宣戦布告と白銀の課題
USJ襲撃事件から一週間。
日本中を震撼させた敵連合の襲来劇は、雄英高校の圧倒的な危機管理能力とプロヒーローたちの迅速な対処、そして生徒たちの奮闘によって最悪の事態を免れた。しかし、その余波は依然として社会全体に不穏な影を落としていた。
校門の前には連日マスコミの手先が押し寄せ、世間の視線は「平和の象徴」オールマイトと、その現場に居合わせた1年A組の生徒たちへと注がれている。
「……たく、毎朝毎朝鬱陶しいな……」
登校風景の中、耳郎響香がだるそうにイヤホンジャックを揺らしながら呟いた。
「仕方ありませんわ。プロヒーローですら危ぶまれた危機を、私たちが乗り越えたのですもの。世間が関心を持つのは当然の摂理です」
隣を歩く八百万百は、背筋をピンと伸ばして答えた。その表情には、USJでの恐怖や迷いの影はもうない。己の『創造』の限界と向き合い、そしてあの白銀の髪の少年——氷叢冬真の隣に立つという決意を固めた少女の瞳は、どこまでも澄み渡っていた。
八百万の視線が、少し前を歩く冬真の後姿へと向けられる。
冬真はいつものように、制服のボタンを一番上まで留め、一切の無駄がない歩調で歩いていた。両手に装着された特殊金属グローブ『過圧弁モデルII』は、先の戦闘で過剰熱奪取の負荷に耐えかねて亀裂が入ったため、現在はサポート課による補修と改良の真っ最中だ。裸手で歩く彼の指先からは、ほんの僅かに白い冷気が不定期に揺らめいていた。
「……氷叢さん」
八百万が声をかけると、冬真は足を止めずに、首だけを僅かにこちらへ傾けた。
「何だ、八百万」
「手首の……体温調節機能の経過はいかがですか? ICUを退院されてからまだ日も浅いですし、無茶な負荷は……」
「問題ない」
冬真の口調は、いつも通り氷のように平坦でドライだった。
「リカバリーガールの治癒補助と、自律神経の加温処理は完了している。現在の深部体温は三十六度四分で安定。心筋への後遺症も観察されない。……懸念事項があるとすれば、過剰熱奪取時における『排熱経路の不在』という構造的欠陥だけだ」
冬真は自分の手元を見つめながら、客観的なデータとして言葉を紡ぐ。
「『万物凍冬』の起動時、奪取した熱エネルギーは俺の肉体を通過して冷却媒体へと変換される。だが、熱を逃がす『逃げ場』が肉体内部に存在しないため、熱力学第二法則に従い、熱勾配による自己冷却(逆流)が発生する。……これが低体温症の真因だ」
「……つまり、個性の出力以前に、ご自身の『排熱機構』を再設計しなければ、再び同じ自爆を引き起こす……ということですわね」
八百万の声音が、僅かに低くなる。
「分かっているなら、なぜあのような無茶を……」
「無茶ではない。あの状況下において、全員が生還する確率は『万物凍冬』の発動時で七十八パーセント。不発動時で十二パーセント未満だった。確率の高い方を選択したに過ぎない」
「〜〜っ……!」
八百万の額に青筋が浮かびかける。自分の命を単なる「確率の変数」として当たり前に扱うこの男の悪癖は、病院を出てからも何一つ変わっていなかった。
(……やはり、この方は……! 私が目を光らせておかなければ、いつか本当にご自分を『使い捨ての計算式』にしてしまいますわ……!)
八百万が手に持っていたスクールバッグをギュッと握りしめたその時、教室内から激しい怒号が聞こえてきた。
*
「どけよデク!! 邪魔だ!!」
「ひ、ヒィッ!? ご、ごめんかっちゃん……!」
1年A組の教室に入ると、すでに不穏な熱気が充満していた。
爆豪勝己が机に脚を乗せ、殺気立った目で周囲を睨みつけている。その視線は、緑谷出久を通り越し、入口から入ってきた冬真へと一直線に向かっていた。
(……チッ、あの氷の野郎……)
爆豪の胸の中では、煮えくり返るような屈辱と焦燥が渦巻いていた。
USJの広場での戦い。自分たちが雑魚ヴィランを散らしている間に、冬真は別種脳無という壊れかけた怪物とタイマンを張り、山ごと凍らせて鎮圧してみせた。ICUに叩き込まれたとはいえ、結果として冬真は「単独で本命クラスの敵を撃破した」のだ。
自尊心の塊である爆豪にとって、その実績は到底受け入れがたいものだった。
「……おい、氷叢」
教室の反対側に座る轟焦凍もまた、静かなオッドアイの瞳で冬真を見つめていた。
轟の右半身からは、僅かな冷気が漏れ出ている。
轟の『半冷半燃』は、右半身から氷を産出する個性だ。だが冬真の『絶対零度』は、空間そのものから「熱を奪い去る」個性。似て非なる二つの冷気。
(あいつの過剰熱剥奪……『万物凍冬』。あの冷気の純度は、俺の右側を遥かに凌駕している。……だが、あの自傷癖。自分の命を削らなければ出せない出力なら、俺の氷結の方が勝っている……)
クラス中の実力者たちが、それぞれの想いを交錯させる中、教室の扉がガラリと開いた。
全身を包帯でグルグル巻きにした重病人スタイルの相澤消太が、だるそうに入ってくる。
「……朝のホームルームを始める。席に着け」
「「「先生、復帰早すぎ!!?」」」
クラス中からツッコミが入る中、相澤は顔面の包帯の隙間から鋭い眼光を光らせた。
「プロの戦いはこれからだ。……そして、お前たちにも休んでいる暇はない」
相澤の低い声が、静まり返った教室に響く。
「雄英高校体育祭の開催が迫っている」
「クソ学校っぽいのキターーー!!!」
クラスのほとんどから揃った叫びが教室内にこだました。
「ちょっと待ってください先生! ヴィランが侵入したばかりなのに、そんなイベントやって大丈夫なんですか!?」
「また襲われたらどうするんだよ……!」
生徒たちの動揺と不安の声に対し、相澤は包帯の奥から冷徹な視線を向けた。
「むしろ逆だ。『雄英の危機管理体制は揺るぎない』と示してこそ、治安の維持と警察の威信に繋がる。開催は決定事項だ。……それに、お前たちにとってもこれは外せないビッグイベントだ」
相澤は黒板の前に立ち、語気を強める。
「かつてのオリンピックに代わり、今や日本最大のビッグイベントとなったのが雄英体育祭だ。全国のプロヒーロー、スカウトが見ている。トップヒーローへの道は、このイベントでどれだけアピールできるかにかかっている。……プロの事務所に入り、現場経験と人脈を得る絶好のチャンスだ」
相澤の言葉に、教室内には不安を上回る熱気が広がっていく。
ヒーローを目指す者として、この舞台を逃すわけにはいかない。
「……プロへのアピール、か」
冬真は自席で静かに言葉を噛みしめた。
世間やスカウトの評価など、彼にとっては二次的な要素に過ぎない。冬真にとって重要視すべきは――『絶対零度』という欠陥を孕んだ個性の有用性を、客観的な数値と成果で証明しきること。
(USJでの別種脳無戦における課題……『過剰熱剥奪時の自己冷却』と『排熱不能による自爆』。……だが、体育祭ではヒーロー科のサポートアイテム使用は原則禁止。過圧弁グローブ(モデルII)に頼ることはできない……)
素手と体操服のみという過酷な条件下で、いかに深部体温の急速低下を防ぎ、個性の出力を精密にコントロールするか。
冬真が脳内で緻密な計算を開始したその時、隣の席の八百万百が意を決したように姿勢を正した。
「……氷叢さん」
八百万は周囲に気遣うように、静かな声で話しかけた。
「体育祭までの準備期間、もし差し支えなければ……訓練の合間に、熱力学や体内代謝における熱交換の理論について、意見交換をさせていただけないでしょうか」
「意見交換?」
冬真は計算を止め、隣に視線を向けた。
「ええ。体育祭ではヒーロー科のサポートアイテム着用が禁止されますわ。つまり貴方は、あの過圧弁グローブなしで『全熱剥奪』の反動に耐えなければなりません。……私の『創造』は、物質の分子構造や熱エネルギーの移動計算がそのまま発動速度に直結いたします。貴方の持つ圧倒的な熱力学の理論値を学ぶことは、私の課題克服に繋がりますし、生体熱力学の観点から貴方の自己制御のトレーニングにも寄与できると考えましたの」
八百万は誠実な瞳で冬真を見つめ、言葉を続けた。
「もちろん、一方的に知識を乞うつもりはありませんわ。効率的な身体冷却の限界値の計測やデータ収集など、私にできる限りのサポートをいたします。……いかがでしょうか」
冬真は無言で八百万を見つめ返した。
単なる情や無謀な手出しではなく、己の課題克服のためのロジカルな提案。そして、提示された利害関係には明確な一理があった。アイテムが使えない以上、生体内での熱分配と微小な分子運動の制御という「生体熱力学」の精度を極限まで高める必要があったからだ。
「……好きにしろ。ただし、双方の訓練の効率が下がると判断した時点で打ち切る」
「はい、感謝いたしますわ!」
八百万の表情がパッと華やぎ、引き締まった笑みが浮かんだ。
*
放課後――。
ホームルームが終わり、帰宅の準備をする1年A組の教室のドア前に、人山ができていた。他科の生徒たちが、USJを生き延びたA組の様子を探りに集まっていたのだ。
「な、なんだ!? ドアが開けられないぞ……! 何しに来たんだお前ら!?」
驚く峰田や緑谷を押し退け、爆豪が不機嫌そうにドアへと歩み寄る。
「敵(ヴィラン)の下見だろ、雑魚。……どけよ、モブども」
「人に向かってモブって言うなよ!」
爆豪の暴言に他科の生徒たちが殺気立つ中、普通科の心操人使が前に出て挑発的な言葉を投げかける。だが、その緊迫した空気の輪から外れた場所で、冬真は淡々と鞄に資料を詰め込んでいた。
「……氷叢」
静かな声が冬真の頭上から降ってきた。
振り向くと、そこに立っていたのは轟焦凍だった。
「……何だ、轟」
轟はオッドアイの瞳で冬真をじっと見つめ、静かに、しかしはっきりとした口調で告げた。
「実力で言えば、お前や爆豪はクラスでも頭一つ抜けている。……特にUSJでのあの氷結。お前の冷気奪取の威力は、俺の右側を上回っていた」
周囲の生徒たちが息を呑む。学年トップクラスの推薦生である轟が、明確に冬真の実力を認めた発言だったからだ。
「だが……お前は自分の命を削らなきゃ出せない『不完全な力』だ。しかも体育祭じゃサポートアイテムも使えねぇ。……俺は、親父の炎(左側)なんて使わなくても、お前も、爆豪も、全員ねじ伏せて一番になる。……それだけだ」
宣戦布告。
轟の瞳には、己の血統に対する暗い執着と、それ以上に「氷の使い手」としての意地が揺らめいていた。
冬真は鞄のジッパーを閉じると、表情一つ変えずに立ち上がった。
「……論点がズレているな、轟」
「何……?」
「俺の個性が不完全であり、装備による補助が得られないことも、すでに織り込み済みの条件(パラメータ)だ。……君が左側を使おうが使うまいが、俺の計算には影響しない」
冬真は轟の横を通り過ぎながら、冷ややかな声で付け加えた。
「俺が戦う相手は、君でも爆豪でもない。……装備なしで『絶対零度』を御しきるための、俺自身の肉体限界だ。邪魔をするなら、計算通りに処理するだけだ」
「……っ」
完璧な拒絶と、圧倒的な冷徹さ。
轟は去っていく冬真の背中を見つめ、拳を強く握りしめた。
*
校舎を出た冬真の隣に、八百万が自然な動作で並び立つ。
「手厳しい宣戦布告を受けましたわね、氷叢さん」
「無意味な挑発だ。感情に任せた勝負など、戦術的な価値を生まない」
「ふふ、相変わらずですわね」
八百万は前を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
夕暮れ時の雄英高校の校庭に、赤々とした西日が差し込んでいる。
体育祭という巨大な戦場に向けて、クラスメイトたちがそれぞれのライバル心を燃やし、己の牙を研ぎ始めている。
だが、この白銀の少年と黒髪の少女の間にあるのは、単なるライバル関係を超えた、静かな「契約」と「信頼」だった。
(アイテムなしで冷気を制御し、自爆の限界値を押し上げる……。体育祭までに、生体熱制御の精度をどこまで引き上げられるかが勝負だ)
冬真は夕焼けに染まる空を見上げ、裸の手を強く握りしめた。
指先から漏れ出る僅かな冷気が、夕日に照らされて白く煌めく。
雄英体育祭——己の価値と真価を世界に証明するための戦いが、すぐそこまで迫っていた。
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