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雄英高校からの帰り道、夕日が街並みを朱く染め上げていた。
重いカバンを肩にかけ、俺――氷叢冬真(ひむら とうま)は一人、静かな住宅街の坂道を歩いていた。
行き交う人々、帰宅途中の他校の生徒たちの賑やかな声。それらすべてが、自分とは遠く離れた別の世界のもののように思える。
ふと自分の右手に視線を落とすと、そこにはまだ、八百万百から手渡された市販の小さなカイロが握られていた。
とっくに熱を失っているはずのそれは、不思議と俺の冷え切った掌に不釣り合いな感覚を残している。
(……くだらない)
俺は心の中で毒づき、カイロをポケットの奥へと押し込んだ。
八百万百のまっすぐで温かな眼差し。そして、指を一本犠牲にしてまでボールを打ち上げ、「まだ動けます」と言い放った緑谷出久の狂気的なまでの熱量。
道具として育てられ、他人を排斥して生きてきた俺にとって、彼らが向けた純粋な情熱や善意は、理解の及ばない「異物」でしかなかった。それなのに、胸の奥に不快なざわめきが残っている。
坂道を上りきった場所に立つ、落ち着いた佇まいの邸宅。
雄英高校校長、根津の宿舎であるそこに辿り着き、俺は静かに鍵を開けた。
「ただいま戻りました、父さん」
「お帰り、冬真くん。初日の学校はどうだったかい?」
玄関に出迎えたのは、温かい紅茶のカップを持った根津だった。
白くて小さな体を揺らし、いつものように穏やかな笑顔を浮かべている。
*
居間のローテーブルには、いつものように木製のチェス盤が広げられていた。
パチリ、と黒のポーンを動かす根津に向かい、俺は白のナイトを手に取る。
「相澤先生の個性把握テストを受けました。……合理主義を徹底された、容赦のない内容でした」
「ふむ、相澤くんらしいね。彼は見込みのない者を容赦なく切り捨てるが、見込みのある者の芽を摘むような真似はしない。君の目から見て、1年A組のクラスメイトはどうだったい?」
根津の問いに、俺は手を止め、思考を巡らせた。
「……ハイスペックな個性の持ち主は数人います。轟焦凍や八百万百、爆豪勝己などはすでに即戦力と言っていい。ですが……」
「ですが?」
「……理解できない者がいます。緑谷出久という男です」
俺は脳裏に焼き付いた出久の姿を思い返す。
「テストの途中までは、ほとんど最下位クラスの記録しか出せていませんでした。なのに、最後のソフトボール投げで、自分の指を一本壊してまで力を発揮した。壊れた身体で『まだ動けます』と笑う……常軌を逸しています。あそこまで自分の身体を傷つけて、結果を出そうとする意味が解らない」
俺の言葉を、根津は静かに紅茶を飲みながら聞いていた。やがてカップを置くと、細い目をさらに細めて微笑んだ。
「君の言う通り、彼は不器用で、自分を省みない危うさを持っているね。だが冬真くん……君は彼のその『狂気』に、自分と似たものを感じたのではないかい?」
「……俺と?」
思わず眉をひそめる俺に、根津は静かに盤上の駒を指し示した。
「君もまた、己の身を蝕む『冬』という個性を使い、体温が限界まで下がっても平然と立ち続けようとする。自分を削って力を振るう点において、君と緑谷くんはよく似ているよ」
「違います」
俺は即座に否定した。声に思わず冷たい熱が混じる。
「あいつは誰かを救うため、自分がヒーローになるために自傷している。ですが、俺が自分の身体を削るのは……俺自身が一族の道具ではないと証明するための代償に過ぎない。一緒にするな」
根津は怒るわけでもなく、ただ優しく包み込むような視線を俺に向けた。
「そうかい。……では、八百万さんという生徒についてはどうだい? 彼女が君に渡したカイロと保温シートのことだがね」
「……っ、なぜそれを」
「相澤くんから報告が入っているよ。『氷叢の冷気を心配して駆け寄った生徒がいた』とな。彼女の行動は、君にとって不快だったかい?」
「……不快、というより……無意味です」
俺は視線を落とし、白のナイトをそっと置いた。
「俺は一人で処理できます。誰かに心配される筋合いも、助けを求めなければならない理由もない。親切ごかしに近づいてこられても困るだけだ」
「ふふ、不器用だなあ」
根津はクスクスと笑い、黒のビショップを進めた。
「彼女は君を助けることで見返りを求めちゃいないよ。ただ、目の前で凍えているクラスメイトを放っておけなかった……純粋なヒーローとしての善意だ。君がこれまで生きてきた世界には、そういう『無償の熱』が存在しなかっただけの話さ」
無償の熱。
その言葉が、俺の胸の底に重く沈み込んでいく。
*
根津とのチェスを終え、自室に戻った俺は、照明を点けずにベッドの縁に腰を下ろした。
暗闇の中、窓から差し込む月光が部屋を薄青く照らしている。
袖を捲り上げ、己の腕を見つめる。
白く滑らかな肌。だがその下には、冷酷で残酷な「氷叢の血」が流れている。
(無償の熱……か)
そんなものが、この世界に存在するはずがない。俺は幼い頃から、そう叩き込まれて生きてきた。
記憶の底から、旧家・氷叢の本家の匂いが蘇る。
冷たく湿った畳の匂い。廊下を歩く足音すら許されない厳格な静寂。そして、大人たちの冷ややかな視線。
『冬真、お前は氷叢の最高傑作だ。あの冷(れい)のように壊れてはならん』
『エンデヴァーに売られた冷は失敗作だったが、お前の「冬」は違う。轟家の焦凍などという出来損ないを超え、我が一族を再び頂点へ導くのだ』
伯母である氷叢冷が、エンデヴァー――轟炎司のもとへ嫁がされ、やがて心を病んで病院に収容された事件。
氷叢の大人たちは、冷の悲劇を哀れむどころか「失敗作」と切り捨て、その血を引く俺にさらなる歪んだ期待を寄せてきた。
父も母も、俺の顔を見るたびに「個性の成長」だけを確かめた。
熱を出して倒れても、体が凍りついて動かなくなっても、与えられたのは温かな抱擁ではなく、次の訓練への命令だけだった。
『痛むか? 凍えるか? ならば耐えろ。氷叢の人間が氷に負けてどうする』
(……誰も、俺を見てはいなかった)
見ていたのは、俺の背後にある「冬」という強力な個性だけ。
だから俺は、12歳のあの夜、すべてを捨てて逃げ出したのだ。
一族の道具として誰かを傷つけ、自分を壊していく未来を拒絶するために。
根津校長に拾われ、「氷叢冬真」という一人の人間として生きる道を提示された。
俺が雄英に来たのは、ヒーローになって有名になりたいからでも、誰かを救う聖者になりたいからでもない。
圧倒的な力を持つプロヒーローとなり、氷叢の本家すらも手を出せない存在になること。
そして、道具としてではなく「俺自身の意志」で生きていると、あの冷酷な大人たちに見せつけてやること。
そのためなら、どれだけ身体が凍りつこうが構わない。一人で耐え抜いてみせる。
「……なのに」
俺はポケットから、昼間のカイロを取り出した。
『仲間が手を差し伸べるのを拒むことが、貴方の仰る「一人で処理する」ということなのですか!?』
八百万百の真っ直ぐな叫びが、耳の奥でリフレインする。
『氷叢くん……僕、なんとか残れたよ……』
指を真っ赤に腫れ上がらせ、ボロボロになりながら笑っていた緑谷出久の顔が重なる。
彼らは俺の過去も、背負っている血の重さも知らない。
ただ同じ「1年A組」の生徒として、まっすぐに俺と向き合おうとしてくる。
道具として生きてきた俺の領域に、土足で踏み込んでくる「熱」。
それが鬱陶しく、恐ろしい。己の固い氷壁が、彼らの熱によって侵食され、崩れてしまうのではないかという見えない恐怖。
「……溶かされてたまるか」
俺はカイロを机の引き出しの奥へと仕舞い込み、静かに鍵をかけた。
己の体を冷やすように、静かに息を吸い込む。
明日からも、俺は孤高であり続ける。誰にも頼らず、誰とも交わらず、ただ己の氷を研ぎ澄ますだけだ。
窓の外を見上げると、夜空には冷ややかな月が浮かんでいた。
その孤高な輝きに自分を重ね合わせながら、俺は静かに目を閉じた。
(俺の冬は……誰にも溶かせない)
胸の奥で誓うその決意が、どこか切なく揺れていることに、俺自身まだ気づいてはいなかった。
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