氷の系譜、春を抱く   作:メガネ閣下

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シルバーウィークの時の時間の流れが速すぎる…(´;ω;`)


幕間:八百万の思い

 

静まり返った自室のデスクの上で、一本のシャープペンシルが静かに転がった。

 

八百万百は、開かれたノートを見つめたまま、小さく溜め息を吐いた。

そこに書かれているのは、己の『創造』の個性の出力強化と、戦術案のメモ。……そして、そのページの端には、意識しないうちに書き連ねていた一人の少年の名前と、彼が残した言葉の数々があった。

 

『氷叢冬真』

 

窓の外では、春の終わりの静かな夜風が木々を揺らしている。

八百万は胸にそっと手を当て、あのUSJでの凄惨な光景を思い出していた。

 

手のひらに残る、凍てつくような冷たさ。

そして、命が消え入りそうなほど途切れ途切れだった、彼の弱々しい心音。

 

(どうして……どうして私は、あの方のあそこまで危ういお姿に、気づいて差し上げられなかったのかしら……)

 

瞳を閉じると、彼女の記憶は自然と、数ヶ月前の雄英高校入学の日にまで巻き戻っていくのだった。

 

*

 

総資産数兆円を誇る八百万家の令嬢として生まれ、幼少期からあらゆる英才教育を受けてきた八百万百。

万物の構造を理解し、己の脂質をあらゆる無機物へと変換する『創造』の個性。その稀有な才能ゆえに、彼女は「推薦生」として雄英高校ヒーロー科1年A組への入学を果たした。

 

当時の八百万には、隠しきれない自負と誇りがあった。

もちろん、謙虚さを忘れたつもりはなかった。だが、過酷なトレーニングと膨大な知識の蓄積を重ねてきた己の力は、同年代の中で決して後塵を拝するものではない――そう信じていた。

 

その自負が、最初に揺らぐことになったのが、入学初日に行われた「個性把握テスト」だった。

 

「……次は、50m走だ」

 

相澤消太の淡々とした指示のもと、生徒たちが次々と記録を測定していく中、八百万の視線を引きつけて離さない男がいた。

 

氷叢冬真。

 

白銀の髪に、冷ややかな氷の瞳。

誰とも群れず、クラスの喧騒から一歩引いた場所に佇む彼は、己の順番が巡ってくると、スタートラインに静かに立った。

 

「位置について……スタート」

 

ピストルの音が響いた瞬間、他の生徒たちが大爆発を起こしたり、体を変化させたりして派手に加速する中、冬真の動きは異様なほど静かだった。

 

シュッ……!

 

冬真の一歩目とともに、彼の足元——トラックの土の上に、一瞬だけ極薄の氷の膜が形成された。

滑るように、しかし確実に地面を蹴り出す。足が地面を離れる瞬間に氷は弾け飛び、空気中に僅かな白い蒸気となって消えていく。

 

まるで地面の摩擦力そのものを完璧にコントロールしているかのような、滑らかで無駄のない走り。

 

【計測結果:4秒12】

 

「……おいおい、マジかよ……! 足元ちょっと凍らせただけであのスピードかよ!?」

「氷の個性なら轟もすげぇけど、あいつの氷の使い方……なんか静かすぎて気味が悪ぃな……」

 

上鳴電気や切島鋭児郎が驚愕の声を上げる中、冬真は表情一つ変えずにタイムを確認していた。

 

(あの方は……筋肉の力や、氷の爆発的な推力で加速したわけではありませんのね……)

 

八百万は息をのんだ。

 

この時の八百万は、冬真の個性が単なる氷結ではなく『全熱剥奪』であることまでは知る由もなかった。ただ「強力な冷気を操る個性」だと思っていた。

だが、その使い方があまりにも異常だった。

 

周囲を派手に破壊することも、過剰な冷気を撒き散らすこともしない。己の足裏と地面が接地する「ほんの数ミリメートル」だけに限定して氷を発生させ、摩擦抵抗を極限まで減らして加速していたのだ。

 

個性の威力を誇示するのではなく、最小限の個性発動で最高効率の結果を叩き出す。

 

『……靴底の素材に対する冷却時間の計算が甘い。0.05秒の摩擦損失。不合格だ』

 

タイムを出した当の本人は、クラスメイトの驚嘆の声など耳に入っていないかのように、己のメモ帳に改善点を書き込みながら列の後ろへと下がっていった。

 

(不合格……? あの圧巻の記録を出しておいて……?)

 

八百万は己の手を見つめ、静かに震えた。

推薦生としての誇りが、彼の存在によって心地よい音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。

 

この人は、次元が違う。

単に個性が強いのではない。自分の『個性』、己の『肉体』、そして『環境』の全てを冷静に分析し、一切の感情を排して正解を弾き出し続ける「完全なる戦術家」なのだと。

 

*

 

その後に行われた「屋内対人戦闘訓練」でも、八百万の冬真に対する敬意と焦燥感は増すばかりだった。

 

モニター室で観測した冬真の動きは、まるで未来が見えているかのように完璧だった。

敵役として待ち構えるクラスメイトの動線、廊下の死角。その全てを冷酷に計算し、最小限の冷気で相手の足元を奪い、戦わずして勝利を収めた。

 

訓練後、八百万は意を決して冬真に声をかけた。

 

「氷叢さん! 先ほどの戦闘、素晴らしかったですわ! 廊下の環境を利用して相手の視界と足場を同時に奪うなど、私では思いつきもしませんでした……!」

 

瞳を輝かせて称賛する八百万に対し、冬真は足を止め、氷のように冷たい瞳で彼女を見返した。

 

「……無意味な称賛だ、八百万」

 

「え……?」

 

「俺の立ち回りは、相手の初期動作の遅れという『不確定要素』に依存していた。再現性に欠ける。……それよりも、君の『創造』についてだ」

 

冬真はグローブのベルトを締め直しながら、淡々と、しかし容赦のない事実を突きつけた。

 

「君は個性の発動時、素材の構造を脳内で再構築する際、思考に数秒の遅れがある。……多機能ゆえの『選択の迷い』だ。実戦であれば、その数秒で首を撥ねられる」

 

「っ……!」

 

八百万の頬が朱に染まる。恥ずかしさと、言い返せない己の未熟さに対する不甲斐なさ。

 

「……自覚しておりますわ。私の『創造』は、知識と準備が追いつかなければ機能いたしませんの」

 

「ならば、迷う時間をゼロに近づけろ。思考を戦闘本能にまで昇華させろ。……君の個性は、正しく運用されれば戦場のルールを書き換えるだけのポテンシャルがある。無駄にするな」

 

それだけ言い残し、冬真は振り返ることもなく去っていった。

 

冷たい言葉だった。だが、そこには明確な「指導」と、八百万の可能性に対する「客観的な評価」が存在していた。

 

(あの方は……私を見てくださっている。甘えを許さず、しかし能力を正しく評価した上で、厳しい課題を与えてくださる……)

 

八百万の胸に咲いたのは、怒りではなく、深い尊敬と「この人に認められたい」という強い想いだった。

 

冬真は八百万にとって、遥か高みを行く「目標」であり、雄英で初めて出会った「心の支え」になりつつあったのだ。

 

あの、USJの地獄を見るまでは――。

 

だが、八百万が抱いていた「完璧なる戦術家・氷叢冬真」という像は、USJでの急襲によって脆くも崩れ去ることとなった。

 

山岳エリアに転送された際、冬真が見せた指揮は確かに完璧だった。

敵の数、地形、クラスメイトの個性を瞬時に計算し、上鳴を囮に使い、八百万に絶縁シートを作らせて敵を一網打尽にする。そこまでは、八百万が知るいつもの「冷徹で正解を選び続ける氷叢冬真」だった。

 

狂いが生じたのは、その直後に襲来した異形の怪人――試作脳無の登場だった。

 

「氷叢さん……! あの敵は……!」

 

冷気耐性を持ち、打撃すらも吸収・無効化する異形。

八百万たちの攻撃が一切通用せず、絶望的な戦況に陥ったあの瞬間、冬真が選んだ選択。

 

それが――セーフティを破壊しての、全熱過剰剥奪『万物凍冬』だった。

 

(あんなの……あんなものは、戦術でもなんでもありませんわ……!)

 

机の上のノートを見つめる八百万の瞳に、うっすらと熱いものが込み上げてくる。

 

山全体が砕け散るような絶大な氷結の津波。

脳無を破砕し、敵を鎮圧した直後――その場に崩れ落ちた冬真を抱きかかえた時の感触を、八百万の皮膚は今でも鮮明に記憶している。

 

冷たい、という言葉すら生ぬるい。

まるで氷の塊そのものを抱きしめているかのような、生命の温もりを一切拒絶する圧倒的な死の冷気。

 

唇は紫黒く破裂し、皮膚は凍りつき、胸の鼓動は消え入りそうなほど微弱で、不規則だった。

 

『深部体温……二十八度四分……低下傾向……』

 

うわ言のように、途切れ途切れに己のバイタルを呟いていた彼の姿。

意識が途切れ、心臓が止まりかけている恐怖の最中ですら、彼は己の肉体を「実験データ」のように冷酷に観察していたのだ。

 

『八百万……熱源を……頼む……』

 

そう残して意識を失った冬真を前に、八百万はパニックになりそうな心を必死で抑え込み、『創造』の個性を限界まで回し続けた。

自らの体内脂質を急速に削り出し、化学発熱体を何枚も何枚も生成して彼の体に敷き詰めた。耳郎や上鳴と共に彼の身体を擦り、必死に命の灯火を繋ぎ止めようとした。

 

あの時、八百万の胸を支配していたのは、尊敬でも感嘆でもない。

 

――恐ろしさと、激しい「怒り」だった。

 

(なぜ……なぜご自分の命を、そこまで軽々しく扱えるのですか……!?)

 

あんなにも冷静で、あんなにも計算高く、無駄を嫌っていた人が。

なぜ最後の最後に、己の命を投げ打つような自爆同然の手段を選ぶのか。

 

『自分を犠牲にして仲間を救うな。死んで勝つなんてものは、合理主義でもヒーローでもない』

 

数時間後、ICUの病室で相澤先生が冬真に投げかけた言葉。

ベッドの上で酸素マスクをつけ、静かに目を伏せていた冬真の姿。

 

八百万は悟ったのだ。

氷叢冬真という男は、決して完成された超人などではない。

他者に対して冷酷なまでに厳しい彼は、それ以上に「自分自身に対して、最も冷酷で不仁な男」だったのだと。

 

誰よりも正解を求め、誰よりも効率を突き詰めるあまり、自分の命すらも「戦況を覆すためのコスト」として天秤にかけてしまう。その精神性の危うさ、狂気。

 

(あの方は……ご自分を大切にすることを、最初から計算に入れていらっしゃらない……)

 

*

 

ハッと息を吐き、八百万は自室の天井を見上げた。

 

時計の針は、夜の十時を回ろうとしている。

胸の奥に渦巻いていた複雑な感情が、静かに、しかし確かな一つの「形」へと結実していくのを感じていた。

 

八百万はペンを握り直し、ノートの余白に書かれていた冬真の名前を、ゆっくりとなぞった。

 

入学初日、彼に投げかけられた言葉が耳の奥で蘇る。

 

『迷う時間をゼロに近づけろ。思考を戦闘本能にまで昇華させろ。……君の個性は、正しく運用されれば戦場のルールを書き換えるだけのポテンシャルがある』

 

あの時、彼は確かに八百万の可能性を信じて言葉をかけてくれた。

ならば、今の自分がすべきことは何なのか。

 

彼の背中をただ指をくわえて追いかけ、守られるだけの存在でいることではない。

彼が己の命を削るような無謀な「コスト」を払わずに済むよう、自分が隣に立ち、戦場を支配することだ。

 

「……氷叢さん」

 

誰もいない部屋で、八百万は静かに、強い意志を込めて呟いた。

 

「貴方がどれほど冷徹に己を削ろうとも……私が、それを許しませんわ」

 

貴方が計算を誤り、命を捨てようとした時には、私の『創造』でその完璧な計算を塗り替えてみせる。

貴方が冷たく凍りついて停止しそうになった時には、私が何度でも、その命に熱を与えて繋ぎ止めてみせる。

 

「貴方の『完璧な戦術』の隣に立つに相応しいヒーローに……私は、なってみせますわ」

 

八百万はノートを強く閉じ、静かに立ち上がった。

 

窓の外に広がる夜空には、冷たくも美しい月が輝いていた。

その光はどこか、あの白銀の髪を持つ少年の佇まいに似ていたが――今の八百万の瞳には、もう迷いも焦燥もなかった。

 

氷叢冬真という絶対的な冷熱の存在が、八百万百という一人の少女を、真のヒーローへと覚醒させていく。

 

彼女の静かな決意を胸に抱いたまま、雄英高校での新たな日々が、再び始まろうとしていた。

 




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