雄英体育祭までの準備期間——残された時間は、わずか二週間。
USJ襲撃事件の衝撃が冷めやらぬ中、1年A組の生徒たちはそれぞれ課題を抱え、特訓に明け暮れていた。
夕闇が迫る放課後のグラウンド。その一角に、澄んだ金属音のような冷気の弾ける音が響く。
「……くっ……!」
地面に片膝をついたのは、八百万百だった。
額の汗を拭いながら、手に持った自作の「温度計」を見つめる。
「発動時間は一・四二秒。前回よりは早くなりましたが……やはり、頭の中で形を組み立てる時に一瞬迷いが出てしまいますわ」
数メートル離れた場所でストップウォッチを手にした氷叢冬真が、淡々と告げた。
八百万の『創造』は、物の構造や化学成分を頭の中で完璧に理解して初めて発動する。だが、物事が複雑になればなるほど「このパーツの素材はこれで、構造はこうで……」と考える手順が増え、出し終えるまでに一瞬のタイムラグが生まれてしまうのだ。
冬真は歩み寄り、八百万の作った温度計に視線を落とした。
「君の『創造』が遅れる理由は、知識不足ではない。むしろ真面目すぎて、一から十まで順番に計算しすぎているのが原因だ」
「計算しすぎ……ですの?」
「そうだ。例えば、家を建てるときに釘の一本一本の構造から考える必要はないだろ。『完成した家』のイメージを頭の中に丸ごと用意しておき、それを一気に引き出せばいい。細かな計算を飛ばして、完成形を一つの画像として脳からロードしろ」
冬真の指摘は、驚くほどシンプルで的確だった。
八百万はハッとして目を見開く。
「パーツごとに順番に組み立てるのではなく、完成したイメージを一度に引き出す……! ええ、それなら思考の手間を大きく省けますわ!」
「そうだ。……次は俺の番だ」
冬真は視線を自身の右手に落とした。
冬真の制服の袖は捲り上げられ、裸の手首からは白い冷気がゆらゆらと立ち上っている。
体育祭ではヒーロー科のサポートアイテム着用が禁止されている。つまり、普段使っているグローブ(過圧弁)による冷却補助は期待できない。素手で『絶対零度』を使えば、周囲から奪い取った激しい冷気の逃げ場がなくなり、そのまま自分の体へ逆流してしまう。結果として、心臓が急激に冷やされ、自爆することになるのだ。
「八百万。俺の胸と手首の温度をモニターしてくれ。……出力を三分の一に抑えて冷気を出す。体に冷気が広がるスピードを測る」
「……危険ですわ、氷叢さん。グローブなしのテストは、昨日も体温が三十三度まで下がったばかりです」
八百万の声に、固い心配が混ざる。
「問題ない。前回のデータから、冷気が心臓に届くまでの猶予は四・二秒とわかっている。……その四秒の間に、奪った冷気を体全体へうまく散らす技術を身につける。それができなければ、体育祭のトーナメントを勝ち抜くことは不可能だ」
「……分かりましたわ。ですが、体温が三十四度を切った瞬間にストップさせます。反論は認めません」
「好きにしろ」
冬真は静かに息を吐き、目を閉じた。
(集中しろ。……個性の発動は熱の移動だ。周りの空気から熱を奪い、その冷気を一箇所に溜め込まず、体全体へうまく散らす……)
次の瞬間、冬真の周囲の空気がミシリと音を立てて凍りついた。
空気中の水分が一瞬で結晶化し、キラキラと舞い散る。グラウンドの土が真っ白な霜で覆われ、強烈な冷気が八百万の肌を刺した。
「……っ! 表面温度マイナス四十度突破……! 冬真さんの体温が急激に下がっています……三十五度……三十四・五度……!」
八百万の持つ端末から、激しい警告音が鳴り響く。
冬真の顔から血色が消え、唇が紫に変色していく。指先が寒さで微かに震えていたが、その瞳は驚くほど静かだった。
(冷気の逆流が始まる。……耐えろ。心臓に達する前に、全身の筋肉を微妙に震わせて熱を生み出し、冷気を打ち消せ……!)
「三十四度……! 氷叢さん、限界です! すぐにやめてください!」
八百万が叫ぶと同時に、冬真は個性の発動を止めた。
「カハッ……! ぐ……ッ!」
膝をつき、激しく咳き込む冬真。
八百万はすぐに駆け寄り、保温シートを彼の肩にかけ、温かいボトルを手に握らせた。
「無茶をしすぎです……! グローブなしで本気の一撃を撃てば、命に関わりますわ!」
「……違う」
冬真は震える手でボトルを受け取り、温かいお茶を喉へ流し込みながら呟いた。
「……進展はあった」
「え……?」
「冷気が体へ広がるスピードが、わずかに遅くなった。……体が冷気に耐えようとしている」
冬真は青ざめた顔のまま、八百万をまっすぐに見つめた。
「端末のグラフを見せてくれ。……まだ改善できる」
その言葉に、八百万は息をのんだ。
自分を極限まで追い込み、苦痛すらも単なるデータの変化として捉える彼の姿勢。だがその裏にあるのは自暴自棄ではなく、「自分の力(個性)を完璧にコントロールし、ヒーローとして証明してみせる」という強い覚悟だった。
(この方は無謀なことをしているのではない。限界のギリギリで、生き残るための計算をし続けているのね……)
八百万の胸に、静かな熱が宿る。
「……ええ、データをお見せします。ですが本日の実験はここまでです。これ以上体温が下がれば本当に危険ですわ」
八百万の強い口調に、冬真は静かに頷いた。
「……了解した」
薄暗くなったグラウンドで、二人は並んで画面を覗き込み、静かに分析を深めていった。
二週間の準備期間は、瞬く間に過ぎ去った。
各自が血の滲むような特訓を重ね、ついに迎えた雄英体育祭の当日。
スタジアムは、早朝から超満員の観客たちの熱気と歓声で鳴り響いていた。日本中、いや世界中の注目が集まるメガイベントの開幕に、空気にすらビリビリとした緊張感が走っている。
1年A組の控え室。
「うわぁぁ……緊張してきた……! 僕、心臓飛び出そうだよ……」
緑谷出久が胸を押さえながらガタガタと震えている。
「体操服着てるだけでこんな注目されるとか、マジでヤバいだろ……」
上鳴や切島たちも落ち着かない様子で体を動かしていた。
そんな喧騒から離れた壁際で、冬真は一人静かにパイプ椅子に腰掛けていた。
体操服の袖を少しだけ捲り上げ、己の両手を見つめる。
グローブはない。手の甲に触れる空気の冷たさがダイレクトに伝わってくる。
(準備は整えた。素手での発動における冷気の逆流……その伝播猶予を、特訓によって四・二秒から四・八秒まで押し広げた。……短時間の局所使用であれば、自爆せずに連続行使が可能だ)
頭の中で無数の計算式を組み立て、心拍数を一定に保つ。
その時、冬真の隣にすっと影が落ちた。
「……氷叢さん」
八百万だ。彼女もまた体操服姿で、凛とした佇まいで冬真を見下ろしていた。
「顔色は悪くありませんわね。深部体温の数値も正常値です」
「当たり前だ。体調管理も計算のうちに入っている」
「ふふ、相変わらずですわね。……ですが、本番では周囲の歓声や雰囲気に飲まれ、予期せぬ力みが生じることも考えられます。無理な広範囲剥奪だけは絶対にお控えください」
八百万の瞳には、かつての迷いや不安は一切ない。冬真と二人で重ねてきた特訓の日々が、彼女自身の『創造』の発動速度と精度を劇的に向上させ、確固たる自信を与えていた。
「言われるまでもない。必要最小限の出力で、最大限の果実を得る。それが効率というものだ」
冬真が立ち上がると、八百万も満足そうに小さく頷いた。
「……おい、デク」
突然、控え室の空気を切り裂くような冷ややかな声が響いた。
声の主は、轟焦凍だった。
入口付近にいた緑谷に向かって歩み寄る轟の姿に、室内の会話がぴたりと止まる。
「轟くん……どうしたの?」
「客観的に見て、俺とお前じゃ力の上では俺の方が上だと思っている」
「え……あ、うん……」
「だが……お前にはオールマイトが目をかけてるよな。俺は別にそこを勘ぐったりはしねぇが……お前には勝つぞ」
一直線な宣戦布告。緑谷が息をのむ中、轟の視線はゆっくりと部屋の奥——冬真へと向けられた。
「……そして、氷叢」
轟のオッドアイが冬真を鋭く射抜く。
「お前がこの二週間でどれだけ素手での制御を詰めてきたかは知らねぇ。だが、命を削るような危うい力じゃ、本当の頂点には立てねぇ。……俺は親父の炎を使わず、俺の氷結でお前の『絶対零度』を超えてみせる」
轟の放つ静かな圧迫感に、クラスメイトたちが息をのむ。
冬真は制服のポケットに手を突っ込んだまま、表情一つ変えずに轟を見返した。
「……比較の前提が間違っている」
「何……?」
「君が俺を超えるかどうかは、君の主観的な感情の問題だ。だが俺にとってこの体育祭は、個性の欠陥を克服し、理論上の数値を証明するための実験場に過ぎない」
冬真は冷酷なまでに平然と言い放つ。
「君の『意地』がどれほどの数値を出そうと、俺の計算結果が変わることはない。……邪魔をするなら、ただ排除するだけだ」
「……言わせておけば……!」
爆豪勝己が椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、殺気を剥き出しにして冬真と轟を睨みつける。
「どいつもこいつも勝手に吠えてんじゃねえぞクソが!! 一番になるのは俺だ!!」
ピリピリとした重圧が控え室全体を支配する。緑谷は息を呑みながらも、二人の背中を見つめ、拳を強く握りしめた。
「……僕も、みんなも……本気で上を目指してるんだ。僕だって……負けるわけにはいかない!」
「……フン」
冬真はそれ以上言葉を交わさず、ドアへと歩き出した。
*
「さあさあさあ!! お待ちかねの1年生ステージ!! ヒーロー科1年A組の入場だーーーーッ!!」
プレゼント・マイクの爆音実況と、地鳴りのような歓声がスタジアム全体を揺らす。
グラウンドへと踏み出した1年A組の生徒たち。
溢れんばかりの観客、眩しい日差し、そして他科(B組、普通科、サポート科、経営科)からの刺さるような視線。
壇上に立った主審の18禁ヒーロー・ミッドナイトが、鞭を振り下ろす。
「選手宣誓! 選手代表、入試トップの爆豪勝己選手!」
爆豪がだるそうにステージへ登り、マイクに向かって短く言い放った。
「……俺が一番になる」
「「「絶対やると思ったーーー!!!」」」
他科からのブーイングが飛び交う中、爆豪はそのままステージを降りていく。
ミッドナイトは気を取り直すように鞭を鳴らし、巨大なモニターを指し示した。
「さあ! それでは気になる第1種目の発表よ!! 運命の……第一回戦はこれ!!」
モニターのスロットが回転し、ピタリと止まる。
『障害物競走』
「総勢11クラス全生徒による、総力戦の障害物レース! コースはスタジアムの外周ほぼ丸々4キロ! 我が校の売りである『自由』を存分に発揮しなさい!!」
生徒たちが一斉にスタートゲートの前に集まり始める。
ゲートの幅は狭く、百人以上の生徒が一度に雪崩れ込めば間違いなく大混乱と足止めが発生する構造だった。
(狭窄路によるボトルネック現象……。スタート直後の集団圧迫率、90パーセント以上)
冬真は最前列から少し離れた位置で、冷静にゲートの構造を見極めていた。
隣に立つ八百万が、短く冬真に視線を送る。
「……始まりますわね、氷叢さん」
「ああ。初期動作で遅れを取れば、無駄な体力を消費する。……最初の一歩で、道をこじ開ける」
冬真は両手をポケットから出し、裸の指先を軽く曲げ伸ばしした。
指先から漏れ出た冷気が、足元の芝生をシャリと白く凍らせていく。
「位置について……!!」
ミッドナイトの声とともに、ゲートのシグナルが赤から緑へと変わる。
「……スタートーーーッ!!!」
爆音のような合図とともに、百人を超える生徒が一気に狭い通路へと押し寄せた。
「ぐわっ!? 狭い……!」
「押すなよ!!」
誰もが前へ出ようともみ合いになる中、冬真の瞳が冷たく光る。
(……生体熱制御、出力一〇パーセント。……路面の分子運動を停止)
冬真が裸の足で地面を強く踏みしめた瞬間——。
ドッ……!
冬真の足元から、波紋のように白い氷の層が全方位へ爆発的に広がった。
「なっ……何だこれ!? 脚が……凍りついて固まったーー!?」
「冷たっ!? 動けねぇ……!!」
スタートゲートに殺到していた他科の生徒たちの足元が、一瞬にしてカチカチに凍りつき、身動きが取れなくなる。冬真が放った「極小範囲の急速凍結」だ。
「甘いぜ、氷叢……!!」
だが、その凍結の波を予測していたかのように、轟焦凍が頭上を跳び越えて前線へと抜け出していく。同時に爆豪も爆風で身を浮かせ、氷の上を滑るように前へと躍り出た。
「ハッ、氷の野郎がやりそうなことだ!!」
氷の拘束を力ずくで破り、前へと脱出していくA組の実力者たち。
「行かせませんわ……!」
八百万もまた、冬真の氷結に巻き込まれることなく、事前に用意していた耐滑性ブーツで滑らかに氷の上を走り抜けていく。冬真と八百万の間で重ねられた「氷結範囲の癖」の共有が、完璧に機能していた。
冬真は、足止めされた大勢の生徒たちを横目に、一切の無駄がないフォームで氷の路面を駆け抜けた。
「ほう……! 1年A組の氷叢と轟が、スタート直後の大混雑を一瞬で制圧したーーッ!! えげつねぇ!!」
プレゼント・マイクの興奮した実力実況が響き渡る中、冬真の視線はすでに、前方に立ちはだかる「第一の障害」へと向けられていた。
コースの先で待ち構えていたのは、USJでも猛威を振るった、あの巨大な巨大ヴィランロボの群れだった。
「……第一の障害か」
冬真は走りながら、自分の右手をかざした。
素手から立ち上る白い冷気が、夕日のように眩しい太陽の光を浴びて、静かに煌めいていた。
(自爆の限界時間……残り四・八秒。……障害物の完全停止(フリーズ)を実行する)
絶対零度の証明——その第一幕が、いま切って落とされた。
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