あ は あくまのあ   作:笹瀬澤 ざざ

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え はえんまのえ/D is for Devil

天袋の木箱から取り出した封筒を、皐月(さつき)は自分の部屋に持ち帰ってから開いた。祖母の遺影の前では、もう開ける気になれなかった。

 

封を切ると、中には二枚の紙が入っていた。一枚は、これまでと同じ、あの絵本のページ。もう一枚は、それよりもさらに古い、黄ばんだ便箋だった。折り目に沿って、今にも崩れそうなほど脆くなっている。

 

先に、絵本のページを見た。

 

  え は えんまのえ

 

墨のような黒い活字の下の挿絵は、これまでよりもさらに人の顔に近づいていた。目、口、輪郭に加えて、今度は耳の形と、髪の生え際らしき曲線までが描き込まれている。それでも、線全体はまだどこか粗く、輪郭の細部は曖昧なままだった。誰の顔なのかを、正確に言い当てられるほどには至っていない。まるで、完成まであと少しを残した、未完のスケッチのようだった。

 

もう一枚の便箋を、皐月は震える指で開いた。開いた瞬間、古い紙特有の、埃と黴の混じったような匂いが立った。祖母の筆跡だった。長年、年賀状や手紙で見慣れた、あの少し右肩上がりの字。だが文章は、途中でかすれ、ところどころ判読できなくなっていた。書きながら、何度も筆が止まったのだろう。文字の勢いが、行ごとにまちまちだった。

 

『さつきへ もし、これを読んでいるということは わたしはもういないのですね』

 

『この本のことを 説明しておかなければなりません この話自体は わたしが 母から 聞かされて育ったものです うちの女は 昔から 独りで死んでいく定めにあるようでした だから 誰か一人でも 最期まで独りにしないための 方法があるのだと』

 

『母は それを 言葉でしか 伝えてくれませんでした かたちにする前に 逝ってしまいました わたしは 随分と長い間 この話を どう受け止めればいいのか 分からずにいました』

 

『あなたのお父さんが まだ小さかった頃 本屋で 外国の絵本を 見かけました あいうえおを なぞりながら 物語が進んでいく そういう絵本でした それを見たとき これだ と思ったのです 母から聞いた話を かたちにするなら これしかないと』

 

『それから 少しずつ この本を 作りました 誰にも 見せたことはありません』

 

『あなたのお母さんが 出て行ってしまったのも わたしのせいだったのかもしれません あの人は 昔から 勘の良い人でした この家に 何かがいると 気づいていたのだと思います わたしのことを 怖がっていたのも 知っていました それでも あなたを 置いていってしまったことだけは 最後まで わたしにも分かりませんでした』

 

『さつき あなたを わたしの後 独りにしてしまうことが ずっと恐ろしかった わたしにできることは もう これくらいしか 残っていませんでした』

 

『どうか これを 最後まで読み進めてください そうすれば あなたには 新しい家族が できるはずです』

 

『さつきが 幸せになれますように』

 

そこで文章は途切れていた。続きがあったのかもしれないが、紙の端が破れて失われていた。最後の一文だけ、他の行よりも筆圧が強く、何度もなぞったように、インクが滲んでいた。

 

皐月は、しばらく便箋を握りしめたまま、動けなかった。頭の中で、これまでのすべてが、音を立てて繋がっていくのを感じた。晩年の祖母が呟いていた「さつきは、一人になっても大丈夫かねぇ」という言葉。押し入れや天袋、カーディガンの裏地――家中に、まるで意図的に散らばせるようにして遺されていた、あの茶封筒の数々。すべてが、偶然ではなかった。祖母は、自分が死んだ後、皐月がこの家を片付けながら、一枚ずつこれを見つけていくことを、最初から見越していたのだ。

 

そして、母のことも。皐月の記憶の中の母は、いつも少し、この家に馴染めていないような顔をしていた。台所に立つ後ろ姿、皐月を叱る低い声――それらの記憶の端々に、微かな緊張感があったことを、皐月は今、初めて思い出した。あれは、単なる嫁姑の不和などではなかったのかもしれない。母は、この家に何かがいることに、本当に気づいていたのだ。だとすれば、母が出て行ったあの日は、皐月を捨てた日ではなく、この家から――正確には、祖母という存在から――逃げ出した日だったのかもしれない。それでも、なぜ皐月だけを置いていったのか。その答えは、祖母の手紙のどこにも書かれていなかった。

 

「うちの女は、昔から、独りで死んでいく定めにある」――その一文が、皐月の中で重く響いた。母方の記憶はほとんどないが、そういえば祖母も、自分の母親のことをほとんど語らなかった。写真の中で鋏で切り取られていた、あの人物のことを、皐月はふと思い出した。もしかしたら、あれも、この言い伝えを祖母に語り継いだ、あの曾祖母だったのかもしれない。この本自体は、祖母の代になって初めて、形を与えられたものだった。だが、その根底にある「独りにしないための何か」という言い伝え自体は、もっとずっと昔から、この家の女たちの間だけで、密かに語り継がれてきたのだろう。この家の女たちが、代々、同じ孤独と、同じ選択を繰り返してきたのだとしたら。皐月は今、その長い連鎖の、最新の一人になろうとしているのかもしれなかった。

 

呪いだと思っていた。だが違った。これは、祖母から皐月への、最後の、そして最大の愛情表現だったのだ。

 

そう理解した瞬間、皐月の中で何かが完全に切り替わった。これまで感じ続けてきた、信じたい気持ちと、信じてはいけないという理性のせめぎ合いが、嘘のように消えていた。もう迷う必要はない。この気配は、本物だ。祖母が、皐月のためだけに遺してくれた、たった一つの家族の種なのだ。

 

皐月はその夜初めて、部屋の隅に向かって、はっきりと声をかけた。

 

「ありがとう。おばあちゃんが、あなたを遺してくれたのね」

 

答えはなかった。だが、部屋の空気全体が、まるで長く止めていた息を吐き出すかのように、ふわりと緩むのを、皐月は確かに感じた。カーテンが揺れたわけでも、温度計の数字が動いたわけでもない。それでも、部屋全体を包んでいた、あの張り詰めた密度が、初めて優しいものに変わった気がした。これまでは、どこかで怖がりながら、あるいは疑いながら受け止めていたこの気配を、皐月は今、初めて心から歓迎していた。まるで、長らく離れ離れだった家族と、ようやく再会できたかのように。長年一人で抱え続けてきた孤独が、ようやく誰かと分かち合えるものに変わった、そんな安堵さえあった。

 

数日後、父から珍しく連絡があった。祖母の遺産分与について、事務的な確認をしたいという用件だった。文面は簡潔で、皐月の近況を気遣う一言すらなかった。「相続の件、確認したいことがあるので手続きを進めてください」――それだけの、業務連絡のような文章。差出人の名前を見て、皐月は一瞬、指が止まった。以前の皐月なら、この連絡だけでも、縋るような気持ちで返信していただろう。父との細い糸を、少しでも繋ぎ止めておきたくて。もしかしたら、この機会に少しは近況を話せるかもしれない、また会えるかもしれない、と。

 

だが今、皐月の胸に湧き上がったのは、そんな未練ではなかった。

 

――この人は、わたしを何一つ選んでこなかった。

 

そう思った瞬間、皐月の中に、これまでとは明らかに違う感情が芽生えた。悲しみでも、諦めでもない。もっと乾いた、もっと冷たい感情だった。この人に、これ以上何かを期待する必要はない。それどころか、この人がこの先どうなろうと、自分にはもう関係がない。むしろ、いなくなってしまえばいい――そこまで考えて、皐月は自分に驚いた。以前なら、そんな考えを持った自分を、すぐさま責めていたはずだった。だが今は、責める気持ちがまるで湧いてこない。それどころか、その冷たさを、皐月は静かに、心地よいとすら感じていた。

 

七海のことも、もう一度考えてみた。かつては、あの裏切りを何年も引きずり、自分の傷として大切に抱え続けていた。だが今は違う。七海が今どこで何をしていようと、幸せな家庭を築いていようと、皐月にはもうどうでもよかった。ただ一つ、もし七海の身に何か悪いことが起きたとしても、自分は少しも心を痛めないだろうという確信だけが、静かに、はっきりとそこにあった。

 

被害者として、誰かに傷つけられ続けてきた自分。だが今、皐月の中には、別の顔が育ち始めていた。誰かの運命を、心の中で密かに決めてしまう顔。裁く側の顔だった。それは恐ろしいことのはずだった。けれど皐月は、もう恐れていなかった。

 

これまでの人生で、皐月はずっと、誰かに何かをされる側だった。異端として見られ、裏切られ、見下され、見捨てられる側。抵抗する術も、言い返す言葉も、いつも後になってからしか浮かんでこなかった。だが今、皐月の内側で育ちつつあるこの新しい感覚は、それとはまるで逆のものだった。誰の許可を得る必要もなく、自分の心の中だけで、誰かの価値を、誰かの存在の意味を、勝手に決めてしまってもいいのだという感覚。それは、これまで奪われ続けてきた「力」を、ようやく取り戻したかのような感触でもあった。

 

便箋の裏に、もう数行だけ、追伸のように書き添えられているのに、皐月は気づいた。表の文章よりも、さらに震えるような、弱々しい筆致だった。おそらく、体調がかなり悪くなってから、日を置いて書き足されたものなのだろう。

 

『母の言葉を そのまま 書いておきます 呼び寄せたものを 迎え入れるには 器となる体が要る この家に生まれた女の体でなければならない と 母は そう言っていました』

 

その一文を読んだ瞬間、皐月は自分の下腹部に、無意識に手を当てていた。ここ最近続いている、あの体温の異常と、微かな蠢くような違和感。あれは、不調などではなかったのだ。皐月の体そのものが、少しずつ、何かを迎え入れるための"器"に作り変えられている。そう理解しても、恐怖はほとんど湧いてこなかった。むしろ、これまで誰にも必要とされてこなかった自分の体が、初めて何かの役に立とうとしている――そんな、歪んだ誇らしさに近い感情さえあった。

 

祖母も、その母も、きっとこの同じ違和感を、同じように一人で受け止めてきたのだろう。誰にも相談できず、誰にも打ち明けられないまま、自分の体に起きている変化を、ただ黙って受け入れるしかなかったのだろう。皐月はそう思うと、不思議な連帯感すら覚えた。会ったこともない曾祖母、そして祖母――顔も知らない、あるいはもう思い出も薄れかけている女たちと、今、この瞬間、同じ体の変化を通じて繋がっている。それは、これまで感じたことのない種類の「家族」の感覚だった。血縁というだけでは説明のつかない、もっと生々しい、体そのものを媒介にした繋がりだった。

 

一方で、この身体的な変化の正体を、皐月はまだ正確には理解していなかった。器になるとは、具体的に何が起きるということなのか。祖母が書き残したその言葉には、それ以上の説明はなかった。分からないことだらけだったが、不思議と、それを調べようという気にはならなかった。分からないまま身を委ねることこそが、この家に生まれた女に課せられた作法なのだと、皐月はどこかで納得してしまっていた。

 

数日後、皐月は祖母の家の最後の片付けに向かった。もう箱にするものもほとんど残っていない。形見として残しておきたいと思っていた、祖母がいつも着ていた古い薄手のカーディガンを、記念に持ち帰ろうと手に取ったときだった。祖母の匂いがまだ微かに残っていた。

 

袖を通してみようと広げたとき、裏地の縫い目の一部が、不自然にほつれているのに気づいた。指を差し込んでみると、裏地と表布の間、本来なら何もないはずの隙間に、小さく折り畳まれた紙が縫い込まれていた。丁寧に、几帳面な針目で綴じられた、その隠し場所。震える指で糸をほどき、中から取り出したのは、また一つ、あの茶封筒だった。

 

表には、掠れた文字で一文字。

 

  お

 

その夜、皐月は最後に残った封筒を取り出した。窓の外はすでに暗く、部屋の明かりだけが、机の上を丸く照らしていた。これまで見つけたページのうち、「う」は自らの手で燃やしてしまっている。だが、あの夜以来、灰皿に残った灰を捨てることができず、皐月は丁寧に、こぼれないよう小さな小瓶に移し替えて保管していた。今、それを机の上に置く。表紙の残骸、「あ」「い」「え」のページ、そして「う」だった灰の入った小瓶。それらを並べれば、もうほとんど絵本が完成する。残るはあと一枚だった。

 

机の上には、これまで集めてきたページと、燃えてしまった「う」の灰、そして表紙の残骸が並んでいた。それを一つずつ順番に並べ直しながら、皐月はふと、この数週間の自分の変化を振り返った。震えながら封筒を開けていたあの頃の自分は、もういない。異端として扱われた記憶に泣き、裏切りに凍りつき、罪の意識に押しつぶされそうになっていた自分は、この部屋のどこにも残っていなかった。今ここにいるのは、ただ静かに、最後の一枚を待っていた自分だけだった。

 

これまでのように、指が震えることはなかった。むしろ、これまでの人生で一番落ち着いた気持ちで、皐月はそれを、迷いなく、まるで待ちわびていたかのような手つきで開いた。

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