「それにしても、あなたは随分多くの人間と関わっていたのね」
コンクリートの継ぎ目から水滴が滴る。ツンとした刺激臭もとうの昔に慣れた頃、朦朧とした意識の中で雨宮は目の前の女性——新島冴を見据えた。
その制服は乱れ、頬には赤黒い腫れが残り、切れた口元には乾きかけた血がこびりついている。伏せた手にも細かな傷があり、机の脇には注射器が乱暴に転がっていた。
坂本竜司、高巻杏、喜多川祐介。
鴨志田卓から斑目一流斎へと時間を遡りながら、新島は怪盗団がどう形作られていったのかを一つずつ聞き出している。しかし、事前調査に余念はないが、イマイチ明確な証拠を掴むには至らない。
雨宮もまた、質問そのものには答えるものの、仲間の立場が明確になるところまで来ると途端に言葉を濁す。公安から自白剤を打たれ、身体を痛めつけられ、それでも彼の目は一向に死んでいない。
高校生離れしたその精神力に舌を巻きながらも、新島は端末の情報を流しみた。
公安から僅かな時間しか与えられず、今の彼女には感心している時間も余裕もない。焦りは冷静な新島の言葉尻に強く残った。
「学校の人間だけじゃない。医者、棋士、記者……他にもいるでしょう。学校へ通いながら怪盗団として動いて、その上でこれだけの人間と関係を作っていた」
伏せ気味だった雨宮の目が僅かに上がる。
「昼間は学校。放課後は怪盗団として動いて、夜になれば協力者と会う。それを何か月も続けていたなんて……ありえないわ」
「……そうか?」
「そうでしょう。普通に考えれば、一日何時間あっても足りないものよ。余程、要領が良かったみたいね」
雨宮はまた目を伏せた。突然、気の抜けるような質問をされ、これまでの出来事を振り返る。
思い返してみれば、保護観察処分を受け、佐倉惣治郎にお世話になる前、一日にいくつもの予定を入れることなど考えもしなかった。怪盗団を結成してからは、学生との二足のわらじの生活に、それなりに忙しく動き回っていた。
その生活の基盤となったきっかけの男なら一人、雨宮の脳裏にその面影が写る。
「先を見据えた時間の使い方や予定の組み方。最初から全部、自分で身につけていたとは思えないわ。そういう処世術を、かなり具体的に教えた人間がいたんじゃないかしら。例えば――神代零司」
揺らぐ視界の中、新島と目が合う。彼女はわずかに唇を震わせながら言葉を続けた。
「秀尽学園二年。あなたと同学年。編入した6月から金城潤矢の事件を境に、あなたたちとの接点が急に増えている。彼も、怪盗団の一員?」
「さぁな」
「否定はしないのね」
それ以上、雨宮は一言も付け加えなかった。神代だからといって態度を変えれば、怪盗団にとって不利益な情報になりうる。新島もそれは分かっていたため、同じ問いは重ねず、端末へ視線を落とした。
「その神代零司も、随分忙しい生活をしていたそうね。学校の外で、いくつも仕事を掛け持ちしていた」
「バイト戦士だからな」
あまりにも場違いな単語に、新島の眉が僅かに寄った。
誰がそう呼び始めたのかはもう覚えていない。三島だったか、高巻だったか。思い返してみれば、神代自身も訂正するほど嫌がってはいなかったように思う。
「ふざけるのも大概にしなさい。続けるわ……金城の一件から、神代君とあなたたちとの接点は増えている。私たちは怪盗団の一員であると見ているわ。彼はどんな目的でどのように接してきた? 彼について洗いざらい吐きなさい」
「知らないな」
「雨宮君」
「答えない」
「……いい加減にして。神代君について、知っていることを話しなさい!」
押し殺していたはずの声が、新島自身でも分かるほど強くなった。
雨宮がゆっくりと顔を上げる。薬のせいで重そうだった目が、今度はまっすぐ新島を捉えた。その視線を受けた瞬間、新島は初めて、自分がそれまでとは違う反応を見せていたことに気づいた。
「……随分必死だな」
「何ですって?」
短い言葉だったが、正確だった。坂本や高巻の名前を出した時、新島はここまで感情を露わにしていない。
「今は私が質問しているのよ」
「そうだな」
雨宮はそれ以上続けなかった。ただ、新島から目を逸らさない。薄暗い室内で、簡素な机を挟んだ二人の間だけに蛍光灯の白い光が落ちている。厚い扉の向こうから、何か金属の擦れる音が微かに聞こえ、すぐに消えた。
「神代と知り合いか?」
新島の指が、端末の縁で止まった。
「……あなたに関係のないことよ」
「そうかもな。だけど神代の話だけ、まるで反応が違う」
雨宮はそれだけ言うと、再び椅子へ身体を預けた。問い詰めることも、推測を並べることもしない。説明するなら勝手にすればいい。そういう態度だった。
新島は数秒黙った。このまま押し通しても、雨宮は話さない。自分が神代について何かを隠していると気づかれた以上、曖昧なまま尋問を続ければ、かえって警戒を強めるだけだった。
「……ええ。知っているわ。ただし、私が神代君と関わるようになったのは、あなたより後よ」
雨宮は何も返さなかった。
「精神暴走事件と怪盗団の関係を私が本格的に調べていた頃、神代君はあくまで裏方だけど、捜査に協力するようになった。頭の回転も速かったし、怪盗団の正体や精神力暴行事件を追っているという面では、十分な協力関係があった」
雨宮は黙ったまま聞いていた。表情はほとんど動かないが、それが初めて聞く話であることだけは、新島にも何となく分かった。
自分たちと過ごしていた神代が、別の場所では新島や明智と並び、怪盗団を追っていた。その事実をどう受け止めたのか、雨宮の心理までは読めていない。
「私は、彼を怪盗団を追う側の人間だと思っていた。少なくとも、そう信じていたわ」
新島はいざ言葉にしてみると、その頃の神代の姿が妙にはっきり蘇る。
端末の画面を覗き込みながら事件の日付を並べ替えていた横顔。のらりくらりと腹の底が見えない明智とは違い、どこか確信めいた発言が目立った少年に、新島は密かに頼りにしていた。
「でも、あなたたちの行動を後から洗い直していくと、時系列が合わなくなった。私に捜査協力を始めた頃には、神代君は既にあなたたちと深く関わっていた可能性が高い」
新島は再び端末を開き、画面に並ぶ記録を指先で送った。
「もし最初から怪盗団側の人間だったなら、私や明智君へ近づいた目的は? 怪盗団として警察側のモニターをしていたという考え方もあったけど、それにしては危険が大きすぎる。ただ情報が欲しいだけなら、もっと安全な方法はいくらでもあったはずよ」
蛍光灯が小さく唸る。新島は一度だけ端末の時刻へ目をやった。時間は減り続けているが、ここを飛ばすことは出来なかった。
「それに、神代君は怪盗団が世間に知られるより前から、精神暴走事件そのものには関心があるようだった。怪盗団のために警察側へ入り込んだ、と考えるには始まりが早すぎる」
「何が言いたい」
「神代君が警察側なのか、怪盗団側なのか。そのどちらかに当てはめようとすること自体が間違っている——その第三者組織に神代は関係していると私は見ている」
雨宮は黙って続きを待っている。
そこまで言うと、新島は僅かに唇を結んだ。論理としては通る。だからこそ、その先へ進みたくなかった。
「改めて、神代君自身の経歴も調べ直した。前籍校、編入手続き、住所、保護者、成績。必要なものは全部揃っていたし、照会を掛ければなんともない回答が返ってくる。書類だけ見れば、何も問題はなかった……不思議なくらいにね」
少し間を置いて、新島は続けた。
雨宮の頭の中に、神代の姿が浮かんだ。聞けば答える。だが、自分から多くは語らない。それを不自然だと思ったことはなかった。
「そこで、一度だけ別の可能性を疑った」
新島は顔を上げた。
「——別班」
「何だ、それ」
雨宮の反応は素直だった。
「自衛隊直轄の非公認組織。表向きには存在しない極秘の諜報組織――あくまで噂だけど、そういうものがあると言われているわ。私自身、その実態を確認出来ているわけじゃない」
雨宮は何も言わない。
「もし本当にそういう組織があって、神代君がそこから精神暴走事件を追っていたのなら、行動の筋は通る。怪盗団が現れたから中へ入り、仲間として行動しながら監視する。その一方で、私や明智君にも近づいて、警察側がどこまで掴んでいるかを見る。どちらかへ寝返ったのではなく、最初から“どちらも調査対象”だった」
新島はそこで一度言葉を止める。
「神代君は怪盗団ないしは、警察の両者に入り込んで精神暴走事件を追っていた可能性がある」
その仮説を口にした瞬間、新島の表情が僅かに曇った。
雨宮はそれを見ていた。
別班という名前自体は初耳だった。それでも、一度その言葉と神代を結びつけると、意味を持たずに残っていた記憶がいくつか浮かび上がる。
「私は、一度その可能性を疑った。神代君本人にも訊いたわ。否定されて信じ込んだ……いや、信じたかった、の方が正しいかもしれない」
地下の取調室は静かだった。空調の低い音だけが、途切れることなく続いている。
「別班なんて都市伝説的なものより、目の前で何度も一緒に捜査した神代君の方が、ずっと確かなものだった。真面目で、優秀で、怪盗団の危険性を本気で考えているように見えた。そんな人間が、自分自身も怪盗団の中にいて、その上さらに別の組織から私たちまで見ているなんて……私は、そう考えたくなかった」
指先が端末の縁に触れたまま止まる。
「別班という名前は、本当に初めて聞いたようね」
「……ああ」
「何か思い当たることは?」
雨宮は新島を見る。意識は重く、視界の端は少し暗い。それでも答えだけは変わらなかった。
「話す気はない」
「ここまで聞いても?」
「それとこれとは別だ」
短く、それだけ言った。神代が何者だったとしても、自分が知っていることを新島へ渡す理由にはならない。
新島もしばらく雨宮を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
今は時間がない。
「分かった。なら、彼があなたたちと関わり始めた経緯だけ聞かせて。事実だけでいいわ」
雨宮はすぐには答えなかった。何を話し、何を話さないか。朦朧とする頭の中で、もう一度線を引く。
「……話せるところだけだ」
「今はそれでいい」
雨宮はゆっくりと目を閉じた。蛍光灯の白い光が、瞼の裏で薄れていく。
代わりに浮かんだのは、初夏へ向かう秀尽学園の教室だった。斑目一流斎の改心が連日報じられ、怪盗団という言葉が、それまで以上に校内のあちこちで囁かれていた頃——その男は現れた。
「……転校してきたのは、斑目の事件が終わった後だ。金城の件が始まる少し前。その日、新島先輩が校門で先に会って、職員室まで案内したらしい」
新島の目が僅かに動いた。
「真が?」
「ああ」
雨宮はそれ以上説明しなかった。記憶の中で、朝の教室が少しずつ形を取り戻していく。窓から差し込む光。黒板に薄く残った前日の文字。予鈴を過ぎてもまだ完全には静まっていない教室。そして、前方の扉が開く。
「その後、川上先生に連れられて教室へ入ってきた。神代零司。あの時はまだ、ただの転校生だと思ってた」
新品の制服に、教室中から集まる視線。その中央を、必要以上に緊張するでもなく、妙に堂々とするでもなく歩いてきた転校生を思い出しながら、雨宮はそこで一度言葉を切った。
どこまで話すかは、自分で決める。
その線だけは、意識が遠のきかけた今も崩していなかった。
————————
「ねぇ、斑目のニュース見た?」
「あぁ。しかも個展中にあったらしいぜ、予告状」
「怪盗団かぁ……本当にいるのかな?」
始業前の教室では、そんな話がそこかしこから聞こえていた。斑目一流斎が自らの罪を告白して以来、テレビもネットも連日その話題でもちきりだった。
つい少し前までは、鴨志田卓の事件と結びつけて一部で囁かれていた程度の『心の怪盗団』という名前も、今では誰もが知る言葉になりつつある。
教室のあちこちでは怪盗団の正体や次の標的を勝手に推測する声が飛び交っていた。
その怪盗団のリーダーでもある雨宮は自分の席に座ったまま、スマートフォンへ視線を落としていた。周囲の会話へ加わることはない。ただ、意識を向けなくとも、自分たちについて話す声は嫌でも耳に入ってくる。
机の脇に置いた鞄が、ほんの僅かに動いた。
「早速噂になってるな、斑目の事件……いよいよ怪盗団の話題も広まってきたな」
中から聞こえたモルガナの声は、周囲には届かないほど小さい。
「あぁ」
雨宮も前を向いたまま、短く返した。
鴨志田の時とは明らかに違う。怪盗団という存在そのものが世間に認識され、期待と好奇の目を集め始めている。喜ぶべきことなのか、それとも警戒すべきなのか。少なくとも、これまでと同じように動いていればいい状況ではなくなりつつあった。
その時、教室の前方の扉が開いた。
「はい、そろそろ席について。今日は転校生を紹介するから」
川上の声に、散らばっていた話し声が少しずつ収まっていく。転校生という単語に反応して、まだ席へ戻りきっていなかった生徒まで前方へ顔を向けた。
川上が廊下へ顔を向け、「入って」と声を掛ける。一拍遅れて、男子生徒が教室へ足を踏み入れた。
男子生徒は緊張する様子もなく、ゆっくりとした足取りで歩く。雨宮は意味もなく、その少年の足取りに目を引かれた。
「神代零司君。今日からこのクラスになるから、みんな仲良くするように。神代君も、簡単に自己紹介お願い」
「はい」
神代は教室を一度見渡し、軽く頭を下げた。
「神代零司です。家庭の都合で転校してきました。まだ分からないことも多いので、迷惑を掛けることもあると思いますが、よろしくお願いします」
自己紹介は実に端的だった。必要最低限の言葉だけを並べると、川上は端の空いた席を指さす。川上に示された席へ向かう途中、一度だけ雨宮と目が合った。
神代がほんの僅かに会釈をする。
雨宮も反射的に返した。
ホームルームが終われば、珍しい転校生の周りへ人が集まるまで時間は掛からなかった。
同じ学年に転校生が来ること自体が珍しい上、春には雨宮が来たばかりである。前の学校はどこだったのか、部活は何をやるつもりなのか、東京には慣れているのか。次々と飛んでくる質問にも、神代は面倒そうな顔をせず、時折笑いながら一つずつ答えていた。
「部活はまだ決めてない……かな。あぁ、でもあまり入る気はないよ。バイトもあるし」
「もうバイトしてんの?」
「前からやってるのがいくつかあるからね」
「運動とかは? 何かやってた?」
「色々、少しだけ」
「色々って?」
「本当に色々。話すと長くなるし、大した話でもないから、そのうち機会があったら」
曖昧な返事ではあったが、不思議と拒まれた感じはしなかった。神代自身も話題を隠そうとしているというより、自分から積極的に広げるほどのことでもないと思っているようだった。
質問した生徒もすぐ別の話へ移り、会話は途切れることなく続いていく。
「俺、三島。三島由輝。分かんないことあったら聞いてよ。学校のことなら、多分それなりに分かるから」
「ありがとう、三島君。多分それなりに、色々聞くと思うからよろしく」
朝はそれだけのやり取りだった。
ところが昼休み、廊下ですれ違った神代は迷うことなく三島の名前を呼んだ。
「三島君、ちょっといい? 購買ってこの先で合ってる?」
「え、もう名前覚えたの?」
「そりゃあ、朝に名乗ってくれたし。それに、最初に話した人の名前くらい覚えておかないと、次に会った時ちょっと気まずいでしょ」
「気まずいって……いや嬉しいけどさっ!」
自分の名前を覚えられていたのが少し嬉しかったらしく、三島は購買の場所だけではなく、昼休みの何分頃から混み始めるか、食堂なら何が無難か、その日のパンが売り切れる時間まで話し始めた。
神代は途中で遮ることなく聞き、説明が一段落してから必要なところだけを確認する。
「じゃあ、購買なら昼休み入ってすぐ行った方がいいんだな。食堂は逆に少しずらした方が空いてる?」
「そうそう。焼きそばパンとか、人気あるやつ狙うなら購買は早め。食堂はちょっと遅らせた方がいいと思う」
「分かった。助かるよ」
翌日、昼休みのチャイムが鳴ると同時に神代が購買へ向かっていったのを見て、三島は少し得意そうな顔をしていた。
高巻と話すようになったのも、特別なきっかけがあったわけではなかった。
「神代君、それって先生に出す書類じゃない?」
放課後、机の上に広げた紙を前に神代が首を傾げているところへ、高巻が通りがかりに声を掛けた。
「これ? 提出するのは分かるんだけど、どこに持っていけばいいのか聞きそびれた」
「ああ、それなら職員室。私も今から行くから、一緒に持ってく?」
「そしたらお願いしようかな。助かるよ。ありがとう、高巻さん」
「杏でいいよ。同じクラスだし、毎回高巻さんって呼ばれるとちょっと堅いし」
「じゃあ、杏さん」
「いや、絶妙に距離の感じる言い方ね」
「難しいな……」
神妙な表情で答える神代を見て、高巻が吹き出した。
二人で職員室へ向かうのを見ながら、三島が「馴染むの早いな、これが陽キャか……」と小さく呟いた。
もっとも、神代自身が積極的に人の輪へ入っているようには見えなかった。誰かを探してまで話しかけることは少なく、休み時間を一人で過ごしていても特に気にしていない。
それでも、前日に三島が話していたことを覚えていたり、高巻に提出先を教えてもらえば翌日に礼を言ったりする。何気なく交わした会話を雑に流さず、次に顔を合わせた時まで覚えている。
それだけで、最初は転校生を珍しがっていた生徒たちも、何日もしないうちに特別な理由もなく神代へ声を掛けるようになっていた。
雨宮自信が初めてまともに話したのは、移動教室のある日の昼休みだった。
廊下の壁に貼られた校内案内の前で、神代が足を止めている。視聴覚室の場所を探しているらしく、案内図と廊下の先を交互に見ていた。
三島は少し前に友人へ呼ばれ、高巻も別の女子生徒と話しながら先に階段を上がっている。
この場で彼が転校生ということを知っているのは自分しかいない。
「視聴覚室なら、こっち」
通りがかった雨宮が声を掛けると、神代が案内図から顔を上げた。
「雨宮君」
「名前、覚えてたんだ」
「同じクラスだからね。それに、雨宮君も今年の春に転校してきたって三島から聞いた」
神代は案内図の前を離れ、そのまま雨宮と同じ方向へ歩き出す。
「じゃあ、転校生としては先輩か」
「何だよ、それ」
「学校に馴染むコツとか知ってるかと思って」
冗談半分のつもりだったのだろう。神代の口調は軽かったが、雨宮は少し考える間もなく答えた。
「俺に聞くのは間違ってる」
「そんなに……? 学生デビュー失敗したとか?」
「そんな感じだ。多分、この学校で一番参考にならない」
同情するべきなのか、それとも触れない方がいいのか迷ったらしい。少し気まずい雰囲気になりながら、やがて小さく頷く。
「えぇ……まぁ反面教師としては使えるか」
「おい」
即座に返ってきた雨宮の声に、神代が堪えきれず笑った。少し前までほとんどまともに話したことのなかった二人だったが、少なくとも必要以上に気を遣う相手ではなさそうだ、と印象に残った。
「三島に聞けばいい。あいつなら色々知ってる」
「もうかなり教えてもらった。購買の混む時間から、食堂で何頼めば外さないかまで」
「なら十分だろ」
「そうかも」
会話が途切れても、神代は気まずそうに次の話題を探そうとはしなかった。無理に沈黙を埋めようとしないところは、雨宮にとっても楽だった。二人はそのまま廊下を進み、階段へ差しかかったところで、神代のポケットから短い振動音が鳴った。
神代がスマートフォンを取り出し、画面を開く。
『零司、視聴覚室なら次の階段を――』
明るい少女の声が、人気の少ない廊下へ一瞬だけ響いた。
神代がすぐに画面へ触れる。
「……今の何?」
「お、音声アシスタント」
「随分喋るんだな」
「最近ちょっと勝手に喋るようになってね」
「それ、アシスタントとして大丈夫か?」
「僕もそう思う。まぁ設定も変えられないから諦めてるよ」
何でもないようにスマートフォンをポケットへ戻した直後、端末がもう一度だけ短く震えた。雨宮からは見えなかった画面には、『すまない』とだけ表示されていた。
それから数日が経っても、急に雨宮と神代が親しくなったわけではない。三島と神代が話しているところへ雨宮が混ざることもあれば、雨宮と三島の会話へ神代が加わることもある。
そのいずれも、後になれば何を話したのか思い出せない程度のものばかりだった。
ただ、その程度の会話を重ねているうちに、神代が同じ場所にいること自体には誰も違和感を覚えなくなっていた。
放課後になると、神代は決まって帰りが早かった。
終礼が終われば教科書を鞄へ収め、時計を一度確かめる。教室で長く話し込むことはほとんどなく、誰かに呼び止められても少し立ち話をすればそのまま帰っていく。
「神代、今日ももう帰るの?」
鞄を肩へ掛けたところで、三島が声を掛けた。
「うん。今日はちょっと予定あるから」
「神代っていつも帰り早くない?」
「そう?」
「早いって。終礼終わったら大体すぐいなくなるじゃん」
「まあ、放課後は基本バイトあるし」
「バイトって、何やってるの?」
「色々やってるよ。牛丼チェーン店とか、病院のお手伝いとか、テレビスタッフの派遣とか」
三島の目が丸くなる。
「え、一人でそんなにやってるの!? それ普通に大変じゃない?」
「基本金欠だからね。それに、意外とやってみると慣れるもんだよ」
「いや、慣れる量か、それ……」
神代は何気なく時計を確認し、そこで初めて表情を変えた。
「あ、まずい。もうこんな時間だ。みんな、また明日!」
「え、ちょ、神代――」
三島が呼び止めるより早く、神代は鞄を持って教室を出ていった。
「あっ、行っちゃった……」
開いたままの扉を見ながら、三島が呆れたように呟く。
「神代って、あれだな……バイト戦士ってやつか」
雨宮の鞄が僅かに動き、中からモルガナが顔だけを覗かせた。
「あいつ、神代って言ったか……スゲーな。あの処世術、教わったら日々の活動に活かせるんじゃないか?」
「そうだな。そのうち聞いてみるか」
雨宮は神代が出ていった扉を一度だけ見た。学校が終われば別の場所へ行き、そこでまた違う仕事をしている。どれほど忙しい生活をしているのかまでは分からないが、この時の雨宮にとっては、要領がよくて予定の多い転校生という程度の認識だった。
翌日の放課後、雨宮が自分の席でスマートフォンを確認していると、提出物を手にした神代が机の横までやってきた。
「雨宮君、この課題出すのって明日で合ってる?」
「多分な」
「多分?」
「そもそも忘れてた」
「……参考にならない先輩だな」
「だから言っただろ」
神代が笑ったところで、後ろから別の男子生徒に呼ばれた。
「神代、ちょっといい?」
「ん?」
神代が振り返る。
雨宮は特に気に留めることもなく、鞄を持って先に教室を出た。
廊下へ出て数歩進んだところで、背後から自分の名字が聞こえた。
「あんまり雨宮とは話さない方がいいんじゃない?」
雨宮は歩みを止めなかった。聞くつもりもなかったが、自分の名前が出れば、どうしても声は耳へ入る。
「どうして?」
「知らないの? あいつ、前の学校で傷害事件起こしてるって。結構ヤバいらしいよ」
返事までに、ほんの少しだけ間があった。
「そうなんだ。転校してきた理由に何かあるって話は聞いてたけど、それは知らなかった」
「だったら、あんまり近づかない方がいいって。何するか分かんないじゃん」
「でも、良い人だと思うけどな」
「いや、だから傷害事件――」
「噂があるのは分かったよ。でも、道分からない時は普通に教えてくれたし、話してても別に怖くない。僕は実際に何かされたわけでもないから、それだけで距離取るのも違うかなって思う」
声を荒らげることもなく、相手の話を否定するような調子でもなかった。ただ、聞いた話と自分で見たものを、その場で一緒にはしない。それだけははっきりしていた。
「まあ……一応気をつけろよ」
「うん。教えてくれてありがとう」
それきり会話は別の話題へ移った。
雨宮も振り返らず、そのまま階段を下りた。
似たようなことを言われるのは、今に始まったことではない。廊下ですれ違っただけで視線を逸らされることもあれば、本人の耳に入る距離で噂を口にする生徒もいる。もう気にしていないつもりだった。
それでも、さっきの神代の言葉だけは、妙に耳に残った。
その日の帰り、駅へ向かって歩いていると、後ろから名字を呼ばれた。
「雨宮君」
振り返れば、神代が少しだけ歩調を速めて追いついてくるところだった。
「帰り?」
「見れば分かるだろ」
「それもそうか」
神代はそのまま雨宮の隣へ並んだ。
「駅まで一緒でいい?」
「聞かなくても、もう歩いてるだろ」
「確かに」
短い応酬のあと、二人は並んで歩き出した。夕方の通学路には同じ制服の生徒が何人もいて、部活動へ向かう者もいれば、そのまま駅へ急ぐ者もいる。少し先では自転車のベルが鳴り、交差点を渡る人の流れが信号に合わせて動いていた。
雨宮が横目で神代を見る。
「今日は早く帰らなくていいのか」
「今日はまだ余裕ある。いつもより予定が遅いから」
「やっぱり毎日何かあるんだな」
「毎日じゃないよ。放課後は大体何か入ってるけど」
矛盾しているような返事に、雨宮が少し笑う。神代も気づいたらしく、つられるように口元を緩めた。
「もう道は覚えたのか?」
「さすがに覚えたよ。駅までなら迷わない」
「じゃあ何で一緒に来た」
神代は少しだけ考えてから答えた。
「一人で帰るより、話せる人がいた方がいいかなと思っただけ。雨宮君とは学校でも二人で話すこと少ないし」
「……そう」
「嫌だった?」
「別に」
「なら良かった」
それきり、しばらく会話はなかった。
神代は沈黙を埋めるために何かを話そうとはせず、雨宮も話題を探さない。それでも居心地の悪さはなかった。駅へ近づくほど人通りが増え、通学路の静かな足音は車の音や駅前のざわめきに紛れていく。
「あ、まず、先に買い出しあるんだった……僕こっちだから。また明日」
改札へ向かいかけていた神代が、ふと思い出したように足を止めた。スマートフォンで時刻を確かめると、先ほどまでより少しだけ歩調を速める。
「ああ。また明日」
雨宮が返すと、神代は軽く手を上げ、そのまま駅前の人波へ紛れていった。
雨宮も反対側の改札へ向かおうとする。
この頃の神代は、少し物覚えがよく、妙に予定の多い転校生でしかなかった。何を聞かれても必要なだけ答え、誰と話しても無理に距離を詰めず、それでも気づけば同じ輪の中にいる。放課後になれば教室を早々に出て、翌朝には何事もなかったようにまた席へ座っている。
少なくとも、雨宮にはそう見えていた。
『おい、あいつ何か落として行ったぞ』
鞄の中からモルガナの声がした。
雨宮が振り返ると、先ほどまで神代が立っていた場所の脇に、小さな黒いケースが落ちていた。人に踏まれる前に拾い上げると、落ちた拍子に口が開いたのか、中から折り畳まれた紙が少しだけ覗いている。
雨宮は一度、神代が消えていった方向を見る。
すでにその姿は人混みの中へ消えていた。
ケースを閉じようとしたところで、覗いていた紙の端に印刷された文字が目に入る。
「……武見内科医院」
『武見?』
モルガナが鞄の中で反応する。
紙には医院名とともに、いくつかの品名が書かれていた。詳しく読むつもりはなかったが、少なくとも神代個人の買い物ではなさそうだった。
雨宮は、以前神代が話していたバイト先ことを思い出す。牛丼チェーン店。病院の手伝い。テレビスタッフ——そのうちの「病院」が、武見の医院だったらしい。
『おいこれ、あの医者のとこ届けに行ったら、アイツいるんじゃないか?』
雨宮は手の中のケースを見る。
「……かもな」
神代は先ほど、買い出しがあると言っていた。紙の内容を見る限り、そのまま医院へ向かう可能性は高い。
追いかけても、もう見つけるのは難しいだろう。
雨宮はケースを鞄へしまい、向かおうとしていた方向から足を変えた。
「行くか」
放課後の神代がどこで何をしているのか、これまで特に気にしたことはなかった。ただ、落とし物を返しに行くだけ。
雨宮はそのまま、武見内科医院へ向かった。