その日は、異様な気配によって目を覚ました。
「…ん?」
まだ空が白み始める前。
洞穴の中は薄暗く、外から差し込む光もほとんどない。
私は身体を丸めたまま、ぼんやりと目を開けた。
最初は、何か夢でも見ていたのかと思った。
しかし。
耳を澄ます。
――何かいる。
そう思った瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
私は身体を起こし、洞穴の入り口へと顔を向ける。音を拾うため、耳もピンと立った気がする。
風の音と木々のざわめき。遠くで鳴いている鳥の声。
それらに混じって、明らかに普段とは違う音が聞こえていた。
……たぶん足音。それと、うっすら血のにおい。
しかも、足音は一つではない。
私は息を殺した。
この数日間、ここで暮らしてきて分かったことがある。
私の嗅覚と聴覚は、転生する前とは比べ物にならないほど鋭くなっている。
特に、この身体になってからは、音に対して妙に敏感になった。
少し離れた場所で枝が折れた音。草を踏む音。
狩りのときに役立つ、動物がこちらを警戒して立ち止まる気配。
そういったものが、以前よりはっきりと分かる。
そして、数日間にわたって洞穴の周囲にマーキングを続けたおかげか、最近では小動物が洞穴の近くまで寄ってくることもほとんどなくなった。
食料を確保するという意味では少々困るのだが、安全という意味では非常にありがたい。
だからこそ。今、近くにいる存在は明らかにおかしい。
「何匹いるんだ?」
耳を澄ませる。
絶対に一つではない。
二つか。いや、もっといる。
聞こえてくる足音から推測するに、四足歩行の何かが複数。
そして、それとは別に――
「二足歩行?」
私は眉をひそめた。
人間だろうか。
この数日間、人間の姿なんて一度も見ていない。
もし本当に人間なら、私にとって初めて出会う、この世界の人間ということになる。
胸が少しだけ高鳴った。
だが同時に、妙な緊張感もあった。
近づいてくる気配が、どうにも穏やかではない。
四足歩行の何かが、かなり興奮している気がする。
そして、そのすぐ近くに二足歩行の存在がいる。
もしかして。
人間が魔物に襲われているのではないだろうか。
そう考えると、身体が勝手に強張った。
正直に言えば、怖い。ものすごく怖い。
この数日で小動物くらいなら狩れるようになった。
爪も出せる。身体能力も、普通の五歳児よりは遥かに高い……と思う。
だからといって、自分が強いとは思っていない。
村を襲っていた、あのサイクロプスのような化け物を見てしまったせいだ。
この世界には、私なんかではどうしようもない化け物が普通に存在する。
それを知ってしまった。
だから、本当なら。
「……見なかったことにしようかな」
そう呟きかける。
関わらないほうがいい。相手は知らない人間だ。助けに行く義理なんてない。
自分だって、ようやく数日間を生き延びられるようになっただけ。
わざわざ危険に飛び込む必要なんて――。
私は拳を握った。
でも。もし、本当に人間が襲われているのなら。
見捨てるのは、ちょっと嫌だった。
元々、私はそんなに強い人間ではない。
臆病だし、面倒なことにはなるべく関わりたくない。
損得だけで人付き合いをしていたように思われるかもしれない。
実際、媚びを売ることについては人一倍計算高かった。
しかし、困っている人を見て、何もしないでいるのも嫌だった。
私にも、一応人並みの正義感はあった。
助けられる人が目の前にいて、その可能性があるなら。
「……助けてあげたいな」
小さく呟く。
そしてすぐに別の考えが頭に浮かんだ。
「あ、あと、恩も売れるかもしれないし」
うん。大事だ。非常に大事。
もしこの世界に人間が普通に暮らしているのなら、その人と仲良くなれれば、私の今後の生活もかなり楽になる、と思う。
衣食住。そして、この世界についての情報。
何より、
「人間の街に連れて行ってもらえるかもしれない!」
それは魅力的だった。
そう考えると、少しだけ勇気が湧いてくる。
もちろん、怖いものは怖い。
しかし、
「よ、よし」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「まずは確認してみよう」
助けに行くかどうかは、それから考えればいい。
相手が私でも勝てそうな程度の魔物なら助ける。
無理そうなら逃げる。
うん、完璧な作戦だ。やはり私は天才。
私は音を殺して、洞穴から這い出した。
地面に手をつく。そして身体を低くする。
最近、この姿勢にも慣れてきた。
四つん這いに近い姿勢で草むらへ入り、耳を立てる。
たぶん、近い。
足音がはっきり聞こえる。
私は慎重に草をかき分けながら進んだ。
一歩。また一歩。
なるべく音を立てないように。
やがて、木々の隙間から向こう側の様子が見えてきた。
(どこだ?)
いた。まず、二足歩行の存在。
「……あっ」
思わず声が漏れそうになる。
人間だ。本当に人間だった。
軽装の男。年齢は顔が見えないからよく分からない。
でも、腰には鞘のようなものを携えている。
……剣。
本物の剣だ。
それを見ただけで、なぜだか少しだけ安心する。
この世界で人間が普通に剣を持っているなら、少なくとも私が暮らしている世界とは完全に別物らしい。
私は日本でロリになりサバイバル生活をしているわけではなかった。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。
「…………」
男は動かない。
いや正確には、動けないのかもしれない。
その場に立ったまま、こちらに背を向けている。
剣にも手をかけていない。
そして男の前には――。
(なんだ、あれ。気持ち悪っ!)
四足歩行の魔物らしき生き物が、数匹。
見た瞬間、私は素直に嫌悪感を抱く。
私が知っている犬よりも一回り、いや二回りほど大きい。
身体つきは犬に近い。
だが、口が異様に大きい。
牙が剥き出しになっている。
目は血走っていて、完全にイッている。薬物中毒者みたいな目をしている。
しかも、
(よだれ垂れてる…)
口元から、だらだらと涎を垂らしている。
明らかに興奮している。
今にも男へ飛びかかろうとしていた。
私は息を呑んだ。
数は――三匹。
男一人に対して、魔物が三匹。
しかも、男は武器を抜いていない。
(……え?)
おかしくない?
私は思わず首を傾げた。
普通こういうときって剣を抜くんじゃないの?
明らかに目がキマってる魔物が目の前にいるんだよ?
それなのに、男は何もしない。剣に手すら伸ばさない。
ただ、そこに立っているだけ。
「…………」
私はしばらく様子を見た。
男は動かない。
魔物たちは唸っている。
一匹が、じりじりと距離を詰めている
男はそれでも動かない。
さらに一歩。
男は動かない。
魔物が姿勢を低くする。
最近、自分もよくする姿勢。相手に襲いかかる直前の姿勢だ。
それでも。
男は――。
(……え?)
なぜだか動かない。
(は?)
私は思わず素っ頓狂な声を漏らしそうになった。
いやいやいや。何してるの、この人。
その剣は?
逃げないの?
戦わないの?
(……まさか)
私は男の方を見た。相変わらず表情は見えない。
だが、この状況で何もしないということは――。
(この人、自殺志願者なの?)
いや、違う。そんなわけがない。
…たぶん。
でも、このままだと本当に死ぬ。
魔物が身体を沈めた。
次の瞬間。
「――っ!」
飛びかかる。
「!」
なりふりなんて、構っていられなかった。
私は反射的に地面を蹴った。
「だ、大丈夫ですかっ!」
サッと、爪をむき出しにする。
身体が勝手に動いた。
草むらから飛び出す。
「助けにきまし――」
その瞬間だった。
世界が止まったように感じた。
男が動いた。
いや、動いたように見えた。
次の瞬間、魔物の首が綺麗に宙を舞った。
「…………え?」
どさり。
少し遅れて、魔物の身体が地面へ崩れ落ち、血が噴き出す。
私の目の前を、赤い飛沫が横切った。
残り2匹の魔物が、ようやく事態を理解したように唸り声を上げる。
男はいつの間にか剣を抜いていた。
その切っ先から、血が一滴。
ぽたりと地面へ落ちる。
私は固まった。
さっきまで、「助けなきゃ!」なんて思っていた。
この程度の魔物なら、自分でも何とかできるかもしれない。
最近ちょっと強くなった気がするし、頑張れば勝てるかもしれない。
そう思っていた。
――違った。
全然違った。
私が助ける側だと思っていた男は。
私が見たこともないほど、圧倒的な強者だった。
そのまま流れるように残りの2匹にも剣を振る。
そして、その男が。
ゆっくりとこちらを振り返る。
鋭い視線が、私を射抜いた。
背筋が凍った。
耳がぺたりと伏せる。
尻尾が勝手に身体へ巻き付く。
オオカミとしての本能が、頭の中で絶叫していた。
―逃げろ。
―逆らうな。
―絶対に、この男を敵に回すな。
そして。
男の剣先が、ゆっくりと私へ向けられる。
「■■、■■?」
冷たい声だった。
――こうして私は。
この世界で初めて出会った人間に。
人生で一番必死な「媚び」を売ることになる。