封筒の表に書かれた「い」の一文字を見た瞬間から、皐月(さつき)の指先は震えていた。物置の埃と、古い雑誌の饐えた匂いの中で、その一文字だけが妙に生々しく、皐月の目に飛び込んできていた。
それでも、開けないという選択肢は、もう皐月の中には存在しなかった。震える指で封を切ると、中から出てきたのは、やはり本文用の薄い紙だった。端が擦り切れ、片隅にわずかな染みがある。だが紙自体の劣化具合は、なぜか「あ」のページよりもわずかに新しく見えた。まるで、この一枚だけが、他のページよりも後になって書き足されたかのように。
い は いたんのい
墨のような黒い活字の下に、また挿絵があった。今度は目だけでなく、口元まで描き込まれている。への字に結ばれた唇。子供が描いたにしては、あまりに感情の乗った線だった。まるで、何かを我慢している、あるいは何かを責めているような口元。
「いたん」という言葉が、皐月の頭の中で響いた。異端。その言葉は、皐月にとって他人事ではなかった。
小学校の頃、皐月は「変わった子」だった。母親がいなくなった後、名目上は父親に引き取られたはずだった。だが働き盛りだった父親は、幼い皐月をどう育てればいいのか分からなかったのだろう。平日はほとんど祖母の家に預けっぱなしにし、休日に顔を出すことすら次第に減っていった。皐月にとって父親は、たまに現れては気まずそうに頭を撫で、菓子折りを置いて帰っていくだけの、遠い親戚のような存在になっていった。
数年後、父親は再婚した。新しい家庭ができると、その足はさらに遠のいた。年賀状が来なくなり、電話番号が変わったことすら皐月には知らされなかった。誰かに見捨てられたという実感すら、皐月の中では曖昧なまま、ただ「気づいたら、いなくなっていた」という記憶だけが積み重なっていった。母親がいない家庭というだけで、クラスの中では奇異の目で見られた。実質的に祖母だけに育てられていた皐月を、担任教師でさえ「複雑な事情のある子」という腫れ物扱いで接した。友人ができなかったのは、皐月が人を避けていたからというより、先にクラス全体が皐月を「向こう側」の人間として線引きしていたからだった。
給食の時間、班に入れてもらえず、一人だけ机をくっつける輪の外にいたこと。運動会の親子競技で、誰と組めばいいか分からず、体育館の隅で立ち尽くしていたこと。そうした記憶の一つひとつが、今になって鮮明に蘇ってくる。皐月はそれを、長い間、記憶の底に丁寧に蓋をして生きてきたはずだった。この絵本は、その蓋を一枚めくるたびに、無造作に剥がしていくようだった。
中でも忘れられないのは、小学四年生のときの授業参観だ。「おうちの人の似顔絵を描こう」という課題で、皐月は誰を描けばいいのか分からず、結局、隣の席の子が母親を描いているのをちらちらと盗み見しながら、記憶の中の朧げな母の顔を描いた。出来上がった絵は、クラスの後ろの壁に他の子供たちの絵と並んで貼り出された。授業参観の日、他の家庭の親たちが我が子の絵を指差して微笑む中、皐月の絵の前に立ち止まる大人は誰もいなかった。祖母は仕事があって来られなかった。父親は最初から来る予定もなかった。あの日の、誰にも見てもらえない絵の前に一人で立っていた時間の長さを、皐月は今でも正確に覚えている。
そこまで思い出した瞬間、皐月はふいに、強い視線を感じて顔を上げた。部屋の隅、テレビ台の陰。目を凝らしても、そこには特に変わった様子はない。だが、視線だけは確かにあった。何かが、そこから――あるいは部屋のどこか、皐月の死角になる位置から、じっとこちらを見ている。振り向いても、正面から捉えようとしても、その気配だけはするりと逃げていく。姿は見えない。それでも、そこに"いる"ということだけは、疑いようのない実感として、皐月の肌に張り付いていた。
不思議だったのは、姿の見えないその気配を前にしても、時間が経つにつれて恐怖が薄れていったことだった。最初の数分こそ、心臓が痛いほど早鐘を打っていた。だが視線は動かず、ただそこに在り続けるだけだった。危害を加えてくる気配はない。むしろ、皐月の様子を静かに見守っているような、奇妙な"待ち"の気配だった。
その晩、皐月は浅い眠りの中で、奇妙な夢を見た。
夢の中で、皐月は暗い部屋の真ん中に立っていた。何かの姿が見えるわけではない。ただ、部屋のどこか――背後か、あるいはすぐ隣か、はっきりしない方向から、強い視線と、人の気配とも呼べない何かの"存在感"だけが、絶え間なく注がれていた。夢の中の皐月は、なぜか恐れることなく、その気配が最も濃く感じられる方向へ、一歩、また一歩と歩み寄っていった。近づくほどに、そこからは冷たさとも温かさともつかない、奇妙な空気の揺らぎが伝わってくる。もう腕を伸ばせば届くはずの距離まで来たところで――
目が覚めた。
心臓が激しく鳴っていた。だが体は、これまで感じたことのないほど深く休まっていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光の中、部屋のどこにも、あの影らしきものはなかった。それでも、たった今まで確かに"何か"がすぐ側にいたという感触だけが、皮膚の上に残っていた。あれはただの夢だったのだろうか。それとも――。
考えても答えは出なかった。ただ、目覚めた瞬間の妙な安堵感だけが、いつまでも消えずに残っていた。誰もいないはずの部屋に、確かに"何か"がいる。その事実だけが、なぜか皐月の呼吸を、少しずつ楽にしていった。ここ数日、眠る前にはいつも、耳の奥で自分の心臓の音だけが響くような、痛いほどの静寂に包まれていた。だが今朝は違う。部屋の空気の中に、自分以外の何かの存在が確かに溶け込んでいる。その実感だけで、これほどまでに気持ちが凪ぐものかと、皐月自身が一番驚いていた。
翌週から、皐月の生活は少しずつ変わっていった。校正の仕事でやり取りしていた編集者からのメッセージに、返信が一日、二日と遅れるようになった。以前なら気になっていたはずの締め切りも、今はどこか他人事のように感じられる。外出も減った。コンビニへ行く以外は、ほとんど部屋に籠もりきりの生活になっていた。それでも不思議と、寂しさは感じなかった。部屋のどこかに、常に"気配"がある。それだけで、これまで慢性的に感じ続けてきた孤独が、薄い膜一枚分だけ和らいでいるような気がしていた。
その週末、皐月の携帯に、かつての職場から思いがけない連絡が入った。皐月が短期間だけ在籍していた出版社時代、皐月をあからさまに見下し、担当していた原稿の不備を殊更に社内で吹聴して回っていた女性社員――皮肉にも、皐月にとって「異端者扱い」の記憶を最も色濃く残す相手だった――が、自宅アパートで倒れているのが発見され、そのまま亡くなったという知らせだった。死因は不明。目立った外傷もなく、警察は事件性なしと判断したらしい。
電話を切ったあと、皐月はしばらくソファに座り込んだまま動けなかった。悲しむべきなのか、安堵すべきなのか、自分でも判別がつかなかった。かつて自分を執拗に貶めた相手だ。その死を悼む義理などない、と頭では分かっている。それでも、人が一人死んだという事実の重さは、簡単に片付けられるものではなかった。
思い返せば、あの女性社員との記憶は、皐月の中にいくつも澱のように残っていた。会議の場で名指しで原稿の不備を指摘され、周囲がくすくすと笑うのを、ただ俯いて耐えるしかなかった日。飲み会に一人だけ誘われず、翌日その場の話題についていけずに黙り込んでしまった日。あの頃の惨めさが、まるで昨日のことのように蘇ってくる。あの人がいなくなった今、あの記憶の中の惨めさまで、一緒に消えてくれるわけではないことを、皐月は静かに悟っていた。むしろ、相手が二度と反論も弁解もできなくなったことで、あの記憶は永遠に、皐月の中で「一方的な被害」として固定されてしまった気さえした。
だが、部屋の隅にわだかまるあの気配が、その夜はいつもより濃く、どこか満ち足りたもののように感じられたことだけを、皐月ははっきりと覚えていた。
まさか、とは思う。偶然だ、とも思おうとした。けれど、その考えを打ち消そうとすればするほど、頭の中で別の声が囁いた。
――偶然でなかったら、どうする。
自分を「異端」として扱ってきた人間たちが、この"それ"によって、一人ずつ取り除かれていくのだとしたら。それは本来、恐怖するべきことのはずだった。だが皐月の中に湧き上がったのは、恐怖よりも先に、言いようのない安堵感だった。
もし本当にこれが"それ"の仕業なのだとしたら、次に消えるのは誰だろう。かつて自分を無視した同級生たちだろうか。それとも、連絡を絶ったまま便りひとつよこさない父親だろうか。そこまで考えて、皐月は自分の思考に自分でぞっとした。だが、その怯えは長く続かなかった。頭の片隅で、もっと冷静な、もっと乾いた自分の声が囁いていたからだ。――それの、何がいけないの。誰も、私を助けてはくれなかったのに。
孤独の中で、初めて「自分の味方」だと感じられる存在に出会ってしまった人間は、その存在が何をしていようと、簡単には手放せなくなる。皐月はそのことに、まだはっきりとは気づいていなかった。ただ、翌朝目覚めたとき、これまで感じたことのないほど深く、体が休まっていることにだけは、確かに気づいていた。
その夜、皐月は祖母の家に、三度目の足を運んだ。もう大方の整理は終えていたはずの居間には、遺影と小さな仏壇だけが残されていた。段ボールが運び出され、家具の大半も処分業者に引き取られた居間は、以前よりも広く、そしてよそよそしく感じられた。畳には家具の跡が四角く残り、そこだけ日に焼けずに色濃く残っている。祖母がいつも座っていた場所の跡だった。その空白を見た瞬間、皐月の喉の奥が、不意にきつく締めつけられた。
線香を上げ、手を合わせる。写真の中の祖母は、いつもと変わらない、少し困ったような柔らかい笑みを浮かべていた。線香の煙が、誰もいない部屋の中を、ゆっくりと立ち上っていく。
「おばあちゃん、私、大丈夫だから」
誰にともなく呟いた声が、静かな居間に吸い込まれていく。その言葉が本当かどうか、皐月自身にも分からなかった。
ふと、仏壇の下段、これまで見落としていた引き出しに目が留まった。開けてみると、古い数珠や線香の空箱に紛れて、奥に押し込まれるようにして、また一つ、茶封筒があった。
表には、掠れた文字で一文字。
う
皐月はそれを、震える手ではなく、なぜか落ち着いた手つきで取り出した。仏壇の前で、それを開けようかどうか、一瞬だけ迷った。祖母の遺影が見ている前で、この続きを読んでいいものかどうか。だが結局、その迷いは長くは続かなかった。