氷の系譜、春を抱く   作:メガネ閣下

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絶対零度と急襲 その4

 

山岳エリアの断崖絶壁に、この世のものとは思えない絶望的な「死寂」が訪れた。

 

「過剰熱奪取――『万物凍冬(ばんぶつとうとう)』」

 

冬真が両手を解き放ち、低く無機質な声を漏らしたコンマ一秒後、空間を支配していた一切の「音」と「運動」が完璧に消失した。

 

大気を引き裂いていた激しい突風の風切り音も、足元の砕石が崩れ落ちる乾いた音も、そして脳無の喉の奥から漏れ出ていた不気味な低音の咆哮すらも――すべてが絶対的な零度の前で物理的に静止した。

 

「あ……が……っ!?」

 

直前まで脳無の全身を内側から焼き焦がしていた、上鳴の残存電撃の青白い火花。それすらも空中に静止したまま、光の粒子ごと消滅していく。

 

冬真の周囲半径数十分の空間に存在していた全エネルギーの強制剥奪。

空気中に浮遊する微細な水蒸気、ゴツゴツとした岩肌の放射熱、さらには大気そのものが保持していた分子運動エネルギーまでが、冬真の肉体を起点として強引かつ一方的に吸い上げられていく。

 

バキバキバキバキバキィィィンッ!!!

 

空間そのものが破砕されたかのような、恐ろしい硬質音が響き渡る。

 

冬真の指先から放たれたのは、一般的な「氷の生成」などという生ぬるい現象ではなかった。

 

大気中の気体分子が運動を停止し、一瞬で超高密度の固体へと相転移することで生じた、莫大な「氷の質量」――それらが暴風のような圧力波を伴って巨大な白銀の津波と化し、山岳エリアの荒々しい断崖絶壁を根底から呑み込んでいったのだ。

 

そのスケールは、かつて冬真が「自傷リスクが高すぎる過剰な愚行」として深く封印していた、轟焦凍の大規模氷結すらをも遥かに凌駕する質量攻撃であった。

 

「ギ……ガァァァ……っ!?」

 

右の豪腕を振り下ろし、冬真の首を刈り取ろうとしていた別種脳無の巨体が、正面から解き放たれた莫大な氷の嵐の中に完全に呑み込まれていく。

 

上鳴の高圧電撃によって内側から焼き焦がされ、漆黒の外骨格全体に走っていた蜘蛛の巣状の「熱亀裂(ヒビ)」。

その微細な隙間――生の筋肉組織と感覚神経が丸出しになっていた無防備な内部肉体へと、絶対零度の過冷却気体が容赦なく侵入し、突き刺さった。

 

凍結の速度が、生物の持つ自己再生能力を圧倒的な差で置き去りにする。

 

細胞内の水分が一瞬で硬質な結晶へと変貌し、その急激な体積膨張によって内部の筋肉線維が肉眼で視認できるレベルで爆ぜ、破裂していく。外骨格の隙間という隙間から、尖った氷の結晶が針のように内側から外へと突き破り、脳無の巨大な体躯全体が、みるみるうちに白銀の巨大な氷像へと変貌を遂げていった。

 

「ガ……ギ……」

 

脳無の無機質な眼球が白く凍りつき、そこに宿っていた凶暴な赤光が完璧に消失する。

 

ドォォォォンッ!!

 

数秒後、山岳エリアを埋め尽くした超高密度の氷の山が、自重と内部からの分子運動喪失に耐え切れず、雷鳴のような轟音を立てて豪快に砕け散った。

 

鋭利な氷の破片とともに、完全凍結した脳無の巨大な肉体が「粉々」の結晶となって岩肌全体へと撒き散らされる。

 

完全な無力化。いや、分子レベルでの存在破壊。

 

「……つ……あ……」

 

圧倒的な静寂が、荒涼とした山岳エリアへと再び降り立った。

 

「……嘘……でしょ……!?」

 

耳郎響香が、音波プラグを握りしめたまま、力無く膝から地面へと崩れ落ちた。

目の前に広がっていたのは、かつて岩肌がむき出しになっていた山岳エリアの一角が、完全に白い氷の死世界へと変貌した信じられない光景だった。数十人のヴィランの群れ、そしてあの絶望的な威圧感を放っていた脳無の存在が、影も形もなく白銀の墓標の下へと沈んでいる。

 

「な、なんだよこれ……! 一瞬で……山ごと凍らせちまったのかよ……!?」

上鳴電気もまた、腰を抜かしたまま開いた口が塞がらず、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。

 

だが――八百万百だけは、勝利の歓喜など一切浮かべず、激しい戦慄と恐怖に表情を歪めて冬真の背中を見つめていた。

 

「氷叢……さん……!?」

 

冬真は、静かに突っ立っていた。

 

両手に装着されていた『集束グローブ』の精密ダイヤルは無残に砕け飛び、過圧弁からはプシューッと不気味な排気音とともに、もはや冷却ガスすら出なくなった不完全な煙が細く立ち上っている。

 

そして、冬真の身体そのものが、正視に耐えない異常な状態へと変貌していた。

 

黒い制服の表面には白い霜がびっしりとこびりつき、両手の指先から手首、さらには首筋や頬にかけて、皮膚が痛々しく紫黒く変色している――重度の過冷却による凍傷の症状。

 

さらに、彼が浅く吐き出す息は白く昇華することすらできず、口元からぼとぼとと小さな氷の粒となって地面へ落ちていた。

 

(深部体温:三十一度八分……急降下……継続中……)

 

冬真の途切れ途切れになった脳内で、冷徹な計算アナウンスが虚しく響く。

 

(心拍数:四十二……著しい徐脈……脈拍不整……視界中央の光量低下……意識レベルの途絶まで……推定……十秒……)

 

「氷叢さんッ!!」

 

八百万がシールドを投げ捨て、なりふり構わず冬真のもとへと駆け寄った。

 

冬真の身体が、糸の切れた繰り人形のように力無く前へ倒れ込む。八百万はその華奢な身体で、崩れ落ちる冬真の身体を必死に受け止めた。

 

「冷たい……! なんて冷たさですの……!? まるで遺体を触っているような……!」

 

抱きしめた冬真の制服越しに伝わってきたのは、生きた人間の体温では絶対にあり得ない「絶対的な死の冷気」だった。

 

冬真の唇は青黒く破裂し、大きな瞳は焦点の合わないガラス玉のように凍りついている。全身が激しく震えることすらできない――体温が下がりすぎたことで、脳の体温調節中枢が麻痺し、「震え(シバリング)」による熱生産すら行えなくなった、重度低体温症の末期症状であった。

 

「上鳴さん! 耳郎さん! 呆然としている暇はありませんわ! 今すぐ氷叢さんの救助を!!」

八百万の悲鳴のような叫びが、山岳エリアに響き渡る。

 

「え……!? 氷叢、どうしたんだよ! 倒れたのか!?」

上鳴が慌てて駆け寄ってくる。

 

「上鳴さん、あなたの『帯電』の余熱を利用できませんかしら!? いえ、ダメですわ……急激な表面加熱は心不全を引き起こします……! 私が体温保温用のブランケットと、微弱な化学発熱体を速やかに生成しますわ!」

 

八百万は即座にコスチュームの隙間から肉体脂質を削り出し、保温性の高い緊急用レスキューシートと、皮膚を傷つけずに徐々に体温を温める低刺激の発熱パックを大量に作り出し始めた。

 

「嘘でしょ……自分の身体を身削りにして……あんな大技を……!?」

耳郎が青ざめた顔で冬真の手を握りしめる。その手はまるで金属のように硬く、氷のように冷たかった。

 

(……うるさいな)

 

八百万たちの大騒ぎする声が、冬真の感覚器官には水の中に深く潜っているかのように遠く、途切れ途切れにしか届かない。

 

(思考速度の低下……熱量の著しい欠乏……これが、制約を解除した代償か……)

 

冬真は動かない指先を感覚だけで確認しようとしたが、脳からの神経伝達は完全に途絶していた。

 

(……だが、計算通りだ。山岳エリアの脅威は……完全に排除した。俺たちの死傷者はゼロ。タスクは完遂された……)

 

視界が急速に暗転していく。

 

白い霧が脳内を埋め尽くし、意識が深い闇の底へと沈み込んでいく中で、冬真の思考の端に、先ほどの疑問が再び一瞬だけ過った。

 

(あの異形……冷気耐性と外骨格……。偶然にしては……あまりにも俺の『天敵』として出来過ぎていた……。まるで……俺という存在のデータを集め……あらかじめ対策を施したかのような……)

 

だが、その思考を最後まで完結させる熱量すら、今の冬真の脳には残されていなかった。

 

(……ま、いい。あとは……頼んだぞ、相澤先生……)

 

冬真の瞳から完全に光が消え、彼は意識を失った。

 

*

 

その頃――USJ中央広場。

 

「ハァ……ハァ……!」

 

血反吐を吐きながら、相澤消太は捕縛布を振るっていた。

 

広場にたむろしていた数十人のヴィランの過半数を一人で撃破した相澤だったが、その呼吸は荒く、肘の皮膚は死柄木吊の『崩壊』の個性によって惨らしく割れ落ち、肉が剥き出しになっていた。

 

「すごいや……相澤先生……一人でこれだけの数を……!」

水難エリア付近の陰から、緑谷出久が息を呑んでその戦闘を見つめていた。

 

しかし、死柄木吊の顔に焦りの色はない。むしろ、狂気的な笑みを深めながら、己の首筋をボリボリと激しく掻きむしっていた。

 

「ダメじゃないか……プロヒーロー。君は強いよ、かっこいいよ。……でもさ、君のそのカッコいい背中の後ろで、ゲームの『裏ボス』が始動したことには気づいていないのかな?」

 

「……なに?」

相澤が不吉な予感に眉をひそめる。

 

「君たちの生徒の中にいるだろう? 熱を奪う……生意気な氷のガキがさあ」

死柄木の歪んだ瞳が、暗い歓喜に歪む。

 

「あいつの個性のデータは、前々から少しばかり収集させてもらっていたんだ。……だから作って送ったんだよ。あいつの冷気が絶対に通用しない、完璧なメタ性能を持った『専用の試作脳無』をね」

 

「……ッ!?」

緑谷と相澤の顔色が、一瞬で不快な驚愕に染まった。

 

「山岳エリアに飛ばされたあいつは……今頃、自分の絶対的な個性がまったく通じない絶望の中で、肉体も心もボロ雑巾みたいに踏みつぶされている頃さ。……可哀想にねぇ?」

 

死柄木はケケケと不気味に笑い声を漏らす。

 

だが――彼らはまだ知らなかった。

 

死柄木が「絶対のメタ」として送り込んだその試作脳無が、冬真の計算を超えた『命懸けの質量攻撃』によって、すでに跡形もなく粉砕されたという事実を。

 

そして、山岳エリアから立ち上る異常なまでの極冷気の余波が、遠く離れた中央広場の温度すら、静かに、しかし確実に下げ始めているということを――。

 




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