雄英高校の朝は、驚くほど静かに始まる。
広大な校地を囲む巨大な壁、近代的で洗練された校舎。その中で朝の陽光を浴びながら、俺――氷叢冬真(ひむら とうま)は自室を出て、1年A組の教室へと足を運んでいた。
昨日、個性把握テストという理不尽な洗礼を受けたばかりだというのに、廊下を行き交う生徒たちの表情にはどこか晴れやかな熱気が混ざっていた。世界最高峰のヒーロー育成機関。ここに集まる全員が、己の「個性」と「夢」に絶対の自負を持っている。
(……俺とは、根本から違う)
俺がここへ来たのは夢を追うためではない。氷叢という血の呪縛を振り払い、一人の人間として独立するための「実績」を得るためだ。
「おはよう、氷叢くん!」
教室の扉を開けると、すぐ近くで声をかけられた。
振り返ると、緑谷出久が少し遠慮がちに、だがまっすぐな目を向けて立っていた。右手の指には、昨日のテストで負荷をかけた痕跡だろうか、痛々しいテーピングが巻かれている。
「……緑谷か。その手はもういいのか」
「あ、うん! 保健室でリカバリーガールに治療してもらったから、もう大丈夫だよ。……昨日は、冷たい言い方させてごめんね。僕、舞い上がっちゃってて……」
ペコペコと頭を下げる出久。俺は彼の真っ直ぐな瞳にどこかわずかな居心地の悪さを覚え、そっけなく目線を逸らした。
「謝る必要はない。俺はお前に興味がないだけだ」
「う、うん……あはは……」
苦笑いを浮かべる出久を置き去りにして、俺は窓際の己の席へと向かう。
すでに向かいの席には轟焦凍が座り、静かに窓の外を見つめていた。焦凍はこちらに一瞬視線を走らせたが、何も言わずにただ深く息を吐くだけだった。お互いの家庭が抱える重冷な影。それを知るからこそ、安易な会話は生まれない。
「みんなー! おはよう!」
教室の雰囲気を一変させたのは、天真爛漫な声を上げて入ってきた麗日お茶子だった。彼女の登場とともに、クラスのあちこちで会話の輪が広がり始める。
「おいおい、昨日の相澤先生の除籍宣言、マジでビビったよな!」
「本当それな切島! 誰か一人は本気でクビにされるかと思って生きた心地しなかったぜ!」
赤髪を逆立てた切島鋭児郎と、金髪に稲妻模様の入った上鳴電気が、胸を撫で下ろしながら身乗り出して語り合っている。
「静粛に!! 朝のホームルーム開始5分前だ! 全員速やかに着席したまえ!!」
眼鏡をかけた飯田天哉が、まるでロボットのような正確すぎる手つきでクラスを仕切ろうと腕を上下に振る。だが、肝心の爆豪勝己は足を机の上に放り投げ、不機嫌そうにチッと舌打ちを鳴らすだけだった。
(これが……『普通の高校生活』というやつか)
教科書を開き、英語や国語といったごく普通の座学授業が朝から昼にかけて粛々と進んでいく。
黒板に向かってノートを取るクラスメイトたち。休み時間になれば、「どこの中学出身?」「昨日のテスト、マジで焦ったよね」と他愛もない会話が交わされる。
その光景は、俺が幼少期から叩き込まれてきた「一族の訓練」とは余りにかけ離れていた。
一切の雑音を削ぎ落とし、ただ冷気を研ぎ澄ますだけの毎日。互いを高め合うのではなく、互いを「道具」として格付ける冷酷な世界。
ここにあるのは、俺が知らなかった「普通の温もり」だ。
だが、その温もりが高まれば高まるほど、俺の胸の奥にある冷たい芯が浮き彫りになっていくような、奇妙な疎外感が拭えなかった。
「……冬真さん」
昼休み、購買で買ったパンを静かに噛みしめていた俺に、八百万百が声をかけてきた。
「昨日は……余計なお世話を焼いてしまい、失礼いたしました」
丁寧にお辞儀をする彼女。俺は咀嚼を終え、淡々と首を振った。
「言ったはずだ。気にするなと。……お前の渡してきたものは、すでに処理した」
「……そうですの」
八百万はどこか寂しげに瞳を伏せたが、すぐに姿勢を正し、凛とした表情を取り戻した。
「ですが、私は諦めませんわ。クラスメイトが困っていたり、お苦しみになっている時に手を差し伸べる……それが、私の目指すヒーローの姿ですもの」
「……勝手にすればいい」
まっすぐすぎる善意。拒絶されても折れない彼女の芯の強さに、俺は返答に窮し、短く吐き捨てることしかできなかった。
*
午後になり、食堂での昼食を終えた生徒たちが教室へ戻ってくる。
窓から差し込む陽光が少し傾きかけた頃、誰もが待っていたその時間のチャイムが鳴り響いた。
それまでの平穏な空気が、一瞬にして緊張感と高揚感へ塗り替えられる。
「私が!! ドアから普通に来た!!!」
豪快な爆音とともに、教室の扉が勢いよく開かれた。
黄金の前髪をなびかせ、圧倒的な威容を誇る平和の象徴――オールマイトが姿を現したのだ。クラス全体から割れんばかりの悲鳴と歓声が湧き上がる。
「オールマイトだ……! 本物だ!」
「すっげえええ! 本当に教員やってんだ!」
「ヒーロー基礎学! ヒーローの素地を作るため、様々な訓練を行う科目だ!」
オールマイトは腰に手を当て、力強く胸を張る。
「そして本日はこれ!『屋内対人戦闘訓練』!!」
「戦闘……訓練!」
爆豪がニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、出久がビクッと肩を跳ねさせる。相澤先生からの事前告知は何もなかった。初日から抜き打ちのような実戦訓練。これが雄英のやり方か、と俺は心の中で静かに息を吐いた。
「そして戦闘訓練と言えば、これだ!!」
オールマイトが壁を指差すと、仕込まれていたラックがスライドし、1から20までの番号が振られた金属製のケースが飛び出してきた。
「入学前に提出してもらった『個性届』と要望に基づき用意された――『戦闘服(コスチューム)』!! 着替えてグラウンドβに集まるんだ!!」
「「「はい!!!」」」
*
グラウンドβへと続く暗いトンネルを抜け、陽光の下へと歩み出る。
色とりどりの戦闘服に身を包んだクラスメイトたちが、互いの姿を見て声を掛け合っていた。
「格好から入るってのも大切なことだぜ、少年少女よ!」
オールマイトが満足そうに頷く。
その輪から少し離れた位置で、俺は己の装束の感触を確かめていた。
白と深いネイビー(紺色)を基調とした、幾何学模様の幾重にも重なるハイカラーのロングコート。肩からは白から半透明のアイスブルーへと滑らかにグラデーションする、フード付きの薄いマントが流れている。
一見すれば、現代的にアップデートされた「魔道士(ウィザード)」の法衣。
(父さんが手配してくれた、最新のサポートギア……)
アウターの見た目とは裏腹に、インナーには高密度の熱伝導ワイヤーが巡らされた漆黒のサーマルコンプレッションスーツが仕込まれている。俺が個性を使い、体温が急激に奪われた際に発動し、過度な冷却を吸収・分散するための防寒ギミックだ。
さらに両手には、冷気を一定方向に収束させて放つための銀色のアクリル触媒リング――『集束グローブ』が装着されている。
「……冬真さん」
声をかけられ振り返ると、そこには赤と白を基調とした、露出度の高いスーツを纏った八百万百が立っていた。
彼女は俺の全身を覆う寒色調のコスチュームを一巡り見つめると、感心したように息を漏らした。
「とても素敵ですわ……! 洗練されたデザインでありながら、寒色で統一されていて、冬真さんの洗練された雰囲気にぴったりです」
「……機能性を追求しただけだ。冷気の集束と、体温の維持。それ以上でもそれ以下でもない」
俺がいつものように淡々と返すと、八百万は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ふふ、相歳わらず冷めた仰りようですのね。ですが……そのスーツが、貴方の『お体』を守るためのものだと聞いて、少し安心いたしましたわ」
今朝の会話や昨日のカイロの件を思い出させる言葉。俺は小さく顔を背け、言葉を飲み込んだ。余計な情熱を持ち込まないでくれ、と心の中で呟きながら。
周囲を見渡すと、緑谷出久が手作りのような緑色のスーツに身を包み、おどおどとしながら麗日お茶子と話していた。その姿を、爆豪が殺気立った眼差しで射殺さんばかりに見つめている。
「よし! それじゃあ戦闘訓練の説明に入るぞ!」
オールマイトの声で、全員の視線が集まった。
訓練の舞台は、ビル内部での「屋内戦」。
ヴィラン組がビル内に「核兵器」を設置して隠し、ヒーロー組は制限時間内にそれを回収(タッチ)するか、ヴィランを全員拘束すれば勝利。ヴィラン側は核を守り切るか、ヒーローを撃退すれば勝利となる。
「チームは……このくじ引きで決める!!」
オールマイトが掲げた箱から、次々とアルファベットが読み上げられ、ペアが決定していく。
そして、俺のくじが引かれた。
「Jチーム:氷叢冬真、常闇踏陰!」
「よろしく頼む、氷叢」
声をかけてきたのは、漆黒の鳥のような頭部を持つ少年――常闇踏陰だった。漆黒のマントを纏い、静かな目つきで俺を見つめている。
「……ああ。よろしく、常闇」
無駄な喋りを好まない、静かな立ち振る舞い。俺と同じように他人との間に明確な境界線を引いているタイプの男だ。直感的に、やりやすさを感じた。
全員のチーム分けが完了すると、オールマイトは二つの箱にそれぞれ手を差し入れた。
「そして記念すべき第一試合は……このふたつだ!!」
引かれたくじは『A』と『D』。
「Aチーム(ヒーロー)対Dチーム(ヴィラン)だ!!」
「……ッ」
出久と爆豪のチームが、真っ先に最初の対戦カードとして決まった。出久の顔が一気に蒼白になり、爆豪の全身からどす黒い威圧感が跳ね上がる。
(俺たちJチームの出番はまだ先か……)
誰が自分たちの相手になるかもわからぬまま、俺たちはモニタールームへと移動を開始した。
*
モニタールームに集まったクラスメイトたちが、無数の監視カメラが映し出すビルの映像を見つめる。
ヴィラン組の爆豪と飯田がビル内に入り、続いてヒーロー組の出久とお茶子が潜入を開始する。
俺は腕を組み、壁にもたれかかりながら冷ややかにモニターを見つめていた。
(緑谷出久……個性の反動で自傷する男。あいつが爆豪という暴虐な男相手にどう動くか……見極めさせてもらう)
画面の中で、角を曲がった出久たちの前に、突然壁から跳び出した爆豪が襲いかかった。
ドカァンッ!! という凄まじい爆音がスピーカー越しに響き、モニターの映像が煙で揺れる。
「うわっ! 奇襲かよ! 爆豪のやつ容赦ねえな!」
切島が声をあげる。
だが、煙が晴れた画面の中で、出久は倒れていなかった。
それどころか――出久は爆豪の右腕をしっかりと掴み、その背負い投げの要領で爆豪を床へと叩きつけていた。
「なに……!?」
モニタールームに衝撃が走る。あの爆豪の攻撃を、個性を発動させていない出久が完璧に読み切って対処したのだ。
画面越しの出久の瞳。
恐怖で全身を激しく震わせながらも、その奥には――爆豪勝己という圧倒的な壁を乗り越えようとする、狂気的なまでの「執念」と「熱」が爛々と輝いていた。
(……なんだ、あの目は)
俺の胸の奥で、カチリ、と小さな氷の楔が削れる音がした。
昨日、指を折ってまでボールを投げたあの時と同じだ。
自分を壊し、恐怖に押し潰されそうになりながら、それでも前へ進もうとする泥臭い熱量。
(なぜだ。なぜそこまでして戦う。……ヒーローという称号に、それほどの価値があるというのか?)
俺が「一族の道具」から逃れ、己を証明するための手段として捉えているヒーローという存在。
だが、あの男が燃やしている情熱は、俺の冷めた計算とは根本から異なる何かだ。
「……緑谷出久」
俺は無意識のうちに、呟いていた。
手袋越しに握り締めた左手の拳が、静かに冷気を帯び始めていた。
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