由もない平日の午後にさえ、皐月はこの家を訪れた。祖母は多くを語らない人だったが、皐月が来ると必ず、湯呑みに渋いほうじ茶を注ぎ、縁側で並んで座らせてくれた。何を話すでもない。ただ隣に人の温度があるということが、皐月にとっては十分だった。祖母の手は皺だらけで、けれどいつも乾いていて温かく、皐月の背中をさするその手つきを、皐月は自分が生まれてから受け取った数少ない「触れられた記憶」として、ずっと大事にしまい込んでいた。
晩年、祖母はふとした瞬間に、庭先を眺めながら呟くことがあった。「さつきは、一人になっても大丈夫かねぇ」と。皐月がその都度「大丈夫だよ、一人が気楽だし」と笑って返すと、祖母は納得したような、していないような顔で、それ以上は何も言わなかった。ただ、その横顔にはいつも、皐月には量りかねる翳りがあった。あれは単なる年寄りの繰り言だったのだろうか。当時の皐月は深く考えず、聞き流していた。
母がいなくなった夜、泣きじゃくる幼い皐月を抱き上げて「大丈夫。おばあちゃんがいるから」と繰り返し囁いてくれたのも、この祖母だった。あの一言が、その後の人生でどれほど皐月を支えてきたか、当の祖母自身は知らないまま逝ってしまった。伝えるつもりでいた。もう少し落ち着いたら、もう少し余裕ができたら――そう思っているうちに、祖母は静かに、まるで皐月に気を遣うかのように、眠るように亡くなった。最期の言葉を交わす機会すら、皐月には与えられなかった。
葬儀の間じゅう、皐月はどこか他人事のように自分の体を動かしていた。焼香をし、頭を下げ、弔問客に礼を言う。感情が追いついていないのだと、頭の片隅では分かっていた。本当の喪失は、こんなふうに儀式めいた慌ただしさの中では訪れない。それは後から、誰もいなくなった部屋の静けさの中で、不意打ちのようにやってくるものだ。
その祖母も、もういない。
これで本当に、誰もいなくなった。血の繋がりで自分を家族だと呼んでくれる人間は、この世界にもう一人も存在しない。そう頭で理解した瞬間、皐月の中で何かが静かに、しかし決定的に音を立てて閉じるのを感じた。悲しみというより、もっと根源的な――足元の地面そのものが失われたような、平衡感覚の喪失に近い感覚だった。
自分はもう、誰の「唯一」でもなく、誰にとっても「唯一」を持たない。天涯孤独、という言葉を、皐月はこれまで比喩として使ってきた。けれど今、それは比喩ではなく、ただの事実として、皐月の肩に重くのしかかっていた。
遺品整理は思っていたよりも骨が折れた。古い和簞笥、季節外れの座布団、賞味期限の切れた乾物。それらに混じって、押し入れの奥、行李の底から出てきたのは、表紙だけになった一枚の厚紙だった。
色褪せた黄色地に、拙い線画。中央に子供の顔のようなものが描かれているが、目だけが妙に精緻で、輪郭や口はクレヨンでなぞったように曖昧だった。かつては背表紙で綴じられていたのだろう、右端に糊の跡と、破れた紙の繊維が残っている。中の紙は一枚も残っていない。ただの、表紙の残骸だった。
「……なにこれ」
裏を返すと、判読しづらい印刷でタイトルらしきものがあった。
『あいうえおの本』
出版社の名前は掠れて読めない。国会図書館にでも問い合わせれば分かるのかもしれないが、そこまでする気力は今の皐月にはなかった。子供向けの、いろは歌のような仕掛け絵本だったのだろう。中のページは、時間の経過でばらばらに外れ、どこかへ散逸してしまったに違いない。
皐月はそのアンバランスな厚紙に、子供の頃の記憶がふっと疼くのを感じた。
――これ、見たことがある。
いつ、どこでかは思い出せない。ただ、この目の描き方に、確かに覚えがあった。もしかしたら、これは自分が子供の頃に見た絵本の、現物だったのかもしれない。祖母が持っていたということは、もともと家にあったものを、祖母が――あるいは、いなくなった母が――買い与えたものだったのだろうか。
考えても仕方のないことだった。表紙だけの残骸を捨てるには、なぜか躊躇いがあった。皐月はそれを、持ち帰る段ボールの中に入れた。
自分のアパートに戻ると、部屋はいつも以上に静かに感じられた。これまでも一人暮らしだったはずなのに、今夜は何かが決定的に違う。これまでは、電話をかければ出てくれる相手がいた。何も話さなくても、行けば迎えてくれる場所があった。今はもう、その両方が失われている。皐月は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。誰も待っていない部屋に「ただいま」と言う無意味さに、今更ながら気づかされたからだった。
段ボールを部屋の隅に置き、皐月はベッドに横たわった。天井を見つめながら、これから先、自分が体調を崩しても、事故に遭っても、誰も気づかないのだという事実が、じわじわと体温を奪っていくのを感じた。祖母がいた頃は、たとえ会わない期間が続いても、「何かあったら、おばあちゃんのところへ行けばいい」という逃げ場が、確かに存在していた。その逃げ場が、もうどこにもない。
その夜から、些細な違和感が積み重なっていった。
最初は電話だった。深夜、固定電話などとうに解約したはずの部屋で、着信音のような音が一度だけ鳴った。確認しても、スマートフォンの画面には何の履歴もない。空耳だと思うことにした。
次の日は、視線だった。
夕方、キッチンで洗い物をしていたとき、ふいに背後から見られているような感覚に襲われた。振り返っても、そこにはワンルームのいつもの光景があるだけだ。ソファ、丸めた毛布、点けっぱなしのテレビ。誰もいない。それなのに、視線だけが皮膚の表面に張り付いたまま、離れていかなかった。
気のせいだ、と皐月は思おうとした。けれど洗い物を終えて振り向いたとき、部屋の隅、テレビ台の陰のあたりに、何かが いた 気がした。人の形をした、影よりも少し濃い何か。目を凝らそうとした瞬間、それは溶けるように消えていた。何もない。ただの陰影だった、と自分に言い聞かせる。
その夜、洗面所で歯を磨いていると、鏡の中に、もう一つの気配があった。
正面から見れば、映っているのは自分の顔だけだ。だが視界の端――鏡の隅、ちょうど焦点の外れる位置に、誰かが立っているような感触があった。首をわずかに動かして、その"誰か"を鏡越しに捉えようとする。すると鏡に映る自分の輪郭そのものが、ほんの一瞬、実物より少しだけ横にずれて見えた。まるで、皐月の像の少し後ろに、もう一つ何かが重なって立っているかのように。まばたきをすると、輪郭は元に戻り、鏡の隅の気配も消えていた。
疲れているのだろう、と皐月は思った。祖母の死後処理、相続の手続き、仕事の締め切り――重なる用事に、心と体が悲鳴を上げていてもおかしくはなかった。
けれど、その夜以降、その"気配"は消えることなく、むしろ日を追うごとに存在感を増していった。部屋の隅、視界の端、ふと顔を上げた拍子――皐月が直接見ようとしない場所にだけ、それは確かに"いた"。まるで、真正面から見られることを避けているかのように。あるいは、まだ姿を見せる準備ができていないかのように。
不思議なのは、その気配に対して皐月が覚えたのが、恐怖よりも先に、ある種の"落ち着き"だったということだ。誰もいないはずの部屋で、誰かに見られている。それは本来、怖ろしいことのはずだった。それなのに皐月の中では、「誰かがそこにいる」という事実そのものが、ここ数日感じ続けてきた凍りつくような孤独を、わずかに緩めてくれているようにも感じられた。
――誰でもいいから、そこにいて。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、皐月は自分自身にぞっとした。だが、その怯えすらも、長くは続かなかった。
三日目、皐月は実家(祖母の家)へ再び足を運んだ。遺品整理は一度で終わるものではない。まだ手をつけていない納戸と、庭の物置が残っていた。
納戸の奥、古い座布団の下に、茶封筒があった。宛名も差出人もない、ただ経年で茶色く変色した封筒。中には、一枚の紙片が入っていた。
厚紙ではない。薄い、本文用の紙だ。端がひどく擦り切れ、片隅が破れている。それでも、そこに描かれた絵は、間違いなく先日見つけた表紙と同じ筆致だった。
あ は あくまのあ
墨のような黒い活字の下に、笑う顔の挿絵。目だけがやけに大きく、丁寧に描き込まれている。口も鼻も輪郭も、子供の落書きのように曖昧なのに、その目だけは、まるで写し取ったように精密だった。
これが、あの絵本の一ページ目だ。皐月は直感した。表紙と、一枚のページ。それだけが、時を超えてこの家の中に残っていた。
残りのページはどこにあるのだろう。「い」も「う」も「え」も「お」も、まだこの家のどこかに――あるいは、もうこの世のどこにも存在しないのかもしれない。散逸した本というのは、そういうものだ。一度ばらばらになったページが、すべて元の持ち主の手元に還ってくることなど、普通は有り得ない。
けれど、封筒の中からこの一枚を取り出した瞬間、皐月の脳裏に、縁側でほうじ茶を飲みながら祖母の膝に凭れていた記憶が、唐突に蘇った。祖母が何かを読み聞かせてくれていた気がする。声の抑揚までは思い出せないのに、その温度と、紙をめくる乾いた音だけは、はっきりと耳の奥に残っていた。
――もしかして、これを読んでくれていたのは、おばあちゃんだったのだろうか。
そう思った瞬間、皐月の中である種の――言葉にするのが躊躇われるような――懐かしさが込み上げた。恐怖よりも先に、それが来てしまったことに、皐月自身が戸惑っていた。この紙切れは、もう二度と戻ってこない祖母の温度を、わずかでも思い出させてくれる。そう感じてしまった時点で、皐月はすでに、後戻りのできない場所に足を踏み入れていたのかもしれない。
一人暮らしの部屋は静かだった。壁の向こうにも、上にも下にも、誰かの生活音はある。それなのに、皐月にとってこの部屋はいつも、世界から切り離された小さな箱のように感じられた。誰も自分の不在に気づかない。誰も自分の存在を確かめに来ない。そういう暮らしを、もう何年も続けてきた。
だからだろうか。ただの古い紙切れを前にしても、皐月の中で警戒よりも先に立ったのは――
これは、私に向けて遺されていた。
という、奇妙な確信だった。
その夜、皐月は表紙とそのページを、机の上に並べて眠りについた。誰かに見せる気にはならなかった。相談できる相手もいなかった。それに、もし誰かに話したところで、きっと「ただの古い絵本でしょう」「疲れているんだよ」で片付けられてしまう。それが分かっているから、余計に、この紙切れだけが自分の異変を認めてくれる唯一の存在のように思えてしまう。
明け方近く、皐月は夢とも現ともつかない意識の中で、誰かに見られているという感覚だけで、ふっと目を覚ました。声も物音もなかった。ただ、名前を呼ばれたような気配だけが、耳の奥にわずかな余韻として残っていた。部屋は暗いままだった。誰もいない。ただ、机の上に置いたページの端が、風もないのにわずかに浮いているように見えた。
皐月は震える手でそれを持ち上げた。
変わらず、そこにあるのは。
あ は あくまのあ
だが、その下の挿絵――大きな目だけが精緻に描かれたあの顔が、心なしか、わずかに口角を上げているように見えた。
皐月はそれを置くことができなかった。
窓の外はまだ夜だった。孤独な部屋の中で、彼女はただ、その一枚の文字を、何度も何度も読み返し続けていた。まるでそれが、これまでの人生で誰も自分にかけてくれなかった、唯一の言葉であるかのように。
あ は あくまのあ。
あ は……。
翌朝、皐月は再び祖母の家を訪れ、まだ手をつけていない庭の物置を開けた。中には古い雑誌の束、錆びた工具箱、そして――隅に押し込まれた、もう一つの茶封筒があった。
封筒の表には、掠れた文字で、たった一文字。
い
皐月の指先が、それに触れる前から震えていた。