氷叢冬真:プロローグ
人間が「個性」という超常の力を得るようになってから、世界は大きく変わった。
多くの人々がヒーローを夢見、悪を打倒する力に心を躍らせる裏で、旧時代から続く一族の「血」に対する執着は、より歪んだ形で深化していった。
氷叢(ひむら)家。
かつては歴史ある名門として知られたその一族は、時代の変化と共に緩やかに衰退していた。しかし、その血に流れる「強力な氷結の個性」だけは、どこまでも冷たく、強固に受け継がれていた。
かつて一族の娘であった氷叢冷――彼女が「最高峰のヒーロー」を求めるエンデヴァー(轟炎司)のもとへ金と引き換えに嫁がされたこと(個性婚)は、氷叢家にとって再興のための巨大な足がかりであった。
だが、その結果として生まれた轟家の歪みと、冷が心を壊して病院へ収容された悲劇を、幼い氷叢冬真(ひむら とうま)は冷酷な現実として見つめていた。
「冬真、お前は冷のようにはならん。お前の『冬』は氷叢を再び頂点へと押し上げるのだ」
幼少期、大人たちが冬真に向ける視線には、純粋な愛情などひとかけらもなかった。あったのは、自分たちの欲望を満たすための道具としての期待だけだった。
冬真の持つ個性「冬」は、単なる氷の生成ではない。周囲の環境そのものを極寒の冬へと塗り替える、圧倒的で絶大な能力。一族の長たちは冬真の才能に歓喜し、彼を厳しく管理し、その自我を殺して最高傑作に仕立て上げようとした。
(――反吐が出る)
従兄にあたる轟焦凍が、父親の野望の犠牲となって心に深い傷を負っていったように。
伯母である冷が、絶望の果てに自らを失ってしまったように。
この家にいれば、自分もまた「血」と「個性」の奴隷として誰かを傷つけ、自分自身を壊していくことになる。
12歳の冬。猛吹雪の夜。
冬真は、長年暮らした氷叢の本家を抜け出した。追手の手を逃れ、冷たい雪が舞う街をあてもなく走り続けた。凍てつく体温、個性の使いすぎによる指先の麻痺、そして孤独。
雪道に倒れ込み、意識が白く染まりかけたその時。
「やあ、凍えてしまいそうな夜だね。こんな小さな身体で、一人でどれほど辛い思いをしてきたんだい? ……もう大丈夫だよ。僕と一緒に温かいお茶でも飲みに行こうか」
白くて小さな、ネコともイタチともつく不思議な姿をした人物が、傘を差して冬真を見下ろしていた。
雄英高校校長、根津(ねづ)。
超常社会の頂点に立つヒーロー育成機関のトップであり、圧倒的な知能を持つ存在。
根津は冬真の手を取り、その極寒の体温を意に介さず、優しく微笑んだ。
「君の家柄も、その『冬』の重さも知っているよ。どうだい、氷叢冬真くん。私の養子になって、私とチェスでもしながら、本当の君の使い道を考えてみないかね?」
こうして、氷叢冬真は「氷叢家の最高傑作」から「根津校長の養子」となった。
*
「……王手(チェックメイト)だよ、冬真くん」
雄英高校、校長室。
パチリ、と静かな音を立てて木製の駒が盤上に置かれた。
冬真は静かに息を吐き、盤面を見つめた。完璧に退路を断たれた黒のキング。思考の先をすべて読まれ、詰まされていた。
「……参りました。父さん」
「ふふ、以前より3手も長く持ちこたえたじゃないか。素晴らしい成長だ」
根津は紅茶のカップを手に取り、嬉しそうに髭を揺らした。
あれから数年。冬真は根津のもとで暮らしてきた。根津は冬真に強要をせず、ただ膨大な知識と戦術、そして「一人の人間として考える時間」を与えてくれた。
15歳になった冬真の姿は、凛とした冷たさと、洗練された理性を感じさせるものになっていた。白に近い銀髪と、澄み渡った氷のような青い瞳。背はすでに同世代の平均を超え、立ち姿には無駄がない。
「さて、明日はいよいよ雄英高校の推薦入試だね。焦凍くんも推薦枠で受けるそうだが……準備はいいかい?」
「はい。焦凍と……実家には、いつか向き合わなければならないと思っていましたから」
冬真の表情に動揺はない。だが、その瞳の奥には静かな揺らぎがあった。
「焦凍は……親父(エンデヴァー)への反発で、炎の力を封印して氷だけで戦おうとしています。でも、俺の『冬』と対峙したとき、あいつがどう思うか」
「焦凍くんの抱える傷は深い。だが、君が背負っているものも同じくらい重いよ」
根津は紅茶を一口飲み、少し真剣な眼差しを冬真に向けた。
「冬真くん。君の個性『冬』は、広域破壊と環境支配においてプロヒーローをも凌駕する。だが……忘れてはいけないよ。君の体温は、個性を放つたびに危険な領域まで下がる。そして何より、君の心だ。君は自分の限界を隠し、誰にも頼ろうとしない」
「……問題ありません。一人で処理できます」
「それが一番の『隙』なんだよ」
根津はクスリと笑い、盤上の駒を片付け始めた。
「人は一人では温まれない。君の凍てついた世界を溶かすか、あるいは共にその寒さに耐えてくれる存在……雄英での3年間で、そんな仲間に出会えるといいのだがね」
根津の言葉に、冬真は胸の中で小さな違和感を覚えた。
自分に必要なのは仲間や情ではない。ただ、氷叢の血に振り回されず、ヒーローとして己の存在を証明することだけだ――そう自分に言い聞かせていた。
しかし、根津の予言のような言葉は、冬真の心に小さな波紋を投げかけていた。
*
翌朝。雄英高校、推薦入試会場。
広大な実技試験場には、全国から選りすぐりのエリート中学生たちが集まっていた。いずれも名門の出身であったり、幼少期からその才能を謳われた者たちばかりだ。
会場の待合室。ピリついた緊張感が漂う中で、冬真は壁に背を預け、静かに目を閉じていた。
「――冬真」
低く、聞き覚えのある声。
冬真が目を開けると、そこには右側が白、左側が赤の髪を持つ少年――轟焦凍が立っていた。
「……焦凍か」
「……やっぱり、お前も推薦か。根津校長の養子になったと聞いていたが」
焦凍の瞳には、かつての幼馴染であり、親戚である冬真に対する複雑な色が浮かんでいた。
彼らにとって、互いの存在は「互いの一族の悲劇」を思い出させる鏡のようなものだった。焦凍にとっては母(冷)を追い詰めた氷叢の血。冬真にとっては、自分を道具扱いした一族の歪み。
「お前の氷……親父の炎に頼らず、俺がお前の『冬』を超えて見せる」
焦凍の言葉には、強い執着と父親への憎悪が滲んでいた。冬真はそんな焦凍を、静かに見つめ返す。
「……焦凍。お前が何を目指そうと自由だが、自分の半分を否定したままじゃ、俺の『冬』には届かないぞ」
「なんだと……?」
「お前の氷は鋭いが、どこか焦げ臭い。怒りで凍らせているからだ」
冬真の淡々とした言葉に、焦凍が眉をひそめたその時――。
「――これより、推薦入試実技試験を開始する!」
プロヒーロー・プレゼント・マイクの爆音のようなアナウンスが会場に響き渡り、緊張感が一気に頂点へ達する。
試験内容は、広大な山岳模擬フィールドを駆け抜け、道中に配置された巨大障害や気候変動トラップを突破してゴールを目指すレース形式の実技試験。
「位置について……スタート!!」
合図と同時に、受験生が一斉に飛び出した。
肉体強化系、移動系、様々な天賦の個性が弾ける中で、冬真は静かに一歩を踏み出した。
(息を吸う。体内の熱を殺す。世界を――『冬』にする)
冬真が地を踏みしめた瞬間。
カツン、と小さな音が響いた。
次の瞬間、地面を津波のような「絶対零度の氷」が覆い尽くした。
「――え!?」
「な、なんだこの冷気は!?」
後方の受験生たちが悲鳴を上げる。冬真が放った氷は、他の受験生を傷つけることなく、正確にその足元だけを完璧に凍りつかせて固定した。
さらに、冬真を中心に半径数百メートルの天候が激変する。晴れ渡っていた空に突如として黒雲が立ち込め、激しい吹雪と雪崩のような凍結波がフィールド全体を飲み込んでいく。
周囲の気温が、一瞬で氷点下数十度まで叩き落とされた。
「……これが、僕の『冬』だ」
冬真は生成した巨大な氷の滑走路の上を、滑らかに、そして爆発的な速度で滑走していく。
圧倒的なスケール。轟焦凍の氷結すらも凌駕するほどの、環境そのものを支配する絶対的な「冬」の領域。
前方を行く焦凍が、背後の猛烈な冷気に気づいて振り返る。その瞳に驚愕の色が走る。
「冬真……お前、ここまでの能力を……!」
焦凍もすぐさま自身の氷を走らせて対抗するが、冬真の「冬」がもたらす極寒の風は、焦凍の氷をも侵食し、その進行速度を鈍らせていく。
だが、この圧倒的な威力と引き換えに、冬真の体温もまた急激に奪われていく。
手足の感覚が薄れ、視界の端が白くかすむ。個性の代償である著しい体温低下。冬真は歯を食いしばり、一族の訓練で培った執念だけで意識を繋ぎ止めた。
結果は、圧倒的な首位でゴール。
2位に轟焦凍。
ゴール直後、冬真は静かに氷を消し去り、荒い息を整えた。
霜で白くなった己の手を見つめながら、冬真は思う。
(……まだ、制御が甘い。実家を破滅させられるほどの力には、遠く及ばない)
自分の弱さに苦い思いを抱きながら、冬真は会場をあとにした。
一族の血の呪縛、轟焦凍との因縁、そして根津から受け継いだ知性。
極寒の心を抱えた少年は、やがて迎える「雄英高校1年A組」での日々に思いを馳せる。
まだ見ぬクラスメイトたちと、そこから始まる運命の出会いを、この時の彼はまだ知る由もなかった。
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