『すぐに戻る』
相棒の言葉が頭の中で反芻する。彼の顔は笑っていたが、僅かな不安を消しさることまではできていなかった。当初の情けない雰囲気に比べれば大した進歩だったが、仮にも勇者を名乗るなら、もう少し胸を張って欲しいものだった。
新緑に彩られた深い森の中。遠くでは虫が楽しそうに鳴いているし、側では澄んだ川が静かに流れていた。しかし眼前に広がる大きな洞窟だけは、穏やかな世界の中にあるとは思えない圧力を放っていた。身の毛もよだつような悪意やら妖気やらが水の源泉みたいにそこから溢れ出てきていて、相当厄介な魔物が潜んでいることは、ここからでも感じ取れた。世界を救う旅に出てもうすぐ暦を一回りするが、魔王側もかなり余裕が無くなってきているのかもしれない。そうであって欲しいと願う。こんな過酷な旅は早く終わることに越したことはない。
相棒が洞窟に入ってから、どれほど時間が経っただろうか。少なくともまだ太陽は沈んでいないから半日は経過していなかった。けれど私にとってはそれが信じられないくらいに長い時間に感じた。ただその場でじっとしている事も億劫で、私はその場の草をパクついたり、前足をかいたり、少しだけ並足で洞窟の前をウロウロとしてみた。仮にも勇者のお供であるのに、落ち着きがないように周りから見えるのだろうが、こればかりは暦が一回りしようとも変えることはできなかった。それだけ、この「待つ」という行動は私にとって耐え難い苦痛の時間であった。この時だけは、無駄に大きい自身の体躯を恨めしく思った。私がもう少し小柄な体であったなら、今も相棒と共に戦うことができたかもしれないのに。
(……一緒にいる私より、故郷で私達を待つご主人はどれほど辛いだろう)
ご主人は私が生まれた時から側にいてくれた少女であった。私が夜明けとともにまばゆい光の世界に生まれ落ちた時、最初ぽかんとしていた彼女に私は何かを言った。もう言葉の内容は覚えていないが、私の声を聞いた彼女はその顔をまるで花が咲くように笑顔へ変えてくれた。その瞬間に、彼女こそが私のご主人様なのだと理解した。
相棒とご主人は幼馴染という関係であった。将来は番になること間違いないと周囲ももてはやしていた。しかし、魔王軍の侵攻を契機に相棒は勇者に目覚め、魔王殲滅の大義のため旅立たなければならなくなった。その際、ご主人は私を相棒のお供として連れて行って欲しいと願い出た。故郷で一番足の速い私に乗れば、道中はとても楽になるはずだと。そして、ご主人は私達に最後、約束を強要した。
――必ず二人で帰ってくるようにと。
つい笑みが込み上げてきて鼻を鳴らしてしまう。私まで『人』という単位を使うのが、とてもご主人らしかったからだ。
(ご主人のためにも、こんなところで負けないでよね、相棒)
そう願いながら、私は喉を潤そうと近くを流れる清流に足を向けた。嫌な雄たけびが森中に響き渡ったのはその時だった。
「「グギャーーー!」」
雄たけびは一つ二つではなかった。気が付くと、私の周りを十匹ほどの小さい魔物、ゴブリンが取り囲んでいた。手には剣やら弓といった武器を握りしめていて、明らかに私に敵意を剝き出していた。全くとんだ油断をしてしまった。取り囲まれるまで接近に気が付かないとは。ご主人との記憶で相当気を緩めてしまっていたらしい。
私も負けじと前足をかいて威嚇の態勢を見せると、ゴブリンの中から一匹が私の前に躍り出た。そいつは他の奴らよりも大柄で、見るからにこの集団のボスであった。
「貴様、憎き勇者を背に乗せる動物だな?」
私は驚いて少し目をしばたかせる。それから挑発するように返した。
「驚いた。低能なゴブリンでも言葉を使えるなんて」
「ふん、その低能に囲まれているのだから世話のない奴よ」
ふむ、困った。それはごもっともだ。どうやら口喧嘩は恥ずかしくも私の負けに終わりそうだ。
「なぁに、囲まれたところで大した問題ではないからね」
「強がりだな、所詮は勇者の付き物風情が! だが、それでも勇者の片腕に相違ない。首を差し出せば魔王様も喜ばれるだろう!」
その言葉と共に周囲のゴブリンが一斉に甲高い雄たけびを上げた。剣を持つ個体は私に突っ込んできて、弓を持った個体は背負った矢筒から矢を取り出そうとしていた。
「舐められたものだね。勇者の片腕と理解しておいて、これだけの数じゃ相手にもならないよ!」
私は思い切り地面を蹴り上げた。駈足から瞬く間に襲歩へと移った私は、正面にいたボスとの距離を一瞬で詰めた。
「ぬぅお!?」
ボスには寸前のところで躱された。しかし私は直進を止めずさらに加速する。狙いは最初から、ボスの背中側にいた弓持ち二匹だった。
「グギ!?」
反応の遅れたその二匹に私は思い切り体当たりをかました。自分より巨大で迅速な物体にぶつかったゴブリンは、耐えることもできず吹き飛んだ。体のひしゃげる嫌な音と共に、弓持ち二匹は黒い魔力の残滓となって消え失せた。
「おのれ! やれ、射殺すのだ!」
ボスの号令に従って、残った弓持ちゴブリンが私に矢を射かける。しかし私の速さに狙いが追いつかないようで、弓は私の通った道筋をなぞるように、遥か後方を飛んでばかりだった。剣持ちゴブリンなど、もはや私を無謀に追いかけるでくの坊であった。
私は敵が弓を構え直す間を狙って突進を繰り返した。弓持ちゴブリンはすぐに全滅して、剣持ちゴブリンだけが私の後ろを追いかけてくる。私はわざと急停止して、背後に剣持ちゴブリン達が迫ったところで、思い切り後ろ足で次々にそいつらを蹴り上げてやった。吹き飛んだゴブリン達は残滓となって世界に溶けた。
「く、くそぉ! 調子に乗るなぁ! グォーー!」
思い通りにいかなかったボスは動転したのか、ついに他のゴブリン達と同じように汚い雄たけびを上げ、剣を構えて突っ込んできた。私もそれに正面から全力で向かっていく。
私とボスがかち合う瞬間であった。一際大きな雄たけびと共に剣を振り下ろすボスに対し、私は急停止と共に力強く前足を上げて立ち上がった。目測をずらされたボスは思い切り剣を空振りし、勢い余ってバランスを崩す。そして地面に手を付いたボスの脳天めがけて、私は一度いなないて、振り上げた前足を思い切り振り下ろした。
「うぐぉぉぉーー!」
頭を踏みつぶされたボスは断末魔と共に、子分達と同じ黒い魔力となって消えた。周囲には再び静寂が戻り、私は鼻を鳴らして息を整え、天へと昇っていくゴブリンだったモノを見上げた。
(お前たちごときに傷の一つも付けられる訳にはいかないんだ。じゃないと相棒が心配するんだから)
私はこれからも、勇者の帰りをこうして待つことになる。もし彼が帰ってきた時、私に傷があったなら、優しい彼は私を置いていくことを躊躇ってしまうだろう。それだけは絶対に避けなければいけなかった。彼には世界を救う戦いだけに集中して欲しかった。ご主人との約束を果たすために。
(一秒でも早く、彼と一緒に帰るからね。ご主人)
すると、洞窟の方から気配がして、私は顔をそちらに向けた。いつの間にか、洞窟の嫌な妖気は綺麗に消え失せ、周囲の森に溶け込む穏やかさだけが残っていた。そしてその洞窟から一人、こちらへ歩いてくる影があった。
「すまない。待たせた」
傷や泥といった激しい戦いの痕を体中に纏ってなお、笑顔をこちらへ向けてくる相棒に、私は力強くいなないた。