まだ朝の空気が残る鎮守府の港に、出撃する艦娘たちが集まっていた。
旗艦、加賀。軽空母、鳳翔。戦艦、私――土佐。重巡洋艦、足柄。軽巡洋艦、神通。そして、駆逐艦の時雨。
艤装の最終確認を済ませ、左腰の刀へ手を添える。黒い鞘は、いつもと変わらずそこにあった。
「土佐」
声に顔を上げると、時雨がこちらへ歩いてきていた。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
時雨は私の艤装をちらりと見て、穏やかに笑った。
「また一緒だね」
「ああ。そうだな」
初めて海へ出た日のことを思い出す。あのときも、時雨は同じ艦隊にいた。
「初めて出撃したとき以来かな」
「そうなるな」
「なんだか、ずいぶん前みたいだね」
「まだ、そんなに経ってないぞ」
「ふふ。そうなんだけどね」
時雨が少し目を細める。
「でも、前よりずっと慣れたみたいだ」
「そう見えるか?」
「うん。前より、頼りにしてるよ」
「前は?」
「もちろん、あのときも頼りにしていたよ」
「ならいい」
時雨が小さく笑った。
「土佐さん」
振り向くと、神通が丁寧に頭を下げた。
「神通だったな」
「はい。姉から、お話は聞いています」
「川内から?」
「はい」
「何を聞いた?」
「それは……色々と」
神通が僅かに困ったように笑う。やはり、詳しくは聞かない方がよさそうだ。
「姉がお世話になっています」
「いや。私の方こそ、世話になってる」
「姉が、土佐さんとは話が合いそうだと言っていました」
「私も聞いた」
少し間を置き、神通を見る。
「帰ったら、ゆっくり話そう」
「はい。楽しみにしています」
神通が微笑んだ。
その向こうでは、足柄が艤装を確認していた。
「準備はできてる?」
「ああ。問題ない」
「いい返事ね。哨戒とはいえ、敵が出たら遠慮はいらないわよ」
「分かってる」
「頼りにしてるわ、戦艦さん」
「任せろ」
鳳翔とも朝の挨拶を交わす。いつもと変わらない穏やかな声に、これから向かうのは普段通りの哨戒任務なのだと思えた。
やがて、加賀が全員を見渡す。
「全員、揃っているわね」
その一言で空気が変わった。
「任務は昨日伝えられた通りです。指定海域を哨戒し、敵艦隊の活動状況を確認します」
加賀の視線が私たちを順に通る。
「現時点では通常の哨戒任務です。ただし、敵の活動が活発になっているという報告があります。不測の事態が発生した場合は、私の指示に従ってください」
「了解!」
足柄が答え、神通と時雨も続く。
「了解」
私も頷いた。一瞬だけ加賀と目が合う。
今日は、この人の指揮下で海へ出る。
「では、出撃します」
◆◆◆
海は穏やかだった。少なくとも、最初は。
加賀を先頭に、艦隊は指定された海域を進んでいく。上空には加賀と鳳翔の艦載機が展開していたが、しばらく進んでも敵影はなかった。
『静かねぇ』
足柄の声が通信から聞こえる。
『静かな方がいいでしょう』
神通が返す。
『それはそうなんだけど。せっかく出たんだから、ちょっとくらい――』
『足柄さん』
『冗談よ、冗談』
私も海面を見ながら息を吐く。昨日の疲労は残っていない。艤装の調子もいい。
『土佐』
「ん?」
『何かありますか』
「いや。今のところ、何もない」
それから間もなく、上空を旋回していた艦載機の一機が大きく進路を変えた。
加賀が顔を上げ、その表情が変わる。
「……敵影」
鳳翔が数を尋ねる。
加賀は艦載機から届く情報を拾い、目を開いた。
「六隻。戦艦二、重巡一、軽巡一、駆逐二」
「哨戒で出会うには、ちょっと重いわね」
「それだけではありません。敵旗艦、戦艦ル級flagship級。随伴の戦艦と重巡にもelite級を確認」
神通が静かに艤装へ手を添えた。
「通常の哨戒部隊ではありませんね」
「ええ。ですが、まだ対処可能です」
加賀の声に迷いはない。
「鳳翔さんは航空隊を。足柄、神通は前衛。時雨は神通の援護を」
次々に応答が返る。そして、加賀の視線が私へ向いた。
「土佐。私たちで敵戦艦を抑えます。やれる?」
問いではない。確認だった。
口元が僅かに上がる。主砲を旋回させる。
「ああ。任せろ」
◆◆◆
最初に空が鳴った。
加賀と鳳翔の艦載機が敵艦隊へ殺到する。激しい対空砲火の間を縫い、爆炎を広げた。敵駆逐艦の一隻が大きく傾く。
「まず一つ!」
足柄が前へ出て、神通と時雨が続く。
私はそのさらに向こう、二隻の戦艦を見た。そのうち一隻がこちらへ主砲を向ける。
砲塔。肩。視線。
――来る。
海面を蹴る。直後、先ほどまでいた場所に砲弾が落ち、水柱が上がった。
身体を捩りながら主砲を向ける。
「そこだ」
撃つ。
砲弾が敵戦艦の艤装へ命中し、爆炎が上がる。だが、まだ沈まない。
「……硬いな」
長門ほどではない。だが、これまで戦った敵より明らかに速い。それでも、読めないわけではない。
「もう一発」
敵の砲撃を避けて撃つ。今度は深く入った。さらに一発。
爆炎の向こうで、敵戦艦の巨体が海へ沈んでいった。
『土佐!』
加賀の声に反応して身体を動かす。砲弾がすぐ横を通過し、爆風が髪を大きく乱した。
残った戦艦。
敵旗艦。
ル級flagship級。
「……次は、お前か」
主砲を向ける。向こうも同時に動いた。
◆◆◆
数度撃ち合っただけで、これまでの敵とは違うと分かった。
速いだけではない。私がどちらへ避け、どの瞬間に撃つのか。それを見ている。
敵旗艦が撃つ。避けて反撃する。敵も避ける。
さらに砲撃。身体を沈めると、頭上を砲弾が抜けた。
主砲を向ける。
その瞬間、横から殺気を感じた。
重巡elite級。
咄嗟に進路を変え、砲撃を避ける。
そう思ったときには、正面から敵旗艦の主砲がこちらを向いていた。
遅い。
爆音。
身体が吹き飛ばされ、海面を滑った。右舷側の艤装が軋む。
それでも、主砲は動いた。
「まだいける」
『土佐!』
「問題ない!」
『損傷を報告して』
「右舷艤装損傷。だが、主砲は使える」
『無理はしないで』
「ああ」
敵旗艦と重巡は、どちらも私を見ていた。
――狙われてるな。
「好都合だ」
私を見ている間は、他へ砲撃が行かない。
主砲を撃つ。敵旗艦が避ける。追い、また撃つ。
足柄の砲撃が重巡へ入った。神通と時雨も敵を押し、鳳翔の艦載機が敵軽巡を牽制している。
戦える。
まだ、やれる。
しかし、呼吸が荒くなっていた。損傷した艤装の反応も鈍い。
――昨日と同じだ。
長門との演習。気づかないうちに削られていた。
違うのは、これが演習ではないことだ。
「……性格悪いな」
敵に言っても仕方がない。それでも少し笑い、主砲を撃つ。
命中。
敵旗艦の艤装から炎が上がる。
「……入った」
あと少し。
右側の主砲は反応が悪い。
なら。
左手を腰へ落とす。指が黒い鞘へ触れた。
距離は遠い。だが、詰められない距離ではない。
砲撃を潜り、懐へ入る。
そこまで行けば。
「……斬れる」
『土佐』
「何だ」
『何をするつもりです』
親指で鍔を押し、鯉口を切る。
「近づく」
『駄目です』
「こいつはもう傷んでる。近づけば仕留められる」
『あなたも傷んでいます』
僅かな沈黙。
『近づくまでに、もう一発受けたら?』
「避ける」
『避けられなかったから、今その状態なのでしょう』
正論だった。
だが、敵旗艦はまだ動いている。
「それでも、いける」
『土佐』
「大丈夫だ」
海面を蹴った。
『土佐!』
敵旗艦が主砲を向ける。
砲口。視線。肩。
見える。
今。
身体を沈める。砲撃が頭上を抜けた。
距離が縮まる。さらに踏み込み、右手で柄を握る。
抜く。
黒い鞘から刀身が走った。
――届く。
その瞬間、横の重巡elite級が砲を向けた。
「っ!」
咄嗟に身体を捩り、刀を引いて身を庇う。直撃は避けたが、着弾の爆風が身体を強く叩いた。
姿勢が崩れる。
ほんの一瞬だけ、敵旗艦から目が離れた。
正面。
敵旗艦の主砲が、こちらを向いていた。
――しまった。
轟音。
視界が白く弾けた。
◆◆◆
音が遠い。
何かが軋んでいる。それが自分の艤装だと気づくまで、少しかかった。
片膝をつき、海面へ手をついていた。息が苦しい。
右舷側の艤装は動かない。主砲も一基。いや、二基。
「これは……」
さすがに、まずいか。
『土佐!』
「聞こえてる」
刀は握っている。なら、まだ立てる。
刀を支えに身体を起こし、脚に力を入れた。
敵旗艦も、重巡もまだいる。
「まだ」
刀を握り直す。
『土佐、後退しなさい』
「まだやれる」
『後退しなさい』
「敵戦艦が残ってる」
『あなたは大破しています』
「刀は使える」
『土佐』
「近づけば――」
『刀を納めなさい』
加賀の声が強くなった。
私の動きが止まる。
「加賀」
『あなたの役目は十分に果たしました』
「だが、私が抜ければ」
『それを判断するのは、あなたではありません』
『私です』
少し離れた場所で、加賀が艦載機を飛ばしながらこちらを見ていた。
「まだ、戦える」
『分かっています』
即答だった。
『あなたがまだ戦えることくらい、見れば分かります』
「なら――」
『それでも下がりなさい』
加賀の声は静かだった。けれど、拒めない声だった。
『あなたが抜けた後のことは、私が考えます』
『そのために』
加賀が私を見る。
『私が旗艦なのよ』
刀を見る。
まだ握れる。
敵を見る。
まだ戦える。
でも、もう一度加賀を見る。
――任せる。
その言葉が頭に浮かんだ。
昔なら、きっとできなかった。自分がまだ動けるのなら、最後まで自分でどうにかしようとした。
だが、今は。
刀をゆっくりと返す。黒い鞘へ、金属の擦れる音とともに刀身を収めていく。
鍔が鯉口へ触れるまで、最後まで納めた。
「了解」
加賀が僅かに息を吐いたように見えた。しかし、すぐに旗艦の顔へ戻る。
『時雨。土佐をお願いします』
『任せて』
時雨がこちらへ向かってくる。
その間にも、加賀の艦載機が頭上を抜け、敵旗艦の進路を爆炎で塞いだ。
『鳳翔さん。時雨と土佐の上空援護をお願いします』
『分かりました』
『足柄、神通。敵との距離を維持しながら、順次離脱してください。深追いは不要です』
『了解!』
『承知しました』
次々と指示が飛ぶ。迷いがない。
私が抜けた穴が、すぐに埋められていく。
『残った敵艦は私の航空隊が牽制します。全艦、撤退します』
短い命令。だが、その声には誰一人ここへ残さないという意思が表れていた。
「土佐!」
時雨が横へつく。
「動ける?」
「ああ」
一歩踏み出すと、脚が僅かに揺れた。時雨の手が、すぐに私の腕を支える。
「……悪い」
「いいよ。帰ろう」
敵の方を見る。
「まだ」
「駄目だよ。旗艦命令でしょ?」
「ああ」
時雨が私を支える手へ少し力を込めた。
「また一緒に帰れるね」
朝、同じ港で聞いた言葉を思い出す。
――また一緒だね。
息を吐く。
「ああ」
今度は素直に頷いた。
「帰ろう」
◆◆◆
撤退を開始して間もなく、加賀の艦載機から新たな報告が入った。
『敵影を確認! 敵艦隊後方、さらに複数!』
「数は?」
『確認中――大型艦を含みます!』
加賀の目が細くなった。
「まだいるの?」
足柄が海の向こうを見る。
「先ほどの艦隊が、主力ではなかった?」
神通の声が僅かに張る。
加賀は答えず、残っていた敵旗艦を見た。
追ってこない。
重巡も同じだった。一定の距離を保ち、こちらが海域を離れていくのを見ている。
「なるほど」
「加賀さん?」
鳳翔が尋ねる。
「追ってきません。彼女たちの目的は、私たちの撃沈ではない」
加賀の視線が、そのさらに奥へ向く。
「この先へ――私たちを進ませないことです」
誰も言葉を返さなかった。
朝まで、ただの哨戒任務だった。
そのはずだった。
私は時雨に支えられながら、遠ざかっていく敵艦隊を見た。
腰には刀。
先ほど、自分で納めた刀。
鯉口へ収まった鍔は、追い縋る波に揺られても動かない。あれほど抜くことだけを考えていたのに、今はその重みが不思議と心を落ち着かせた。
自分で納めた。
命令されたからだけではない。加賀なら、私が抜けた後の艦隊を支えられると信じたからだ。
未練が消えたわけではない。遠ざかる敵影を見るたび、握っていた柄の感触が右手に蘇る。
それでも、その手を腰へ戻そうとは思わなかった。
まだ戦えた。
それでも、戦わなかった。
いや。
戦うのをやめた。
――止める方が、難しい。
いつか聞いた言葉が浮かぶ。
刀も。艤装も。そして、自分自身も。
動かすだけでは駄目なのだ。止まるべきところで、きちんと止まる。
「……難しいな」
「何が?」
時雨がこちらを見る。
「いや。何でもない」
前を見る。
艦隊の先頭に加賀がいる。こちらへ背を向けたまま、全員を連れて帰ろうとしている。
――あなたが抜けた後のことは、私が考えます。
――そのために、私が旗艦なのよ。
その背中を見ながら、今度は刀へ手を伸ばさなかった。