土佐、海を往く   作:海の藻

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第10話 土佐、刀を納める

まだ朝の空気が残る鎮守府の港に、出撃する艦娘たちが集まっていた。

 

旗艦、加賀。軽空母、鳳翔。戦艦、私――土佐。重巡洋艦、足柄。軽巡洋艦、神通。そして、駆逐艦の時雨。

 

艤装の最終確認を済ませ、左腰の刀へ手を添える。黒い鞘は、いつもと変わらずそこにあった。

 

「土佐」

 

声に顔を上げると、時雨がこちらへ歩いてきていた。

 

「おはよう」

 

「ああ。おはよう」

 

時雨は私の艤装をちらりと見て、穏やかに笑った。

 

「また一緒だね」

 

「ああ。そうだな」

 

初めて海へ出た日のことを思い出す。あのときも、時雨は同じ艦隊にいた。

 

「初めて出撃したとき以来かな」

 

「そうなるな」

 

「なんだか、ずいぶん前みたいだね」

 

「まだ、そんなに経ってないぞ」

 

「ふふ。そうなんだけどね」

 

時雨が少し目を細める。

 

「でも、前よりずっと慣れたみたいだ」

 

「そう見えるか?」

 

「うん。前より、頼りにしてるよ」

 

「前は?」

 

「もちろん、あのときも頼りにしていたよ」

 

「ならいい」

 

時雨が小さく笑った。

 

「土佐さん」

 

振り向くと、神通が丁寧に頭を下げた。

 

「神通だったな」

 

「はい。姉から、お話は聞いています」

 

「川内から?」

 

「はい」

 

「何を聞いた?」

 

「それは……色々と」

 

神通が僅かに困ったように笑う。やはり、詳しくは聞かない方がよさそうだ。

 

「姉がお世話になっています」

 

「いや。私の方こそ、世話になってる」

 

「姉が、土佐さんとは話が合いそうだと言っていました」

 

「私も聞いた」

 

少し間を置き、神通を見る。

 

「帰ったら、ゆっくり話そう」

 

「はい。楽しみにしています」

 

神通が微笑んだ。

 

その向こうでは、足柄が艤装を確認していた。

 

「準備はできてる?」

 

「ああ。問題ない」

 

「いい返事ね。哨戒とはいえ、敵が出たら遠慮はいらないわよ」

 

「分かってる」

 

「頼りにしてるわ、戦艦さん」

 

「任せろ」

 

鳳翔とも朝の挨拶を交わす。いつもと変わらない穏やかな声に、これから向かうのは普段通りの哨戒任務なのだと思えた。

 

やがて、加賀が全員を見渡す。

 

「全員、揃っているわね」

 

その一言で空気が変わった。

 

「任務は昨日伝えられた通りです。指定海域を哨戒し、敵艦隊の活動状況を確認します」

 

加賀の視線が私たちを順に通る。

 

「現時点では通常の哨戒任務です。ただし、敵の活動が活発になっているという報告があります。不測の事態が発生した場合は、私の指示に従ってください」

 

「了解!」

 

足柄が答え、神通と時雨も続く。

 

「了解」

 

私も頷いた。一瞬だけ加賀と目が合う。

 

今日は、この人の指揮下で海へ出る。

 

「では、出撃します」

 

◆◆◆

 

海は穏やかだった。少なくとも、最初は。

 

加賀を先頭に、艦隊は指定された海域を進んでいく。上空には加賀と鳳翔の艦載機が展開していたが、しばらく進んでも敵影はなかった。

 

『静かねぇ』

 

足柄の声が通信から聞こえる。

 

『静かな方がいいでしょう』

 

神通が返す。

 

『それはそうなんだけど。せっかく出たんだから、ちょっとくらい――』

 

『足柄さん』

 

『冗談よ、冗談』

 

私も海面を見ながら息を吐く。昨日の疲労は残っていない。艤装の調子もいい。

 

『土佐』

 

「ん?」

 

『何かありますか』

 

「いや。今のところ、何もない」

 

それから間もなく、上空を旋回していた艦載機の一機が大きく進路を変えた。

 

加賀が顔を上げ、その表情が変わる。

 

「……敵影」

 

鳳翔が数を尋ねる。

 

加賀は艦載機から届く情報を拾い、目を開いた。

 

「六隻。戦艦二、重巡一、軽巡一、駆逐二」

 

「哨戒で出会うには、ちょっと重いわね」

 

「それだけではありません。敵旗艦、戦艦ル級flagship級。随伴の戦艦と重巡にもelite級を確認」

 

神通が静かに艤装へ手を添えた。

 

「通常の哨戒部隊ではありませんね」

 

「ええ。ですが、まだ対処可能です」

 

加賀の声に迷いはない。

 

「鳳翔さんは航空隊を。足柄、神通は前衛。時雨は神通の援護を」

 

次々に応答が返る。そして、加賀の視線が私へ向いた。

 

「土佐。私たちで敵戦艦を抑えます。やれる?」

 

問いではない。確認だった。

 

口元が僅かに上がる。主砲を旋回させる。

 

「ああ。任せろ」

 

◆◆◆

 

最初に空が鳴った。

 

加賀と鳳翔の艦載機が敵艦隊へ殺到する。激しい対空砲火の間を縫い、爆炎を広げた。敵駆逐艦の一隻が大きく傾く。

 

「まず一つ!」

 

足柄が前へ出て、神通と時雨が続く。

 

私はそのさらに向こう、二隻の戦艦を見た。そのうち一隻がこちらへ主砲を向ける。

 

砲塔。肩。視線。

 

――来る。

 

海面を蹴る。直後、先ほどまでいた場所に砲弾が落ち、水柱が上がった。

 

身体を捩りながら主砲を向ける。

 

「そこだ」

 

撃つ。

 

砲弾が敵戦艦の艤装へ命中し、爆炎が上がる。だが、まだ沈まない。

 

「……硬いな」

 

長門ほどではない。だが、これまで戦った敵より明らかに速い。それでも、読めないわけではない。

 

「もう一発」

 

敵の砲撃を避けて撃つ。今度は深く入った。さらに一発。

 

爆炎の向こうで、敵戦艦の巨体が海へ沈んでいった。

 

『土佐!』

 

加賀の声に反応して身体を動かす。砲弾がすぐ横を通過し、爆風が髪を大きく乱した。

 

残った戦艦。

 

敵旗艦。

 

ル級flagship級。

 

「……次は、お前か」

 

主砲を向ける。向こうも同時に動いた。

 

◆◆◆

 

数度撃ち合っただけで、これまでの敵とは違うと分かった。

 

速いだけではない。私がどちらへ避け、どの瞬間に撃つのか。それを見ている。

 

敵旗艦が撃つ。避けて反撃する。敵も避ける。

 

さらに砲撃。身体を沈めると、頭上を砲弾が抜けた。

 

主砲を向ける。

 

その瞬間、横から殺気を感じた。

 

重巡elite級。

 

咄嗟に進路を変え、砲撃を避ける。

 

そう思ったときには、正面から敵旗艦の主砲がこちらを向いていた。

 

遅い。

 

爆音。

 

身体が吹き飛ばされ、海面を滑った。右舷側の艤装が軋む。

 

それでも、主砲は動いた。

 

「まだいける」

 

『土佐!』

 

「問題ない!」

 

『損傷を報告して』

 

「右舷艤装損傷。だが、主砲は使える」

 

『無理はしないで』

 

「ああ」

 

敵旗艦と重巡は、どちらも私を見ていた。

 

――狙われてるな。

 

「好都合だ」

 

私を見ている間は、他へ砲撃が行かない。

 

主砲を撃つ。敵旗艦が避ける。追い、また撃つ。

 

足柄の砲撃が重巡へ入った。神通と時雨も敵を押し、鳳翔の艦載機が敵軽巡を牽制している。

 

戦える。

 

まだ、やれる。

 

しかし、呼吸が荒くなっていた。損傷した艤装の反応も鈍い。

 

――昨日と同じだ。

 

長門との演習。気づかないうちに削られていた。

 

違うのは、これが演習ではないことだ。

 

「……性格悪いな」

 

敵に言っても仕方がない。それでも少し笑い、主砲を撃つ。

 

命中。

 

敵旗艦の艤装から炎が上がる。

 

「……入った」

 

あと少し。

 

右側の主砲は反応が悪い。

 

なら。

 

左手を腰へ落とす。指が黒い鞘へ触れた。

 

距離は遠い。だが、詰められない距離ではない。

 

砲撃を潜り、懐へ入る。

 

そこまで行けば。

 

「……斬れる」

 

『土佐』

 

「何だ」

 

『何をするつもりです』

 

親指で鍔を押し、鯉口を切る。

 

「近づく」

 

『駄目です』

 

「こいつはもう傷んでる。近づけば仕留められる」

 

『あなたも傷んでいます』

 

僅かな沈黙。

 

『近づくまでに、もう一発受けたら?』

 

「避ける」

 

『避けられなかったから、今その状態なのでしょう』

 

正論だった。

 

だが、敵旗艦はまだ動いている。

 

「それでも、いける」

 

『土佐』

 

「大丈夫だ」

 

海面を蹴った。

 

『土佐!』

 

敵旗艦が主砲を向ける。

 

砲口。視線。肩。

 

見える。

 

今。

 

身体を沈める。砲撃が頭上を抜けた。

 

距離が縮まる。さらに踏み込み、右手で柄を握る。

 

抜く。

 

黒い鞘から刀身が走った。

 

――届く。

 

その瞬間、横の重巡elite級が砲を向けた。

 

「っ!」

 

咄嗟に身体を捩り、刀を引いて身を庇う。直撃は避けたが、着弾の爆風が身体を強く叩いた。

 

姿勢が崩れる。

 

ほんの一瞬だけ、敵旗艦から目が離れた。

 

正面。

 

敵旗艦の主砲が、こちらを向いていた。

 

――しまった。

 

轟音。

 

視界が白く弾けた。

 

◆◆◆

 

音が遠い。

 

何かが軋んでいる。それが自分の艤装だと気づくまで、少しかかった。

 

片膝をつき、海面へ手をついていた。息が苦しい。

 

右舷側の艤装は動かない。主砲も一基。いや、二基。

 

「これは……」

 

さすがに、まずいか。

 

『土佐!』

 

「聞こえてる」

 

刀は握っている。なら、まだ立てる。

 

刀を支えに身体を起こし、脚に力を入れた。

 

敵旗艦も、重巡もまだいる。

 

「まだ」

 

刀を握り直す。

 

『土佐、後退しなさい』

 

「まだやれる」

 

『後退しなさい』

 

「敵戦艦が残ってる」

 

『あなたは大破しています』

 

「刀は使える」

 

『土佐』

 

「近づけば――」

 

『刀を納めなさい』

 

加賀の声が強くなった。

 

私の動きが止まる。

 

「加賀」

 

『あなたの役目は十分に果たしました』

 

「だが、私が抜ければ」

 

『それを判断するのは、あなたではありません』

 

『私です』

 

少し離れた場所で、加賀が艦載機を飛ばしながらこちらを見ていた。

 

「まだ、戦える」

 

『分かっています』

 

即答だった。

 

『あなたがまだ戦えることくらい、見れば分かります』

 

「なら――」

 

『それでも下がりなさい』

 

加賀の声は静かだった。けれど、拒めない声だった。

 

『あなたが抜けた後のことは、私が考えます』

 

『そのために』

 

加賀が私を見る。

 

『私が旗艦なのよ』

 

刀を見る。

 

まだ握れる。

 

敵を見る。

 

まだ戦える。

 

でも、もう一度加賀を見る。

 

――任せる。

 

その言葉が頭に浮かんだ。

 

昔なら、きっとできなかった。自分がまだ動けるのなら、最後まで自分でどうにかしようとした。

 

だが、今は。

 

刀をゆっくりと返す。黒い鞘へ、金属の擦れる音とともに刀身を収めていく。

 

鍔が鯉口へ触れるまで、最後まで納めた。

 

「了解」

 

加賀が僅かに息を吐いたように見えた。しかし、すぐに旗艦の顔へ戻る。

 

『時雨。土佐をお願いします』

 

『任せて』

 

時雨がこちらへ向かってくる。

 

その間にも、加賀の艦載機が頭上を抜け、敵旗艦の進路を爆炎で塞いだ。

 

『鳳翔さん。時雨と土佐の上空援護をお願いします』

 

『分かりました』

 

『足柄、神通。敵との距離を維持しながら、順次離脱してください。深追いは不要です』

 

『了解!』

 

『承知しました』

 

次々と指示が飛ぶ。迷いがない。

 

私が抜けた穴が、すぐに埋められていく。

 

『残った敵艦は私の航空隊が牽制します。全艦、撤退します』

 

短い命令。だが、その声には誰一人ここへ残さないという意思が表れていた。

 

「土佐!」

 

時雨が横へつく。

 

「動ける?」

 

「ああ」

 

一歩踏み出すと、脚が僅かに揺れた。時雨の手が、すぐに私の腕を支える。

 

「……悪い」

 

「いいよ。帰ろう」

 

敵の方を見る。

 

「まだ」

 

「駄目だよ。旗艦命令でしょ?」

 

「ああ」

 

時雨が私を支える手へ少し力を込めた。

 

「また一緒に帰れるね」

 

朝、同じ港で聞いた言葉を思い出す。

 

――また一緒だね。

 

息を吐く。

 

「ああ」

 

今度は素直に頷いた。

 

「帰ろう」

 

◆◆◆

 

撤退を開始して間もなく、加賀の艦載機から新たな報告が入った。

 

『敵影を確認! 敵艦隊後方、さらに複数!』

 

「数は?」

 

『確認中――大型艦を含みます!』

 

加賀の目が細くなった。

 

「まだいるの?」

 

足柄が海の向こうを見る。

 

「先ほどの艦隊が、主力ではなかった?」

 

神通の声が僅かに張る。

 

加賀は答えず、残っていた敵旗艦を見た。

 

追ってこない。

 

重巡も同じだった。一定の距離を保ち、こちらが海域を離れていくのを見ている。

 

「なるほど」

 

「加賀さん?」

 

鳳翔が尋ねる。

 

「追ってきません。彼女たちの目的は、私たちの撃沈ではない」

 

加賀の視線が、そのさらに奥へ向く。

 

「この先へ――私たちを進ませないことです」

 

誰も言葉を返さなかった。

 

朝まで、ただの哨戒任務だった。

 

そのはずだった。

 

私は時雨に支えられながら、遠ざかっていく敵艦隊を見た。

 

腰には刀。

 

先ほど、自分で納めた刀。

 

鯉口へ収まった鍔は、追い縋る波に揺られても動かない。あれほど抜くことだけを考えていたのに、今はその重みが不思議と心を落ち着かせた。

 

自分で納めた。

 

命令されたからだけではない。加賀なら、私が抜けた後の艦隊を支えられると信じたからだ。

 

未練が消えたわけではない。遠ざかる敵影を見るたび、握っていた柄の感触が右手に蘇る。

 

それでも、その手を腰へ戻そうとは思わなかった。

 

まだ戦えた。

 

それでも、戦わなかった。

 

いや。

 

戦うのをやめた。

 

――止める方が、難しい。

 

いつか聞いた言葉が浮かぶ。

 

刀も。艤装も。そして、自分自身も。

 

動かすだけでは駄目なのだ。止まるべきところで、きちんと止まる。

 

「……難しいな」

 

「何が?」

 

時雨がこちらを見る。

 

「いや。何でもない」

 

前を見る。

 

艦隊の先頭に加賀がいる。こちらへ背を向けたまま、全員を連れて帰ろうとしている。

 

――あなたが抜けた後のことは、私が考えます。

 

――そのために、私が旗艦なのよ。

 

その背中を見ながら、今度は刀へ手を伸ばさなかった。

 

 

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