午前の座学から始まり、午後に行われた屋内対人戦闘訓練の緊迫した空気も、終礼の号令とともにようやく解けていった。すっかり放課後となったA組の教室は、夕暮れの斜光を浴びながら賑やかな熱気に包まれている。
そんな喧騒のなか、冬真は黙々と鞄に教科書を詰め込み、帰宅の準備を整えていた。誰とも交わらず、ただ粛々とその日の課題を消化して去る――それが彼にとって最も効率的な日常の過ごしかただった。
「……断る。帰宅して本日の訓練データの整理と、体温管理のためのトレーニングがある」
そう言い捨てて、氷叢冬真は鞄を肩に掛け、一切の躊躇もなく教室を出て行った。
「うわ、即答! ほんとストイックだなー!」
芦戸三奈がカラカラと明るい声をあげ、離れていく冬真の背中に向かって手を振る。教室の扉が静かに閉まり、廊下に響いていた規則正しい靴音が遠ざかっていくと、教室の中に残された空気はどこか妙な静けさを取り戻していた。
「いやぁ……マジで容赦ねえ断り方だったな」
瀬呂範太は苦笑いを浮かべながら、冬真の手が触れていた机の端に視線を落とした。
放課後の夕日が差し込む1年A組の教室。ついさっきまで氷叢が座っていたその一角だけが、周囲の賑やかさを少しだけ遠ざけているように感じられる。
「ねぇ瀬呂くん、私ちょっと嫌がられちゃったかな? 馴々しすぎた?」
芦戸が自分のピンク色の頬を突きながら、少しだけ首をかしげる。
「いや、芦戸のせいじゃねえろ。あいつ、朝からずっとあんな感じだしな。っていうか、俺の『駄菓子屋行こうぜ』も微妙だったか。あの氷叢が駄菓子屋でブタメン食べてる姿、全然想像つかねぇし」
「ぶはっ! 確かにな! グローブ外して真顔で当たりくじ確かめてたらウケる!」
二人の呑気なやり取りに、近くで解氷処置を終えたばかりの上鳴電気が、肩をすぼめながら歩いてきて会話に混ざった。
「笑い事じゃねえって。俺なんて今日、見事なくらい引き立て役にされたんだぞ? 『絶縁体だから電気が通らない』とか、言われてみりゃそうだけどさ……あの土壇場でパッと思いついて完璧に防ぐとか、普通に頭良すぎて意味わかんねぇよ」
上鳴は自分の右手の甲をさすりながら、げんなりとした顔で呟く。
「まじで何食ったらあんな冷静でいられるんだろ。推薦組ってのは、ヤオモモもそうだけど、やっぱり元から次元が違うのかな」
「え〜、でもヤオモモは話しかけたら普通に優しく教えてくれるじゃん? 氷叢くんはなんていうか……話しかけちゃいけないオーラが出てるというか」
芦戸の言葉に、切島鋭児郎がガチガチに硬化させた腕を解きながら腕組みをした。
「まあ、取っ付きにくさはあるけどよ。あの氷の出し方はマジで凄かったぜ! 俺の『硬化』の上から一瞬でガチガチに固められたからな。破られたとか痛かったとかじゃなくて、急に動けなくなったんだ。……あいつ、めちゃくちゃ練習してんだろうな」
「ほんとストイックだよなぁ。俺なんか訓練終わったらソッコーでジュース飲みたいのに、あいつ『データの整理』とか言ってたぞ?」
瀬呂が呆れたように笑う。彼らにとって、冬真のあの徹底した態度は「生い立ちの影」や「複雑な過去」といった深読みの対象ではなく、単に「めちゃくちゃ真面目で、ちょっとお堅い凄腕の同級生」という等身大の受け止められ方だった。
だからこそ、彼らのノリには一切の重たさがない。
「でもさ、ヒーロー科に入ったんだから、これからもずっと一緒に訓練するんだろ? だったらそのうち慣れるんじゃね?」
「だな! 今日は振られたけど、また明日普通に話しかけてみようぜ!」
「切島、お前があんまりグイグイ行くと普通に鬱陶しがられるぞ〜」
クラスメイトたちの会話は、すぐに高校生らしい脱線と雑談へとしなやかに戻っていった。
*
その騒がしい輪から少し離れた席で、轟焦凍はただ一人、黙って夕日に染まる校庭を見下ろしていた。
クラスメイトたちの「氷叢はストイックで凄い」という能天気な評価。それらが耳に入るたび、焦凍の右半身から無意識のうちに微かな冷気が漏れ出す。
(ストイック、か……)
ロッカールームでの冬真とのやり取りが、焦凍の脳裏に激しく引っかかっていた。
『誰の道具でもない』
『自分を壊さないためにこの戦い方を選んだだけだ』
クソ親父――エンデヴァーへの憎悪だけで生きている自分にとって、冬真のあの「完璧すぎる氷」は反吐が出るほど鼻につくものだった。まるで親父が求めてやまない『理想の規格』を目の前で見せつけられているような感覚。
だが、冬真の言葉には、親父に縛られている自分とは根本的に異なる「冷たい冷徹さ」があった。
(あいつは俺とは違う……。だが、何のためにあそこまで自分を殺して力を振るう……?)
焦凍は右手を強く握りしめた。
自分は右の氷だけであのクソ親父を完封し、存在を否定する。それが自分のすべてだ。
それなのに、冬真のあの「傷つかないための氷」を見ていると、自分の抱く復讐心すら揺さぶられるような、苛立ちとも焦りともつかない不快感が胸の底に渦巻いていた。
*
「飯田くん、麗日さん。待たせ手ごめん!」
保健室での治療を終えた緑谷出久が、包帯を巻かれた痛々しい姿で教室のドアを開けたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「おお、緑谷! 大丈夫だったか!?」
「デクくん! 腕、痛むんと違う!?」
集まっていたクラスメイトたちが一斉に出久を囲む。出久は縮こまりながらも、申し訳なさそうに笑った。
「うん、リカバリーガールに治してもらったから大丈夫だよ。みんな、僕のせいで遅くなっちゃってごめんね……」
「何を出しているんだ緑谷くん! 君の奮闘は見事だった! だが次はもっと個性の制御に気を配りたまえ!」
飯田天哉が腕を大袈裟に振って説教を始める。出久は「はい……」と小さく首をすくめながら、ふと教室の奥へと視線を向けた。
そこには、すでに主を失った綺麗なデスク。
氷叢冬真の席だった。
(氷叢くん……)
出久の脳裏に、モニタールームのモニター越しに目撃した冬真の姿が鮮明に浮かび上がる。
一切の無駄がない、洗練された立ち回り。
相手の『個性』の性質を完璧に把握し、建物も、味方も、そして自分自身すらも傷つけずに終わらせた、圧倒的な勝利。
(凄かった……本当に、凄かったな……)
出久は自分の傷だらけの手を見つめた。
自分は『ワン・フォー・オール』の力に振り回され、骨を砕き、全身をボロボロにしてようやく勝つことができた。オールマイトの期待に応えようと、必死に振りかざした腕。
だが、氷叢冬真の戦い方は、出久の知るどんなヒーローとも違っていた。
(あの人は自分の力を完全にコントロールしていた。……ボロボロになって勝つ僕とは、全然違う)
憧れと、そして自分に対する圧倒的な不甲斐なさが出久の胸を突き刺す。
「緑谷? どうしたんだ、ボーッとして?」
「あ……ううん! 何でもないよ、切島くん! ただ、今日の訓練、みんな本当に凄かったなって思って……」
「だろ!? 特に氷叢の奴な! あいつマジで容赦ねえんだよ!」
上鳴がワーワーと今日の冬真の強さを出久に語り始める。
出久はそれに頷きながらも、握りしめた拳にぐっと力を込めた。
(僕も……早く力を自分のものにしなきゃ。あんな風に、誰も傷つけずに勝てるくらい、強くならなきゃ……!)
*
「みなさーん! カフェ混んじゃうから早く行きましょうー!」
麗日お茶子の弾んだ声が響き、生徒たちがぞろぞろと教室を抜け出していく。
「よし! ジュース買って帰ろうぜ!」
「お前駄菓子屋もハシゴする気だろ!」
賑やかな足音が遠ざかり、放課後の教室には静寂だけが残された。
冬真が去ったあとのデスクには、夕暮れの赤い光が静かに落ちている。
クラスメイトたちは冬真の「凄さ」や「お堅さ」を素直に受け止め、焦凍はそこに己の呪縛と不快感を重ね、出久は己の無力さを噛み締める。
冬真自身がどれほど他者との関わりを拒み、無駄を削ぎ落とうと割り切っていようとも、彼が残した圧倒的な冷気とその存在感は、確実に周りの熱を狂わせ始めていた。
自分を守るための絶対零度。
それが崩れ去る戦いが近づいていることを、まだ誰も知らない。
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