取り落したレジ袋を拾おうとしたときに、上手く掴めなかった。身体全部が痛い。指元がおぼつかない。
上手く掴めなかった理由として、いろんなことが頭をよぎる。
それでも、最終的にはそれは家に帰りたくないと、そういう事なのだろうと頭のどこかで悟った。
私が帰宅するのは十時も半ばを過ぎるころ。
家に帰って、食事をして、いつもと同じように床に就く。そうすると、朝が来る。
私には、朝が来ることよりも、会社に出勤することよりも、それを行うための家というものに帰ることが嫌だった。
会社に行くことが怖い。上司に怒られるのが怖い。職場に行こうとする足はそれでも動く。
私が恐れているものは仕事であることに確かに間違いはなかった。
しかし私は何よりも、日常のルーティンの中で、それに絡みつくようにあるものが人間的な文明の生活であるという事に心の底から嫌気がさしていたのだ。
私の職場から駐車場までは田舎道を通っていかなければならない。
急な雨に降られ、木の隙間から落ちてくる雨粒を浴びつつ水田を横にして歩いていた。
雨の匂いがする。
コンクリートに落ちた水が気化して、それの匂いが伝わってきているのだろうか。
私は、雨の日特有の匂いは嫌いではなかった。
私の服と対照的な色の白い袋は泥と水にまみれ、役割を果たしているかは怪しい。
袋を拾えぬままに、手がぶるぶると震える。
伸ばした指先まで涙が伝い落ちるような気がした。
甲高い踏切の警報音が鳴り響く。
赤い光が点滅して、遮断桿が下りてくる。
いつもこの踏切は私の帰るタイミングで閉まる。
早く帰りたい。泥のように眠ってしまいたい。二度と起きたくない。
そういう思いのまま、私は毎回この踏切の前で立ち止まっている。
緑色をした電車が踏切を通り過ぎる。
電車には誰も乗っていなかった。
ようやく袋をつかみ取り、濡れたものを掴む不快な感触が手を満たす。
帰ろう。そう思って道に向き直る。
道の先には黒い犬が一匹ほど歩いていた。
私の進行方向を先に進むように、悠々と。
いつからいたのだろう。
それに、あの速度で歩いていたら私を追い越していても不思議ではないはずだ。
この付近に脇道はなく、この先の道に行くにはこの踏切を通り過ぎるほかない。
あの犬は警報音を鳴らす遮断機を通りすぎていったのだろうかと思い立つ。
あれには明日などない。
今を生きているのみだった。
きっとゴミ漁りなどをして暮らしている。
普段私が侮蔑するホームレスと何が違うのだろうか。
スマホの通知が振動を私に伝えてくる。
何の連絡だろう。
職場かもしれない。
私はこれを見ない。
あれには予定などない。
きっと自由気ままに生きている。
責任もない。
するべきことなどない。生きるということのために生きている。
私にはなにがあるのだろうか。
仕事を辞めてみる?
以前知人から言われた言葉が頭をよぎる。
それは簡単なことではない。
今の職を辞して、次の仕事はいつ見つけられる?
次の職を見つけるまで私はどう生きていけばいい?
失業保険の手続きや、転職に割けるほどの労力は残っていない。
日々を生きて、ただ仕事をこなす以外に私に何かが出来ると思うほど、自分を高く見積もることなど出来ない。
思考をやめ、帰途へ着く。
帰って、何をしようか。
決まっている。食事をし、泥濘のように眠りに着き、そして、そして……
また、出勤する。
それだけだ。
それしか私にはなく、故に私は歩き出すだけだった。
また、この踏切だ。
今日は雨が降っていなかった。
仕事の内容には何も変わりはなく、それだけだった。
新卒で勤めたこの会社。
一年も経っていないけれど、これが働くということなのだろうか?
なら、私は社会に迎合できないかもしれない。
ぼんやりと踏切を見てそういうことを思う。
じっと見ているうちに警報音とともに遮断機が下りてきた。
しかし私は、なぜこの踏切の前で止まってしまうのだろうか。
今日は普通に通り過ぎることもできた。
会社に勤めて三か月も過ぎたころから、なぜかこの時刻の電車が通り過ぎないとこの踏切を渡れなくなってしまった。
遮断機が落ちた踏切を、黒い犬が通り過ぎていく。轢かれてしまうのかと思った。
悠々と犬は踏切を通り過ぎる。
向こう側へと通り過ぎた後、電車が通過していった。
緑色をした電車には、誰も乗っていなかった。
私には、とても羨ましかった。
この、踏切というもの、人間的な文明社会の規則から、あの犬は逃れられている。
それに縛られるというようなものがない。
そんなものがあるということさえ理解していないのだろう。
私は、遮断機が上がった踏み切りを渡る。
動物になりたいと思った。
規範を捨て、文明を捨て、何に縛られるものもなく、目的のないまま生きる動物に。
家へと向かって歩き出した。
何か、そうしなければならないというような使命感に満たされていた。
歩いているうちに、どこか身体に充足感が溢れてくる。
走っていけるほどだ。
走る。走る。
少しずつ、私の目線は下がってきていた。
コンクリートを掴む感覚には靴の感触ではなく、素肌と爪が混ざり合ったように。
腕はいつの間にか足になっている。田畑に混ざる堆肥の匂いが不快感を伝えてくる。
私は行くべき場所を見失っていた。
家というものがどこにあったかさえ定かではない。
それで良かった。
地獄のような生活だった。
それから逃れられることに歓喜さえした。
其れだけだった。
スマホを使えないということに気づいた。
水を飲むことさえ、どうすればいいのか分かっていなかった。
川の水を飲むことを覚え、食事をするためにゴミを漁るようになる。
酷い匂いのゴミ袋を引き裂き、僅かな食える残しを探して回る。
人間からは追い立てられた。
雨が降る。
濡れた毛は冷たく、どうしようもない孤独感を伝えてくる。
汚い、コンクリートの匂いがした。
引っ掛け、傷がついた身体には蛆が湧いた。
体中にいる蚤の感覚が気持ち悪い。
しかし、自分一人ではどうにもすることは出来なかった。
気づけば、私は元の踏切に戻っていた。
時間は分からないが、夜。
電柱の下に座り込んでいた。
じっと何かを待っていた。
何が来るのかは分からないが、何かを待たなければならないと思っていた。
黒い犬が歩いている。
一緒に子犬がいた。
あの犬は、家族を支えるために生きていたのだろうか。
甲高い踏切の警告音が鳴り響く。
黒い犬は、子犬と一緒に遮断機の下を通りすぎていった。
緑色の何かが過ぎていく。
その中には、黒い服を着た女が一人乗っていた。
疲れた顔をしている。
しかし、どこか充実したような顔をしていた。
私は歩き出した。
今日もまた、何か食べるものを見つけなければならない。
私は、もうあの音に怯えることはないだろう。
それに、憧れを抱くこともない。
蛆の湧いた足を引きずりながら、そんなことをぼんやりとした頭で考えていた。