目を覚ました彼がなっていたのは――五歳ほどの、狼耳と尻尾を持つ少女だった。
魔法もない。武器もない。仲間もいない。
右も左も分からない異世界の森で、幼い身体ひとつで生きていかなければならない。
そんな彼女が頼りにしたのは、前世で身につけた唯一の「特技」だった。
――媚びを売ること。
相手の表情を読み、機嫌を取り、敵を作らず、面倒ごとを避ける。
前世ではただの処世術だった。けれど、命の保証すらない異世界では、それこそが生き残るための武器になる…はずだ。
「へ、へへっ…だ、旦那ぁ……靴でも舐めましょうか……?」
……たぶん、こんな異世界転生を望んでいたわけではない。
これは、臆病で、打算的で、それでも誰かを見捨てきれない少女が、媚びと優しさを武器に、異世界を生きていく物語。
媚びというものを、売ったことがあるだろうか。
人間は時として、上司や権力者に対して必要以上に機嫌を取ったり、へつらったりすることがある。
自分の利益のために、相手に気に入られようとして過剰に愛想を振りまく。
本心ではどう思っていようが、相手の機嫌を損ねないように笑い、頭を下げ、時には自分を必要以上に低く見せる。
いわゆる―媚びを売る、というやつだ。
現代社会においては、それによって社会的な立場や人間関係が変動してしまうこともある。
上司に気に入られるためにせっせと機嫌を取る者もいれば、権力者に取り入って出世を目指す者もいる。
良いことなのか悪いことなのかはさておき、生きていくうえでは、時として必要になる処世術なのだろう。
かくいう私も、かつては必要に応じてへこへこと媚びを売りまくったものである。
「はい、もちろんです!」
「いやぁ、さすが○○さんですね!」
「私も××先輩のような人になりたいと思ってまして!」
今思い返しても、我ながら見事な太鼓持ちだったと思う。
もちろん、好きでやっていたわけではない。
世の中には、プライドだけではどうにもならないことがある。
頭を下げるだけで面倒事を回避できるなら、いくらでも頭を下げればいい。
そう。
頭を下げることは、決して恥ではない。
生き残るためならば。
――そう、思っていた。
少なくとも。
まさか、その考え方がこんな形で役に立つことになるとは、その時の私は知る由もなかった。
目の前の男が、こちらに鋭い視線を向ける。
同時に、彼の手に握られた剣が、ぶん、と空気を切った。
その刃には、べっとりと赤黒い血が付着している。
つい先ほどまで目の前で暴れていた犬のような魔物の血だ。
数秒前まで、あの魔物は確かに生きていた。
こちらへ牙を剥き、唸り声を上げ、彼を食い殺そうとしていた。
それが今では、地面に転がっている。
男が一振りした。
それだけだった。
あまりにも呆気ない。
私には、何が起こったのかすら完全には理解できなかった。
ただ、気づいた時には魔物の身体が地面に転がり、男だけが何事もなかったかのように立っていた。
そして今。
その男の剣の切っ先が、私の喉元へと向けられている。
「■■、■■?」
聞いたことのない、知らない言語。それに冷たく、無機質な声だった。
感情がほとんど感じられない。なんて意味なのかもよく分からない。
剣先が、ほんの少しだけ動く。
そのたびに、私の喉元へ鋭い光が走った。
ぞくり、と背筋が凍る。
耳がぺたりと伏せ、尻尾が勝手に身体へ巻き付く。
おそらく彼には、私の命を奪うことに何の躊躇もない。
それが、嫌というほど分かった。
しかし――。
問題は、それだけではない。
私と彼の間には、そんな尊大な態度が許されるだけの、圧倒的な力の差があった。
いや。
尊大ですらない。
彼からすれば、これが当然なのだろう。
なにせ、目の前の魔物を一瞬で切り伏せたのだから。
現に、私の本能が、さっきからけたたましく警鐘を鳴らしている。
―逃げろ。
―逆らうな。
―絶対に、この男を敵に回すな。
頭ではなく、本能が理解している。
こいつは危険だ。
絶対に逆らってはいけない。
少しでも行動を誤れば、私も先ほどの魔物と同じように、一瞬で切り伏せられる。
だが、言葉も分からない。彼が先ほどなんて言ったのかも分からない。
こんな状況で、どう命乞いをしたらいいのか。
冷たい汗が背中を伝った。
転生してから、まだそれほど時間は経っていない。
右も左も分からない異世界で、頼れる人間もいない。
そして今、目の前には明らかに自分より強い男。
……どうしてこうなった。
私はただ、生き延びたいだけなのに。
とにかく、なんと言ったのかは分からないが、まずは敵対する意思がないことを示さなければならない。
そしてできれば、この男の機嫌を損ねないこと。
下手なことを言えば殺される。
変な動きをしても殺される。
かといって黙り込んでも、怪しいと思われるかもしれない。
一体どうすればいい。
必死に頭を回転させる。
そして私は、どうにか声を絞り出した。
「わ、私はリンと言います」
声が震えた。
これが、前世で30年近く生きた男の声なのか。
自分でも情けなくなるほど弱々しい声。
「耳と、尻尾が生えていますが……人間です……」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
いや、人間というか……正確には転生者なのだが。
そんなことを説明している場合ではない。
そもそも、この世界で「転生しました」なんて言って信じてもらえるのだろうか。
怪しい奴だと思われて、そのまま斬られる未来しか見えない。
私は慌てて両手を高く掲げた。
何も持っていません。
敵意はありません。
私は無害です。
どうか殺さないでください。
全身を使って、そんな意思を表現する。
降参のポーズ。
我ながら、これ以上ないほど分かりやすい白旗だった。
恐る恐る男の顔を見る。
男は、じっと私を見つめていた。
その表情からは、何を考えているのかまったく読み取れない。
ただ――。
ほんの一瞬だけ。
驚いたように、目が僅かに見開かれた気がした。
……気のせいだろうか。
しかし、それも一瞬だった。
すぐに元の冷たい表情へ戻る。
そして。
剣先は、依然として私の喉元に突きつけられたままだった。
「…………」
「…………」
沈黙。
気まずい。
そして怖い。ものすごく怖い。
男はなかなかに用心深いらしい。
まあ、当然といえば当然なのだろう。
魔物を切り伏せた直後に、正体不明のケモミミロリが目の前に現れたのだ。
警戒するなというほうが無理な話だ。
しかし。
私には、これ以上「戦闘意思がありません」と示す方法が思いつかない。
両手は上げた。
武器も持っていない。
敵意もない。
むしろ、今すぐ土下座したいくらいだ。
……というか。
冷静に考えてみろ。
目の前にいるのは、どう見ても五歳くらいのロリだ。
獣耳と尻尾が生えているとはいえ、こんなに小さいのだ。
それなのに、そこまで警戒する必要があるか?
しかも私は、両手を上げて完全降伏している。
こんなに全身で白旗を上げているような態度なのに。
何がそんなに気に食わないんだ。
お前はどうしてそんなに強いんだ。ズルいぞ。
こっちなんて非力なロリだぞ。ふざけんな。(逆ギレ)
いや、待て。
もしかして――。
異世界では、降参の作法が違うのか?
両手を上げるだけでは駄目なのか?
もっとこう、誠意を見せる必要があるのか?
例えば土下座。
いや、それくらいなら全然するけど。
流石に全裸で靴を舐めろとか言われたら……。
……いや。
さすがに、それはどうなんだ。
しかし命には代えられない。
とにかく。
このままではまずい。男は全く警戒を解いていない。
私は、なんとかこの場を切り抜ける必要がある。
そこでふと、前世の記憶が蘇った。
上司の機嫌が悪いとき。
何か失敗をしたとき。
怒らせてはいけない相手を怒らせてしまったとき。
そんなとき、私はどうしていた?
決まっている。
笑顔だ。
とにかく笑う。
そして、相手を褒める。機嫌を取る、へりくだる。
そう。
媚びを売る。
私はぎこちなく口角を上げた。
おそらく、これまでの人生で一度も浮かべたことがないほど、引きつった笑みだった。
「へっ……へへ……」
男の眉が、ぴくりと動いた。
それを見て、私はさらに焦る。
まずい。
笑い方を間違えたか?
もっと自然に。
そう、自然にだ。
私は必死に笑顔を作った。
そして、震える声で言う。
「だ、旦那ぁ……」
自分でも、どうしてそんな呼び方をしたのか分からない。涙が出てきて視界が歪み、相手の年齢なんて分かったもんじゃなかった。
といか、向こうもこっちがなんて言っているのかも分からないだろう。
だが、もう止まらなかった。
「靴でも舐めましょうか……?」
男の眉間に、わずかに皺が寄る。
まずい。
やっぱり駄目だったか。
なら、もっと媚びろ。
もっと下手に出ろ。
「必要ないですかね。え、えへへ……」
私は引きつった笑みを浮かべながら、さらに頭を下げた。
「たぶん伝わらないと思いますけど、わ、私に、あなたを害する意思も、力もありません」
「……」
男は無言だった。
私は涙が流れないようにしつつ笑顔を維持する。
頬が引きつる。冷や汗が止まらない。
「だ、だから。どうか殺さないで」
そして――。
男は、ゆっくりと剣を下ろした。
「!」
助かった。
そう思った。
心の底から、安堵した。
しかし男はそのまま剣を鞘に収めることはなかった。
むしろゆっくりと。
実にゆっくりと。
再び剣を構え直した。
「あっ」
その瞬間。
脳裏に、一つの結論が浮かんだ。
私の異世界人生、終わったかも。
初めて書く側になりました。
元成人男性のTS娘に屈辱的なことさせたい(性癖の開示)