仏壇の遺影の前で、皐月(さつき)は封筒を開いた。
う は うらぎりのう
墨のような黒い活字の下の挿絵は、これまでとは明らかに違っていた。目と口だけだった顔に、今度は輪郭がうっすらと加わっている。頬から顎にかけての線が、子供の落書きにしては妙に生々しく、まるで誰かの実際の顔を下敷きにして描かれたかのようだった。誰の顔かは分からない。だが皐月は、その輪郭に既視感を覚えて、思わず紙を持つ手を止めた。目鼻立ちの配置が、どこか自分に似ているようにも、あるいはもっと別の、記憶の奥に沈んだ誰かの顔に似ているようにも思えて、皐月はしばらくその一枚を見つめたまま動けなかった。
「うらぎり」という言葉が、腹の底に重く沈んだ。
真っ先に浮かんだのは、七海(ななみ)の顔だった。
七海とは、中学から大学まで、皐月が唯一「親友」と呼べた相手だった。母親のいない家庭のことも、父親と疎遠なことも、七海にだけは話せた。祖母のことも、祖母の家の縁側でよく二人でお茶を飲んだことも、皐月の人生の中で数少ない、誰かと分かち合えた記憶の中に、七海はいつも一緒にいた。
出会いは中学一年の春だった。クラス替えで隣の席になった七海は、誰とでも分け隔てなく話しかける、皐月とは正反対のタイプの人間だった。それでも七海は、周囲から「変わった子」という目で見られていた皐月にも、まったく態度を変えることなく話しかけてきた。最初は戸惑った皐月も、次第に七海の屈託のなさに引き込まれていった。放課後、二人で駄菓子屋に寄り道をしたこと、期末テスト前に祖母の家で一緒に勉強をしたこと、高校の卒業式で二人だけで泣きながら写真を撮ったこと――それらの記憶は、皐月にとって、青春という言葉が意味するもののほとんど全てだった。大学に進学してからも、二人の付き合いは続いていた。学部は違ったが、月に一度は必ず会って近況を報告し合った。皐月にとって七海は、家族以外で唯一、無条件に信頼できる相手だった。
大学三年の冬、皐月は当時付き合っていた恋人のことで、七海に長い相談をしたことがある。将来のことで意見が合わず、悩んでいた。七海は親身になって話を聞いてくれた――そう、皐月は思っていた。
数週間後、皐月はその恋人から突然別れを告げられた。理由を尋ねると、恋人は言いにくそうに、しかし確かにこう言った。「七海から、いろいろ聞いた」と。皐月が七海にだけ打ち明けた、恋人への不満、将来への不安、そして誰にも言うつもりのなかった、恋人の家族に対する本音――そのすべてが、いつの間にか、恋人自身の耳に届いていた。
問い詰めた皐月に、七海は悪びれもせずに言った。「だって、あなたのためを思って。ちゃんと言ってあげた方がいいと思ったから」
その言葉の意味を、皐月は今でも正確に理解できずにいる。悪意だったのか、無自覚な善意の暴力だったのか。どちらであっても、結果は同じだった。恋人を失い、そして唯一の親友も、その日を境に自然と疎遠になっていった。
最後に七海と交わした会話を、皐月は今でも鮮明に覚えている。電話越しに、皐月は震える声で「どうして、そんなことをしたの」と尋ねた。七海は少しの沈黙のあと、「皐月は昔から、何でも一人で抱え込みすぎ。私は、それを心配してただけ」と答えた。心配、という言葉が、その時の皐月にはひどく歪んで聞こえた。心配してくれる相手が、なぜ自分の一番隠したい部分を、他人に晒すことができるのか。その矛盾を説明してくれる言葉を、皐月はついに七海から聞くことができなかった。
誰かに心を開けば、いつかそれが牙になって返ってくる。皐月がその後、誰に対しても一定以上の距離を保つようになったのは、この一件が決定的な理由だった。恋愛はおろか、友人関係そのものを、皐月は少しずつ避けるようになっていった。校正という、人と深く関わらずに済む仕事を選んだのも、無意識のうちに、この経験が影響していたのかもしれない。
七海とは、その後一度も連絡を取っていない。SNSで彼女が結婚し、子供を持ち、幸せそうな家族写真を投稿しているのを、皐月は一度だけ、誰かに教えられて見てしまったことがある。それ以来、皐月は彼女のアカウントを検索することも、名前を思い出すことすらも、意識して避けてきた。それでも、今こうして絵本のページを前にした瞬間、堰を切ったように、あの頃の記憶のすべてが溢れ出してくる。忘れていたつもりのものは、実はただ、深く沈めていただけだったのだと、皐月は思い知らされていた。
気づけば、皐月の中で、ひとつの思考が輪郭を持ち始めていた。
――忘れてはいけない。忘れれば、まるで最初から何もなかったことにされてしまう。
そう思った瞬間、仏壇の線香から立ち上る煙が、風もないのに不自然にたわみ、渦を巻くのが見えた。気のせいだと思おうとしても、その揺らぎは、まるで皐月の考えに合わせて呼吸しているかのように、しばらく尾を引いて消えなかった。
「あなたは、いったい」
誰にともなく呟いた声は、静かな居間に吸い込まれていくだけだった。答えなど、最初から期待していなかった。ただ、口に出した瞬間、部屋の空気そのものが、これまでよりもわずかに重く、密度を増したように感じられた。
誰も、皐月の傷をここまで正確に言い当ててはくれなかった。祖母でさえ、皐月の痛みを察してはくれても、"裏切り"の記憶そのものを、これほどまで剥き出しのまま肯定してくれたことはなかった。世間はいつも、「もう終わったことだから」「気にしすぎだよ」と、皐月の傷を丸ごと過去に押し込めようとしてきた。だが、この蘇った記憶と、それに寄り添うようなこの部屋の重さだけは違った。忘れるな、覚えていていい――そう告げられているように感じてしまうことは、呪いに近いはずなのに、皐月にはどこか、初めて自分の痛みを"正当なもの"として認めてもらえたような、歪んだ救いにも思えた。
――お前には、私しかいない。
それは、誰かに言われた言葉ではなかった。皐月自身の中から、堰を切ったように溢れ出してきた、紛れもない本音だった。反論しようとした。人間にはまだ他にも繋がりがある、まだ何かを信じられる余地がある――そう自分に言い聞かせようとした。だが、その反論を支えるだけの根拠を、皐月はもう、自分の人生の中に見つけられなかった。
家に帰った皐月は、震える手でライターを取り出した。祖母の家の台所に置かれていた、来客用の古い灰皿とライター。皐月はキッチンのシンクの前で、手にした「う」のページに火を近づけた。
こんなものに縋ろうとする自分を、断ち切りたかった。この一枚の紙を心地よいと感じてしまう、自分の心の弱さごと燃やしてしまいたかった。ページの端に、小さな炎が灯る。紙が焦げる乾いた匂いが鼻をつく。炎は瞬く間に紙全体に回り、文字も、挿絵も、あの輪郭を持ち始めた顔も、区別なく黒く縮れて崩れていった。
燃え尽きる最後の瞬間、灰の欠片から細く立ち上った煙が、シンクの上でふわりと渦を巻いた。皐月はそれを目で追った。煤は本来、決まった形など持たないはずだった。それなのに、立ち上る煙が一瞬、人の輪郭のようにたなびき、ゆらゆらと揺れながら、皐月の方へわずかに傾いだように見えた。まるで、彼女の中の「もう後戻りはできない」という諦めに、そっと相槌を打つかのように。次の瞬間には、その形は解けるように空気に紛れて消えていた。ほんの数秒の、まばたきをすれば見逃してしまうような出来事だった。それが本当に人の形をしていたのか、それとも自分がそう見たかっただけなのか、皐月自身にも分からなかった。
火を消したとき、シンクの中に残っていたのは、ただの黒い灰の塊だけだった。文字も、挿絵も、跡形もなく燃え尽きていた。「う」のページは、もうどこにも存在しなかった。
皐月はその場にへたり込んだ。ただの紙のはずだった。火をつければ普通に燃える、どこにでもある薄い紙にすぎない。煙が人の形に見えたのも、きっと自分がそう見たかっただけの、都合のいい錯覚に過ぎないのだろう――そう自分に言い聞かせようとした。だが同時に、頭の片隅では、別の考えが拭いきれずにいた。もし本当に、この気配が自分の味方でいてくれているのだとしたら。もし本当に、あの死んだ元同僚のことも、この存在が何かしたのだとしたら。そこまで考えて、皐月は小さく頭を振った。そんなはずはない。ただの偶然だ。ただ、紙が燃えて灰になっただけの話だ。それでも、その否定の言葉自体が、自分の耳にさえ、どこか弱々しく響いた。ページ自体は跡形もなく消えてしまったというのに、部屋の空気の重さも、あの気配も、何一つ変わっていなかったからだ。むしろ、これを燃やそうとした自分の行為そのものが、何か取り返しのつかない裏切りだったのではないかという、奇妙な罪悪感すら胸の奥に生まれていた。空になった灰皿を、それでも捨てる気にはなれず、皐月はしばらくの間、ただ見つめ続けていた。
その晩も、また浅い眠りの中で、皐月はあの夢を見た。夢の中で、皐月は暗い部屋の真ん中に立っていた。今回は、その"気配"がこれまでよりもずっと近くにあった。姿は見えない。それでも、すぐ側に、誰かが立っているとしか思えないほどの密度で、何かの存在感が満ちていた。
夢の中の皐月は、それに向かって尋ねた。「あなたは、これから先も、私の味方でいてくれるの」
答えは、声にはならなかった。ただ、周囲の空気がふわりと緩み、頷かれたような、温かい気配の変化があった――ように、夢の中の皐月には感じられた。それだけで十分だと思った。差し出すように、そっと手を伸ばす。指先に、何か柔らかな体温のようなものが触れる、その寸前――
目が覚めた。
心臓が激しく鳴っていた。だが体は、これまで感じたことのないほど深く休まっていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光の中、部屋のどこにも、あの影らしきものはなかった。指先には、何かに触れていたような感触が、ほんのわずかに残っている気がした。皐月は自分の手のひらを、しばらくの間じっと見つめていた。何も変わった様子はない。ただ夢が見せた、都合のいい余韻にすぎないのかもしれない。それでも、もしあれが本当に何かの存在なのだとしたら――そう思う自分と、そんなものが実在するはずがないと切り捨てようとする自分とが、皐月の中でいつまでも綱引きを続けていた。目が覚めたとき、皐月の頬には、乾いた涙の跡が残っていた。泣いていたことにも、皐月自身、気づいていなかった。それが悲しみの涙だったのか、それとも別の感情の涙だったのか、皐月には判別がつかなかった。
翌日、皐月は再び祖母の家を訪れた。もう探すべき場所は、ほとんど残っていないはずだった。それでも皐月は、なぜか祖母の寝室――普段あまり立ち入ることのなかった、押し入れの天袋に手を伸ばした。
踏み台に乗り、埃をかぶった天袋の戸を開ける。中には季節外れの毛布と、古い座布団カバーの束に混じって、小さな木箱があった。持ち上げると、中でかたかたと乾いた音がした。畳に座り込み、蓋を開ける。
出てきたのは、色褪せた白黒写真の束だった。若い頃の祖母らしき女性が写っている。だが、皐月の記憶にある祖母よりも、ずっと若く、そしてどこか思い詰めたような表情をしている一枚があった。隣には誰かが写っていたはずの跡があるが、その部分だけ、鋏で切り取られていた。誰が写っていたのか、なぜ切り取られたのか、写真だけでは何も分からない。
写真の束をめくっていくと、その下に、また一つ、茶封筒が入っていた。
表には、掠れた文字で一文字。
え
皐月はそれを取り出しながら、木箱の底に敷かれた古い新聞紙の日付に、ふと目を留めた。皐月が生まれるよりもずっと前の日付だった。祖母は、いつからこれを、この家のどこかに隠し持っていたのだろう。切り取られた写真の中の人物と、この絵本と、何か関係があるのだろうか。
その問いに答える者は、もうこの世のどこにもいなかった。皐月は写真をそっと木箱に戻し、封筒だけを手に、静まり返った寝室を後にした。廊下の窓から差し込む午後の光が、やけに白々しく感じられた。