岩石が牙のようにむき出しになった、荒涼とした山岳エリア。高所特有の乾いた突風が吹き抜け、足元の砂利を不気味に鳴らしていた。
断崖絶壁の上に隔離された冬真たち4人を囲むように、数十を超えるヴィランの群れが蠢いている。その瞳に宿るのは、訓練でもスポーツでもない、むき出しの欲望と殺意だった。
「ヒヒッ! 見ろよ、ヒーロー候補生のガキどもがまとめて落ちてきやがった!」
「運がねぇな坊主ども! 大人の世界の厳しさを、その身体に叩き込んでやるぜ!」
「まずはあの女からだ! 人質にして広場の奴らと交渉してもいいな!」
下卑た笑い声と罵声が、狭い岩場で乱反射する。
「な、なんだよあいつら……本気で俺たちを殺す気かよ!?」
上鳴電気の顔から血の気が引き、恐怖で膝が微かに震えていた。
「怯んでる暇はないわ! 上鳴、アンタもしっかりしなさいよ!」
耳郎響香が冷や汗を拭いながら、コスチュームの耳から伸びる音波プラグを緊張した面持ちで構える。
その最前線へ、八百万百が素早く踏み出していた。彼女は右腕の皮膚から肉体の脂質を変換させ、一瞬で特殊合金製の大型シールドと警棒を作り出し、3人を庇うように背中で受ける。
「皆さん、落ち着いて私の後ろへ! 陣形を整え、敵の出方を見極めつつ撃退の機を伺いますわ! 私が盾となりますから、上鳴さんは隙を見て中距離からの威嚇射撃を、耳郎さんは音波で後方の牽制を――」
「不要だ、八百万」
静かだが、氷刃のように冷たく澄んだ声が、八百万の指示を遮った。
「え……? 氷叢さん……!?」
冬真は歩幅すら変えず、八百万のシールドの横をすり抜けるようにして一歩前へ踏み出した。
両手の甲に装着された黒い『集束グローブ』から、高周波のブザーにも似た微細な駆動音が漏れ出す。ダイヤル内部の感温センサーが作動し、掌の冷却媒体が圧力を高めていく。
(敵の総数:三十八。距離:八メートルから十五メートル。地形:傾斜角十五度の不安定な砕石地帯。個性の種別:物理打撃系および身体変異系が七割、遠距離照射系が三割。危険度は極めて低い)
冬真の脳内で、冷静沈着な計算回路が超高速で回転を始める。
「氷叢さん! 単身で突入するのは危険すぎますわ! 敵の数が多すぎます、まずは冷静に協調性を――」
「下がるなと言っているのではない」
冬真は振り返りもせず、低く淡々とした声で返した。
「無駄なエネルギーを消費するなと言っている。動揺による心拍数の上昇は血流を早め、体温の無駄な放散を招く。呼吸を整えろ。ここで俺が全タスクを処理する」
「全タスク……って、アンタ一人でこの数を全部片付ける気!? 無茶言わないでよ!」
耳郎が驚愕の声を上げる。
冬真は返事をせず、両手を無造作に前方の地面へと向けた。
(対象領域:半径十五メートル内の地表。必要奪取量:極小。空気中の飽和水蒸気および岩肌の残留熱量を一時的に強制奪取)
「奪取率:二%。――発動」
――――パキィン!
山岳エリア全体に、薄いガラスが砕け散るような硬質で澄んだ音が響き渡った。
次の瞬間、襲いかかろうと猛然とダッシュしたヴィランたちの足元から、突如としてすべての「摩擦」が消失した。
「ぬああああ!?」
「な、なんだ!? 足が……すべ、転ぶ、うわあッ!?」
冬真が放ったのは、轟焦凍のような巨大な氷の壁や巨大な結晶ではない。地表に存在する微量な水蒸気から熱エネルギーを一瞬で奪い取り、地表の摩擦係数を極限までゼロに近づけた『極薄摩擦ゼロの氷膜(ゼロ・フリクション)』だ。
突進の勢いがついていた前衛のヴィランたちは、ブレーキをかけることすら許されず、まるで濡れた極上の氷上を滑るように次々と体勢を崩した。勢いのまま盛大に激突し合い、悲鳴を上げながら将棋倒しになっていく。
「な、なんだ今の!? 一瞬で地面がツルツルになっちまったぞ!?」
上鳴が目を丸くして叫ぶ。
「違う……! 氷の厚さなんてコンマ何ミリもないわ! なのに、あいつら全員、自分の踏み込みの力で自滅して……!」
耳郎が言葉を失う。
「まだ終わっていない」
冬真は呼吸一つ乱さず、摩擦のなくなった氷膜の上を、自身の靴底に施した特殊滑り止め加工を利用して滑らかに滑走した。
体勢を崩し、目の前で前のめりに倒れ込んできた大柄な異形系ヴィラン。その男が棍棒を振り下ろそうと腕を掲げた瞬間、冬真の右手が敵の肘関節の裏側へ、吸い付けられるように優しく触れた。
――カチ。
「あギャッ!?」
接触面から一瞬で熱量が奪い去られる。
ヴィランの肘関節の可動部、そして皮膚直下の毛細血管と運動神経が、ピンポイントで瞬間凍結を起こした。神経伝達が一瞬で遮断され、激痛と激しい麻痺によって、握られていた鉄の棍棒が力無く手からこぼれ落ちる。
冬真はその落下の軌道を冷静に見極め、棍棒の柄を足の甲で軽く蹴り上げると、そのまま流れるような旋回動作で後ろにいた別のヴィランの顎下へと叩き込んだ。
ガコンッ!
「グハッ!?」
(消費排熱量:〇・一五度。深部体温:三十六・四度。心拍数:八十三。体内熱収支、完全に正常範囲内)
無駄な筋力は一切使わない。相手の運動エネルギーと重力、そして最小限の熱奪取だけで、敵の身体機能をシステム的にシャットダウンさせていく。
「てめぇ、ガキのくせに調子に乗りやがってぇ!」
側面から、鉤爪を鋭く伸ばした小柄なヴィランが素早い動きで飛びかかってくる。冬真は視線すら向けず、左手のグローブのダイヤルをわずかに捻り、後方へ向けて掌を開いた。
「集束排熱・指向性冷気(ジェット・フロスト)」
ドッ! と鋭い空気圧の破砕音が響く。
グローブの排熱孔から噴出射出された超低温の冷気圧が、ピンポイントで敵の顔面を直撃した。視界を白い氷霧で奪われ、急速な顔面の凍傷と角膜の過冷却に悲鳴を上げるヴィラン。その無防備になった膝裏を、冬真は軽く蹴り飛ばして崩し、そのまま首筋の動脈へ冷気を一瞬通して昏倒させた。
「ひ、ヒィッ……! なんだこいつ、化け物かよ!?」
「近づくな! 近づいたら関節が凍って動かなくなるぞ!」
恐怖が、感染症のようにヴィランたちの間に広がっていく。
数分前まで「虐殺の道具」として見下していたはずの高校生一人に、手も足も出ずに淡々と、機械的に無力化されていく絶望。
冬真の戦いには、熱狂も、怒りも、英雄的な叫びすら存在しない。
ただ静かに、冷酷に、計算された最適解の運動が実行され続けるだけだ。
「す、凄いですわ……!」
八百万はシールドを握りしめたまま、立ち尽くしていた。
「個性の威力を無闇にひけらかすのではなく……熱の奪取量を最小限に抑え、相手の運動エネルギーと自重、そして地形を完璧に利用して制圧している……! なんという洗練された、無駄のない戦闘理論……!」
「おいおいおい、マジかよ! 俺たちの出番、本当に一つもねぇじゃんか!」
上鳴が呆然と腰を抜かしそうになりながら呟く。
「……言ったはずだ。無駄な体力を消費するなと」
冬真は最後の一人の首筋に軽く触れ、脳への血流を一瞬の局所冷却で遮断して意識を奪うと、静かにグローブの排圧レバーを戻した。
シュゥゥゥ……。
両手から静かな白い水蒸気が立ち上る。
足元には、三十人以上のヴィランが悶絶するか、意識を失って重なり合っていた。戦闘にかかった時間は、わずか一分四十秒。
冬真の表情には一切の達成感すらなく、ただ自身のバイタルデータを確認するように胸元へ手を当てていた。
(深部体温:三十六・二度。わずかに低下傾向にあるが、許容誤差の範囲内。グローブの冷却媒体残量:八十二%。問題ない)
「山岳エリアにおける脅威の排除、完了。これより中央広場の状況確認および、13号先生との合流ルートの選定に入る――」
冬真が淡々と次の手順を口にしようとした、その瞬間だった。
ズズズズ……ッ。
空間が破裂するような不気味な重低音が響き、山岳エリアの崖の上の空間が、泥のような黒い闇によって再び切り裂かれた。
「――ほう? 雑魚ばかりとはいえ、三十以上の戦力を一人で一瞬にして片付けましたか。流石は雄英の選りすぐりの卵……といったところでしょうか」
黒霧の丁寧で、どこか狂気を孕んだ薄気味悪い声が、頭上から降り注ぐ。
「っ……!? さっきのワープのモヤ野郎……!?」
耳郎が叫び、音波プラグを強く構え直す。
「しかし……死柄木様の描く筋書きに、これ以上の不確定要素は不要。君たちには、ここで『特別な処理』を受けてもらいましょう」
黒霧の闇の渦が大きく広がり、その奥からドサリ、と地鳴りを立てて重々しい肉塊が投げ出された。
ドカァァンッ!
崖の岩肌が砕け散り、激しい土煙が舞い上がる。
そこからゆっくりと立ち上がった“それ”を目にした瞬間、冬真の瞳が凍りついたように細くなった。
「……ッ!?」
そこに現れたのは、人間という枠組みを完全に逸脱した歪な巨体だった。
漆黒の皮膚、剥き出しになった異常な頭蓋骨と脳組織、そして光を宿さない爛々と輝く無機質な眼球。理屈や会話が一切通用しないことが、その存在感だけで伝わってくる。
(なんだ……あのバケモノは……!? ヴィランの『個性』による肉体変異か……? いや、違う。筋肉の繊維構造、生命維持器官の異常な露出……あれは人間じゃない。意図的に造られた『生物兵器』か!)
冬真は瞬時にその異質な威圧感を分析し、背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。中央広場で相澤先生が対峙していた巨大な怪物とはまた異なる、細く引き締まった四肢と、異常な長さに発達した鋭利な爪。
「絶望しなさい」
黒霧の冷ややかな声が響く。
「これは死柄木様がこの襲撃のために持ち込んだ刺客……『対集団・超高速殲滅特化型』の肉体です。冷気も、電撃も、生の人間に対するような生半可な戦術は通用しませんよ」
ギギギ……と不気味な骨鳴りを響かせ、異形の怪物が冬真たちを見下ろした。
冬真の右手の集束グローブから、限界値の近づきを示す甲高い警告音(アラート)が、静かな山岳エリアに小さく鳴り響いた。
(計算が……破綻する)
冬真の冷徹な合理主義が、初めて「未知の暴力」と衝突しようとしていた。
評価、コメントをお願いします!