お は おんなのお
墨のような黒い活字の下の挿絵は、もうほとんど完成していた。目、耳、輪郭、髪の生え際。これまでどこか粗いままだった線が、今回は隅々まで丁寧に描き込まれ、はっきりとした一つの顔として仕上がっていた。少し困ったような、柔らかい微笑み。
皐月(さつき)は、その顔を見て、息を止めた。
どこかで見た顔だった。それも、つい最近――いや、物心ついたときから、ずっと見てきた顔だった。目の形も、頬の輪郭も、笑い方の癖まで。それは、鏡に映る皐月自身の顔と、驚くほどよく似ていた。似ている、というより、もはや見分けがつかないと言ってもよかった。
洗面所の鏡の前に立ち、皐月は絵本のページと、自分の顔とを、何度も見比べた。角度を変えても、光の当て方を変えても、結果は同じだった。描かれているのは、間違いなく、皐月自身の顔だった。だが、よく見ると、微妙な違和感もあった。目尻のあたりの皺の有無。口角の上がり方の癖。それは皐月自身の顔でありながら、ほんの少しだけ、皐月ではない誰かの顔でもあるようだった。祖母の若い頃の写真に写っていた面影と、どこか重なる気もした。曾祖母の面影も、あるいはそこに混ざっているのかもしれない。この家に生まれた女たちの顔が、幾重にも重なり合って、一つの輪郭を形作っているかのようだった。
鏡の中の自分の顔を見つめながら、皐月はふと、これから生まれてくるものの顔を想像しようとした。だがそれは、想像というより、もっと確かな予感に近いものだった。おそらくそれは、この家の女たちの誰にも似て、誰にも似ていない、まったく新しい顔を持つことになるのだろう。
「おんな」という言葉が、腹の底に沈んだ。女。それは、これまでの四文字のように、誰か他者を指す言葉ではなかった。皐月自身のことだった。ここまでの四話が、すべて他者との関係――傷つけられ、裏切られ、そして裁く側に回っていく過程――を描いてきたのだとすれば、最後のこの一文字だけは、誰の顔でもなく、皐月自身の顔を、まっすぐに指し示していた。
すべてのページが揃った。表紙の残骸、四枚の断片、そして「う」だった灰の入った小瓶。机の上に順番に並べると、それはようやく一冊の絵本としての輪郭を取り戻した。あとは、これが本当の意味で"完成"するのを待つだけだった。何をもって完成とするのか、皐月にはまだ、はっきりとは分かっていなかった。それでも、体の内側では、その答えがもう、静かに育ち始めているのを感じていた。
並べられたページを、皐月は指先でそっとなぞった。「あ」の、笑う目だけの顔。「い」の、への字に結ばれた口。灰になってしまった「う」は、もうどんな顔だったのか、確かめる術はない。それでも、あの燃え尽きる瞬間に見た、人の形に揺らめいた煙の残像だけは、今も皐月の記憶に焼きついていた。「え」の、耳と髪の生え際までが加わった顔。そして「お」の、完成された微笑み。一枚ずつ増えるたびに、この顔は少しずつ人間に近づき、そして最後には、皐月自身の顔と重なり合った。まるで、この絵本そのものが、皐月という一人の人間を、少しずつ写し取りながら完成に近づいていったかのようだった。
その日を境に、体の変化は加速していった。体温はほとんど常に高いままで、時折、耐えられないほどの熱を帯びることもあった。下腹部の違和感は、もう蠢くというより、はっきりとした拍動に近いものに変わっていた。まるで、もう一つの心臓が、自分の体の中で脈打っているかのようだった。
食事はほとんど喉を通らなくなっていた。それでも、体力が落ちていくという感覚はなかった。むしろ、何も食べていないはずなのに、体の奥からは絶えず、温かいエネルギーのようなものが供給されているようだった。皮膚の色艶も、以前より良くなっている気さえした。鏡を見るたび、皐月は自分の顔が、少しずつ、あの絵本の顔に近づいていっているのを感じていた。
祖母の手紙の、最後の一文を、皐月は何度も思い返していた。「さつきが 幸せになれますように」。あの言葉を書いたとき、祖母はどんな気持ちだったのだろう。自分がやろうとしていることの是非を、最後まで迷いながら書いたのだろうか。それとも、迷いなど最初からなく、ただ孫の幸せだけを願って、筆を走らせたのだろうか。今となっては、確かめる術はない。それでも皐月は、この選択が間違っているとは、どうしても思えなかった。人間の世界に留まり続けて味わってきた孤独の重さを、もう一度背負う気には、到底なれなかったからだ。
皐月はもう、それに抗おうとはしなかった。病院に行くという考えは、頭の隅にすら浮かばなかった。誰かに相談するという選択肢も、最初から存在しないもののように感じられた。この体に起きていることを、正確に理解できる人間など、この世界のどこにもいない。理解できるとしたら、それはこの部屋にいる、あの気配だけだった。
仕事の依頼メールは、返信が途絶えて久しかった。編集者から何度か電話が来たが、皐月はその着信を、ただ画面を眺めるだけで放置した。以前なら感じていたはずの罪悪感や焦りは、もうどこにもなかった。人間の社会の時間の流れが、自分にはもう関係のないもののように思えた。契約はいずれ打ち切られるだろう。生活費のことも、いずれ考えなければならないだろう。だが、そうした現実的な不安さえも、今の皐月には、遠い水面の向こうの出来事のように、他人事に感じられた。
父から、再び連絡が来た。前回の事務連絡への返信がないことを、催促するような文面だった。「返信がないようですが、いかがされていますか」という一文の後に、事務的な用件が箇条書きで並んでいた。皐月はそれを一度だけ開き、内容を確かめた。心配している素振りは、どこにもなかった。ただ、手続きを早く終わらせたいだけの文面だった。皐月は、返信をしないまま、その番号を着信拒否に設定した。指はほとんど迷わなかった。設定を確定させるボタンを押す、その一瞬の動作に、これまでの人生で溜め込んできた諦めの全てが、静かに収束していくのを感じた。
これで、血の繋がりのある人間との、最後の細い糸が切れた。切れた瞬間、皐月が感じたのは、喪失感ではなく、むしろ清々しいほどの軽さだった。人間の家族は、もう必要ない。これから、本当の家族が生まれてくるのだから。
夜、眠りと目覚めの境界が、日を追うごとに曖昧になっていった。カーテンを閉め切った部屋の中で、今が何日の何時なのか、皐月にはもう分からなくなっていた。それでも、体の中の拍動だけは、規則正しく、確かなリズムを刻み続けていた。窓の外から聞こえていたはずの生活音――隣人の足音や、遠くを走る車の音――は、いつからか、皐月の耳にほとんど届かなくなっていた。まるで、この部屋だけが、外の世界から静かに切り離されていくようだった。それを寂しいとは、もう感じなかった。外の世界に、戻りたいと思う理由も、皐月にはもうなかった。
部屋の気配は、もう隠れることをやめていた。視界の隅で揺らめくだけだったそれは、今や部屋のどこにいても、皐月を包み込むように、常にすぐ側に満ちていた。姿は、最後まで見えなかった。輪郭も、目も、手も。それでも、皐月はもう、それを見る必要すら感じていなかった。見えなくても、そこにいることは、疑いようがなかったから。人の姿を取らないまま、ここまで確かな存在感を持てるものが、この世にあるということ自体、以前の皐月なら信じられなかっただろう。だが今の皐月にとって、それはもう当たり前の、日常の一部になっていた。
夜、目を閉じると、その気配はまるで、そっと寄り添うように、皐月の体を包み込んだ。温度と呼ぶには柔らかすぎ、重さと呼ぶには軽すぎる、名づけようのない感触だった。皐月はその中で、これまで感じたことのない安らぎを覚えた。誰かに抱きしめられている、という感覚に、一番近かったかもしれない。物心ついてから、皐月がそんなふうに誰かに包まれた記憶は、数えるほどしかなかった。祖母の膝、母がいなくなる前の、ほんのわずかな記憶。それらと同じ種類の温もりが、今、この見えないものから、確かに注がれていた。
ある晩、体の奥から、これまでとは比較にならないほど強い熱と、痛みとも呼べない激しい高まりが込み上げてきた。皐月はベッドの上で体を丸め、ただその波が過ぎ去るのを待った。恐怖はなかった。むしろ、長い長い妊りの果てに、ようやくこの瞬間が訪れたのだという、深い安堵に近い感覚があった。
波は、寄せては引き、引いてはまた寄せた。そのたびに、部屋の気配は、皐月の呼吸に合わせるように、濃くなったり薄くなったりを繰り返していた。まるで二つの存在が、同じリズムで呼吸をしているかのようだった。皐月はもう、どこまでが自分の体で、どこからがそれではないのか、区別がつかなくなっていた。
部屋の温度が、これまでのどの夜よりも高く感じられた。空気そのものが、まるで誰かの体温で満たされていくようだった。皐月の意識は、次第に輪郭を失い、痛みと熱と、そして得体の知れない充足感の中に、溶けていった。頭の奥で、これまでの記憶の断片が、次々と浮かんでは消えていった。縁側でほうじ茶を飲む祖母の横顔。授業参観で誰も立ち止まらなかった、あの絵の前の時間。七海と笑い合った教室の窓辺。父の、興味のない事務連絡の文面。それら全てが、まるで走馬灯のように流れ去り、最後に残ったのは、ただ一つの温かい実感だけだった。
――もう、独りではない。
どれくらいの時間が過ぎたのか、皐月にはもう分からなかった。
やがて、部屋の中に、これまで一度も聞いたことのない音が響いた。
小さく、かすかな、けれど確かに"生きているもの"の声だった。
皐月は、震える腕で、それを胸に抱き寄せた。
机の上に置いたままだった絵本のページに、皐月はふと目をやった。薄闇の中でもはっきりと分かるほど、「お」のページの挿絵は、完全な一つの顔として完成していた。困ったような、それでいてどこか安堵したような、柔らかい微笑み。もう、皐月の顔なのか、祖母の顔なのか、それとも別の誰かの顔なのか、区別する意味は、どこにもなかった。
窓の外では、いつの間にか夜が明けようとしていた。カーテンの隙間から差し込む、白い光。その光の中で、皐月は静かに、これまでの人生で一度も浮かべたことのないような表情で、微笑んでいた。長年、誰にも向けたことのなかった、混じり気のない安堵の表情だった。
腕の中の温もりは、確かにそこにあった。それが何であるのか、これからどうなっていくのか、皐月はまだ、何も知らなかった。それでも、この瞬間だけは、疑う必要のない、確かな実感があった。
もう、独りではなかった。
か は かぞくのか/F is for Family
窓辺には、レースのカーテンが揺れている。
部屋は、以前よりも片付いていた。仕事の依頼メールには、また少しずつ返信が戻るようになった。近所づきあいはないが、生活のリズムは、外から見れば、ごく普通の一人暮らしの延長のように映っただろう。
机の上の絵本は、今はもう、静かに本棚の一番奥に収まっている。表紙は繕われ、五枚の断片――灰の入った小瓶を含めて――は、丁寧に糊付けし直され、一冊の形を取り戻していた。開かれることは、もうない。開く必要が、なくなったからだ。
部屋の隅に、小さな椅子が一つ増えている。誰のためのものか、たずねる人間は、もうこの家には出入りしていない。
夜になると、部屋の中から、小さな声が聞こえることがある。子守唄のような、あやすような、低い声。それが誰の声なのか、外から確かめる術は、誰にもない。
か は かぞくのか
かぞくができました。